マイケル・ジャクソン症候群に陥らないために 星野源『そして生活はつづく』→『おげんさんといっしょ』
「あなた」と「わたし」でひとつにはなれない
(星野源『アイデア』についての稿で書き損じてたところを補う形での追記のような文章になります)
ひとりの集合体で集団や組織は形成される。どんなに結束力の強い手段でも、顔も、声も、考え方ひとつとっても全部違う。(中略)どんなに愛し合ってる男女も、ひとつになることは決してできない。どう頑張っても「ふたつ」もしくは「ふたり」だ。
本当に優秀な集団というのは、おそらく「ひとつでいることを持続させることができる」人たちよりも、「全員が違うことを考えながら持続できる」人たちのことを言うんじゃないだろうか。
(星野源『そして生活はつづく(文春文庫)』内「ひとりはつづく」より抜粋)
アーティストが肉声を絞り綴った回顧録であり、一曲でEPはおろかベストアルバムくらいの分量の情報を処理しきった、Jポップ史に残る(大袈裟でもなく)革新的な『アイデア』によって、星野源が以前から画策していたであろう歌謡界の碑石に名を刻む目論見は成功した。前回の稿にも記したように、彼は名実ともに、新たな日本歌謡界の新しい父親・母親になったわけである。
ただ、『アイデア』だけでは欠けているところがあったのではないか、と想像する。この曲を出すだけでは彼はまだ「ひとり」のままなのであって、ソロのツアーやフェスとは違う、もっと手軽なところで爆発的に広く音楽を共有する場が必要であった。彼が好きだったラジオでは、ラジペディアに続いて、不定期の放送を経てオールナイトニッポンのレギュラーの座を得たが、ラジオはあくまでニッチ(もちろんそれがいいのだけれども)なメディアである。
ここからはよりわたしの空想が混じることになるが、星野源は「ひと」があつまっても「ひとつ」にはなれない、という諦観と共に、「ひとり」であることに対し、奥底で恐怖を抱いていたはずである。というのも、彼はマイケル・ジャクソンを敬愛していることを度々公言し、頻繁にMJのエッセンスを自分の楽曲群に忍ばせてきたが、自身がスター街道をつっぱしていくにつれ、「マイケル・ジャクソン症候群*1」に陥るかもしれない酷く恐れていたはずなのだ*2。
上にも引用した『そして生活はつづく』に、幼少から慕ってきたスターの訃報に触れ、このようなことを書いている。
「うわーひとりじゃなかった」と思う日が、来たりするのだろうか。
(中略)
今日、マイケル・ジャクソンが亡くなった。
そのことを知ったときに異常にショックを受けてしまい、有名人の死で初めて涙が出た。なぜそこまで好きだったのかというと、もちろん歌や踊りが素晴らしいという部分もあるけど、あんなにたくさんの人から愛されているのにもかかわらず、生涯を通して、とても孤独そうな人だったからだ。
死ぬ間際、彼はひとりだったのだろうか。それとも、そうではないと感じながら逝けたのだろうか。小さい頃から、埼玉県の片田舎で勝手にシンパシーを感じていた私は、そこが気になって仕方がない。
あと少しで死んでしまうというとき、走馬灯のように人生を振り返って「ああ、ひとりじゃなかったんだ」と思えたら、きっとすごく幸せなんだろう。けどもし自分がひとりでないなら、なるべく早めに気づきたいとも思う。
いつかくるかもしれないし、死ぬまでこないかもしれないその日まで、私はいつものようにひとりきりでいるだろう。
あのテレビで「どぉもぉ~ほぉしのげんでぇぇぇすぅ!」と手をパーに広げフリフリしているお姿とはとても被りそうにない、なんとも寂しい文章であるが、まあこれは2018年から約10年ほど昔に書かれた文章だし、『ばかのうた』も発売されていない頃であるから、当然といえば当然である。自分が「ひとりじゃなかった」と今わの際に思うために、彼は暗い自分とは真逆のアクションを起こして自分の殻を破っていった。とてもわたしにはマネできそうにない*3。
しかし、それだけではまだ足りない。足りないから、音楽を作るための装置としてのバンドとはまた異なる新たな「家族」をこしらえなくてはならなかったのだと思う。
そしてようやく『おげんさんといっしょ』。SNS上でもとんでもない盛り上がりを見せ、紅白歌合戦よりも瞬間最高視聴率を取ってたのではないだろうか*4。
おげんさんといっしょ、ここしばらくのテレビでの藤井隆の扱いに不満だったわたしも大満足のポテンシャルを活かしまくったナンダカンダ最高でした
— 黑松茶荘 南京街店 (@PONKOTSUforever) 2018年8月20日
星野源、宮野真守の目の前で「時代が違えば笑っていいともに出てた」とまでベタ誉めしてたし、雅マモルをどうしてもおげんさんでやりたかったんだろうなぁhttps://t.co/iN45Xi95AS
— 黑松茶荘 南京街店 (@PONKOTSUforever) 2018年8月20日
おげんさんといっしょでMPCをポコポコやってた青年は誰なんだ。という方はこの素晴らしくグルーヴィな動画を見ていただきたいものです(STUTSくん、星野源に呼ばれるとは出世したね)https://t.co/URdOeRY3rH
— 黑松茶荘 南京街店 (@PONKOTSUforever) 2018年8月20日
彼にとっては気心の知れる友達程度の人々が、フラッとアットホームな雰囲気のスタジオに現れるコンセプトらしいが、メンツを見ると、まるで星野源が数十年前から日本のエンターテイメントの中心核にいたか(実際これからそうなっていきそうだが)のようである。2017年の放送には旧知の仲である細野晴臣が参加。ミュージカル界から高畑充希。ラジオで「この人は地代が違えば『笑っていいとも』でレギュラーにいた人」とまでベタ褒めした宮野真守には、以前から星野源お気に入りの「雅マモル」なるキャラクターで視聴者を沸かせた*5。ラジオでも取り上げていた庭師の三浦大知は、MVでのコラボの延長で、ミニマルな空間でのダンスパフォーマンスを披露。少ないカメラの動きにより、シンプルな踊りという表現の魅力が伝わる実によくできたプロモーションであった。
何よりも、最高だったのが『逃げ恥』からの縁でANN*6でも共演していた藤井隆による『ナンダカンダ』*7。おそらくは星野源もそうだっただろうが、めちゃイケ世代(またはあらびき団ファン)としては、藤井隆がテレビであの瞳孔が開き切った所謂「ゾーン」に入った状態をフルで地上波のゴールデンタイムで見せられていないということに若干の不満があった*8。いくら、tofubeatsコラボによって改めて彼の潜在能力の高さを再確認したとはいっても、それは音楽に親しんでいる人々の間で起こったムーヴメントであって、まだまだ足りていない。あの『春琴抄』のようなサイコっぷり*9を地上波で目にかかりたい…そんなわたしのような人間の願いが叶ったかのような藤井隆・オンステージで思わず拍手してしまったのだ。夢のようにキラキラした時間でした*10。
最後の『アイデア』も、MVでの場面転換をどう表現するか、非常に気になるところだったが、実にクレバーで改めて今作が集大成であり野心作であることを知らしめられた。いくらでも遊び甲斐のある良いおもちゃを手にしたんじゃないでしょうか、星野さん。
初回もかなり実験的な番組で楽しませてもらったが、第2回はよりパワーアップし、各演者の長所を存分に引き出した、実に素晴らしい構成でした。
巷では『友だち幻想』という本が話題となっているらしく(自分も拝読させていただきました)、広く読み直されている機会を得たようである。SNS疲れという言葉も目にすることもしばしばで、「ひとつ」になることへの抵抗が可視化されてきているのだろう。そういった「ひとり」であることへの漠然とした不安感を星野源はうまい具合に察知しすくいあげている気がする。決してノスタルジックな「あの頃は良かった」という手垢のついたテレビバラエティの手法にのめりこむことなく、自分があくまでコンポーザーとして茶の間の中心にちょこんと居座り、テレビの前の「ひとり」を窮屈な幻想から解き放つ本物のテレビマジックは、きっと「ひとり」でああった画面の中のマイケル・ジャクソンに焦がれてきた、根っからのテレビっ子であった彼が一番やりたかったことなのであろう。元・テレビっ子のわたしは、そんな姿が見れて純粋にうれしいのである。
全員が違うことを考えていても、許容されるのが「家族」なのである。
『おげんさん』といっしょに、わたしたちの生活もつづいていく。
<追記>
星野源がモロにテクノをやってる楽曲とかあまりなかったな、とか思ったけど、彼が数少ないフィーチャリングで歌唱した宮内優里『読書』があった。
あと第三弾以降の『おげんさん』、是非ともtofubeats氏には出てほしいし、ハマケンとの共演とか向井秀徳とかでもいいし、男率高いからPerfumeなんか最適ではないでしょうか。山下達郎をNHKのあの時間帯に引っ張り出せたら大したもんだと思います。
