ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

2022.01.02

年が明けた。明けただけで、今日が昨日になり、明日が今日になり......という繰り返しの一部にすぎないのだ、とかっこつけてみるのは、どうも幼い頃から年末年始の足場が数センチ浮いたような雰囲気が好きではないからだ。コロナ禍のおかげで、親戚同士が集まり、四方八方から声をかけられ、酒で顔を赤らめた両親やその他親類の妙なテンションに疲れてくたびれることがなくなっても、やはりどうも好きになれない。

 

昨日は早朝から京都に祖父母の墓の掃除に出かけ、天下一品のこってりラーメンを食べ、かまぼこやらお雑煮やらローストビーフやらをつついてくたくたになったので、今日はぬくぬくと布団にくるまりながら、途中まで読んでほったらかしにしていた多和田葉子の『星に仄めかされて』を読み終えた。

神話の再構成と言うべきか。日本列島が文字通りなくなったところから始まる、神話の語り直し。著者の本に漏れなく当てはまることだが、言葉の連想ゲームが広げられ、脳みそが解きほぐされていく感覚が楽しい(おでん→オーディン)。パラレルな地球の姿を通して、現実の読者が直面する世界の諸問題を浮かび上がらせるシニカルなユーモアはクスリと笑え、ありきたりな比喩に頼らない、開拓者のような筆者の言語世界は星のように(なんと陳腐な比喩か)きらめいており、ぐいぐい読ませられる。毎度のことながらとても勉強になる。少しも身になっていないけれど。

人はなぜ物語を紡ぐのか。なぜ人は他者と話さなくてはならないのか。読み終えてから真っ先に手元の『古事記』をパラパラとめくった。神道的な世界観を軸足としながら、ナショナリズムに傾倒しないのはさすがである。

ただ、シリーズ二作目となる今作、クヌートの母と彼の知人の関係性や、父親の消息といった目を引く要素はあるものの、全体の展開は乏しいために、Hirukoが神話を通じて内面を吐きだしていく終盤以降の、怒涛の主要キャラ全員集合→唐突なダンス(身体の言語と音楽という言語がボーダーを越えるということは確かに素晴らしい)→いざ出航!という流れには、さすがに「ワンピースかよ!」とツッコミを入れてしまい、かなり白けてしまった。今作はいわば「故郷」を探すためのファンタジーな現代の英雄譚なので、ちまちました私の現実世界からの飛躍は許容されるべきなのだろうが、「偶然に出会って~」と強調されているわりには、偶然性を感じられず、「作者が意図したからわかりやすく多様性のある6人(あれ、何人だっけ?)が集まったのでは?」感はぬぐえない。

オペラ劇のような会話の勢いに飲まれ、一気に読み進められたが、全体的に会話やモノローグに焦点が当たりすぎていて、物語の場面が今ひとつつかみにくく、「これは今どういう場面で会話が進行しているのだろう?」「この語り手は今どんな景色を見ているのだろう?」という疑問がちらちら浮かび、視覚的に情景が浮かんでこなかったのも読みづらさの一因かもしれない。なので、アカッシュとノラがアウトバーンをかっ飛ばす描写が鮮やかで、夜の闇を線となり後ろへ飛び去っていく星々が視覚的に強烈な印象を残した。

バイクの免許、取ろうかな。今年はもっと旅に出よう。

そんなことを思った年始であった。

 

おしまい

一度喪失した人生、再生していく物語/濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』感想(1)

西島秀俊と三浦透子の旅路の行方 濱口竜介監督作『ドライブ・マイ・カー』初映像公開|Real Sound|リアルサウンド 映画部

2時間59分。映画を見る前ではたじろいてしまいそうな長尺(ちなみに劇場に足を運んで見た映画で最も長かったのはエドワード・ヤンの『クーリンチェ少年殺人事件』で約4時間)。普段ならただでさえ集中力のない私にとっては、間断なく集中力を維持するのがかなり困難な時間ですが、本作『ドライブ・マイ・カー』はそのような懸念を大いに裏切り、劇中で三浦透子演じるドライバーの運転のように落ち着いたハンドリングを保ちつつ、時にスリリングに観客を翻弄しつづけるので、長さは一切感じず、事前に知らなければ上映時間が120分に満たないと言われても信じてしまいかねないくらいです。一見静かな映画ですが、退屈させないという面ではとてもエンタテインメント精神に徹した作品でもあります。

 

原作はいちおう村上春樹の『女のいない男たち』に収録された短篇を下書きにしていますが、他の短篇のエッセンスも組み合わせ、さらにいくつかの濱口竜介作品の要素もミックスして設定をアレンジするという手法で見事に換骨奪胎されています。たとえば濱口監督の前作『寝ても覚めても』での駆け落ちで北へと向かうのと同じく、『ドライブ・マイ・カー』でも広島・東京という東西とは別世界としての北へ向かいます。また、鏡というモチーフによって、鏡の向こうとこちら側という対称的なようで非非対称な隣り合った世界が描かれましたし、劇中劇を用いた入れ子構造は、現実と虚構という境界を巧みに揺さぶり続けます。直接的には描かれないものの、突発的に巻き起こる暴力のおぞましさも描かれていて、村上春樹の原作を損なうことなく、ただの忠実な「実写化」から独自の作品世界の構築することにみごとに成功しています。


