ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

『パラサイト 半地下の家族』 (ネタバレしてませんよ編)


第72回カンヌ国際映画祭で最高賞!『パラサイト 半地下の家族』予告編

とにかく観て.......ただそれだけ

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元旦、することがなく、暇を持て余し、最初はスター・ウォーズでも見ようとシネコンに入ると、ちょうど特別上映がやっていた。ので、「ラッキーじゃん」とそのまま観賞。

 

もともと『グエムル』も『スノーピアサー』も大好きだし、現役監督の中で「作家性」という言葉がこれほど似合う人も他にいないであろうポン・ジュノ監督最新作(情報に疎い自分でもさすがに評判は耳に入っていた)ということであれば、否が応でもハードルが上がり期待するわけだが、いざ幕が開くと開始数分の怒涛のおもしろさにノックアウトし、自分の考えがいかに生ぬるかったかがよーくわかった。浅薄な期待(物語に対する渇望)を裏切り、裏切り、裏切りつづけ、とんでもない地点へと連れていってもらった。これまでに味わったことのない類の幸せな(これは自分のにおいを気にしながら劇場をあとにしているときのいやな後味を考えればあまりに不釣り合いな言葉だろう)映画体験ができた。映画とはこうでなくてはならないのか、こんなに面白くないといけないのか、という堂々たる映画っぷりをまざまざと見せつけられた。映画という芸術が緩慢に、しかし確実に死にかけている時代に、「映画にはまだできることがたくさんある!」という可能性を示してくれる『パラサイト』とは恐ろしくもとても心強くたのもしい。本当に素晴らしかった。

 

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たのしそう

 

しかし、阿呆のごとく「おもろいおもろい」といい続けてもおもろさが伝わらない。ので、自分なりにその「おもろさ」を3つの項目に分けて書いてみようと思う。本音をいえばめっちゃ内容に踏み込んで書きたいのだが、ポン・ジュノ監督にお願いされちゃったので、もちろんネタバレは控えさせていただく。鮮度が命なのです。

 

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「うわっ....私の年収低すぎ?」ではない

1.現代的かつ普遍的なテーマ性にジャンル映画の娯楽性を組み合わせた意外性の勝利

映画は、特に、「現代」を描いたものであるべきだ。それが、たとえ過去未来現在いつの時代を舞台にしたものであったとしても。本作が取り上げるのは、近年では『万引き家族』や『ジョーカー』、『バーニング』でも扱われてきた、資本主義が生み出した格差や貧困、というまさしく「現代」を撮るなら避けては通れないもので、主人公のキム一家はこうした社会から分断された人々だ(もちろんこれまでも映画ではそういった格差が描かれたものはたくさんあるので「これこそ今のトレンドだ!」とはいわない)。このような軽々しくは扱えないテーマを取りあげる際、さまざまなアプローチが用いられてきた。たとえば、『万引き家族』なら、社会からはじかれ隠されてきた片隅の「家族」と観客の目線を合わせるよう寄り添っていくような撮影を用いることで、従来の「家族」という言葉が縛りにとらわれない普遍的な共同体として主人公一家を描いている。一方、『ジョーカー』は劣悪な社会保障制度から始まっていく負のスパイラルをデフォルメして描くことで、社会への風刺をより強めた調子に仕上げている。

では、『パラサイト』はといえば、終始劇場から笑いがくすくす漏れる、めちゃくちゃおもしろおかしく笑える、時には倫理観スレスレのユーモアの利いたブラックコメディで全体のトーンをまとめ、途中で一変(これ以上具体的なことは書けない)して『ドント・ブリーズ』を彷彿とするスリリングなサスペンスホラーに様変わりし、予想だにしない展開で観客を翻弄しくすぐりつづけた先にドスンと胃が重たくなる仕掛けが用意されている、という至れり尽くせりな大衆性と娯楽性をしっかり兼ね備えたエンターテイメントに仕上がっている*1。重たく描かれることが要される主題から逃げずに真っ正面から取り組みながら、コメディ、ホラー、サスペンスといったエンターテインメント性もしっかり担保されている、全方面的にやりきったとても偉い作品なのである。あまりに偉すぎて、映画という芸術形式のハードルがまたひとつグンッと上がってしまった。とんでもないことをしてくれたものだ。

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この妹が非常にいいキャラしてました

2.限られた小さなシチュエーションを隅々まで駆使した空間設計、「高さ」を活かした映画的な表現・演出力の巧みさ―階段、雨、重力

 ポン・ジュノ監督の前作『オクジャ/okja』が移動が多く規模の大きな作品だったのと比べれば、『パラサイト』はスケールダウンし、基本的には「半地下」と「地上」の2つのシチュエーションで進行していく。上手くやらないとかなり地味に、ヘタにやると視覚的に退屈してしまうところだが、ポン・ジュノ監督の手にかかればただの一軒家もスリリングなミステリ空間として成立してしまう。上る・下る、潜るといった「高さ」が変わるごとに幾重にも意味(社会的な地位もその場の優位性も含んでいる)を孕んでいき、徹底的にこだわり構築された空間がストーリーを展開させていく手腕は流麗で隙がない(奇しくも同時期に公開された『ジョーカー』でも階段が非常に重大な意味を持つ場所として登場したが、本作でも同様に非常に胃が痛くなるような場面で登場することになる)。

この「高さ」が表すもの、それはそのまま今の社会に潜み確実にそこにある格差に直結するわけだが、こうした「高さ」をより生々しく体感させるものの1つとして、雨や水がとても象徴的に使われている。ここはポン・ジュノ監督のことばをそのまま引用した方が早いので、毎日新聞のインタビューから引用させていただく。

「底辺」や「どん底」という状態は、まさに雨や水で象徴的に表すことができると考えます。雨や水は高いところから低いところへ降ったり流れたりするもので、その逆はない。

監督が述べている通り、印象的な場面で雨が降り注いでいく。それには浄化の意味があるわけでも、涙の比喩でもなく、上から下へ水が流れ着いた先の悲惨な現実を映し出す装置として、あるいは主人公キム一家にまとわりつく「重力」を表す装置として機能している。ありとあらゆる場面で、しつこいくらいまでに「高さ」を感じさせることで、観客はいつの間にか体感的に「半地下」と「地上」の間に立ち阻む巨大で果てしない断絶の壁が見えるようになってくる。実に見事な手際の良さだ。技巧的でありながら、わざとらしさ、いやらしさがなく、ただただ巧さに感服してしまった。

 

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3.コミカルからシリアスまで、場面場面で瞬時に切り替わり惑わすソン・ガンホの演技

これはもう現物を見ていただくしかない。ソン・ガンホの演技を見に行くだけでもお釣りが来るほどの価値がある。

一家の大黒柱でありながら気弱でどこか間の抜けた(全体としては影が薄く引いた演技が多い)ソン・ガンホが後半のある事実が発覚してから見せる、次々に変わる精神の動揺を表情の変貌が白眉なのだが、当然映画の内容に踏み込んでしまうので「ネタバレしてますよ編」まで持ち越し。

 

 

...とおおまかなポイントをさらってみたが、ほんの表層にしか触れていない。

ので、とにかく、未見の方は今すぐ見に行かれるべし、だ。

 

<引用元リンク>

https://mainichi.jp/articles/20200107/dde/012/200/013000c

 

<あとがき>

A24制作の『フェアウェル』が予告編が公開された当初から気になっていたのだけれど、一向に日本で公開される気配がないのが気がかり。

*1:本作には”ある結末”が用意されているがこれを「希望のある終わり方」として見られる人は相当幸せな人であろう