tofubeats - ディスコの神様 feat.藤井隆(official MV)
<おしまい>
*1:急場でこしらえた造語です
*2:そもそも今でこそ「ニセ明」という名前で通っている、あの出オチ感の強いキャラクターも「ホシケルジャクソン」という、これまた出オチ感がプンプン漂う名前がついていたと記憶している
*3:だからってサブカル女子や「人見知り」をぶった斬っていいかというとそうじゃないとわたしは思いますよ。ハイ。
*4:星野源の女装がそこら辺の女性よりかわいくて困る。あんな人いるよね
*5:際どいデニム短パンでアイドルダンスを踊る宮野真守の横で小刻みにステップを踏む星野源と長岡亮介の息が妙に合っていて、悔しいがくすくす笑ってしまった
*6:カラオケ企画、超好き
*7:タマフルリスナー・スーパースケベタイムの名を思い出さずにはいられない
*9:動画サイトで検索したら多分ある
*10:ブンブン髪を振り回して完全にモードに入った藤井隆の呼吸に、瞬時に合わせて即興ミュージカルを展開させた鍵盤ハーモニカの石橋英子、やっぱりすごかった。前野健太『サクラ』も素敵なアルバムでした
蘇える変態は喪服でダンスを踊る 星野源『アイデア』
「おはよう」と「さよなら」、そして日常はつづく
「ラテン文化*1の流れそのものが、レンゲの花のようなもので、私にわかりますのは日本的情緒―たとえばスミレの花のようなものだけなのです」と岡は言う。
レンゲとスミレの優劣を云々するのではない。レンゲにはレンゲの咲き方があり、スミレにはスミレの佇まいがある。ただスミレになるべき種子は、ただスミレとして目一杯咲くよりほかないのである。
星野源という男は、なんとも腹が立つ男である。
全身からチャームが発光し、今となってはキラキラしすぎて実像なんか見えてないんじゃないかと訝るほどである。
はじめて彼の歌を聴いたのは、ちょうど『ばかのうた』がリリースされたころ。それまでもちらちらSAKEROCKというバンド名は目にして音源も耳にしていたが、しっかりと聴いてはこなかった。ただ「えらい自虐的なタイトルやな」と手に取ってみると、これがまたなんとも暗い。
いつかなにも 覚えていなくなるように
今の気持ちも 忘れてしまうのかな きっと
腐った身体だけを残して
(『キッチン』より)
ヴィレヴァン*3でやたら取り上げられているとだけあって、なんとも文化系女子好みしそうな歌声とヴィジュアル。普通なら「こういうサブカルっぽいがウケたのね」で流してしまうところだが、しかしとてつもなく心惹かれる仄暗さ(記憶がずれているかもですが、ここらへんからバナナムーンGOLDの日村さんの誕生日企画が始まっていってたような)。
つづく『エピソード』は、『ばかのうた』の細野晴臣ソロのような歌唱から、後々彼が明言するようになったディアンジェロっぽい黒さを和風に折衷した聴き馴染みの良いポップスに仕上がっており、これにもまたやられ繰り返し聴いた。
枯れてゆくまで 息切れるまで
鼓動止まるまで 続けこの汗
我は行くまで 幕降りるまで
繰り返すまで ゆらゆらゆら
(『湯気』より)
いってらっしゃいが 今日も言えなかったな
帰ってこなかったら どうしよう
おはようが 今日も言えなかったから
おかえりなさいは いつもの二倍よ
(『布団』より)
決して歌がうまいとは言えないが、切実で、吐き出すような弾き語りに乗せたこうした言葉は、当時浮き沈みの激しかったわたしの心に寄り添ってくれるような気がして、当時iPodでのアルバムの再生回数は3ケタに届く勢いだった。はっぴいえんど、ナンバガ、と通ってきた人間にはこんなに恰好の音楽はなかったわけである。
ここからじわじわと人気が出始め、露出も増え始める。元々自身曰く「ワーカホリック」であったそうだから、雑誌の連載に役社業に、音楽活動とてんてこ舞いの日々であっただろう*4し、時間は前後するが化粧品のタイアップもこなしているので心労はただならぬものであったはず。そんな中での『Stranger』は全2作から考えれば狂気の沙汰しか思えないポップへの執念に全身から溺れるようで、一曲目である『化物』をタワーレコードで視聴した際はぞわりと鳥肌が皮膚に走ったのを今でも生々しく覚えている。
今はこの声は届かず 未だ叶わぬ体中がもがく
思い描くものになりたいと願えば
地獄の底から次の僕が這いあがるぜ
(『化物』より)
夢の外へ連れてって 頭の中から世界へ
見下ろす町を 歩きだせ
(『夢の外へ』より)
どうせなら 嘘の話をしよう
苦い結末でも笑いながら そう 作るものだろう
どんなことも 消えない小さな痛みも
雲の上で 笑って観られるように
どうせなら作れ作れ
目の前の景色を そうだろ
(『フィルム』より)
そして彼は『化物』を録り終えると、くも膜下出血で倒れるという歌詞になぞらえるような皮肉さえも感じるが、そこからは『蘇える変態』に書かれているような筆舌に尽くしがたいであろう苦難の闘病生活の末、世間の皆さんもご存知の復活劇を遂げる。夏帆との共演や園子温の映画(つまらない作品の多い中では比較的マシな部類であった同名タイトル作品)への出演と並行し、『地獄でなぜ悪い』『Crazy Crazy/桜の森』を発表。病床に臥して以降の彼の音楽性はおおよそここでがっしり地盤が固まっていっていったように思えるし、現実そうである。死の境界を本当に目の当たりにした人間だからこそ、ポップスとしての強度が築けたのだろう。表には出さないが、音楽の未来を背負っていこうという気負いがここからは尋常ではない。これまでも大量の音楽を摂取してきた彼だからこそ「ディアンジェロっぽさを目指してみました。てへ♡」なんて軽く舌を出してやってもまったく嫌味もなく、とにかく音楽に対し真摯で敬虔で謙虚。しかし、豪胆で遠慮がない。大衆向けにマニアックな部分をチューニングしていきながら、きちんとフェティッシュなところは残して、美味しさは損なわない。敬愛するクレイジーキャッツ、桑田佳祐やユニコーンといった先達が持ち合わせてきた大衆性と遊び心も、この人はきちんと解している。『桜の森』の文学性なんかは実にエロティックな文学性が結構で、50年聴き継がれるようなクラシカルな装いが心憎い。ここ以降の彼の躍進が凄まじいのは、単にニッチなところに走らずきちんとJポップにしあげるだけでなく、時流もきちんと読んだ上で、思い浮かんだアイデアを試行錯誤し世間に向けて発信していく、提案するスタンスを常に保ってきたところが大きいのだろう。
作りもので悪いか 目の前を染めて広がる
動けない場所からいつか 明日を掴んで立つ
(『地獄でなぜ悪い』より)
お早う始めよう 一秒前は死んだ
無常の世界で やりたいことはなんだ
愛しいものは 雲の上さ
意味も闇もない夢を見せて
(『Crazy Crazy』より)
あの薄暗い居間でひっそり歌ってそうな弾き語りはどこへやら。さらりと方向転換に成功し、時流を捉えたポップソングスは瞬く間にヒット。もともと彼が兼ね備えていた人当たりの良さと、聴き馴染みのあるマイケル・ジャクソン系統のポップネスが炸裂する『SUN』はスマッシュヒット。まさか「ひ~む~ら近寄る~な~」というバナナマン日村への誕生日ソングが、こんなセンス抜群のディスコ歌謡に生まれ変わるとは予想できるはずもなく、ラジオリスナーは揃ってニタニタしていたと思う。自分もその一人だ。
君の声を聞かせて
雲を避け世界を照らすような
君の声を聞かせて
遠い所も 雨の中も
すべては思い通り
(『SUN』より)
しかし、この時期からわたしはこのヒットソングに現を抜かすと同時に、星野源という男に嫉妬心をぎらつあせるようになっていく。なんとこの男、売れだすとaikoから二階堂ふみの鞍替えしたのである。なんともふざけた話だ。恥を知れ恥を。信憑性とか内輪の事情とかどうでもいいけど、aikoのファンとしては見逃せぬ悪行。許すまじと憤怒したのも記憶に新しい(今は新垣結衣らしいじゃないですか、え?)。ここからわたしは星野源へのひねくれた歪んだ愛憎をたぎらせていくことになる(ひとり勝手に)。
というのも、近年は「人見知りであると宣言して始めるようなコミュニケーションは恥ずべきだ(だいぶ語弊のある書き方だが概ねこんな論旨だろう)」などと宣いやがっているのだ。あれだけサブカル女子(ヴィレヴァンに通ってそうな文科系女子)を露骨なくらいにターゲットにしていたのに。あんなに「いやいや、全然自分はモテてなんかいませんって」とかいってたじゃん。あなたあんだけ自虐とサブカル女子へのアピールで銭稼いで飯を食ってきたじゃない。仰ってること自体は身も蓋もない正論だが、「僕、ちょっとコミュ障なんすよね、えへへ」とはじまるコミュニケーションもあったっていいじゃないか。そもそもお前がそうなんじゃねえのか。「スタバで"グランデ"」と頼むだけで葛藤してはりましたやん。何もそんな真っ向から否定することないですやん。とここらで私は再び怒りをあらわにするのだが、ジェントルマンらしくは矛を収めておくとする。だって、いちどでなく二度も死にかけたお人の意見である。むげにできないもの。それがまた癪に障る。