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物語の大まかなあらすじは、「舞台俳優で演出家の家福悠介(西島秀俊)はキャリアも順調で、妻であり、TVドラマで脚本を書いている音(霧島れいか)を長年乗り続けてきた赤いサーブ900で送り迎えし、車中でセリフを吹き込んだカセットテープを再生してセリフの練習をする、という満たされた生活を送っていた。しかし実は、音は自信が手掛けたドラマの俳優を家に連れ込み肉体的な関係を持っていて、家福はその現場を目撃してしまうが、その現場を目撃しても家福は自身が見た妻の不倫を責めずに、内心の動揺を抑え表面上の平穏な生活を選ぶ。ところが、ある日突然妻が病によって亡き人となってしまう。

それから2年後、家福は広島で行われる(濱口監督の『ハッピーアワー』を彷彿とさせる)演劇祭に招聘され、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」の多言語演劇の演出を任される。そこで主催者の意向により、宿と劇場を行き来する専属のドライバーとして渡利みさき(三浦透子)を紹介される。最初は自分で車を運転したいと拒否したものの、みさきの優れた運転技術や家福が患っている緑内障もあって、彼女を雇うことに。多言語劇の配役を決めるため、家福は俳優たちの応募書類に目を通していると、かつて妻と寝ているのを目撃した高槻(岡田将生)という若い俳優も参加していることを知る。オーディション当日、日本語、北京語、フィリピン語、さらには韓国手話と様々な出自を持つ俳優たちが各々の芝居をする中、高槻は演技なのか彼の本当の姿なのかわからない大胆で際どい芝居を披露し、家福は高槻を主演のワーニャに抜擢する。音の紹介で生前に面識のあった高槻と会話を交わすごとに、家福は整った顔立ちの彼の内部に潜んだ暴力性を知っていく。本番が近づき、みさきとのドライブと彼女との対話を重ねていくうちに、次第に家福は今は亡き妻との過去と向き合わざるをえなくなっていく……」というものです。

(これは本筋と全く関係ないですが、家福という名字は「かふく⇒カフカ」を連想させます)

 

○車という舞台装置の映画的魅力の再発見

 

車のない映画を想像するのは、恋やセックスのない映画を探すのと同じくらい難しいかもしれません。『マッドマックス』では理想の地を求めるフュリオサたちを乗せた鋼鉄の馬たる車が見果てぬ砂漠を彷徨い、激しい衝突を繰り返し、車の上ですさまじいアクションが繰り広げられました。『グラン・トリノ』では主人公の老人が自信の象徴であり分身ともいえる車を、血のつながり以上の絆で結ばれた青年に形見として託しました。『知りすぎた男』では赴任した異国の地で息子がバスの乗客と起こしたトラブルから物語が立ち上がっていきます。これらはほんの些細な一例で、何も自動車でなくとも電車も含めれば、無数に挙げられるでしょう。

車は走っている限り、人物が動かずとも、車が動けばその揺れがアクションになりますし、車はどこかしらへと向かっているわけですから、始点と終点が生まれ自然に物語が発生しますし、窓の向こうの変わり続ける背景というのは、「絵が動いてナンボ」の映画と実に相性が良いです。また、車は人が操縦するものですから、どこかでハンドルを切り間違えでもすれば死の危険の漂うスリルな舞台装置ともいえます。ワンシチュエーションでの長丁場の会話劇は、小津安二郎のように完璧なアングルを心得た作り手や、ジム・ジャームッシュのようなスムーズな会話劇を得意とした名手のような書き手でもない限り、いささか退屈してしまいますが、不思議なことに、車窓から除く背景が常に変わり続けるシチュエーションでは、どういうわけか多少の長丁場でも退屈しにくいように感じます。

濱口竜介監督の2018年作『寝ても覚めても』でも、唐田えりか演じる朝子がかつての恋人であり自分を過去につなぎ止め呪縛する存在でもある麦と逃避行するのに車が使われます。また、濱口監督が脚本で参加した黒沢清監督『スパイの妻』では、蒼井優高橋一生の夫婦が、贅沢がご禁制の戦時下に、海外逃亡の資金を作るための小旅行としてドライブに出かけます。

『ドライブ・マイ・カー』では、タイトルの通り、主人公の乗る赤いサーブが準主役のように物語を動かし続けています。ある時は亡き妻の亡霊が宿るゆりかごとして、家福とみさきをつなぐ絆として、彼らの周囲をうごめく暴力的の気配から包み守るシェルターとして、さまざまな顔を見せます。

映画の大半の時間は、(計ったわけではないので正確ではないですが)車内での対話を占めていますが、撮影監督を務める四宮秀俊のカメラは刻一刻と表情を変える自然のダイナミズムを的確に捉え、目を楽しませてくれます。

車窓によって切り抜かれた瀬戸内の海(余談ですが、以前瀬戸内芸術祭に行ったときに、ちょうど本作に出てきたような瀬戸内の穏やかな海を臨みながらのドライブは、とても気持ちがよいものでした)は、ある場面では家福に平穏を与え、静かな思考を促しますが、窓によって切り抜かれた景色の外では、高槻という存在や生前妻が語った物語のような、暴力性のある何かが渦巻いていることがことあるごとにほのめかされます。映画のほとんどの場面で、家福は自分の内側の世界に閉じこもっていて、外の景色を見るときの多くは窓や鏡といったフィルターを通してしか見ていません。このカメラが「捉えているもの/あえて捉えていないもの」というのは、そのまま家福が「見ていたもの/あえて見ようとしなかったもの」に直結しているように思います。

 

○他者とはどれほど異質な存在で、その他者を見つめる自分はいかによくわからない存在か

 

