ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

こうの史代×片渕須直×のん(a.k.a. 能年玲奈)『この世界の片隅に』+日曜劇場枠ドラマ版第1話

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「現在」音痴

「過去」や「未来」に気を取られているうちに、「現在」を見過ごしてしまうことが多々あります。というか日常がほぼそんな感じ。そこに「現在」のみずみずしい瞬間が転がっていても、きまっていつもみすみす逃がしてしまうんですね。

陳腐なたとえ話ですが、いつかの陽が斜めに差し込む時間帯のファミレスの窓辺でくだらないはなしに花を咲かせているときに、好き(正しくは、だった)な人が普段はしなかったようなアンニュイで物憂げな目付きをして頬杖をついていて、そのとき、「なんでこの人はこんなにも何もかもに飽きてしまったような表情をしているのだろう」とか、「もしかして自分がさっきの会話で何か気に障ることを話してしまったのか」とか、その表情の理由やそれまでのいきさつに気を取られてしまうし、そこからこのシチュエーションに至るあれこれに足りない脳みそで考えを巡らせ、考えた結果、何も起こっていないことが確認できた頃には、肝心の会話からワンテンポ遅れてしまう。思い返しても、彼女がどういう顔で何に目をやっていたか、判然と思いだせない。こういうときに、瞬間を切り取るシャッターが眼に埋まってたらいいのにとか、綺麗に風景ごと彼女を切り取るペンがあればいいのにとか、またまた陳腐なもしもに気づき思いを巡らせますが、時すでに遅し。いつも何か大切なことが過ぎてしまった後になってから、その瞬間の時間が放つ美しさを知る。

こんな調子なので、映画を見るときも、大概は一回ではぼんやりとした全体像しか記憶にとどまっていないんですね。みなさん、きっと記憶が優れていらっしゃると思いますので、こんなことはないでしょうが。「現在」に対する僕のセンサーは人よりいくらか壊れているのだろうか。

なにも「感動」したくて映画を見ているわけじゃない

近頃はあまりに「号泣」という言葉が使われすぎているのではないか。というのは、森博嗣のショート・エッセイ『つぼねのカトリーヌ』の第4項目にある主張なのですが、ごもっともだと思います。この中で、森氏は「ちょっと涙が流れたくらいで使うようになった」と斬りこみ、テレビバラエティ番組のタレントを例に「泣くことが恥ずかしいことだと感じない」ことを「下品」と断じています。ただただ首肯。他にも「傑作」や「感動」という言葉も同様で、日常的に目に触れすぎ、いささか重みに欠けるような印象があります。そして、森さんは「号泣」についての項を以下のように文章で結んでいます。

 いずれにしても、感動で号泣することはあり得ないだろう。そういう泣き方は、もっと恨めしさとか悔しさとか、圧倒的な悲しさだけにあるものだ。

  泣くなという話ではない。号泣するときは、自分一人だけのときにすれば良い。人に見せるものではない、ということである。そうしないと、「ああ、この人は、人前で号泣するような育ちの人か」と思われる。そのマイナスを考量してから号泣するようにしてもらいたい。これは、ドラマや映画やアニメなどでも、同じだと思う。作り手の文化を見ることができる。

  (森博嗣『つぼねのカトリーヌ』講談社文庫より)

「号泣」というものは、丹念で切実な描写の積み重ねにより初めて起こるもので、決して安易なものではなく、泣かせよう、感動させよう、という意図が丸見えの作りものには辟易してしまいます。こういう繊細なところに気遣える作り手が減ってきているのは、平積みされた本の帯文やコマーシャルとして挿入される宣伝をいくつか見ていれば、歴然です。

では「暮しの手帖」がなぜ泣けるのか

ただ、私はいつも『この世界の片隅に』を見ると、なぜ自分がこんなにもポロポロと涙を流しているのかが、まるでさっぱりわからなくなるのですね。

たしかに、冒頭の森博嗣が言うように、小さな力ではどうにもならない理不尽への「恨めしさとか悔しさ」であったり、ひとりの人間が背負うには重すぎる「圧倒的な悲しさ」であったり、やりきれないむなしさに涙する、というのは実際にあります。