そうやって腹を立て始めると「よく見たら全然カッコよくないもんね(でも、かわいいよ源ちゃん)」と複雑な感情になり、新垣結衣と共演という知らせをスマホで見たときは(特にガッキーに異性として惹かれたことはないのに)、本気でスマホを床に叩きつけるか思案した。テレビに出るといっちょまえにコメディアンのように振る舞ってるし、それがまたチャーミングでちょっと面白かったりするから、また「キーッ」と癇癪玉を暴発させ手元のハンカチを噛み締めることになる。こちらも中々か大変なのだよ。どうしてくれるのだ星野君。
と、一旦ここまでサゲたならもう当然のことながらあとは誉めまくらねばならない。誉めまくらないと多分どこかしらから怒られる。なので褒めちぎっていく。このまま未練たらしい女を演じるのもいやよあたし。本当は『恋』『Family Song』も振り返りたいが、変にサゲの方の筆が強まってしまったので、割愛させていただく(もうみんな散々聴いてるっしょ)。
まず、通して『アイデア』を一聴した感想は「なんてクレバーで味わい深い一曲なのか」というところ。出音でわくわくさせるというSAKEROCKの頃から一貫してきたあった推進力のある性急なビートに、『恋』『Family Song』『ドラえもん』というタイアップ職人としてのキャリアを生かしたパブリックイメージを逆手に取った複雑な構成。天下のNHK朝ドラ(『半分、青い』はつまんないけど)を自分の手品のトリックに使って見せる大胆さはもはや策士。.垢ぬけた「星野源印」という形容が通じそうな聞き覚えのある疾走感あふれるポップソングから一転、2番でSTUTSが奏でるビートと三浦大知の演出による踊り、という日本のエンターテイメントの最先端同士が聴覚と視覚で共鳴し交錯して、リリックもそれに合わせてフランク・オーシャンのように内省的になり、そのまま弾き語りに流れ込み、ブレイクを挟んで逆再生するような映像と優美なストリングスとが絡んで、うねりをあげてクライマックスのまま駆けていく。そのまま疾走感に乗せて、まんまと泣かされる。ずるい。
ただ突拍子もないことをやるだけじゃなく、自身のディスコグラフィを統括した流れを6分ほどの楽曲・映像に詰め込む手腕には、肩に力が入っておらず微塵も暑苦しさを感じさせずクールだ。新しいところから、ミニマムあところへ落ち着くさまはダフト・パンク『RAM』のようであるが、今回は一曲でアレを成立させてしまっているので、数枚上手かもしれない。なんともすさまじい構成力(ドラムスがうちっこみっぽい音からラストでナマっぽい叩き方になっているのも実に結構)だ。映像があって初めて成立する、というのも昨今のポップスの潮流も大きく反映させながら、「虚構と現実とさらにその手前にある虚構」を提示してみせ、リスナーをクリエイションの奥深い森へ誘い込んでいく。しかし、これだけ複雑な入れ子構造でも、一曲としての求心力は少しも損なっていない。ハッキリ断言してしまうと、この新たに”提案”された『アイデア』はJポップを総括し、これから家事を取っていく星野源スタイルポップスの一つの到達点であるとみていい。毎回新作の度に「Jポップの基準・スタンダード」を上塗りしてきた男は一つも二つも違う。なによりも熱心なラジオヘビーリスナーであり、ピュアなミュージックフ・ファンであった男が、ここまで溢れんばかりのクリエイションへの愛情を恥ずかしげもなく漏らしているのは泣けるではないか。
それに忘れてはならないのが、「湯気」「おはよう」「生活」「虚構」「ひとり/マイノリティ」「さよなら=死」といった上に挙げた歌詞にもひそめていた、星野源が頻繁に使用しているモチーフと生活へのやさしいまなざしがスパイスのようにちりばめられている、というところ。
おはよう 世の中
夢を連れて繰り返した 湯気には生活のメロディ
独りで泣く声も 喉の下の叫び声も
すべては笑われる景色
つづく日々の道の先を 塞ぐ陰にアイデアを
雨の音で君と歌おう 音が止まる日まで
一度死にかけ復活するだけに飽き足らず、不死鳥の如く名前のとおりにスターとなった男・星野源が、もう一度自分の人生を回顧し、そしてまた通過儀礼として喪に服し、今度は自らまた生と死のはざまへ飛び込み、現実と虚構のまんなかで踊り狂い、聞き手の方へ手を差し伸べる。
エッセイ『働く男』でもフェイバリットに挙げていた『ブルース・ブラザーズ』のジョン・ベルーシとダン・エイクロイドも、彼が影響を受けたイデビアン・クルーも、喪服を着て踊っているし、伊丹十三の好きな作品に『お葬式』を挙げるほどだから、決して彼が軽はずみに思いつきで「死の再現」をやっているのではないということは、聡いリスナーならとっくに承知済みであろう。あともっと古参のリスナーならば、一着しか持っていない喪服のスーツを着て、コンビニまで小踊りして買い出しに行っていた『そして生活はつづく』のエピソードなんかも思いだして、相好を崩すかもしれない*5。おふざけで死を演じてみせているわけではないのだ。
さて、公約通りここまで褒めちぎっておいてアレだが、やはり気に食わないところもあるのが正直なところ。今までは「いい曲だけど歌はそこまでだよね。味があるけど」とお茶を濁してこられた歌唱力も、きっと度重なるフェスやライヴ(休んでんの?)で鍛えられたのであろう、非常に高音域に伸びが出て『Family song』では、まるでアル・グリーンといえば大袈裟だが、聴いていて心地の良いソウルフルを醸し出しているのだ。なんともまたいけ好かないではないか。どうして可愛い上に色気まで兼ね備えちゃってんのよ。あざといよなあ。まったく。
星野源という才能は、チャーミングで複雑なゆえに、まったく癪に障るのである。
三浦大知~STUTSという日本の最先端エンターテイメントを総括し、Jポップの新たな父になろうとする、星野源のクラシカルでしかし革新的な到達点的な『アイデア』。もう嫉妬しかないです。https://t.co/5A2ScEDJdZ
— 黑松茶荘 南京街店 (@PONKOTSUforever) 2018年8月20日
The Blues Brothers (1980) - Everybody Needs Somebody to Love Scene (6/9) | Movieclips
Aretha Franklin - Think (feat. The Blues Brothers) - 1080p Full HD
三浦大知 (Daichi Miura) / Cry & Fight -Music Video- from "BEST" (2018/3/7 ON SALE)
STUTS - Sail Away feat. Alfred Beach Sandal (BLACK FILE exclusive MV “NEIGHBORHOOD”)
SAKEROCK / Emerald Music [Music Video & Best Album Trailer] サケロック / エメラルドミュージック
<おしまい>
*2:文脈を無視して「岡潔」をむやみに引用してしまうのはかなり危ういのですが、最近読んだこの箇所と星野さんの掲げる「イエロー・ミュージック」という折衷案がバチッとはまったので、切り取って引用させてもらいました。自分もかなり岡潔先生に刺激を受けた人間なので広く読まれてほしいと思う一方、岡潔はあくまで岡潔でしかなく、彼の言葉を一言一句(小林秀雄との対談で神風礼賛してしまってるところとかはわたしでも普通にドン引いたし)現代にトレスし、すべてを鵜呑みに心酔すると、エライ目を見ることになるので、森田先生の手により上手く編纂された『数学する人生(新潮社)』を手に取っていただき、あとがきまでキチンと読まれることを推奨します。近年稀に見る名著です。決して名文家でもないですが、不器用な語りで芭蕉や情緒について「わかる」感覚を明文化しようとするさまには心打たれました。
*3:この前何年かぶりに入店しましたが、ずいぶん凡庸なお店になっていたな、となんか妙なガッカリ感を覚えてしまいました
*4:サカナクション山口一郎、べボべ小出祐介、そしてハマオカモト、という4人で「サケノサカナ」復活させてくんないかなあ
*5:あと葬式といえば同じく『そして生活はつづく』にあった、葬式に早く着きすぎて喪服のまま汗だくでカレーを食って、参列した葬式で人の目も憚らず寿司をバクバク食った後に、性感マッサージを受けさらにラーメンまで平らげたという、おそらくは皆川猿時であろう俳優のエピソードがおそろしく最低でくだらなさすぎて大好きです