鏡に映る者は自分ではあるけれど、同時に自分ではない。この一見矛盾しているような認識によって、人はいちおうは狂気の淵に陥ることから免れます(鏡に映るのは自分だけど、自分ではないけど、そこに映るのは自分で、でもそれは自分で.....では無限ループですからね)。しかし、現実はどうでしょう。自分といくらか似た姿かたちである他者というものは極めてよくわからない存在で、まして自分というものはもっと理解しがたい存在ではないでしょうか。自分の目から見た他者、他者の目から通した自分.....考えれば考えるほどよくわからなくなってしまいます。

上にも書いたとおり、『ドライブ・マイ・カー』では鏡というモチーフがしばしば用いられます。家福が妻の情事を目撃するときにも、高槻がオーディションで際どい演技で相手役の女優を追い立てていくときにも、鏡が使われ、そこに映る表情はカメラが切り取るものとは違う、謎めいたものをはらんでいます。鏡を通して目撃する世界は、自分が立つ世界を映したものであるにもかかわらず、そこで起こっていることは現実離れした奇妙な質感があります。

 

また、本作のある場面では、一度スキャンダルで干された過去を持つ高槻が一般人にカメラを向けられることで激昂する場面があり、直接的に無遠慮にカメラを向けることの罪深さに言及されていますが、そこからさらに「実は取られることを意識していない人間の表情を撮るという行為は後ろめたいものなのではないか」というところに踏み込んでいるように思えました。

たとえば、映画冒頭、家福が音の不倫を目撃したあとに、目撃したことを責め立てることのないまま、妻とセックスをします。そこでは、表向きは充実しているように見える夫婦の営みが交わされていますが、我々は家福同様に音が抱えている嘘をすでに見ているため、冷や冷やした気持ちでその営みを見つめることになります。しかし、一見互いを求めあうかのようにむさぼりあっている二人を、横からとらえていたカメラが突然、音の表情を正面から見つめます。そこで家福は見ていない、その世界では本来なら誰も見ていないはずの顔を音は観客に向かって見せるのです。まるで、自分の内に抱えた罪を告解するように。

さらに後半、家福の車に乗り合わせた岡田将生演じる高槻が、音がセックスの後に無我の境地のような状態で語り紡いでいた、不穏で病んだ片思いの物語の続きを唐突に語りだします。ここで、カメラは初めて高槻という男の顔を、彼と向き合う家福の視点と同期する形で正面から見据えます(車の後部座席という狭い空間で、役者にかなり接近した状態であの演技を引き出したのはすごい)。観客は高槻が音という特殊な回路を通じて家福だけに向かって剝きだされた原始的な暴力性を、半ば強制的に目撃されることになり、「この目の前で滔々と語っている男はいったい何者なんだ」という得体のしれない不気味さにぞくりとさせられ、その世界で限定的にしか開示されていないはずの顔を目撃してしまうことの背徳感を、共犯者のように抱えることになるのです(西島秀俊が「何かすごいものを見た」と驚愕するのも納得の岡田将生の近年屈指のベストアクトでした)。

このように、鏡に映った世界や「その世界では誰も見ていないはずの顔」を正面から観客に見せることで、他者という存在の異質さと、そこに対峙する家福(と彼の目を通して世界を見る観客)が戸惑う自分という存在のわからなさを突きつけられているように思えます。

○交錯しない視線が交わる、その身据えた先にある再生

 

ふたたび、車の話に戻しますが、車という空間で話すとき、運転者と同乗者で視線が交わることは稀です(そんなしょっちゅうよそ見されてはたまりません)。『ドライブ・マイ・カー』でも、運転席から離れた家福は一貫して後部座席に座り、みさきは運転席という配置で、基本的には同じ方向を向いて話をします。

ところが、とある事件を契機に、物語は予期しない方向へ動き出し、家福はみさきと逃げる(ネガティブで無責任な放棄ではなく考えを保留し現実から距離を置くという意味)ように彼女の故郷である北海道へと向かいます。そこで、これまでは前後の配置で、ウィンドミラー越しに視線が交錯していた位置関係が変化し、みさきと隣り合うように家福は助手席へ移動します。たどり着いた雪が覆う真っ白で静かな世界で、「家福が見る世界」が一気に開かれ、みさきのかつての生家の前で、彼らはようやくここで正面から向かい合い、「演技」によって他者を内面化し正面から向き合うことを避けてきた家福は、ここでようやく何も媒介することなく他者と向き合い、音と向き合わなかったことを悔やみます。それまでは交わらなかった視線がようやく交わります。この映画の中の美しい瞬間のひとつです。

 

○言葉の解体、意味を超えた先の多層的な響き、再生と回復

 

本作では、作中でも採用されている有名な「濱口メソッド」によって、テキストから感情を抜いて発生された「声」が、リハーサルの本読みと、音が生前吹き込んだカセットテープとで何度も何度も再生されます。それらは最初は意味を(意図的に)抜かれたただの音響的な「声」ですが、劇中劇の『ワーニャ伯父さん』が次第に家福の停止した人生とシンクロしていくことで、「声」が反響し合い感情や意味が肉付けされていき、時制や次元を超えて家福とみさきのアクチュアルな再生の物語に繋がっていきます。

家福、みさき、高槻は、それぞれ、自分の心の中の大きな部分を占めていた存在を喪失していてして、彼らは一度何らかの形で人生が終わってしまった人たちです。一度本人が望むか望まないかに関わらず喪失を経験した人たちが、どのように過去の呪縛から解き放たれ、リアルな生をもう一度生き直せるのか、重層的な反響しあう声と、視覚的な表現が重層的な響きが、虚構と現実がまじりあい、その混然一体となった響きになって観客の心に深い余韻を残していってくれたようでした。

手話を操る韓国の女優がが務める『ワーニャ伯父さん』のソーニャの「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう」という台詞が胸を打ちます。

 