わかりやすい箇所を挙げますと、たとえば、それまで表向きぼーっとしたまま、北條家に嫁いで生活を送っていた浦野すずのもとへ、海軍帰りの幼なじみ水原哲がふらり現れ、時を経てふたりきりで対面したときに、内側からそれまでの鬱憤と後悔がドバドバとめどなくあふれ出したシーンは、彼女が心の片隅で慕い続けてきたほのかな初恋がやっと明らかになり、胸がギュッと苦しくなります。すずさんが右手と共に晴美ちゃんを失ってしまい、自分を責め続けた果てに、配線を告げられたときのあのやりきれなさも辛い。初めて劇場で鑑賞した(満員のため立ち見)際も、中盤からは各所からズルズル鼻をすする音がやみませんでした。

しかし、そういったわかりやすい「感動」や「号泣」のポイントとは、まったく別のところで、泣かせるのがこの作品の凄みなんですね。それは、日常のほんの些細な、炊きあがった白米の粒の立ち方であったり、青い海に走る白波であったり、食卓を照らす灯りだったり、至る所にある当たり前すぎて見過ごしてしまう一瞬に潜んでいます。本作、思い切った編集をしていて、不要なところは思い切って捨て去る、一般的な「わかりやすさ」とはちょっとかけ離れた、こちらの想像力で内容を補填することが求められる構成になっています。そのおかげで、タペストリー(和服を継ぎ合わせたもんぺのように、という比喩の方が適切ですかね)のように繋ぎ合わされた、綿々と紡がれた日常の暮らしの一幕たちが、とてもイキイキとしているんですね。

「日々を淡々と生きることは素晴らしいのです」「生きているだけで幸せなのです」こんなありきたりなことは、わざわざ言われるまでもありませんし、言葉にすると、あまりにチープで嘘くさく、逆に難しいこった表現を使うとまどろっこしくなります。意外とこれが至難のものなのですね*1

生活への、「現在」への、鋭いセンサー

この世界の片隅に』で、すずさん*2は、周囲から「ボーっとしてる」性格だと評されています。それは単に彼女がおっとりしているからというだけではなく、常に生活に転がっている「現在」にしか瞳の中に入ってこないからなんですね。空想が豊かで、絵を描くのが上手いため、「現在」へのセンサーがピンと何本も立っているんだと思います。「現在」を大きな澄んだ瞳で見つめ、軽やかに「現在」を自分の中で咀嚼し、真横を通り過ぎる「時間」に目がいかない。で、ここでキャラメルってそういうことだったのか、と気づいたりします。あれはなかなか丹念に味わわなくてはなりませんし、口内にしつこいくらいに甘ったるさが残ります。普通の人ならやり過ごす(便利なことに忘れる機能があるので)ような「現在」を、輪郭の線の一つ一つという細かい単位から見ているんですね。すずが絵を描く場面は、劇中ではさわり程度に端的にしか描かれていないが、それを補う、こうの史代片渕須直の生活に忠実な眼差し。細切れの、ほんの一瞬の、でも絶対に欠かすことのできない、そこにしかない「現在」を確実な描写のひとつひとつが、すずの代弁者となっていくんですね。

