ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

『スパイの妻』を見てスクリーンの向こうに思いを馳せる感情がふたたび呼び起こされた

 (noteがアレな感じなのでこちらに移植してきました......まるまる同じ文章です)

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劇中で高橋一生が撮影した自主製作映画でフィルムの淡い輪郭と共に浮かび上がる夢見心地な蒼井優の白い顔。銃の硝煙。床に落ちた懐中電灯の白い光。知らぬ間に動かされたチェスの駒。幽霊。窓から差し込む夕焼けの光に切り取られた深い闇。川に浮かぶ女の死体。不信を乗り越え信仰に目覚めた女の変貌。遠い世界へのあこがれを映す海辺。こうした事物がスクリーンから立ち現れては私を通過しては消え、またゆらりと記憶の中で目覚め、を繰り返している。
はじめからエンドロールまで、ずっと「いま私はむちゃくちゃ良い映画を見ているし、むちゃくちゃ豊かな時間を過ごしている」という充実感で胸がパンパンに張り裂けそうだった。こういう幸福感をまた味わえる。それだけでも映画を置きなスクリーンで見るということの意義を思い起こさせてくれる。蒼井優ではないが「お見事!」と叫びたくもなる。

たとえば、冒頭、優作(高橋一生)の貿易会社に憲兵分隊長・泰治(東出昌大)がある報せを告げにやってくる。後ろでは商社員がせわしなく動いている。そんななか、高橋一生東出昌大もうろうろと歩きながら話をする。通常そういう場面では、役者もほとんど動かさずに座ったまま机を挟んでお茶と一緒に菓子でもつまみながら歓談でもしそうだが、そうはさせない。やたらと不必要な動きがある。無駄が多い。高橋一生なんか仮にも社長なので、ドシッと偉そうに座って「で、きょうはどんな用件で来たんだい?」とでも言い放てばいいはずなのに、やたら窓際を無目的に歩き回る。それにデカい図体を持て余した東出昌大がうろうろとついていくので、憲兵が会社に乗りこんできた場面にしてはいささか間が抜けているようにも見えなくもない(ただここは補足しておくと、東出昌大があまりに巨躯なためにカメラに収まりきらず、やむなく高橋一生を立たせざるを得なかった、という事情はある)。ではなぜそうしたのか、といえば、それはこのようなある種の無駄で不自然な動きが、この映画の中での世界観を一貫したものにする機能を持っているから、ということではないだろうか。実際普段日常で我々は最小限必要な動きしかしていないのかといえばそんなことななく、喋りながら耳を掻いたり意味もなく膝を揺らしたりやおら立ち上がったりする。動作としてはいくらか演劇的で不自然に見える動きが、きわめて洗練された形でなされることで、スクリーンに映し出された虚構が生きた形で立ち上がってくる。もちろん、黒澤清監督がそこまで意図していたかはわからない。ただ、「ああ、いまこの映画は生きていて、スクリーンの向こうには少なくともここではない世界がたしかに拡がっている」という気にさせられた。なんてことはない1-2分程度の場面。たったそれだけで(いささかオーバーな表現が許されるなら)魔法をかけられたかのような心地にさせられた。カメラが動いて、役者が動いて、いまたしかに映画が活気づいている瞬間を目撃した。それだけでとても幸福になれるのである。

今年はコロナ禍によってなかなか映画館に足を運ぶのが躊躇われる異例中の異例のような時期があり、家で映画を見る機会が以前より格段に増えた。そんな中で、本作を視聴することは気づかぬ間に失いかけていた(一方で心の奥底で強く求めていた)「映画を見る」という行為の豊かさに改めて思い起こさせてくれた。世界を驚かせる大ヒットを記録するアニメ映画の裏で、ひっそりと力強くスクリーンの向こうの世界へ恋い焦がれる気持ちを思い起こさせてくれた今作には、深い敬愛を抱かざるを得ない。

 

おしまい