グラン・トリノ』へのオマージュを忍ばせたラストは実にほほえましく希望に満ちています。

みさきにとって運転技術というのは生き抜く術で、それまでは誰かの車を運転する人生だったのが、あのラストによって、彼女は初めて『ドライブ・マイ・カー』というタイトルの通り自分の車を運転する人生を歩んでいることが示唆される。とても意義深いオマージュだと思いました。

 

 

おしまい

 

鳥は死肉を啄み、ネズミは地を這う/『ザ・スーサイド・スクワッド』

ジェームズ・ガン監督最新作『THE SUICIDE SQUAD』日本公開が決定 邦題は『ザ・スーサイド・スクワッド “極“悪党、集結』 | SPICE  - エンタメ特化型情報メディア スパイス

大方のフィクションの主題には「逃げる」があると思います。巨大な組織から差し向けられた刺客からの逃走、家庭内暴力で壊れた家庭からの逃亡、さえない現実からの逃避……。私は「逃げる」ことには肯定的ですし、昨今は「逃げる」ことに対してポジティブな意見が多く見られるようになったと見受けられますが、それでも人によって、場合によっては、私たちが生きる現実で「逃げる」ことは卑怯と蔑まれたり、後ろ指を差されたりするかもしれない危険を孕んでいいます。だからこそなのか、「逃げる」という選択をする(または否応なくそのような袋小路に嵌りこむ)主人公を時としてわが身に置き換えながら見守ってしまうのは私だけではないと思うのです。

以下、ネタバレを含みますので、まだ鑑賞されてない方は是非とも鑑賞してから読んでいただきたいです。ネタバレが気にならなければ構わないです......


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 Everybody hurts

Take comfort in your friends

Everybody hurts

Don't throw your hand, oh no

(R.E.M 『Everybory Hurts』)

 The Suicide Squad has an unexpected Avengers Endgame connection

○誰も彼もが傷ついている

『ザ・スーサイド・スクワッド』の世界には、さまざまな形で「支配」が絡み合っています。強権的な父(または男そのもの)、子どもの人生を我がもののように扱う母、暴力で国の中枢を掌握する軍事政権、帝国・アメリカ。

そしてこの映画の登場人物たちは(キングシャークのようないわばマスコットもいるのですべてというわけではないですけど)、「支配」の抑圧に人格をゆがめられたり、生活が破綻したりするなど、多かれ少なかれトラウマを抱え、傷ついています。武器の名手であるブラッドスポートは屈強な見た目にもかかわらず、殺し屋に育て上げようとした父親に植え付けられた恐怖によって、今も小さいネズミに怯えつづけています。ポルカドットマンは、「子供をヒーローにする」という夢想に取り憑かれた母親に、水玉模様のカラフルな斑点が身体に浮き出る特異体質に変えられてしまった結果、彼から見る世界は常に自分を苦しめた母親に囲まれています。ピースメーカーは父親の教育のせいか(ここは深く単独ドラマで掘り下げられるっぽい)アメリカという国家に忠誠を誓うあまりに個人の正義を国家の大義と置き換えることに何の躊躇も抱かなくなるほどの暴力に呪われた人間になっています。常に周囲を翻弄し、戦況ごとひっくり返すほどの無軌道さで一見自由な存在に見えるハーレイ・クインも、表層ばかりを見て女をトロフィーのように扱う愚かな男たちへの怒りに満ち、男から吹きあがる汚い血しぶきが花びらに姿を変えるほど。

ここでおもしろいのはラットキャッチャー2で、彼女は唯一この映画の例外として、ネズミと意思疎通し操る特殊な装置と共に父の愛を受けていて、親からのトラウマを与えられていません(もちろん貧しい父を冷遇した社会への悲しみは抱いているでしょうが)。

そんな彼らが「逃げる」という手段を強制的に遮断され、刑期と自由を引き換えに戦場へと向かい命を晒し、右も左もわからない地で、コロコロと変わる命令に振り回されながら、否応なしに自分の中に巣食うトラウマと立ち向かわなくてはならなくなります。

 

○鳥と監獄

映画のオープニング。マイケル・ルーカー演じるサバントは刑務所に迷い込んだ小鳥を殺します。しかしその後彼は監獄から出てあえなく戦地で死亡。彼の死肉をまた別の鳥が啄みにくるという、何とも皮肉なオチによってこのキャラクターの生涯は閉じられます(死にざまの詳細は書きませんがジェームズ・ガンの前作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーvol.2』で観客の涙を誘う勇姿を見せたマイケル・ルーカーが情けない叫び声をあげ逝くシーンは笑っちゃいけないと思いつつ、不謹慎にもつい声を出して笑ってしまいました。『ガーディアンズ』では無法者だったのが、今作では一番常識のある人だったというのも笑えます)。

この鳥というモチーフが指し示すのは、月並みではありますが重力に縛られることのない、他者からの干渉・抑圧を受けない「自由」だと読みました(もちろん今回の映画の制作に至る発端となったTwitterであろうことも容易に見て取れますが)。劇中で登場する中南米軍事国家の首領が(どこからどのようなルートで仕入れてきたのか)色とりどりの鳥を飼っているという設定で、再びこのモチーフが登場します。

しかし、監獄に迷い込んだものにしても、ロマンティシズムに酔いしれた傲慢な為政者が飼うものにしても、重力からの束縛から解放された鳥といえども、檻に閉じ込められればその象徴する自由はいとも容易く奪われてしまいます。

 