西川美和『永い言い訳』
自分を大事に思ってくれる人を、簡単に手放しちゃいけない。
みくびったり、おとしめたりしちゃいけない。
そうしないと愛していい人が誰もいない人生になる。
梅田のグランフロント大阪で本を立ち読み(は体質的にできないので、正しくはただ本を眺めて、ななめ読みする程度)をして検分していると、新刊書の案内が耳に入ってきた。この書店では、著者本人による自著のプロモーションが時折流れてくる。いま耳に入ってきたのはコラムニストのジェーン・スーさんの宣伝。「あなたは自分の父親の友人を3人挙げることができますか?」という問いかけから始まる、なかなか興味の惹かれる導入で、ついつい手に取っていた本を棚に戻してしまうほどだった。さすがである。そのあとは、自分が父親と折り合いがずっとつかなかったことなどが語られ、父親とのあれこれを振り返ったものをエッセイにしたためたのでぜひ手に取ってください、という言葉で締めくくられた。簡潔で実に購買意欲のそそられる文句であったので、つい開いてしまった。『戦中派の終点とブラスバンド』という目次に吸い寄せられそのまま会計してしまった。しかしまだ積読されたままだ。わたしのよくない癖である。ちなみに、わたしは自分の父親の友人は一人も並べることができない。
「永いお別れ」からまた「永い言い訳」がはじまっていく
なかなかに辛辣な映画であった。しばらくずっと尾を引く。
冒頭、幸夫によるぬえの喩えから始まる。妻(深津絵里)に髪を切ってもらいながら、テレビで平家物語と併せた蘊蓄を披露する自分を見て、毒を吐く小説家の幸夫(本木雅弘)。鏡の中の夫婦の目線は互いを見ているようでよそよそしく、何気ない会話にも不穏な空気が漂う。くだを巻く夫を倦怠感のこもった妻の眼差しに気づかいているのか気付いていないのか。夫はしきりに不倫相手*1からの着信を気にしている。テレビで能書きを垂れる姿も、鏡で妻に髪を切ってもらう微笑ましいシーンも自分ではないのだ、という幸夫の矛盾に満ちた複雑(に見せかけた)な多面性を表した見事な導入。それにしても、幸福な夫と書いて「幸夫」とはなんとも皮肉である。出かけた妻が不慮の事故で亡くなろうが、彼は最初から幸福な夫でも何でもなかったのである*2。
このあとも、幸夫の周りには常にカメラがあり、テレビがあり、鏡がある。自分の少し伸びて乱れた髪がすぐ気になるし、ネットで自分のペンネームを使ったエゴサがやめられない。しかし、もともと家事なんてロクにやってこなかったので、妻がいなくなる血部屋もロクにまとまらない。虚構に映る知的で自己分析に長けた彼は、段々と本来の自己否定の激しく、自己中心的で軽薄な脆い人間性を妻の死によって暴かれていってしまう。精神的に追いつめられるとやつれ、子どもとの交流でふくふくと肌につやが出る、本木雅弘の自在な身体性には脱帽するばかり。派手ではないが、視覚的にちゃんと肉体と精神が同調しているのがわかる*3。
彼と対峙する人間も、彼の性格の写し鏡でメタファーとして現れ、村上春樹の『海辺のカフカ』の文句が頭に浮かぶ。面倒を見て行くかつての真平くん*4にしろ、自分の遺伝子への恐怖から子を残さなかった幸夫とは終始正反対な竹原ピストル*5にしろ、業界人のいやらしさを凝縮したようなテレビディレクターの戸次重幸にしろ、終始メタファーが付きまとい幸夫への辛辣な自問自答を問いかけている。
メタファーとしての役割を担わされていないが、池松壮亮のマネージャーの「子育ては漢にとっての免罪符に過ぎない」という一言も幸夫には手痛い。
彼がようやく涙を流し、妻の死を現実として受け入れ、自分が見過ごしてきたことへの懺悔をした頃には、蜃気楼のように彼女の幻影は遠くへ消えていく。後死んで残されたものが苦しみ続けるのは世の常なのだろうか。妻の亡霊を幻視し、己の過去の過ちを恥じた頃には穏やかな1人の男の回復を描いたドラマが次第にホラーのテイストを帯びて有様は、さながら現代の怪談であり、妻の言いつけを守って「後片づけ」を続ける幸夫の姿は不気味。
ぬえを構成する動物は分かっていても、鵺の核となるところは分からない。幸夫の化けの皮がはがれた頃には、ぬえの多面性を持っていたのは妻であったと悟っても遅い。妻は夫の不貞を見抜いていたのだろうか。夫と妻の理想は果たして最初から同じ所へ向かっていたのだろうか。夫への愛情はいつ妻の中で冷め切ってしまったのか。ぐるぐると頭の中で疑念が渦巻きながら、最初の《書き出し》となる髪を切る場面が最後にまたじわじわ効いてきて、また「ぞわり」とくる。
この映画自体が「永い言い訳」だったのか、と気づいた頃には、もう既に術中にはまっていて、この作品が残していった余白にじわじわと喉元を締め付けられている。
そういえば、幸夫が妻と出会ったときも「言い訳」から始まっていた。もしかすると、生きていくことそのものが「言い訳」を繰り返すことなのだろうか。
人生は、「言い訳」の連続であり、「後片づけ」は死ぬまで終わらない。
この文章も、今作に対して整理のつかなくなった感情に対する「言い訳」なのかもしれない。
これからもわたしの「言い訳」は、幸夫と同様につづいていく。
<おしまい>
こうの史代『夕凪の街 桜の国』
あれから10年
しあわせだと思うたび 美しいと思うたび
愛しかった都市のすべてを 人のすべてを思い出し
すべて失ったなった日に 引きずり戻される
先日、毎日新聞の記事に原爆を投下した米B29爆撃機の搭乗員に対するインタビューを収めた録音テープが、広島市の原爆資料館に寄贈されたという記事を読んだ。既に個人であり、当時の機長であるポール・ティベッツ氏の肉声が記録されており、日本軍にとらわれた際には自殺する際の青酸カプセルを持参していたという。そんな機密性の高い任務を果たした1945年8月6日午前8時15分の瞬間をのちに「光が包まれたとき、鉛のような味がした。きっと放射能(の影響)だろう。とてもホッとした。(原爆が)炸裂したとわかったから」と語ったらしい。鉛の味、どんなものだったのだろうか。サッパリ想像がつかないが、顔をしかめたくなるようなものであることは何となく想像できる。彼らには人々を蹂躙したことへの悔恨で夜眠れぬことがあったのだろうか。肉厚なステーキを口にしているときに、ふと鉛の味が口の中をしみわたることがなかったのだろうか。
戦争を知らない世代であるわたしたち(これはなにも自分と同世代の20代だけでなく現代の60台も含むのではないだろうか)には、どこか戦争というものを考えるときに、忌避感のようなものがまとわりついてくるように思う。理由は様々であると思うし、私くらいの年頃なら戦争に反対することが非現実的で、それを口にするのはマヌケであると冷笑に付されてしまうのではないか、というところもあるのかもしれない。戦争=つらいという植え込み(もちろんそれは本当だと思う)が強く、聴かされたり読んだりした体験談はいつも過酷で哀しいものであったから、そんなものを現実の自分とのところへ持ち込みたくないというのもあるのかもしれない。わたしたちには、爆発はテレビの中の出来事で、たいがい空腹を知らない。数字の上では古くない昔の戦争は、遠い過去の悲劇で、「忘れてはならない」と千度語られているのに、当事者ではない人々がそうやすやすと語ってはいけないのではないか、という呪縛のようなものが心の奥底にあったのだと思う。もちろん、鉛の味も、原爆がもたらした壮絶なからだへの痛みも、どちらもわたしたちは知らないし、知る由もない。
こうの史代『夕凪の街 桜の国』を何年かぶりに開いた。わかっていてもあのモノローグで「おえおえ」と嗚咽する。映像も、どれだけ穿った見方してもきっと吐くように泣くだろうな。やさしいけど残酷で「つらい」という言葉で片づけられない、行間の凄み。宇多田ヒカルの楽曲と関係が…あったらいいな。
— 黑松茶荘 南京街店 (@PONKOTSUforever) July 31, 2018
何年かぶりに自宅の書棚にある、こうの史代『夕凪の街 桜の国』を手にした。いつ呼んでもこの本は「すさまじい」と本を手に取るその手に、紙に沁みるインクが伝ってきそうな錯覚を覚えてしまう。あまりにすさまじいので嗚咽が止まなくなってしまった。ふくれあがった顔が幼稚で乱暴な線で描かれていることが怖い。もっとも弱い私たちと変わらない人々だからこそ、日常に潜む原爆の影が身体を言空溜め続けるときのモノローグに身の毛がよだってしまう。わたしたちが遠い過去であることを理由に避けてきた感情に揺り動かされる。
十年経ったけど 原爆を落とした人はわたしを見て
「やった!またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?
