ふしぎなwitchcraft

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一度喪失した人生、再生していく物語/濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』感想(1)

西島秀俊と三浦透子の旅路の行方 濱口竜介監督作『ドライブ・マイ・カー』初映像公開|Real Sound|リアルサウンド 映画部

2時間59分。映画を見る前ではたじろいてしまいそうな長尺(ちなみに劇場に足を運んで見た映画で最も長かったのはエドワード・ヤンの『クーリンチェ少年殺人事件』で約4時間)。普段ならただでさえ集中力のない私にとっては、間断なく集中力を維持するのがかなり困難な時間ですが、本作『ドライブ・マイ・カー』はそのような懸念を大いに裏切り、劇中で三浦透子演じるドライバーの運転のように落ち着いたハンドリングを保ちつつ、時にスリリングに観客を翻弄しつづけるので、長さは一切感じず、事前に知らなければ上映時間が120分に満たないと言われても信じてしまいかねないくらいです。一見静かな映画ですが、退屈させないという面ではとてもエンタテインメント精神に徹した作品でもあります。

 

原作はいちおう村上春樹の『女のいない男たち』に収録された短篇を下書きにしていますが、他の短篇のエッセンスも組み合わせ、さらにいくつかの濱口竜介作品の要素もミックスして設定をアレンジするという手法で見事に換骨奪胎されています。たとえば濱口監督の前作『寝ても覚めても』での駆け落ちで北へと向かうのと同じく、『ドライブ・マイ・カー』でも広島・東京という東西とは別世界としての北へ向かいます。また、鏡というモチーフによって、鏡の向こうとこちら側という対称的なようで非非対称な隣り合った世界が描かれましたし、劇中劇を用いた入れ子構造は、現実と虚構という境界を巧みに揺さぶり続けます。直接的には描かれないものの、突発的に巻き起こる暴力のおぞましさも描かれていて、村上春樹の原作を損なうことなく、ただの忠実な「実写化」から独自の作品世界の構築することにみごとに成功しています。


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物語の大まかなあらすじは、「舞台俳優で演出家の家福悠介(西島秀俊)はキャリアも順調で、妻であり、TVドラマで脚本を書いている音(霧島れいか)を長年乗り続けてきた赤いサーブ900で送り迎えし、車中でセリフを吹き込んだカセットテープを再生してセリフの練習をする、という満たされた生活を送っていた。しかし実は、音は自信が手掛けたドラマの俳優を家に連れ込み肉体的な関係を持っていて、家福はその現場を目撃してしまうが、その現場を目撃しても家福は自身が見た妻の不倫を責めずに、内心の動揺を抑え表面上の平穏な生活を選ぶ。ところが、ある日突然妻が病によって亡き人となってしまう。

それから2年後、家福は広島で行われる(濱口監督の『ハッピーアワー』を彷彿とさせる)演劇祭に招聘され、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」の多言語演劇の演出を任される。そこで主催者の意向により、宿と劇場を行き来する専属のドライバーとして渡利みさき(三浦透子)を紹介される。最初は自分で車を運転したいと拒否したものの、みさきの優れた運転技術や家福が患っている緑内障もあって、彼女を雇うことに。多言語劇の配役を決めるため、家福は俳優たちの応募書類に目を通していると、かつて妻と寝ているのを目撃した高槻(岡田将生)という若い俳優も参加していることを知る。オーディション当日、日本語、北京語、フィリピン語、さらには韓国手話と様々な出自を持つ俳優たちが各々の芝居をする中、高槻は演技なのか彼の本当の姿なのかわからない大胆で際どい芝居を披露し、家福は高槻を主演のワーニャに抜擢する。音の紹介で生前に面識のあった高槻と会話を交わすごとに、家福は整った顔立ちの彼の内部に潜んだ暴力性を知っていく。本番が近づき、みさきとのドライブと彼女との対話を重ねていくうちに、次第に家福は今は亡き妻との過去と向き合わざるをえなくなっていく……」というものです。

(これは本筋と全く関係ないですが、家福という名字は「かふく⇒カフカ」を連想させます)

 

○車という舞台装置の映画的魅力の再発見

 

車のない映画を想像するのは、恋やセックスのない映画を探すのと同じくらい難しいかもしれません。『マッドマックス』では理想の地を求めるフュリオサたちを乗せた鋼鉄の馬たる車が見果てぬ砂漠を彷徨い、激しい衝突を繰り返し、車の上ですさまじいアクションが繰り広げられました。『グラン・トリノ』では主人公の老人が自信の象徴であり分身ともいえる車を、血のつながり以上の絆で結ばれた青年に形見として託しました。『知りすぎた男』では赴任した異国の地で息子がバスの乗客と起こしたトラブルから物語が立ち上がっていきます。これらはほんの些細な一例で、何も自動車でなくとも電車も含めれば、無数に挙げられるでしょう。