○落下、重力

また、先ほどの滑空しまた羽ばたく鳥もそうなのですが、本作には「落下」をはじめとした上下運動が深く印象に残りました。

スーサイド・スクワッドの部隊はミッションを遂行する中南米の国家に潜入するために、海に落とされ、そこから陸へ上がっていきます。そして林を抜け、途中いくつかの寄り道を経て、ヨトゥンヘイムという名を冠した塔に登ります(私の大好きなピクシーズの楽曲がかかる、とっておきの名シーンでもある、塔へ突入するシーンでも雨が降り注ぎます)。部隊は塔の中で秘密裏に実験されていた「スターフィッシュ計画」を阻止すべく爆薬をしかけますが、そこでいくつかのトラブルと偶然が重なって、塔の崩壊に巻き込まれ、瞬く間に落下していきます。

この落下のイメージには、様々な形で罪を負い、傷ついた者たちが再び高みに登ろうとしても、下へ働く重力によって地面に再び振り落とされてしまう、彼ら自身に付きまとうこの世の不条理に見えました。

 

○這い上がるネズミ、ヒトデの涙

崩壊したヨトゥンヘイムから出て暴れ出す怪獣”スターロ大王”というのは、さきの「スターフィッシュ計画」の根幹をなす、ヒトデの形をした巨大な生き物であり、肢の間から大量の小型の人出を放ち、他の生物に寄生し、自身の意志を媒介する声明を増殖してしまうかなり厄介なもの。ここにも小型のヒトデが人々に向かって降り注ぐ際に「落下」というモチーフがあります。無差別に降下して人々の顔に貼りつき「支配」してしまう上から下へのイメージも妙にリアリティがあり、おもしろい絵面ながらも不気味です。

閉じ込められていた(スターロ自身も間抜けな北米人の身勝手なふるまいによって宇宙から誘拐され「支配」されてきた被害者だったのです)塔から出て、街を蹂躙するスターロ大王。元はといえばアメリカが招いた惨状でもあるので、アメリカの忠実な僕でもあり、スーサイド・スクワッドの親玉であるアマンダ・ウォーラーは部隊に撤退するよう命令を下します。

ですが、何の罪もない人々まで巻き込んだ惨禍をみすみす見逃すことはできず、ブラッドスポートたち生き残ったスーサイド・スクワッドの面々は、ウォーラーの制止を振り切り、脳に埋め込まれた爆弾がいつ爆発するかわからないにもかかわらず、受動的に命令を待つだけの存在から、能動的に人々を救う存在へと覚醒し、「支配」を断ち切ります。「逃げる」という命令に背いて、ここでようやく能動的に立ち向かうという選択を取るのです(先に述べたハーレイ・クインは、目的のためなら子どもでも容赦なく殺すという発言が契機となり、求婚してきた大統領をあえなく射殺しますが、これは彼女が元々トラウマを克服している自立したキャラクターであるからでしょう)。

ポルカドットマンははじめて自分の意志で、かつて自信を苦しめ続ける母の幻影を破壊し、母親の身勝手で結果的になりそこないの存在だった彼が初めてヒーローとして自覚が持てるようになることでトラウマを克服するのですが、あえなく死亡し、スターロ大王の肢を破壊するにとどまります(十分に凄いし、おそらく普通に今作で一番強い能力)。

さて、この大暴れするスターロ大王、いったいどうするのということで、ここで活躍するのがラットキャッチャー2。このキャラが他と大きく違うのは、上に書いたように父の愛をその一身に受け、地の底を這うネズミと意志を交わすことができるということです。そんな彼女がネズミの大群を差し向けることで、巨大なヒトデに一矢報いるのです。

「落下」という上下運動はここでまたかなり効いてきます。これまで高みから上から下へと向いていた「支配」のベクトルに対し、下から上へと向かう力が対抗するわけです。重力に縛られ、地の底で蠢き、不当なレッテルを貼られ汚いものとして蔑まれやすいネズミも懸命に生きている。そんな「ただ生きている」存在の力強さ、尊さが、この命が軽く吹き飛ぶ不条理な世界観でより一層鮮やかに際立って見えました。

斃れたスターロ大王の巨大な瞳から出る水には、長い間「支配」され続けてきたものの哀しみがあり、この呪縛から解き放つのが不自由を強いられたネズミであり、「ただ生きている」尊い生きものたちと意思を交わすことができるラットキャッチャー2でもあるというのが実にロジカルで、何よりも胸を打つ爽快な結末だと思いました。そして何よりも、世の中からは耳出した者たちへのジェームズ・ガンの優しく温かいまなざしを感じることができました。

 

○ところで

今作がディズニーのガン監督解雇騒動から始まったことから、ディズニー=ネズミとも読めるわけですが、ブラッドスポートやハーレイ・クイン、ラットキャッチャー2の地雷となるのが子供(弱き人々)であることも、近年のディズニーが抱える問題への強い皮肉があるのかもしれません。

○終わりに

と、うだうだ考察にもつかない文章をダラダラ書いてみましたが、本作はこんなことを一切考えなくても、むちゃくちゃ楽しめる映画ですので、是非ともまだ未見の方はご覧あれ。

 

おしまい

雑魚寝日和見記(20201226)

カラスが拳大ほどの石を器用にくちばしでつまみ、瓦屋根に運んでいく。すると、登った屋根から地面に転がし落とした。思わず感心してしまう。また意志を別の屋根に運んでいく。また落とすのかと思いきや、石を猛烈な勢いでつつき始めた。どうやら石を木の実と勘違いして、割って中身を取りだそうと思案しているらしい。

賢いのか、阿呆なのか。

それは石というもので、木から生ったものでなく、マグマが冷え固まったものであって......と説明してやりたかったが、そもそもカラスの言語を介さないので困った。

あのあともあの「実」を割ることに、苦心し続けていたのだろうか。

 