段々と戦争が日常に影を落とし、否応なく周りの「時間」が早まっていっても、すずさんは「現在」を捉えようと、懸命に(見た目はホンワカ)生活をペン代わりに乗り越えていこうとします。しかし、そんな努力も空しく自分と「現在」とを繋ぎとめていた想像の翼の象徴でもある右腕を、幼子と共に失ってしまいます。ある日突然、それまで自分と世界をかろうじて繋ぎとめていた、確かな一本の糸がプツンと切られてしまう。義理の姉を亡くした自責の念から、それまで自分を素通りしていっていた「過去」が彼女を襲い、見てこなかった《もしも》が降りかかってくる。それまでは、ヘラヘラと過ごしていたのが、一気にモノローグが増え、普通の映画だとかなり過剰な語りだと思われますし、前半とのトーンがまるっきり変わってくるのですが、このぎゃぷにまた胸を痛めてしまう。こんなに悲しくてやりきれない、いっそのこと死んだ方がマシとまで思わせるような目に遭っても、それでもなんとか生きていかない、生かされたものは生きぬことが死者への供養である、というのが、この作品の優しいところでもあり、シビアなところでもあり、救済といえるものなのかもしれません。たとえ、右腕を失っても、日常は続いていく。文字にするだけで普通すぎますが、この普通ほど保つのが難しいことはない。だから、生活の明かりがともるだけで泣けてくる。

悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない、あの限りないむなしさを、「生活」にすがることで、乗り越えてきたすずの「暮しの手帖」は、これからも救いになるのだと祈っています。

<おしまい>

追記 7/5>

www.tbs.co.jp

どうやら、この原稿を書いている現在(2018年7月5日)にこの漫画・アニメが実写ドラマとして、制作されることを知りました。脚本・岡田恵正、音楽・久石譲、という気合の入りっぷりで、期待は持てますが、どうやら尺の都合なのか(こういうときに便宜を図って5話くらいに絞るとかすればいいのに、民法ってイマイチこういう融通が利かない印象がある)、現代パートなるものが挿まれるようで、一抹の不安が過ってしまいます。まあ既に各所で指摘のある通り、某作家原作の戦争映画の記憶が嫌でも呼び覚まされるわけですが、どうなることやら。

そういや二階堂ふみって『西郷どん』にも出ていましたよね。日曜引っ張りだこですねえ。

追記 7/16> 

第1話のドラマ版を拝見いたしましたが、そこまで悪くはないようでしたが、どうしても実写の限界(豪華な制作陣とセットの完成度からすれば、そりゃやたら同じ海の場面ばかりにもなるよなあ、という)というものがちらちら窺えなくもないかな。ただ『ひよっこ』ファンとして贔屓に見続けようかな、ぐらいの面白さはあったと思います。まだ判断はできないんですが、懸念されていた現代パートの主人公である榮倉奈々を、漫画に影響をされて舞台に移住するという『激レアさん連れてきた』枠なエキセントリックな女性(と古舘祐太郎のアホそうな彼氏)にしたのはよかったんじゃないでしょうか。

松本穂香はすごくアニメみたいな顔立ちですよね。あるときは田舎臭い芋な子に見えるし、あるときはものすごく可愛く見えるし、またあるときは色っぽさもある。演技でやってるのか、はたまた地なのか、天然に見える計算ずくなのか。まったく読めないトロ臭さは『溺れるナイフ』の小松菜奈を彷彿とさせました。不思議な女優さんです。竹内結子以外で誰かに似ているなと思ったら、『シェイプ・オブ・ウォーター』のサリー・ホーキンスですね。向こうがディズニーアニメーションなら、こっちは日本アニメ顔です(ひねりなし)。

松坂桃李広島弁は板についていましたね。凄く達者。ドロンズ石本さんは地元なのでそりゃうまいですが、松坂君は器用にこなしますよね。て、よく考えたら、『虎狼の血』で広島弁喋りまくってました。それにしても、桃李君のルックスは、周作さんと瓜二つです(ただ役どころ仕方ないですが、村上虹郎くんよりも松坂のが身体検査パスしそうなのは若干のキャストミス。しかし、これは前述の通り、周作は彼しかいないというハマりぶりなので、良しとする)。 

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<おしまい>

 

 

*1:誰でもわかる平易な言葉で、真理をブサリと貫くことに成功している日本の詩人は、宮沢賢治谷川俊太郎くらいしかいないと思っています

*2:今となっては、この役が能年玲奈以外じゃ考えられない