ひどいなあ
てっきりわたしは 死なずにすんだ人 かと思ったのに
という言葉は呪いとして、読む者の心に雨が通りすぎて風がやんだあとの地面に残った黒い「しみ」のように残り続ける。
しかし、ただ苦しみを描いているだけでない。やわらかい描線で丹念に風俗を写し取り、「生きてはいけなかった」と思っていた人へ「しあわせになってもよい」と現在からやさしく手を差し伸べる。こんな救済があっても良いのだとわたしも思う。
本書が、「知らない」というだけで口を閉ざしてきたわたしたちを呪縛から解放してくれること、空腹に苦しんだことのない世代と記憶に痛みのすみずみが刻み込まれた世代とを、現在と過去とを強くつなぐ一本の強い糸であることを、筆者やほかの読者の方たち同様にわたしも祈っている。
以下は2004年の8月に記された、こうの史代さんによる「あとがき」より抜粋させていただきます。
貴方が豊かな人生を重ねるにつれ、この物語は激しい結末を与えられるのだと思います。そう描けていればいいと思います。
また「桜の国」では、原爆と聞けば逃げ回ってばかりだった二年前までのわたしがいちばん知りたかったことを、描こうとしました。自分にとってもそうであった、と気づいてくれる貴方にいつかこの作品が出逢い、桜のように強く優しく育てられることを、心から願ってやみません。
<おしまい>
テイラー・シェリダン×ジェレミー・レナー『ウインド・リバー』
欧州の冬はとても身に応える。はじめのうちは新鮮で、「日本の冬とはまた違う風情があるわあ」とクリスマスに現を抜かす余裕もあります。しかし、しばらくするとそうもいかなくなって、本格的に辛さが増してくる。雪が降ってはしゃいでたあの頃の明るさはどこへやら。そんな「一刻も早くここを離れたい」という気持ちにさせられた厳しい冬を、故郷の奈良が恋しくなるほどのロンリネスを、茹でだこになりそうな真夏にリアルな肌感覚といっしょに思いだしました(余計なことを)。まあ劇場の冷房が効きすぎていて、汗でぐちょぐちょの半袖・半ズボンにはまったくやさしくない環境下での鑑賞だったというのもあったとは思いますが。
早く観たいのに先延ばしにされまくりふるえました
まず、なんといっても今作「どんだけ待ったと思ってるんだ」というのがありまして、この映画の情報が自分の耳に入ったのが2016年の12月。ハリウッド女優、いや、世界の女優の中でもトップクラスに好きな女優、エリザベス・オルセンが、『アベンジャーズ』でも親子のような並びだったジェレミー・レナーとW主演。しかも雪景色の犯罪劇ですから、そりゃもう期待しまくり。アメリカでの公開は2017年8月でしたから、そのうちに日本でもやるだろうと待っても、一向にやらない。いくら、ワインスタインが大変なことやらかした(直接の因果関係があるかはわからない)とはいえ、このお預けはつらい。今年の4月の時点には出先の本屋さんにDVDが置いてあったので、もう買ってしまおうかともレジに一直線しかけましたが、珍しく劇場で観たいかな(普段は別にそこまでのこだわりがない)と気持ちが揺らぎ、帰国後の公開を待つことにしました。結果的にはこの決断は吉と出て、非常に見ごたえのある一作でしたので、思いとどまった甲斐がありました。
現代でも西部劇は成り立つのか問題
『ウインド・リバー*1』は新しいホワイト(二重の意味)・ノワールの佳作です。クライム・サスペンスとしても上質ですが、何より重要なのは今作が「現代だからこそ描ける新しい西部劇である」というとこ。「復讐」がテーマになっており、『レヴェナント』とも『スリー・ビルボード』とも『女は二度決断する』ともまた違う、アメリカの歴史にある膿のようなものを見せられたような気がします。まだまだ現代でも、勧善懲悪型の復讐劇が作れたのですね(しかし、娯楽として気持ちいいというワケではない)。オンタイムのアメリカを舞台にしたウェスタン風映画をつくろう、という試みはたくさんありましたが、ここまで明白に西部劇の形に則りながら、ハードな社会的なメッセージをきっちりと余韻として刻みこむことに成功した映画はあまりなかったのではないでしょうか。黒人がリーダーという異例のウェスタンだった『マグニフィセント・セブン』ではインディアンが味方につきますが、基本的には彼らは倒されるべき敵の象徴でした。白人が侵略し、元いた原住民を追いやり、生きる場所を奪っていく。この構図はまだ根強く残っているのですから、看過できるものではない。もしかしたら我々観客も気づかぬうちに「もう終わったこと」にしようとしていたかもしれない歴史を、掘り起こそうという果敢な試みがなされています。《搾取する/される》という構図は、そのまま現代アメリカにどっしり根を下ろしているわけですね。監督曰く「フロンティア三部作」を締めくくるにふさわしい(『ボーダーライン』『最後の追跡』と本作)一本には間違いないです。
*1:『ウィンド・リヴァー』のがいいとは思いますが、変な副題ついてないだけよしとするか
雑記5(自閉症スペクトラムってなんぞや)
日本に帰ってしばらく経ち、前より決まっていた療養をしている。まあ、療養といっても、仕事と並行して、カウンセリングにちょこまか顔を出すぐらいのことなのだが。まあなんというか気楽な身分なもんだなあ、と久しぶりの田舎の暮らしでそれなりに落ち着いている。よその国から帰ってくると、より一層こちらの呑気さにありがたみというものが湧いてくる。向こうは、あくせく常に人が動いていて、こちらの気も休まらなかった気がする。ずっと背伸びをしていたような。
本音を言えば、本当はもうちょっと何かしたかった。勧められていた療養の予定も、適当にすっぽかして、もう一度海外に行く準備を真剣に考えていた。こういうことをもっと勉強したい、というのがぼんやりと見えたというのもあるが、少しでもツテを作っておこうとコミュニケーションに難がある分際でそれなりの努力はしたので、それがふいになるのが恐かったのかもしれない。帰ってきてしばらくは、ちょっと体を休める程度のつもりにしていたし、日本に帰ってきた安心感も手伝い、快活に過ごしているつもりだった。友人と会って、ご飯を食べに行ったり、ちょっとした旅行へも行った。
しかし、そうして平穏な日々を過ごしているうちに、ふと自分の足元の不確かさに目がいった。俺は今ここで何をやっているんだ。俺はなんでこんな楽しそうなんだ。俺はこの先どうするんだ。何かがすっぽり抜け落ちるような音といっしょに、ぐらりとめまいのようなものがして、映るものの色合いが途端にモノクロに変わっていった。そうして、3日近く一室に引きこもってしまった。尋常な状態ではなかったのだと思う。元より、学校でもろくに人と会話もできなかったから、人間関係も構築できなかったし、そこから始まって軽程度の鬱のような症状はしばしば現れていたのは事実であった。しかし、今度のものは明らかに違う。思考に歯止めが効かなくなり、これまでの後悔やらが頭の中で鮮明な映像として浮かび上がり、周りにいる誰もかもが怖くなって、いつしか自分をなじる言葉が止まらなくなり、気づけばぼたぼたと汗なのか涙なのかよくわからない水が目からとめどなく出てきた。生まれてはじめてこんなにも鮮明に自死を真剣に考え、得体の知れぬものにおびえる自分が忌々しく、心から自身の存在そのものを呪った。破滅を願い続ける私のたましいはひたすら球の中をぐるぐると回り続けているようで、ただただ虚ろだった。