2020・12・26

『スパイの妻』を見てスクリーンの向こうに思いを馳せる感情がふたたび呼び起こされた

 (noteがアレな感じなのでこちらに移植してきました......まるまる同じ文章です)

見出し画像

劇中で高橋一生が撮影した自主製作映画でフィルムの淡い輪郭と共に浮かび上がる夢見心地な蒼井優の白い顔。銃の硝煙。床に落ちた懐中電灯の白い光。知らぬ間に動かされたチェスの駒。幽霊。窓から差し込む夕焼けの光に切り取られた深い闇。川に浮かぶ女の死体。不信を乗り越え信仰に目覚めた女の変貌。遠い世界へのあこがれを映す海辺。こうした事物がスクリーンから立ち現れては私を通過しては消え、またゆらりと記憶の中で目覚め、を繰り返している。
はじめからエンドロールまで、ずっと「いま私はむちゃくちゃ良い映画を見ているし、むちゃくちゃ豊かな時間を過ごしている」という充実感で胸がパンパンに張り裂けそうだった。こういう幸福感をまた味わえる。それだけでも映画を置きなスクリーンで見るということの意義を思い起こさせてくれる。蒼井優ではないが「お見事!」と叫びたくもなる。

たとえば、冒頭、優作(高橋一生)の貿易会社に憲兵分隊長・泰治(東出昌大)がある報せを告げにやってくる。後ろでは商社員がせわしなく動いている。そんななか、高橋一生東出昌大もうろうろと歩きながら話をする。通常そういう場面では、役者もほとんど動かさずに座ったまま机を挟んでお茶と一緒に菓子でもつまみながら歓談でもしそうだが、そうはさせない。やたらと不必要な動きがある。無駄が多い。高橋一生なんか仮にも社長なので、ドシッと偉そうに座って「で、きょうはどんな用件で来たんだい?」とでも言い放てばいいはずなのに、やたら窓際を無目的に歩き回る。それにデカい図体を持て余した東出昌大がうろうろとついていくので、憲兵が会社に乗りこんできた場面にしてはいささか間が抜けているようにも見えなくもない(ただここは補足しておくと、東出昌大があまりに巨躯なためにカメラに収まりきらず、やむなく高橋一生を立たせざるを得なかった、という事情はある)。ではなぜそうしたのか、といえば、それはこのようなある種の無駄で不自然な動きが、この映画の中での世界観を一貫したものにする機能を持っているから、ということではないだろうか。実際普段日常で我々は最小限必要な動きしかしていないのかといえばそんなことななく、喋りながら耳を掻いたり意味もなく膝を揺らしたりやおら立ち上がったりする。動作としてはいくらか演劇的で不自然に見える動きが、きわめて洗練された形でなされることで、スクリーンに映し出された虚構が生きた形で立ち上がってくる。もちろん、黒澤清監督がそこまで意図していたかはわからない。ただ、「ああ、いまこの映画は生きていて、スクリーンの向こうには少なくともここではない世界がたしかに拡がっている」という気にさせられた。なんてことはない1-2分程度の場面。たったそれだけで(いささかオーバーな表現が許されるなら)魔法をかけられたかのような心地にさせられた。カメラが動いて、役者が動いて、いまたしかに映画が活気づいている瞬間を目撃した。それだけでとても幸福になれるのである。

今年はコロナ禍によってなかなか映画館に足を運ぶのが躊躇われる異例中の異例のような時期があり、家で映画を見る機会が以前より格段に増えた。そんな中で、本作を視聴することは気づかぬ間に失いかけていた(一方で心の奥底で強く求めていた)「映画を見る」という行為の豊かさに改めて思い起こさせてくれた。世界を驚かせる大ヒットを記録するアニメ映画の裏で、ひっそりと力強くスクリーンの向こうの世界へ恋い焦がれる気持ちを思い起こさせてくれた今作には、深い敬愛を抱かざるを得ない。

 

おしまい

学ぶという営みの美しさと難しさについて / NHKスペシャル 『ボクの自学ノート』

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https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2225660/index.html より(© 2019 NHK)

昨年は一時期フィクションをまったく受けつけずドキュメンタリーばかり見た時期があり、それ以降も年中面白そうなのがあれば録画して見ることが多かった。その中でもこのドキュメンタリーには特に強く胸を打たれた。「学ぶ(=研究)」という営為の尊さ、内なる世界の豊かさ、そして好きなことをして社会でやりくりすることの難しさ、学校という場の本来あるべき姿。様々なことをただただ考えさせられるばかりだった。

本作は、福岡の小倉に住む現在17歳になる梅田明日佳さんが10歳のときに学校の課題として出された「自学ノート」をその後7年間続けていった、その軌跡を彼の家族や周囲の大人(リリー・フランキーや福岡の文化施設学芸員)の証言と共に辿っていく構成となっている。

冒頭、まず、最初に梅田さんの部屋にあるノートの数に驚かされた。21冊。4カ月に1冊のペース。勝手に筆の早い人なのだろうという印象を抱いていたのでこの数字を意外に感じた。だが、ノートを開くと、そこにはたどたどしく(学芸員の証言にもあったが)も、1文字ずつ大地の感触を確かめるような確かさで綴られた文字の列が、人の何十倍も濃度の高い時間の層が1冊のノートに堆積していた。

