ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

サリー・ホーキンス + ギレルモ・デル・トロ『シェイプ・オブ・ウォーター』

 

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不定形の愛について語るための、優秀な語り部である「水」

水には形がありません。定まった形はありませんから、環境によって、変化します。円錐の容器に入れれば円錐に、地面に散らせばそのまま真横へ広がり続けます。熱を加えられれば蒸気となり、冷やせば氷として固まります。しかし、それもすべては結局は水です。

水には色もありません。その時々で見え方が変わります。なので、血だろうが、海だろうが、精液だろうが、水です(もちろん科学的な構成は異なります)。

不定でありながら不変なのでして、便利がいいです。

その便利の良さから、暫し、映画では水というものを比喩として、使われています。例えば、よく見られるのは表裏一体な「生/死」のメタファーです。北野武監督の映画では、頻繁にこのモチーフが使われ「キタノブルー」という称号までもらっているほどです。近作では、『アウトレイジ最終章』で、緊迫した生の衝突を和らげる空気感の緩衝材として、または、死を看取る聖地として、海辺を舞台に置いていました。より突き進んだディストピア世界が魅力的な、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の見事なまでのSF金字塔リメイク『ブレードランナー2049』では、モロに羊水のように、生と死を包み込む装置として「水」が多種多様に用いられました。身体だけ浸かっていたら気持ち良いですが、顔をつければ溺れ死んでしまいます。水がなくては生きてはいけませんが、同時に水というものが持つ底知れなさを感じさせられました。

そして、ギレルモ・デル・トロ監督による新訳『大アマゾンの半魚人』である『シェイプ・オブ・ウォーター』では、タイトル通りに水の形を用いて果敢にも「愛(それを育む性)」の表現に挑みました。

印象深いのは、走行するバスの窓に張り付く、二つの大きな水滴が、自分たちを妨げる重力を無視するかのように”ダンス”して、次第に一つに交わる描写。こんなにも文学的で詩的な、水を使ったセックスシーン、お目にかかれませんよ。

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異業への「萌え」と二次創作精神

オープニングが絶品であれば(または、終わりさえきちんと締めれば)、ちょっと乱暴な物言いですが、大体の映画はとりあえずの点数を与えるに値すると考えています。最初で観客の心をつかんでしまえば、こっちのもんです。なので、多くの映画監督が、オープニングに命をかけていることでしょう。そりゃもう、第一印象は大事ですから。そういう側面では、『シェイプ・オブ・ウォーター』ほど、その起承転結の「起」と「結」への心血の注ぎようは、実に文句の付けどころがありません。

始まりは、孤独な独り身女性の夢からです。古めかしいアパートメントの中が、アクアリウムのように水で満たされています。浮かぶのは、サリー・ホーキンスでして、今作では口のきけない、イライザという女性を演じています。ゆっくりと水の中を進むカメラの滑らかさは、水の官能的なまでの青さをこれでもかと表現し尽しています。このオープニングの、低予算とは思えぬフェティシズムを刺激してやまない、群青の美しさには息を呑んでしまいました。正直、ここで終わってもいいんじゃないかな、と思わせるほどに完結しています。開幕でここまですべてを語ってしまうのも、なかなかに潔いですよ。

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全ての創作は、二次創作のもとにある、といっても過言じゃないのかもしれませんし、度々起こるパクリ論争も、完全なオリジナルというのはないに等しい(ドラマ『火花』を思い出したり)ので、アレ自体に議論する価値はないよう思えますが、今作については「ど真ん中の二次創作」なんですよね。この映画は、「怪物と人が結ばれちゃいけないのか」という疑問から、始まっています。ギレルモ監督が幼いころから「こんなんじゃ納得できるわけねえだろ!何で怪獣が一方的に人間に迫害されねえ図南ねえんだよ!ハッピーエンドにならねえと報われねえじゃん!」という妄想をいたいけな女子高校生よりも純情な眼差しを何十年も保ち続け、再び『大アマゾンの半魚人』を作り直しちゃう。普通に考えると狂気を帯びてくると思うのですが、この人はオタクとしての熱量がケタ違いですし、ここまでスレることなく「いい子」であり続けられるのも、レアです(そして、この「いい子」度合いが後述する、ある歪さを生み出しているのではないだろうかと考えている)。異形の者と精神的なレベルで交感し、「呪い」を解いていく、というシナリオ自体は、スピルバーグE.T.』や宮崎駿崖の上のポニョ』など、古今東西にある形式ですので、目新しいものはないのですが、ここまで「オレが考えたオレが納得するオレのためだけのもしもストーリー」で貫き通し、アカデミーまで掻っ攫う、という「偉業」を成し遂げたギレルモ氏の芯の強さ(漢気とでもいえようか)は天晴れです。