車は走っている限り、人物が動かずとも、車が動けばその揺れがアクションになりますし、車はどこかしらへと向かっているわけですから、始点と終点が生まれ自然に物語が発生しますし、窓の向こうの変わり続ける背景というのは、「絵が動いてナンボ」の映画と実に相性が良いです。また、車は人が操縦するものですから、どこかでハンドルを切り間違えでもすれば死の危険の漂うスリルな舞台装置ともいえます。ワンシチュエーションでの長丁場の会話劇は、小津安二郎のように完璧なアングルを心得た作り手や、ジム・ジャームッシュのようなスムーズな会話劇を得意とした名手のような書き手でもない限り、いささか退屈してしまいますが、不思議なことに、車窓から除く背景が常に変わり続けるシチュエーションでは、どういうわけか多少の長丁場でも退屈しにくいように感じます。

濱口竜介監督の2018年作『寝ても覚めても』でも、唐田えりか演じる朝子がかつての恋人であり自分を過去につなぎ止め呪縛する存在でもある麦と逃避行するのに車が使われます。また、濱口監督が脚本で参加した黒沢清監督『スパイの妻』では、蒼井優高橋一生の夫婦が、贅沢がご禁制の戦時下に、海外逃亡の資金を作るための小旅行としてドライブに出かけます。

『ドライブ・マイ・カー』では、タイトルの通り、主人公の乗る赤いサーブが準主役のように物語を動かし続けています。ある時は亡き妻の亡霊が宿るゆりかごとして、家福とみさきをつなぐ絆として、彼らの周囲をうごめく暴力的の気配から包み守るシェルターとして、さまざまな顔を見せます。

映画の大半の時間は、(計ったわけではないので正確ではないですが)車内での対話を占めていますが、撮影監督を務める四宮秀俊のカメラは刻一刻と表情を変える自然のダイナミズムを的確に捉え、目を楽しませてくれます。

車窓によって切り抜かれた瀬戸内の海(余談ですが、以前瀬戸内芸術祭に行ったときに、ちょうど本作に出てきたような瀬戸内の穏やかな海を臨みながらのドライブは、とても気持ちがよいものでした)は、ある場面では家福に平穏を与え、静かな思考を促しますが、窓によって切り抜かれた景色の外では、高槻という存在や生前妻が語った物語のような、暴力性のある何かが渦巻いていることがことあるごとにほのめかされます。映画のほとんどの場面で、家福は自分の内側の世界に閉じこもっていて、外の景色を見るときの多くは窓や鏡といったフィルターを通してしか見ていません。このカメラが「捉えているもの/あえて捉えていないもの」というのは、そのまま家福が「見ていたもの/あえて見ようとしなかったもの」に直結しているように思います。

 

○他者とはどれほど異質な存在で、その他者を見つめる自分はいかによくわからない存在か

 

鏡に映る者は自分ではあるけれど、同時に自分ではない。この一見矛盾しているような認識によって、人はいちおうは狂気の淵に陥ることから免れます(鏡に映るのは自分だけど、自分ではないけど、そこに映るのは自分で、でもそれは自分で.....では無限ループですからね)。しかし、現実はどうでしょう。自分といくらか似た姿かたちである他者というものは極めてよくわからない存在で、まして自分というものはもっと理解しがたい存在ではないでしょうか。自分の目から見た他者、他者の目から通した自分.....考えれば考えるほどよくわからなくなってしまいます。

上にも書いたとおり、『ドライブ・マイ・カー』では鏡というモチーフがしばしば用いられます。家福が妻の情事を目撃するときにも、高槻がオーディションで際どい演技で相手役の女優を追い立てていくときにも、鏡が使われ、そこに映る表情はカメラが切り取るものとは違う、謎めいたものをはらんでいます。鏡を通して目撃する世界は、自分が立つ世界を映したものであるにもかかわらず、そこで起こっていることは現実離れした奇妙な質感があります。

 

また、本作のある場面では、一度スキャンダルで干された過去を持つ高槻が一般人にカメラを向けられることで激昂する場面があり、直接的に無遠慮にカメラを向けることの罪深さに言及されていますが、そこからさらに「実は取られることを意識していない人間の表情を撮るという行為は後ろめたいものなのではないか」というところに踏み込んでいるように思えました。