小学校の課題として出された「自学ノート」。最初はただの宿題として手をつけていったつもりが、先生や時計屋の社長に見せて反応をもらうことで、自分の「学び」を共有する素朴な喜びに魅了されていき、次第に文章力や編集力を磨いていき「自分だけの世界」にハマりこんでいく様は、「学ぶ」という人間の営為の深さについて考えさせられる。このドキュメンタリーの作り手や視聴者同様、梅田さんの「学び」に対する真摯な姿勢に(戸惑いつつも)感銘を受けた周囲の大人たち*1のエピソードも素敵で、彼の積極性や「学び」を通して繋がっていく交流の純粋さは、多くの示唆と問いを投げかける。

 

中盤以降雲行きが怪しくなり、次第にまた別のものが透けて見えてくる(ここから学校生活にある程度のトラウマがある人にはかなりキツイ内容になってくる)。それは豊かな「自分だけの世界」の外にある「本物の世界」であり、社会と呼ばれる場所であり、12~18歳の少年にとっては(誰もが経験したはずの)学校という特殊な閉鎖空間だ。梅田さんは、部活動にも当然入らず、中学校になっても課題として求められていない「自学ノート」を書き続けていく。「普通」の学校生活から遠ざかることで失うものを自覚しながら、自分だけの青春を「自学ノート」に見出す梅田さんの背中は純粋で美しい*2。母親である洋子さんは、学校の教師に「コミュニケーション能力や積極性がないと社会ではやっていけない」といわれたことが今も引っかかっりつづけていて、胸中に残る苦悩をこぼす。

「明日佳みたいな子は昔もいたし、今もいるんですね。」

「その子が居場所がないっていったら、みんな今までその子たちはどうしてきたんだろう、とか色々やっぱり思ってしまって。」

「だから学校の言う"社会"ってのが、何なのかと思って。」

学校で教えるのは「勉強」だ。他人に強いて勉めることしか教えてくれない。そもそも学校とは「学習」を教える場ではないのか。学校で教わる勉強が役に立たないといいたいわけではない(実際にバカにはできない)。ただ、梅田さんのような本当の意味で「学ぶ」楽しさを知る人の受け皿はないくせに、部活に精を出すや忠実に課題をこなす生徒のみが奨励され同調圧力で豊かな内なる世界を潰そうとする今の学校システムに洋子さんと同じように強く疑問を感じたのはたしかだ。

ただ、そんな社会の狭量さにも一筋の光を差すように、うまく話せない自分をもどかしく感じないかというスタッフの質問に対して

「ものすごく(もどかしく感じることが)あるから、ノートを書いているんです。」

と答える、明日佳さんの瞳はひたすらひたむきでまっすぐである。

母親の洋子さんも

「(自学ノートの中は)楽しいことばかりですから

とつらくなったときに「自学ノート」に励まされたことを嬉しそうに振り返る。

将来を迷いながらも真摯でありつづける梅田さんの「学び」への姿勢と、彼の活躍を見続けてきた大人たちが明るい光のように、ほのかに輝いていて、ただただ自分の「学び」の足りなさについて猛省しきりであった。

 

最後に、リリー・フランキーなど子供ノンフィクション大賞の審査員たちとの温かい交流と、母親である洋子さんがこれまでの苦悩と未来への期待を語ったインタビューのリンクを張らせていただいて、締めとさせていただきます。

www.nhk.or.jp

www.nhk.or.jp

<あとがき>

インタビューに登場した漫画ミュージアム元受付の吉田有輝子さんのメーテルコスプレが超絶綺麗な方だったので、思わず検索かけてしまいました。

*1:中学生になっても自学ノートを綴る息子の成果を見てもらうために様々な文化施設に飛び込むお母さんのエピソード含めて美しいと思う

*2:ここの学校の中で浮いてしまった存在である自分を俯瞰的に分析した梅田さんの文章あたりで涙が止まらなくなってしまった

『パラサイト 半地下の家族』 (ネタバレしてませんよ編)


第72回カンヌ国際映画祭で最高賞!『パラサイト 半地下の家族』予告編

とにかく観て.......ただそれだけ

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元旦、することがなく、暇を持て余し、最初はスター・ウォーズでも見ようとシネコンに入ると、ちょうど特別上映がやっていた。ので、「ラッキーじゃん」とそのまま観賞。

 

もともと『グエムル』も『スノーピアサー』も大好きだし、現役監督の中で「作家性」という言葉がこれほど似合う人も他にいないであろうポン・ジュノ監督最新作(情報に疎い自分でもさすがに評判は耳に入っていた)ということであれば、否が応でもハードルが上がり期待するわけだが、いざ幕が開くと開始数分の怒涛のおもしろさにノックアウトし、自分の考えがいかに生ぬるかったかがよーくわかった。浅薄な期待(物語に対する渇望)を裏切り、裏切り、裏切りつづけ、とんでもない地点へと連れていってもらった。これまでに味わったことのない類の幸せな(これは自分のにおいを気にしながら劇場をあとにしているときのいやな後味を考えればあまりに不釣り合いな言葉だろう)映画体験ができた。映画とはこうでなくてはならないのか、こんなに面白くないといけないのか、という堂々たる映画っぷりをまざまざと見せつけられた。映画という芸術が緩慢に、しかし確実に死にかけている時代に、「映画にはまだできることがたくさんある!」という可能性を示してくれる『パラサイト』とは恐ろしくもとても心強くたのもしい。本当に素晴らしかった。

 

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たのしそう

 

しかし、阿呆のごとく「おもろいおもろい」といい続けてもおもろさが伝わらない。ので、自分なりにその「おもろさ」を3つの項目に分けて書いてみようと思う。本音をいえばめっちゃ内容に踏み込んで書きたいのだが、ポン・ジュノ監督にお願いされちゃったので、もちろんネタバレは控えさせていただく。鮮度が命なのです。

 