そのオタク性からの「異形」への愛着は、やり直しを重ねに重ねた造形美にしっかり結びついています。この半魚人である「彼」の、クリーチャーでありながら、神秘性を備え、美少年のようなルックスなのですね。凛とした佇まいには、王族のような気品さえ漂います(イライザの隣人が「美しい」と心奪われ、ネコを食われても「しょうがないね」と平然としてしまうのも、この王子様のような見た目に惚れてしまったのなら、何の疑問も持たない)。流線形のフォルムは、半ば耽美でもあります。モンスター映画では頻繁に議論の的となる「神は人の姿をしているか」というやり取りは本作でも行われているのですが、この「彼」はまさしく野生と神性の両方に股をかける、無垢なシンボルとして、スクリーンに現れます。

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「彼」と同じく、この世から疎外されてしまった、もう一つの無垢なるものの象徴として、イライザという女性が、これまた蠱惑的なヴィジュアルで、映画『心が叫びたがってるんだ』のような設定まで付けたされ、まさしく観客を「萌え」させるためのすべてを兼ね備えています。サリー・ホーキンスは、ウッディ・アレンブルージャスミン』や実写『パディントン』にも出演している、実力派の人ですが、この発話障害を抱えたセクシャルな「萌え」キャラを構築するために、いかんなく才能が発揮されています。とにかく身振り手振りと表情のレパートリーが豊富で、一時も同じ瞬間がなく、ディズニー・アニメーションのようです。しかも、今作では、彼女のヌードまで拝めるのですが、あの桂正和作画のような体のしなやかで豊満な曲線には、またしても「アニメかよ」とうっとりしてしまいます。さらに、この「孤児」である女性は、めちゃくちゃリアルな年相応な人間としての性欲がふんだんにあり、無垢であるゆえに、1962年という時代設定がウソみたいな積極性で「彼」に迫っていきます(「彼」と肉体的に結ばれたときに、ジェスチャーでどのようなペニスが出てくるかを、一切のいやらしさを見せずに、キラキラした瞳で語る仕草はこの上なくキュートで眩しい)。あの60年代にあそこまでダンスが踊れるところなんて、「全然内気じゃないじゃん」とこちらがあらかじめの言う内で予測してたキャラデザインを一気に覆されました。ここまで何のためらいもなく「萌え」的な感性を打ち出されると、狼狽してしまいますが、あのギレルモのキャリアでやるんだからすごいです。

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「疎外」されてきた者たちの交差点

ギレルモ・デル・トロ監督が、ここまで異形の者に執着し、「孤児」を描こうとする姿勢は、アプローチこそ違いますが、やはりスピルバーグ監督に非常に似ています(極論を言えば、『シェイプ・オブ・ウォーター』と『E.T.』の差なんて、性行為のあるなしだけじゃないですか)。今作でも、色々な「孤児」が出てきます。

まず、作中一番興味深い人間として出てくるのが、悪役であるマイケル・シャノンのストリックランド。ホワイト・ナショナリズムパワハラアメリカン・ドリームへの渇望、性差別、支配欲、倒錯的なサディズムマゾヒズム、などなど。主人公以上に属性が詰め込まれすぎて、普通ならパンク寸前ですが、見事に悪役として役を全うし、ホーキンスに並ぶ名演技を見せたシャノンには、最大級の敬意を表したいくらいです。中盤まで見事なまでの憎たらしさの一方、終盤以降の「古き良きアメリカ」に呪われ周りから「疎外」されていき、自我を崩壊していく様子に、敵ながらに同情してしまい、「一流でならなくてはならないんだ」という言葉で自分を戒め、どこかのディオ様のように人間を止めてモンスターへと変貌していく姿には切なさを覚えました。

ストリックランドとは真逆の、「疎外」された白人代表として、イライザにアパートメントの隣人として以上に寄り添っていく、本作の語り部を担うジャイルズを演じるのは、『君の名前で僕を呼んで』でゲイに素晴らしいくらいの理解を示す良き父親を演じ涙を誘った、マイケル・スタールバーグ。まだそこまで歳ではないのに、ゲイである上に、薄毛で、しかも失職中、というこれまた要素満載なキャラクタ。『君の名前で~』同様、主人公の恋の行く末を温かく見守り、手を差し伸べる善き市民として、活躍を見せます。しかも、この役は、恋をしているのですが、これがまた辛い結末を迎える。慕っていた人間が、自分が憎んでいたマッチョな白人代表格のようなレイシストであったわけですね。この事実が半飯たときの、彼の悲痛な表情と、口をいやらしくナプキンで拭う演技には、さっきまであれほどおいしそうに見えてたパイが吐しゃ物のように、変わり果てるほどでした。