そして、周囲もそんな意気地ない私を見かね、病院へかかることを改めて勧められ、滔々了解するしかなかった。いくらか知識があるつもりだったし、それなりに精神障害に理解があるつもりだったが、いざ自分がその当事者になるとは思いもしなかった(いや、正しくは、そう思いたくなかったのだろう)ので、そこでまた不安妄想に襲われ、動悸が激しくなるを幾度か繰り返し、なんとか病院へ向かった。なんだか怪しい妄想ばかりが膨らんでしまったのだが、それは実際に先生にアウトすっかり吹き飛んだ。運が良かったのだろう。その日にカウンセリングを受け、診断を受けた後、2時間近くテストを行い、2週間後には自分の症状が判明した。どうやら「自閉症スペクトラム(ASD)」というものらしい。これを聞いたとき、動揺しなかった、といえばウソにはなるが(事前に自分が当てはまるかを見ても到底そこにハマるようには思えなかった)、しかし、どこか安心している私もいた。先生の言うように、今まで上手くいかないなと考えていたことがすべてこの症状のせいなんて都合の良いことはないけれど、これは病気ではなく「特性」だから時間はかかるけれども、ゆっくっり適応できるように治療しましょう、という説明だった。
「特定の音や臭いに過敏であること、人との目で見える距離感がわからなくなる、不安が胸に広がると動悸が激しくなり緊張が何時間も収まらなくなる、といったわかりやすい症状から抑えていき、徐々に身体を慣らしていくんですよ」
「へえ。そんなにうまくいくものなんですか」
「人によって、時間のかかり方が全然違いますけどね」
「でも、いずれは苦手なことも、ちゃんと向き合わなきゃダメですよね。たとえば人と面と向かって話すとか。苦痛ですけどやろうと思えばできなくもないですし、」
「いや、そんな無理はしなくてもいいですよ」
「いいんですか」
「ほら、サメっているじゃない」
「はあ」
「サメって海の中じゃ最強だけど、陸に上がるとダメでしょう。そういうことですよ」
「そういうことなんですか」
とわかったような、わからないような、絶妙なたとえ話に言いくるめられ、すっかり心が落ち着くところを見つけたような気がした。胸のつかえがとれたように感じた。
で、ここまで、わざわざ恥も外聞もなく実情をペラペラ晒しておきながら、なんなのだが、別に今ここまで気長に読んでくださっている方に同情を頂こうともくろんでいるわけではない。ただ「こういうことがあった」それだけの日記であるし、今こうして書いている現在は意外にもフラットです。むしろ、今はホッとしている。薄々分かってはいたけど、周りに流れている時間と自分のそれが合っていないことにはもっと早く気付くべきだった。こんな簡単なことが何でわかんなかったんだろう、とちょっと不思議に思ったりします。まあ、別にまだ治療の初期段階なんで、今はたまたま調子がいいから、こんなこと言ってられるだけなんですがね。
こうして、知り合いから紹介してもらった仕事を毎日3、4時間ほどやってから、余裕ができて、気分のいいときは、最近は近くのプールに泳ぎいいって、 そのまま銭湯へ向かい、サウナで整えるのが、ちょっとした日常の些細な楽しみになっている、今日にいたる。立地がいいのがうれしい。もっと気分がまともなときは、喫茶スペースのある美味しいパン屋ができていたので、そこに本を持ち込んでいったりする。いたって平穏。普通が楽しい、ということを普通に考えられるようになった、というのが最近の大きな進歩だったように思う。前はどこか普通というブラックボックスが不気味に怖かったが、今は「自分も普通なんだ」という思い込みをする方法を発見しました。思い込みも大事。
何よりも、どっこいまだ生きている。これに尽きる。
最後に、メンタル危うし!という状況のときに、心の拠り所になった本たちをいくつか羅列。あくまで私見です。
▲V・E・フランクㇽ『夜と霧』:描かれている本物の惨劇と、書かれている本物の言葉の強さにふるえる。何度も読んで、付箋とマーカーだらけになってしまったので、買い替えなければ。
▲尾崎紅葉『金色夜叉』:こんなに読ませるエンタメだったとは。昔、途中で挫折した私は阿呆だ。
▲大橋裕之『シティライツ 完全版』:行間にやられる。この人と宮崎夏次系がいてよかった。
▲遠藤周作『沈黙』:何周か回って、非常に今日的だと感じる「宗教」のあり方。
▲高野文子『ドミトリーともきんす』:手軽に、気楽に、科学の硬質でひんやりとした懐かしみに触れ合うことができる良書。三角フラスコで透かして見えた真昼の肯定とかが思い浮かぶ。
▲梨木果歩『家守綺譚』『鳥と雲と薬草袋』:花鳥風月の描写が丁寧で、外出しようという意欲がムクムク湧いてくる。インドア派をアウトドア志向に変えるバイブル。『鳥と~』は歩き回って見聞きすることが大事だと諭される気持ちで読んでいたが、ここまで鋭敏なセンサーはないなあ。
▲ミヒャエル・エンデ『モモ』:時間に対する興味が湧いた原点なのかもしれない。
▲アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』:めちゃくちゃセレクトミスだったけども、これは面白かった。不条理小説の新たな傑作と断じても問題ない。
▲岡潔、森田真生『数学する人生』:宝箱のような本。
▲堀辰雄『風立ちぬ』:こんなに文章が美しくてもいいんだろうか。夏と死の濃厚な関係性を描き切っている。
▲三島由紀夫『金閣寺』『仮面の告白』『美しい星』『女神』:絶対に精神がフワフワしているときに読むべきでない作者だと思うのだが、誘惑に駆られて読んでしまった。太陽がぎらぎら照りつきだすと、絶対的な美にすがろうとするんでしょうか。
▲小野不由美『営繕かるかや怪異譚』:怖さと懐かしさは、私にとっては同質の感覚なんだろうなあ。怪談で感じる、空間の仄暗さはとても居心地がいい。
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<おしまい>
松岡茉優 + 大九明子『勝手にふるえてろ』
<前回>
以前カウンセリングを受けたとき、項目の中に「あなたはよくひとりごとをしゃべりますか?」とあったので、素直に「はい」と答えました。ひとりごとってやっぱり疾患だったのか。
主食といっても過言ではない、もはや生活必需品のヨーグルトを切らしている。
参ったなあ。なんで昨日の帰りに行かなかったんだ。ちくしょう。
そんなことをひとりごち、ついでに今日の夕食に作ろうと考えていたビビンバ(ビビンパのが正式なんだっけか)のレシピと貧相な冷蔵庫の在庫を照らし合わせ確認。ほうれん草は一昨日の炒め物で消費してしまい、コチュジャンも切れているし、キムチは残りわずか。テーブルのメモ書きが目に入り、銀行にもいかなきゃいけないのを思いだす。
呑気していた自分が100パーセント悪いが、わかっちゃいながらもあわあわして、メモリが極めて少ない自分の脳内に「やることリスト(至急)」なるものを作成し、いそいで自転車のサドルを跨ぎ、ペダルに足をかける。
すると今度は久しく乗っていないので、タイヤの空気がスッカラカン。なんてこった、と自分のナマケモノぶりを罵りつつ、せっせと膨らませ再出発。
銀行で用事を済ませ、スーパーへ。野菜コーナーから。ほうれん草を確保。にんにくをついでに補充。あら、お安いじゃない。卵をかごへ放り込む。続けてコチュジャンも。味噌も赤いのが欲しかったので購入。どうせすぐになくなるアイスコーヒーもこの際だ。買ってしまおう。そうだそうだ、キムチを忘れてた。と引き返し、ようやくレジ。
会計が終わり、持参したトートバッグに、かごの中の品々を投入していると、身体にピシャリと電流が。
「あ!ヨーグルト!」
うっかり声を漏らしてしまい、隣で荷物を詰めてたオバさんの苦笑を背に受けながら、ヨーグルトのためだけにレジに並び直し、そこでも店員さんの冷たい目線が突き刺さるのであった。
と、なぜタラタラと私の些末でくだらなさすぎる日常的な失敗談を、恥を忍んで書きだしたのかといえば、別に物忘れの酷さを訴えたいわけではないのです。ただ「ついひとりごとって出ちゃいますよね」というそれだけのこと。
考えごとにはまりこんで、つい気を抜くと、ところかまわずに、ひとりごとをつぶやいてしまう。散歩中だろうと、読書中だろうと、ぶつぶつと、ああでもない、こうでもない、と思いついたら、その端々から口に出して、ふと冷静に帰ると、急に恥ずかしくなり赤面してしまう。白い目で見られているであろうことは薄々感じつつも、さすがに私も人目を多少はばかる、紙切れ程度のデリカシーは持ち合わせてはいるので、迷惑は(たぶん)かけてはいないはずだが。物心ついたころからだとは思うのだけれども、正直いつからこんなおしゃべりなお口になったのか、さっぱりわかりません。
