西川美和『永い言い訳』
自分を大事に思ってくれる人を、簡単に手放しちゃいけない。
みくびったり、おとしめたりしちゃいけない。
そうしないと愛していい人が誰もいない人生になる。
梅田のグランフロント大阪で本を立ち読み(は体質的にできないので、正しくはただ本を眺めて、ななめ読みする程度)をして検分していると、新刊書の案内が耳に入ってきた。この書店では、著者本人による自著のプロモーションが時折流れてくる。いま耳に入ってきたのはコラムニストのジェーン・スーさんの宣伝。「あなたは自分の父親の友人を3人挙げることができますか?」という問いかけから始まる、なかなか興味の惹かれる導入で、ついつい手に取っていた本を棚に戻してしまうほどだった。さすがである。そのあとは、自分が父親と折り合いがずっとつかなかったことなどが語られ、父親とのあれこれを振り返ったものをエッセイにしたためたのでぜひ手に取ってください、という言葉で締めくくられた。簡潔で実に購買意欲のそそられる文句であったので、つい開いてしまった。『戦中派の終点とブラスバンド』という目次に吸い寄せられそのまま会計してしまった。しかしまだ積読されたままだ。わたしのよくない癖である。ちなみに、わたしは自分の父親の友人は一人も並べることができない。
「永いお別れ」からまた「永い言い訳」がはじまっていく
なかなかに辛辣な映画であった。しばらくずっと尾を引く。
冒頭、幸夫によるぬえの喩えから始まる。妻(深津絵里)に髪を切ってもらいながら、テレビで平家物語と併せた蘊蓄を披露する自分を見て、毒を吐く小説家の幸夫(本木雅弘)。鏡の中の夫婦の目線は互いを見ているようでよそよそしく、何気ない会話にも不穏な空気が漂う。くだを巻く夫を倦怠感のこもった妻の眼差しに気づかいているのか気付いていないのか。夫はしきりに不倫相手*1からの着信を気にしている。テレビで能書きを垂れる姿も、鏡で妻に髪を切ってもらう微笑ましいシーンも自分ではないのだ、という幸夫の矛盾に満ちた複雑(に見せかけた)な多面性を表した見事な導入。それにしても、幸福な夫と書いて「幸夫」とはなんとも皮肉である。出かけた妻が不慮の事故で亡くなろうが、彼は最初から幸福な夫でも何でもなかったのである*2。
このあとも、幸夫の周りには常にカメラがあり、テレビがあり、鏡がある。自分の少し伸びて乱れた髪がすぐ気になるし、ネットで自分のペンネームを使ったエゴサがやめられない。しかし、もともと家事なんてロクにやってこなかったので、妻がいなくなる血部屋もロクにまとまらない。虚構に映る知的で自己分析に長けた彼は、段々と本来の自己否定の激しく、自己中心的で軽薄な脆い人間性を妻の死によって暴かれていってしまう。精神的に追いつめられるとやつれ、子どもとの交流でふくふくと肌につやが出る、本木雅弘の自在な身体性には脱帽するばかり。派手ではないが、視覚的にちゃんと肉体と精神が同調しているのがわかる*3。
彼と対峙する人間も、彼の性格の写し鏡でメタファーとして現れ、村上春樹の『海辺のカフカ』の文句が頭に浮かぶ。面倒を見て行くかつての真平くん*4にしろ、自分の遺伝子への恐怖から子を残さなかった幸夫とは終始正反対な竹原ピストル*5にしろ、業界人のいやらしさを凝縮したようなテレビディレクターの戸次重幸にしろ、終始メタファーが付きまとい幸夫への辛辣な自問自答を問いかけている。
メタファーとしての役割を担わされていないが、池松壮亮のマネージャーの「子育ては漢にとっての免罪符に過ぎない」という一言も幸夫には手痛い。
彼がようやく涙を流し、妻の死を現実として受け入れ、自分が見過ごしてきたことへの懺悔をした頃には、蜃気楼のように彼女の幻影は遠くへ消えていく。後死んで残されたものが苦しみ続けるのは世の常なのだろうか。妻の亡霊を幻視し、己の過去の過ちを恥じた頃には穏やかな1人の男の回復を描いたドラマが次第にホラーのテイストを帯びて有様は、さながら現代の怪談であり、妻の言いつけを守って「後片づけ」を続ける幸夫の姿は不気味。
ぬえを構成する動物は分かっていても、鵺の核となるところは分からない。幸夫の化けの皮がはがれた頃には、ぬえの多面性を持っていたのは妻であったと悟っても遅い。妻は夫の不貞を見抜いていたのだろうか。夫と妻の理想は果たして最初から同じ所へ向かっていたのだろうか。夫への愛情はいつ妻の中で冷め切ってしまったのか。ぐるぐると頭の中で疑念が渦巻きながら、最初の《書き出し》となる髪を切る場面が最後にまたじわじわ効いてきて、また「ぞわり」とくる。
この映画自体が「永い言い訳」だったのか、と気づいた頃には、もう既に術中にはまっていて、この作品が残していった余白にじわじわと喉元を締め付けられている。
そういえば、幸夫が妻と出会ったときも「言い訳」から始まっていた。もしかすると、生きていくことそのものが「言い訳」を繰り返すことなのだろうか。
人生は、「言い訳」の連続であり、「後片づけ」は死ぬまで終わらない。
この文章も、今作に対して整理のつかなくなった感情に対する「言い訳」なのかもしれない。
これからもわたしの「言い訳」は、幸夫と同様につづいていく。
<おしまい>