こうの史代『夕凪の街 桜の国』
あれから10年
しあわせだと思うたび 美しいと思うたび
愛しかった都市のすべてを 人のすべてを思い出し
すべて失ったなった日に 引きずり戻される
先日、毎日新聞の記事に原爆を投下した米B29爆撃機の搭乗員に対するインタビューを収めた録音テープが、広島市の原爆資料館に寄贈されたという記事を読んだ。既に個人であり、当時の機長であるポール・ティベッツ氏の肉声が記録されており、日本軍にとらわれた際には自殺する際の青酸カプセルを持参していたという。そんな機密性の高い任務を果たした1945年8月6日午前8時15分の瞬間をのちに「光が包まれたとき、鉛のような味がした。きっと放射能(の影響)だろう。とてもホッとした。(原爆が)炸裂したとわかったから」と語ったらしい。鉛の味、どんなものだったのだろうか。サッパリ想像がつかないが、顔をしかめたくなるようなものであることは何となく想像できる。彼らには人々を蹂躙したことへの悔恨で夜眠れぬことがあったのだろうか。肉厚なステーキを口にしているときに、ふと鉛の味が口の中をしみわたることがなかったのだろうか。
戦争を知らない世代であるわたしたち(これはなにも自分と同世代の20代だけでなく現代の60台も含むのではないだろうか)には、どこか戦争というものを考えるときに、忌避感のようなものがまとわりついてくるように思う。理由は様々であると思うし、私くらいの年頃なら戦争に反対することが非現実的で、それを口にするのはマヌケであると冷笑に付されてしまうのではないか、というところもあるのかもしれない。戦争=つらいという植え込み(もちろんそれは本当だと思う)が強く、聴かされたり読んだりした体験談はいつも過酷で哀しいものであったから、そんなものを現実の自分とのところへ持ち込みたくないというのもあるのかもしれない。わたしたちには、爆発はテレビの中の出来事で、たいがい空腹を知らない。数字の上では古くない昔の戦争は、遠い過去の悲劇で、「忘れてはならない」と千度語られているのに、当事者ではない人々がそうやすやすと語ってはいけないのではないか、という呪縛のようなものが心の奥底にあったのだと思う。もちろん、鉛の味も、原爆がもたらした壮絶なからだへの痛みも、どちらもわたしたちは知らないし、知る由もない。
こうの史代『夕凪の街 桜の国』を何年かぶりに開いた。わかっていてもあのモノローグで「おえおえ」と嗚咽する。映像も、どれだけ穿った見方してもきっと吐くように泣くだろうな。やさしいけど残酷で「つらい」という言葉で片づけられない、行間の凄み。宇多田ヒカルの楽曲と関係が…あったらいいな。
— 黑松茶荘 南京街店 (@PONKOTSUforever) July 31, 2018
何年かぶりに自宅の書棚にある、こうの史代『夕凪の街 桜の国』を手にした。いつ呼んでもこの本は「すさまじい」と本を手に取るその手に、紙に沁みるインクが伝ってきそうな錯覚を覚えてしまう。あまりにすさまじいので嗚咽が止まなくなってしまった。ふくれあがった顔が幼稚で乱暴な線で描かれていることが怖い。もっとも弱い私たちと変わらない人々だからこそ、日常に潜む原爆の影が身体を言空溜め続けるときのモノローグに身の毛がよだってしまう。わたしたちが遠い過去であることを理由に避けてきた感情に揺り動かされる。
十年経ったけど 原爆を落とした人はわたしを見て
「やった!またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?
ひどいなあ
てっきりわたしは 死なずにすんだ人 かと思ったのに
という言葉は呪いとして、読む者の心に雨が通りすぎて風がやんだあとの地面に残った黒い「しみ」のように残り続ける。
しかし、ただ苦しみを描いているだけでない。やわらかい描線で丹念に風俗を写し取り、「生きてはいけなかった」と思っていた人へ「しあわせになってもよい」と現在からやさしく手を差し伸べる。こんな救済があっても良いのだとわたしも思う。
本書が、「知らない」というだけで口を閉ざしてきたわたしたちを呪縛から解放してくれること、空腹に苦しんだことのない世代と記憶に痛みのすみずみが刻み込まれた世代とを、現在と過去とを強くつなぐ一本の強い糸であることを、筆者やほかの読者の方たち同様にわたしも祈っている。
以下は2004年の8月に記された、こうの史代さんによる「あとがき」より抜粋させていただきます。
貴方が豊かな人生を重ねるにつれ、この物語は激しい結末を与えられるのだと思います。そう描けていればいいと思います。
また「桜の国」では、原爆と聞けば逃げ回ってばかりだった二年前までのわたしがいちばん知りたかったことを、描こうとしました。自分にとってもそうであった、と気づいてくれる貴方にいつかこの作品が出逢い、桜のように強く優しく育てられることを、心から願ってやみません。
<おしまい>