ただ、そうやってひとりごとをしゃべっていると、ひとりでいることへの寂しさのようなものがまぎれるから、というなんとなくの理由は見当がついてはいるのです。
『勝手にふるえてろ』のヒロインのヨシカにもそのようなシンパシーを抱いてしまったのですね。
そもそもこのブログだって「ひとりごと」の延長だし、「ごっこあそび」みたいなもんだったわ
(念のため、白状しておくと、恥ずかしながら、現段階で綿矢りさ氏の原作をまるで読んでいない―いや、正確には「おそらく読んだのだがサッパリ記憶から消えてしまっている」のだが―ので、作中の描写が、大九監督のものなのか、はたまた綿矢氏のオリジナルなのか、判別が付いていない状態です。そのため、もしかすると取り違えている箇所が多々あるのかもしれませんが、そこはどうかご容赦願いたいです。あと時効なはずなので、ネタバレにも目をつぶっていただくとありがたいです)
ノーベル文学賞で話題にもなったカズオ・イシグロの代表作に『日の名残り』というものがあります。かつて栄華を極めた伝統的な英国の貴族へ仕えた執事スティーブンスが、短い旅路の中、自分の人生を回顧していく、という筋書で、アンソニー・ホプキンス主演で映画化もされており、原作・映画共に名作*1である、という原作というノベルティ付き映像化作品(くどい表現)でも珍しい部類です。
『日の名残り』は、事あるごとに手を取ってしまう魅力があります。なぜそれほど惚れ込んでしまったか。それは、一人語りがすぐるくらいのスタイルなのに、スティーブンスが、私たち読者にとって、まるで「信頼のおけない語り手」だからに他ならないんですね。心の底が読めるんだけど、肝心のことは言いません。日本人みたいです。彼は、常にうやうやしく、忍耐力のある、「品格」に忠実な執事であろう、と生涯をささげた1人の人間ですが、同時に、ミス・ケントンという女性への想いや、従事したダーリントン卿に対して抱いている割り切れなさが、チラチラ独白の端々に窺え、日が沈むまでの余生を探求していく旅路の道すがらには、過去への後悔や歴史に引き裂かれた悲しみが、ポツポツ顔をのぞかせています。主人のダーリントン卿を「遠慮深く謙虚な性格」と評しながら、そこにはどこか彼を慕ってきた自分への懺悔のような意志を感じることができ、読むたび抱く感想が自分の心中でコロコロ変わるので、全く飽きることがないのですね。
そんなスティーヴンスとは違って、謙虚さや忍耐力とは無縁ですが、信頼のおけなさについては全く負けていない語り手が、『勝手にふるえてろ』のヨシカなのです。
ではこの「根暗オタク」が過ちを過ちのまま、反省とは無縁のまま、大逆転してしまう、新世紀のピカレスクロマンについて
『勝手にふるえてろ』は、女性が1人称の独白のような、文体を取っており、太宰治の『女生徒』の系譜にあります。主役であり、語り手となるヨシカは、中学生の頃から脳内でパンッパンに膨らませてきた「イチ」という男の子に思いを寄せ続け、現在は経理課に勤務する、独身女性です。同僚の来留美は結婚相手を捕まえようと、虎視眈々としていますが、ヨシカはお構いなしに「イチ」とのつながりを糧に生きています(痛いよ!)。そんな中で、同期入社したすこし(いや、かなりか)間の抜けた霧島から告白を受けるんですね。もちろん、ヨシカは彼にまったく好意は抱いていないのですが、生まれてこの方、異性との告白はおろか、恋愛経験もロクにないですので、浮かれまくります。霧島くんを、(生意気にも)「イチ」の次の2番目、ということで「ニ」と名付け、浮かれまくるもつかの間、そもそもヨシカには全くその気がないので、「ニ」の猛烈なアタックを受けるも気乗りしません。逡巡してるうちに、あることで死にかけたことを機に、一念発起し、どんなこと(本当にゲスい汚い手を使う)をしてでも「イチ」と逢うべく、あの手この手を尽くしまくり、どうにか再開しますが、ここでまたとんでもない事実が発覚して、ヨシカは失意のどん底へ落ちていくんですね。さて、ここからいかに大逆転するのか、というのが主なあらすじですが、まあ大体は書いてしまいましたね。
先にも書きましたが、この映画は、1人称の告白形式を採用してまして、基本的に主人公の語りによって、ストーリーが進行し、世界がそれに合わせて動いていきます。主人公が語りをすると、映画のスピードが緩慢になってしまいますので、割とよくやっているのが、早口にしゃべらせて、細かいカット割りや時系列を複雑化させることで、スピードを上げようというもの。あと第4の壁を超えさせて、観客に語りかけることで、油断させないようにしたり。
しかし、『勝手にふるえてろ』で採用されたやり方というものが面白く、ここではヨシカの身の回りの人や物が、彼女の意志によって動いていきます。何を言っているんだ、ということなのですが。
松岡茉優、オンステージ!!
彼女の気分が舞い上がれば、通行人A~Zが拍手で祝福し、妄想の恋に患い涙をすれば、ウェイトレスが胸の内を聞いてくれる。同窓会で「イチ」を奪われそうになったら、天ぷら屋のおばちゃんが檄を入れてくれる。小説では(読んでないのであくまで”おそらく”ですけど)セリフだけでなく、鍵カッコのない地の文にもダラダラと漏れていたであろうヨシカの心中を、彼女の「世界」の中に取り込まれてしまった人々との会話によって、感情を暴露(表向きは本当のことを言っていない可能性がある、というのがポイント)させていくのですね。このスマートな手さばきだけでも、良い映画だということが確信に変わりますし、本作が十分に優れた文芸作品をもとにしているのだなということを認識できます。大九監督の策略がしまったわけビシッとハマってしまったわけで、すごく素敵な相乗効果をもたらしているのですね*2。
それに、なんといっても、この「ひとりごと文学」を映画として成功に導いた最大の立役者は、他の誰でもなく松岡茉優でしょう。彼女の演技力の習熟度合いには舌を巻いてしまいました。信頼できない語り手・ヨシカに対し、全面的に信頼できる若き名女優・松岡茉優。見事なまでの松岡茉優オンステージっぷりで、この人さえいれば、どんな杜撰な内容でも、パイロット版くらいのクオリティにアップするのではなかろうか、というほどの安定感。同世代の日本の女優の中でも最強クラスの傑物です。なによりも表情筋のコントロールが群を抜いて素晴らしい。高揚すると顔がパーッと明るくなり、失意のどん底に堕ちれば顔から表情がスッと消え去る。キラキラとした天真爛漫な部分から、挙動不審な所作まで、わざとらしさや「演技できるでしょアタシ」という自己主張無しに、顔のしわから目のクマまで自由自在に(たっぷりの茶目っ気をもって)キャラクタの感情を説明できる。到底できることではないです。
この優れた信用できる若き英才・松岡茉優が演じる、ヨシカという女性は、激しい自己否定・自己卑下をやめられず、他人の善意を理解しておきながら、あれこれ妄想が勝ってしまい、閉塞的に自分を守るための心理的なシールドを張ってしまう、内向的で歪んだパーソナリティの人物です。私なんかは、「顔が違うだけで自分と変わらへんやん」と見ていられなくなるほどなのですが、人によっては激しい嫌悪感(あるいは同族嫌悪なのかも)を起こすでしょうし、彼女が最終的についたある嘘や親しい人までを巻き込む暴走っぷりは、褒められたものではありません。SNSを散々こき下ろし「日記は恥」と言いのけた後に、偽りの同窓生のアカウントを悪びれることなく騙り、自殺願望まで垂れ流し、挙句「あんた人気あるねえ」と恨み節まで言い放つ、手段の選ばなさ。告白してくれた「ニ」を、そっけなく振り回し(まあ半ばストーカーのように付き纏う「ニ」も悪いのですが)、散々煮え切らない態度を示しておきながら、自分の怒りをヨシカ自身の写し鏡的存在である彼に八つ当たりする辛辣さ。ただ、そうしたなりふり構わぬ暴走含め、決して我々とそう隔たりのある感性の持ち主ではなくて、むしろ、誰にでも持ちうる「ねじれ」なのかも、と思わされたりします。彼女は一つの凡例にすぎなくて、どこにでもいるポンコツ極まりない社会不適合者なんですね(耳が痛い)。ある意味、ここまで素直に感情をゴリゴリ表に押し出し行動に移せる、というのは羨ましさすらありますが。
