白石和彌『孤狼の血』
ローン・ウルフの掟
現世の快楽を極めつくし、もうこの世に生甲斐を見出せなくなった「時」が来たら、後はただ冷ややかに人生の杯を唇から離し、心臓に一発打ち込んで、生まれてきた虚無の中に帰っていくだけだ。
彼にとって、快楽とは何も酒池肉林のみを意味するものでなかった。キャンパスに絵の具を叩きつけるのも肉体的快楽であり得たし、毛布と一握りの塩とタバコと銃を持って、狙った獲物を追って骨まで凍る荒野を、何カ月も跋渉することだって、彼には無上の快楽となり得た。
快楽とは、生命の充実感でなくして何であろうか。
平成生まれのぬくぬくのゆとり教育で成長した温室ハウス野菜世代なので、がに股でオラつく輩、というのは夏祭りでいきがった(いきる、というのは関西弁のニュアンスです)チンピラ風情や兵庫県某市内に用事があって下りたときに見かける程度で、モノホンのヤンキーですら絶滅危惧種。そんな自分にとって、ましてや東映実録ヤクザ映画に出てくる広島弁の大人というのはフィクションというかファンタジーのような存在だった。特に初めて見た『県警対組織暴力』の菅原文太にはカルチャーショックのような衝撃を受け、そのあと続けざまに任侠モノやトラック野郎シリーズを見たほどだ。
なるほど。ふむふむ。たしかに自分の孫にこれにはなってほしくなったのだろう。
しかし、そこには祖母が「おっかない」と評した人とは違う別の熱量があった(ちなみに祖母の名誉のために添えておくと決して教育熱心な厳しい鬼婆というわけでもなく、たまたまその時に影響された新聞や書籍なりに感化されたものをそのまま受け売りで私に言っていたのだと思う。そういう人である)。あの「世界」の人間には、生きるためにしたたかな太い幹があった。「しぶとい」と表現してもいいのかもしれない。狡猾で、不屈の精神。
今同じものがソックリ現実に表出しても、それは嘘っぱちの虚勢で、心惹かれるものはないだろうから、アレは完全に時代と同居した精神性なのだろうが、10代の若者が心酔してしまうのには十分な魅力があった。
そういった過激で、でも熱がある暴力的な映画が好きなので、特にここ10年の韓国映画は大変に羨ましかった。どれもエンターテインメントとして1級品でありながら、鋭い社会批評性を持ち、同時に商業的にも大きな成功を収めている。
日本でもそうしたジャンルの映画がないワケではないが、海を隔てた国と比べると今一つ元気がない。巷で言われる「邦画がつまらない」ということには完全には首肯しかねるが、映画を囲う政治的な状況を差し引いても、すぐれた作品こそあるものの日本のそれは他のアジア圏に比べ覇気がないというのは正直なところ。まだ規制等で世界には出ていないものの、このままでは韓国ノワールが世界を席巻するのもあっちゅうまである。
そんな少し渇きすら忘れたヘニャチンな状況が慢性化してきたこのご時世にバイアグラのごとく現れた(ブッ込まれた)映画が『孤狼の血』である。
私たちの世界は暴力によって成り立ち、暴力によって生かされてきた。暴力を知ることは世界の側面を理解することに不可欠だ。暴力と向き合えることができる作家がいなくなってしまったのか。そんな現状を憂い「映画じゃけえ、何やっても許されるんじゃ!」と激しく中指を突き立てた漢こそ『ロストパラダイス・イン・トーキョー』『凶悪』の白石和彌。深作欣二、中島貞夫、五社英雄、といった数々の巨匠たちが築き上げてきたジャパニーズ・ノワール・ムービーのDNAを継承しながら、北野武やコリアン・ヴァイオレンスのエッセンスを注入し、若松孝二の「眼」を持ちつつ、暴力性の純度を練り上げ、今の日本の空気をピリッと引き締める、という白石和彌監督だからこそできる力技*1である。猛猛しくいながら、緻密に計算された1作だ。原作は黒川博行の系譜を継ぐ柚月裕子の小説で以前に読了していたが、ただでさえハードボイルドで肉厚なこちらを更に凌駕する熱量でスクリーンに描出されたときの衝撃はこれからも消えないだろう。
時代に一度敗けた男たちがもう一度最後の悪あがきを線と命を燃やす煌めきに見惚れ、本能的な暴力の衝動と反骨精神の継承に哭く。
会心の一作。
おしまい