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「うわっ....私の年収低すぎ?」ではない

1.現代的かつ普遍的なテーマ性にジャンル映画の娯楽性を組み合わせた意外性の勝利

映画は、特に、「現代」を描いたものであるべきだ。それが、たとえ過去未来現在いつの時代を舞台にしたものであったとしても。本作が取り上げるのは、近年では『万引き家族』や『ジョーカー』、『バーニング』でも扱われてきた、資本主義が生み出した格差や貧困、というまさしく「現代」を撮るなら避けては通れないもので、主人公のキム一家はこうした社会から分断された人々だ(もちろんこれまでも映画ではそういった格差が描かれたものはたくさんあるので「これこそ今のトレンドだ!」とはいわない)。このような軽々しくは扱えないテーマを取りあげる際、さまざまなアプローチが用いられてきた。たとえば、『万引き家族』なら、社会からはじかれ隠されてきた片隅の「家族」と観客の目線を合わせるよう寄り添っていくような撮影を用いることで、従来の「家族」という言葉が縛りにとらわれない普遍的な共同体として主人公一家を描いている。一方、『ジョーカー』は劣悪な社会保障制度から始まっていく負のスパイラルをデフォルメして描くことで、社会への風刺をより強めた調子に仕上げている。

では、『パラサイト』はといえば、終始劇場から笑いがくすくす漏れる、めちゃくちゃおもしろおかしく笑える、時には倫理観スレスレのユーモアの利いたブラックコメディで全体のトーンをまとめ、途中で一変(これ以上具体的なことは書けない)して『ドント・ブリーズ』を彷彿とするスリリングなサスペンスホラーに様変わりし、予想だにしない展開で観客を翻弄しくすぐりつづけた先にドスンと胃が重たくなる仕掛けが用意されている、という至れり尽くせりな大衆性と娯楽性をしっかり兼ね備えたエンターテイメントに仕上がっている*1。重たく描かれることが要される主題から逃げずに真っ正面から取り組みながら、コメディ、ホラー、サスペンスといったエンターテインメント性もしっかり担保されている、全方面的にやりきったとても偉い作品なのである。あまりに偉すぎて、映画という芸術形式のハードルがまたひとつグンッと上がってしまった。とんでもないことをしてくれたものだ。

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この妹が非常にいいキャラしてました

2.限られた小さなシチュエーションを隅々まで駆使した空間設計、「高さ」を活かした映画的な表現・演出力の巧みさ―階段、雨、重力

 ポン・ジュノ監督の前作『オクジャ/okja』が移動が多く規模の大きな作品だったのと比べれば、『パラサイト』はスケールダウンし、基本的には「半地下」と「地上」の2つのシチュエーションで進行していく。上手くやらないとかなり地味に、ヘタにやると視覚的に退屈してしまうところだが、ポン・ジュノ監督の手にかかればただの一軒家もスリリングなミステリ空間として成立してしまう。上る・下る、潜るといった「高さ」が変わるごとに幾重にも意味(社会的な地位もその場の優位性も含んでいる)を孕んでいき、徹底的にこだわり構築された空間がストーリーを展開させていく手腕は流麗で隙がない(奇しくも同時期に公開された『ジョーカー』でも階段が非常に重大な意味を持つ場所として登場したが、本作でも同様に非常に胃が痛くなるような場面で登場することになる)。

この「高さ」が表すもの、それはそのまま今の社会に潜み確実にそこにある格差に直結するわけだが、こうした「高さ」をより生々しく体感させるものの1つとして、雨や水がとても象徴的に使われている。ここはポン・ジュノ監督のことばをそのまま引用した方が早いので、毎日新聞のインタビューから引用させていただく。

「底辺」や「どん底」という状態は、まさに雨や水で象徴的に表すことができると考えます。雨や水は高いところから低いところへ降ったり流れたりするもので、その逆はない。

監督が述べている通り、印象的な場面で雨が降り注いでいく。それには浄化の意味があるわけでも、涙の比喩でもなく、上から下へ水が流れ着いた先の悲惨な現実を映し出す装置として、あるいは主人公キム一家にまとわりつく「重力」を表す装置として機能している。ありとあらゆる場面で、しつこいくらいまでに「高さ」を感じさせることで、観客はいつの間にか体感的に「半地下」と「地上」の間に立ち阻む巨大で果てしない断絶の壁が見えるようになってくる。実に見事な手際の良さだ。技巧的でありながら、わざとらしさ、いやらしさがなく、ただただ巧さに感服してしまった。

 

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3.コミカルからシリアスまで、場面場面で瞬時に切り替わり惑わすソン・ガンホの演技

これはもう現物を見ていただくしかない。ソン・ガンホの演技を見に行くだけでもお釣りが来るほどの価値がある。

一家の大黒柱でありながら気弱でどこか間の抜けた(全体としては影が薄く引いた演技が多い)ソン・ガンホが後半のある事実が発覚してから見せる、次々に変わる精神の動揺を表情の変貌が白眉なのだが、当然映画の内容に踏み込んでしまうので「ネタバレしてますよ編」まで持ち越し。

 

 

...とおおまかなポイントをさらってみたが、ほんの表層にしか触れていない。

ので、とにかく、未見の方は今すぐ見に行かれるべし、だ。

 

<引用元リンク>

https://mainichi.jp/articles/20200107/dde/012/200/013000c

 

<あとがき>

A24制作の『フェアウェル』が予告編が公開された当初から気になっていたのだけれど、一向に日本で公開される気配がないのが気がかり。

*1:本作には”ある結末”が用意されているがこれを「希望のある終わり方」として見られる人は相当幸せな人であろう