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ここまで、非常に緻密なキャラ描写(幸福で退屈なまでに平凡なセックスの象徴として、マイケル・シャノンのベッドシーンが挿みこまれたのは理解できるのだが、モザイクがかかってチープだし、あまりに戯画的すぎるセックスだったので、編集でカットしてほしかった、というのはある)なのに、ガッカリなのが本当な意味で最も社会的に抑圧されているはずの、善良で良識のあるアフロ・アメリカン、ゼルダの背景が物足りなかったですね。あまりにハリウッドでやり尽されたベタ極まりない、陽気な黒人のおばちゃんキャラ、というのを他の俳優さんにやらせると、このご時世じゃ「舐めてるのかい監督は」とお叱りを受けるのが常となりつつありますが、ここをうまいこと「やりすぎない・力み過ぎない・手を抜かない」というベスト塩梅で演じるのが、オクタヴィア・スペンサー。『ヒドゥン・フィギュアズ(邦題:ドリーム)』『ギフテッド』と居れば絶対に安心感があるのが、この人の名女優たる理由でしょう。しかし、やはり薄いのは事実。このゼルダは職場でイライザに散々「うちの旦那はね」と愚痴をこぼし笑わせてくれるのですが、これが最後のストリックランドとの対決でも全く活きない。せっかく公民権運動で揺れまくっている時代だったのに、あそこの対決で、カタルシスを求めなかったのはイマイチ理解できなかったです。せめて旦那が角材をアソコでぶち込んでおけば…ま、いいか(そういう抵抗もできないほど抑圧された存在だった、というのはわかるが、あのふたりなら抵抗できたような気もします)。

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もう1人、キーパーソンであるロシア人がいるわけですが、コイツが必要だったのか、そもそもこれは冷戦時代である必要ってあったのか、ちょっと怪しい。が、その怪しさも、ミュージカル場面の鮮やかな手際と、「主役級」ともいえるアレクサンドル・デスプラの美麗なスコアで劇的に吹き飛びます。あのファンタジックですらある時代を、より鮮明に浮かび上がらせるのに、この仕事がなければ成り立っていなかったでしょう。イライザは口をきけない分、非常に音楽が(マイケル・スタールバーグ以上に)有能な代弁者として、流暢に語ってくれ、作品自体にフェリーニの映画のようなエレガントを持たせています。一つのメロディが反復され、そして変化されることで変わる、作品の青の色合い。お見事な相乗効果。「You’ll Never Know」のアレンジは、映画の端役にすぎないはずのジャズミュージックとは思えぬ粋さです。

ギレルモ的な「ふるまい」による違和感がひとつ

ただ、さきほど、疎外というワードに、カッコをつけたのだが、ここに実は実写『美女と野獣』降板から本作への流れから生まれる、ある1つの違和感が生じます。というのも、ギレルモさん、今作のプロモーションを兼ねたインタビューで以下のようなことを仰っている(文春オンラインの記事から) 。

「独身の中年女性の日常として普通だよ。セックスとバイオレンスは人間のリアリティだし、イライザもリアルな容貌をしている。孤独に生きてきた清掃員が化粧品のCMみたいな美女じゃおかしいからね。僕は『美女と野獣』が好きじゃない。『人は外見ではない』というテーマなのに、なぜヒロインは美しい処女で、野獣はハンサムな王子になるんだ? だから僕は半魚人を野獣のままにした。モンスターだからいいんだよ」

 

「イライザは意見を封じられた人々の象徴だ。彼女の友達も、身寄りのないゲイの老人や、ぐうたらな夫を抱えた黒人女性など、世間の隅っこに忘れられた人々ばかりで、彼らがモンスターを救うために戦う物語なんだ」

 

bunshun.jp

 

まあ、優等生っちゃ優等生すぎる、いかにもギレルモ氏らしい発言に、特に問題はないと思います。が、この"いかにも"なギレルモ氏の「ふるまい」と本作のお話の「あるべき姿」が、ちょっと違うんじゃないか、という風にも思えるのです(無論、作品をどうあるべきかは、作り手次第なのですが、とはいえ、作り手のもとから離れれれば、作品はこちらのものでもありますので、あくまで個人の解釈です)。