こうした人生のどこかで「ねじれ」てしまった、絶滅危惧種女子の生態系を、かつてアンモナイトが存在した古代へ思いを馳せて、文科系への毒をインクにたっぷりにじませ、鋭く突きさすようなクリティカルな筆舌と女子への愛おしいまなざしを交えながら、精緻かつ乱暴に描いていくんですね。汚いうがい、詰め噛み、吐き出される唾、など綺麗ではないのだけれど、ものすごくリアルな「女の子」という生き物へ、監督が内で培ってきた愛情がむき出しになっているようです。女性に対する底知れぬ全面肯定的な母性すら感じます。
ただ、大九監督、ただ甘やかすだけじゃありません。潔いほどにフェアなんですね。というのも、絶え間のない「女子」への愛情表現のゆたかさだけでなく、しっかり痛烈な「しっぺ返し」を欠かしません。
ヨシカは、学生時代、誰からも見られていないような”幽霊”側の存在だったので、「視野見」というものを習得しました。メガネの奥の黒目をそのままに、視野の端だけで教室の「イチ」くんを見つめ続けてきたわけです。放課後に居残りで反省文を書かされている「イチ」にわざと間違えるアドバイスを授けたり*3、体育祭でこっそり「僕だけを見て」と言われたりしても、ヨシカはずっと視野の端でしか見続けない。正面から現実の「イチ」と接することを拒み続けてきたのです。彼女にとっては、脳内の王子様のような理想像こそが「イチ」であって、現実の一宮くんと頭の中の「イチ」を混同させたままなんですね。
教室の隅で培われたヨシカの空想癖は、名前いじりにも発展します。「イチ」に続く2番目の男、ということだけで、ぞんざいに「ニ」と命名。職場のサスペンダー上司に「フレディ」という渾名をつけて遊ぶ(ここで「We Will Rock You」のリズムが鳴らされるまでネタが細かい)。彼女にとって「名前」なんてものはどうでもよくて、自分と「イチ」が世界に存在すれば、他の人々はエキストラにすぎないので、適当に名前をつけちゃう(唯一といっていいくらい、ちゃんと名前を呼ばれているクルミちゃんが、ヨシカにとってどういう存在なのか、というのも、この物語の女子ならではの友情ともライバルともいえぬアンビバレンスな関係性が感じられます)。
そして、ガッツリと非道極まりない手段を使って同窓会に呼び寄せた「イチ」とようやく接近するチャンスを得たヨシカは、それまで黒くくすんでかかとが踏まれた薄汚れた靴から、ぴかぴかのハイヒールに履き替え、女の顔になります(ここでするりと包帯が外されるショットはエロスを感じました)。もう、ウキウキワクワクルンルンです。
ですが、そう幸福が続くはずもなく、一気に谷底から伸びてきた暗黒に足を絡めとられちゃうんですね。ヨシカは思い切って、学生時代から描いてきた「天然王子」なるキャラを、モデルである「イチ」本人に見せ、ようやく生身で交流を図ろうとしますが、驚愕の事実を告げられてしまいます。というのも、この「イチ」というのは、ヨシカにとって人生の一大テーマであったのとは真逆に、一宮くん本人にとっては呪いそのもので、呼ばれたくない名前だったんですね。しかも、一宮くんは「ヨシカ」という名前すら覚えていない。「イチ」という呼び名自体が、とんでもない悲劇を招いてしまうだけでなく、自分の存在を消す「視野見」という行為までもが彼女の恋の破滅を引き起こしてしまった。膨れ上がった風船が、針でひと思いに突き刺されたような萎み具合。多少の自業自得感はあるとはいえ、なかなかに惨い仕打ちの連続。この事実を知らされる前後の落差の激しさは、胃がキリキリします。布団焼失事件からの「前のめりに死んでやる」という決意と共に、やっとの思いで辿り着いた「イチ」との逢瀬に気分はクライマックスまで高ぶり、ミュージカル女優さながらの闊歩も空しく、これまでの妄想がただの「ごっこ遊び」でしかなかったこと、周りの誰の視界にも自分は映っていないということ、自分がただのエキストラであることが一気に押し寄せます*4。バスの中は一人、振り返っても誰もいない。近しいと思ってきた人は、現実では距離の離れた言葉も交わしたことのない赤の他人だった。「世界」が自分に気付かなくなり、会話を交わしてきた人たちが、失恋と一緒に遠ざかり、オカリナの「名前に支配された人生なんです」で完全にトドメです。自分のためだけに立ちあがってたミュージカル世界が、非常にイヤな皮肉として生きてくるんですね(『ラ・ラ・ランド』よりもうまい)。
これでヨシカへの「しっぺ返し」は終わりません。顔が水で濡れたアンパンマンをさらにドブ川に叩きこむような容赦のなさ。妄想から醒め、現実と向き合おうとします。いつもゴミを捨ててくれるおばさんに、憐憫の言葉をかけますが、案の定冷たくあしらわれてしまう。安物のとってつけたような薄っぺら以前には、当然見透かされますし、結局彼女は自分が大事であるという状態から抜け出しきれません。「イチ」の夢を忘れようと、ズルズル延ばしてきた「ニ」との恋愛にもどり、つかの間の幸福を味わうも、クルミの気遣いがヨシカをまた狂わせてしまうんですね。クルミなりに掩護射撃をしたつもり(ヨシカは自分が恋愛未経験ボンクラ処女だと強く自覚しているだけに、それを「ニ」にバラされるということは、彼女の自意識に深い深い傷をつけるんですね)で、本人は気遣いのつもりなんだけど、それも善意の皮を被った嘘くさい同情でしかなく、またしても残酷な「しっぺ返し」です。
「わからないから好き」というので頷きまくっちゃうよね
こうして怒りにより歯止めが利かなくなったヨシカは、クルミへ復讐を仕掛け、会社を辞めて、自分で窮地に追い込んでしまう。一度リアルに死に掛け、「イチ」という妄想とも別離し、そしてまた息もつけない状況に追い込まれる。おそらく、普通のありきたりで、良心的なお話ならば、このあとヨシカはクルミへ自分がしたことを告白し、「ニ」への仕打ちを謝罪するのが常でしょう。
しかし、ヨシカはそんな道を歩まず、また「ごっこ遊び」を選ぶんですね。もうとんでもなくワルです。ワルですが、どこか清々しい。これがこのお話の不思議なところ。途中までは、ボンクラ処女が「ごっこ遊び」と折り合いをつけ、現実と迎合していくお話を想定していましたが、これがとんでもないピカレスクロマンでした。やめるどころか、「ごっこ遊び」を選択し、ますます堕落していく道を邁進していきます。この終わり方、やはり『スイス・アーミー・マン』と比較しないわけにはいかないのですが、共通するところが多くあると思います。
そこで雨に濡れた赤い付箋が濡れ、処女膜(概念)が破られるエロスが、ピカレスクとして生きる「勝手にふるえてろ」宣言と共に、バシッと結合するあたり、めちゃくちゃ気持ちよかったです。痛快の極み。
彼女がこのまま絶滅危惧種として生き延びるのか、はたまたもう一度盛大な「しっぺ返し」を食らうのか、ヨシカの未来が気になるところであります。
<以下、爆笑&憤死の怒涛のクライマックス>
<余談>
黒猫チェルシーはデビュー時にすごく聴いてて、カッコいいバンドだなあ、と惚れ惚れしたものの、一時は影を潜めてしまって心配してたんですが、渡辺大知くんの活躍っぷりにホッとした元ファンでした。コンスタントに役者やってたとはいえ、ここまで引っ張りだこになるとは。銀杏の峯田君もだけど、やっぱり朝ドラの影響ってデカいのね。
<関連映画&書籍>
- 作者: カズオイシグロ,Kazuo Ishiguro,土屋政雄
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<おしまい>