たとえば、映画冒頭、家福が音の不倫を目撃したあとに、目撃したことを責め立てることのないまま、妻とセックスをします。そこでは、表向きは充実しているように見える夫婦の営みが交わされていますが、我々は家福同様に音が抱えている嘘をすでに見ているため、冷や冷やした気持ちでその営みを見つめることになります。しかし、一見互いを求めあうかのようにむさぼりあっている二人を、横からとらえていたカメラが突然、音の表情を正面から見つめます。そこで家福は見ていない、その世界では本来なら誰も見ていないはずの顔を音は観客に向かって見せるのです。まるで、自分の内に抱えた罪を告解するように。

さらに後半、家福の車に乗り合わせた岡田将生演じる高槻が、音がセックスの後に無我の境地のような状態で語り紡いでいた、不穏で病んだ片思いの物語の続きを唐突に語りだします。ここで、カメラは初めて高槻という男の顔を、彼と向き合う家福の視点と同期する形で正面から見据えます(車の後部座席という狭い空間で、役者にかなり接近した状態であの演技を引き出したのはすごい)。観客は高槻が音という特殊な回路を通じて家福だけに向かって剝きだされた原始的な暴力性を、半ば強制的に目撃されることになり、「この目の前で滔々と語っている男はいったい何者なんだ」という得体のしれない不気味さにぞくりとさせられ、その世界で限定的にしか開示されていないはずの顔を目撃してしまうことの背徳感を、共犯者のように抱えることになるのです(西島秀俊が「何かすごいものを見た」と驚愕するのも納得の岡田将生の近年屈指のベストアクトでした)。

このように、鏡に映った世界や「その世界では誰も見ていないはずの顔」を正面から観客に見せることで、他者という存在の異質さと、そこに対峙する家福(と彼の目を通して世界を見る観客)が戸惑う自分という存在のわからなさを突きつけられているように思えます。

○交錯しない視線が交わる、その身据えた先にある再生

 

ふたたび、車の話に戻しますが、車という空間で話すとき、運転者と同乗者で視線が交わることは稀です(そんなしょっちゅうよそ見されてはたまりません)。『ドライブ・マイ・カー』でも、運転席から離れた家福は一貫して後部座席に座り、みさきは運転席という配置で、基本的には同じ方向を向いて話をします。

ところが、とある事件を契機に、物語は予期しない方向へ動き出し、家福はみさきと逃げる(ネガティブで無責任な放棄ではなく考えを保留し現実から距離を置くという意味)ように彼女の故郷である北海道へと向かいます。そこで、これまでは前後の配置で、ウィンドミラー越しに視線が交錯していた位置関係が変化し、みさきと隣り合うように家福は助手席へ移動します。たどり着いた雪が覆う真っ白で静かな世界で、「家福が見る世界」が一気に開かれ、みさきのかつての生家の前で、彼らはようやくここで正面から向かい合い、「演技」によって他者を内面化し正面から向き合うことを避けてきた家福は、ここでようやく何も媒介することなく他者と向き合い、音と向き合わなかったことを悔やみます。それまでは交わらなかった視線がようやく交わります。この映画の中の美しい瞬間のひとつです。

 

○言葉の解体、意味を超えた先の多層的な響き、再生と回復

 

本作では、作中でも採用されている有名な「濱口メソッド」によって、テキストから感情を抜いて発生された「声」が、リハーサルの本読みと、音が生前吹き込んだカセットテープとで何度も何度も再生されます。それらは最初は意味を(意図的に)抜かれたただの音響的な「声」ですが、劇中劇の『ワーニャ伯父さん』が次第に家福の停止した人生とシンクロしていくことで、「声」が反響し合い感情や意味が肉付けされていき、時制や次元を超えて家福とみさきのアクチュアルな再生の物語に繋がっていきます。

家福、みさき、高槻は、それぞれ、自分の心の中の大きな部分を占めていた存在を喪失していてして、彼らは一度何らかの形で人生が終わってしまった人たちです。一度本人が望むか望まないかに関わらず喪失を経験した人たちが、どのように過去の呪縛から解き放たれ、リアルな生をもう一度生き直せるのか、重層的な反響しあう声と、視覚的な表現が重層的な響きが、虚構と現実がまじりあい、その混然一体となった響きになって観客の心に深い余韻を残していってくれたようでした。

手話を操る韓国の女優がが務める『ワーニャ伯父さん』のソーニャの「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう」という台詞が胸を打ちます。

 

グラン・トリノ』へのオマージュを忍ばせたラストは実にほほえましく希望に満ちています。

みさきにとって運転技術というのは生き抜く術で、それまでは誰かの車を運転する人生だったのが、あのラストによって、彼女は初めて『ドライブ・マイ・カー』というタイトルの通り自分の車を運転する人生を歩んでいることが示唆される。とても意義深いオマージュだと思いました。

 

 

おしまい