前にも書きましたが、本作のストーリーは「人間として生まれついてしまう呪いをかけられた、水中生活を夢想する女性が、恋によって生への苦しみと宿命であった呪いから解放される」というところです。そして、それは、大まかにも成功しています。

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ギレルモ氏はイライザを、「身寄りのないゲイ」や過程に問題を抱えた黒人女性と、とても近しい女性だと捉えました。つまり、*1ざっくばらんにいえば、「怪獣オタク」をマイノリティ側に寄せています。

が、正直このマイノリティ観は明らかにおかしい。というか、まずいです。これだと《世間から迫害されている怪獣しか好きになれないオタク》が、未だに日常レベルで激しい差別を受けたり、現実に厳しい状況に追いやられていたり、と問題が山積しているLGBTやアフロ・アメリカンと同列に語られるは、危うさを抱えているからです。もちろん、個人のレベルで、自分の趣味のマニアックさゆえに友達ができなかった、とかは現代でもあると思います。しかし、もはや「オタクであることは一種の特権」ともいえなくもない現代において、今作のような「いい歳して怪獣なんか好きな孤独な女性(=ギレルモ)」を、まるで意見すら封じられたマイノリティであるかのように、ご丁寧にも声を使えなくして、「意見を封じられてしまった不遇な人間」サイドにすり寄せてしまうのは、若干の(ギレルモが天然ゆえの)策略すら感じてしまい、少々気分がいいものとはいえません。悪気はないのは分かるのですが、流石にこれはいただけないところですし、欺瞞的という批判は言い逃れできないと思います。そもそも、現実の「オタク」と呼称される方は、今最も多種多様で活気のあるマジョリティ側の人間ともいえます。というか、イライザが「孤独な女性」というわりには、上のように性に奔放で、無邪気です(バスタブオナニーが日課で、そのオナニーもおそらく並みの女性以上にハードではないのか)。『美女と野獣』に反発し『アメリ』風に仕上げたサリー・ホーキンスというキャスティングですが、彼女が「CMみたいな美女」でないにしても、出てくる男性がほぼ反射的に心を奪われる魅惑的なセックス・シンボルとして、肉付けしたギレルモの意図も、ちょっと食い違ってきます。あと美女かどうかはさておき、サリー・ホーキンスはめちゃめちゃに可愛い部類ですよ川上未映子の『全て真夜中の恋人たち』の方が、まだ全く可愛くない女性が、まったく見た目のよくないおっさんと恋をするという情景が、事細かに脳裏に浮かびながら、泣かされてしまったので、ジャンルは違いますが、是非ギレルモ氏には読んでほしい一冊であります。

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作品としての、純度が高く、ギレルモがピュアなだけに、こういう価値観がまかり通ってしまうのは、ある種「ヤバさ」すらあるのではないでしょうか。権力によって、世界の片隅に追いやられて、肩を寄せ合う。そんな人を一色単に語ってしまうのは、危険極まりないはしでもあるワケですね。それにやはり、先のように、別にそれじゃあ冷戦時代下である必要って一体………とかも、このノイズのせいで考えてしまいます。

現実を否定し、イライザ*2を絶対的に無条件で受け入れてくれる存在として、あるいは現実を忘却される「ごっこ遊び」の心の拠り所として、「彼」を作り出してしまった執念には、ひとつの歪さを感じざるを得ません。

でも、やっぱり

こういうネガティブな感想を吹き飛ばすくらいには、美術セット音楽がパーフェクトですから、なんにせよ必見の映画ではあるのです。ただ、ここ位ある価値観を鵜呑みにするのは、ちょっとやめた方がいいのではないでしょうか。という、ひとつの啓蒙をもって、本稿を締めくくりたいと思います。

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なお、本稿に「Part.1」とふっていますが、あといくつかこの「ごっこ遊び」についての近年の映画を、5本ほど取り上げてみようかと考えています。

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すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫)
 

 

<とりあえず、おしまい。そして、つづく>

*1:今作では、声が出ない、ということは宿命のひとつにすぎず、少なくとも本作上で、彼女が発話障害を抱えたことによる目立った弊害というのは、あの美しいミュージカルシーン(サリー・ホーキンスエマ・ストーンの数倍は歌唱力があり、あの声の掠れ具合から伸びやかな発声に至るまでのプロセスをひとつのか細い身体のみで表現しきったことには、ただただ感嘆するばかり)の契機となる場面のみで、あくまで呪いを受けてしまったことによる、ひとつのシンボルとしてしか扱われていない。なんなら、話せないことで、彼女は状況をうまく乗り切って、最後には上司に向かって「FUCK」とやる始末

*2:しつこいようだが、もちろん、ギレルモ