ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

クエンティン・タランティーノ『ジャンゴ 繋がれざる者』

f:id:kuro_matsu2023:20180703224358p:plain

ハッタリが勝つ正義

いいですね。こういういい加減で、よくできた映画は。飽きがくることがありません。マカロニウェスタンというのもいいです。

1858年。南北戦争の始まる3年ほど前ですね。黒人奴隷のジャンゴ(ジェイミー・フォックス)と歯科医の賞金稼ぎシュルツ(クリストフ・ヴァルツ)は、偶然賞金首探しによって出会い、知遇を得ます。ジャンゴには奴隷としてとらわれ生き別れになった奥さんがいましたので、このために二人は協力して、農園主カルビン・キャンディ(レオナルド・ディカプリオ)に乗りこみ、彼女を救出しようと、一世一代の大芝居を仕掛けるわけですね。しかし、キャンディというのが目の鋭いやつで、執事(サミュエル・L・ジャクソン)も目ざとく、厄介者。これだけでもうワクワクします。

マカロニ・ウェスタンというのは、もともとは淀川長治先生が名付けた、元はスパゲッティ・ウェスタン(Spaghetti Western)というものなのですが、私もマカロニの方がしっくり来ます。イタリアの西部劇なので、こういう差別化が行われてますが、もともとは西のドイツの西部劇から引き継がれたものだそうです。気障で痛快さがたまらない。セルジオ・レオーニやセルジオ・コルブッチには、ずいぶん親しんできました。

特に、善人のジェイミー・フォックスや怪演ディカプリオを霞ませる、絶品与太話を光らせるクリストフ・ヴァルツの表情の豊かさったらないのですが、彼はドイツのお隣オーストリアの出身です。この人がいるだけで、きっと良い映画なのだろう、という確信が生まれますね。『007/スペクター』はお話としては、割にしょうもなかったですが、ヴァルツが悪役のドンをやってくれていたというだけで、映画としてのクオリティが幾分上がったように思えます。

f:id:kuro_matsu2023:20180704190537p:plain

f:id:kuro_matsu2023:20180704190513p:plain

f:id:kuro_matsu2023:20180704190452p:plain

f:id:kuro_matsu2023:20180704185357p:plain

これはスタンダップよりも落語とか漫才の血を引いているんだと確信しました

このお話の面白いところは、「ハッタリ合戦を制したモノだけが生き残る」と言うところにあると思います。「偽物」が「本物」の面を被って、その場を支配したものが生き残る、という厳粛なルールが存在します。ここではつまり、善人が悪党の面を被って、一芝居打つ。「良心」や「プライド」に負けると、化けの皮がはがれ、戦線離脱が決定するのですね。誰がペテンなのかわからなくなるドキドキ感がスリル満点です。特に、今作は勧善懲悪の色が強いため、よりハッタリ合戦の白黒がわかりやすいです。しかし、これをやるには、話術(を操る技術)が抜群に上手くやってのけないのといけませんが、この監督はさらりとこなします。

パルプ・フィクション』でも『ヘイトフル・エイト』でも、何をやっても、タランティーノ作品は落語になっていくような感じがあります。きちんとした起承転結があって、そこにのらりくらりとしたテンポの良い与太話で、トントンと話を推進させていく。こういう落語のようなスタイルでやらせて、この人の右に出る作家は、今のところジェームズ・ガンくらいしかいないので、やはり相当稀有な才能なんでしょうね。残虐なバイオレンスをしつこくやっても、それがカラッとしていて、ただ物語を進めるシステムのひとつにすぎないんですね。

会話のリズム感がいい。ジャズのような即興性。説明書きみたいなことが一切ない。暗黙の裡にある観客とのコンセンサスを一切合切無視していく潔さ。それでいて、話芸だけで乗せていく気持ちよさ。これは滅法面白い、と感服してしまうのはこの映画のことですね。ジャズでひと段落あって、そこにアドリブが繋がって、さらにひと山あって、そこにまたアドリブが重なる、リズムの刻み方。映画オタクならではの、サンプリング的な手法も楽しいんですが、シンプルに言葉がスイングしていく、この快楽が堪りません。

随所に「ドリフかよ」とツッコミを入れたくなるボケを挿みこんでくるのも、日本人好きする所以なのかもしれません。志村けんのひとみおばあちゃんのような、サミュエルのジジイボケ。マスクが群れるとごねるも、必死の説得で被って出撃したはいいが、あっけなく虐殺されるKKK。監督自ら爆破されていく身を挺したギャグに至っては、もうまんまドリフ。

『続・荒野の用心棒』『タクシードライバー』『殺しが静かにやってくる』といった引用胃による、ヒップホップ的サンプリング精神に則り、デタラメな歴史観を真っ赤な血と不謹慎な笑いで塗り込む。こういうある種の荒唐無稽さの裏の真理に、偽物が本物に追いつく凄みを垣間見た気がするのですね。それこそまさに、シュルツが、妻であるブルームヒルダを救わんとする姿を、そのまま勇者ジークフリートに重ねたように。

悪党が残らず死んでくれるので、こういう西部劇はやめられないんですね。

f:id:kuro_matsu2023:20180704190416p:plain

おしまい

是枝裕和『万引き家族』

f:id:kuro_matsu2023:20180615152444j:plain

家族になろうよ』てのがありましたが、そうカンタンになれるもんじゃありませんわな

家族を家族たらしめているものは何か、というと、これまた大きく書きだしてしまった気がしてしまうのだが、やはりそれは血のつながりではなく、「共有している時間」の濃度や密度、というものの中にこそあるのだと信じている(『万引き家族』を見た後ではかえって安易に「絆」なんて言葉は怖くて使えっこない)。

もちろん、それは、ほかの様々な自然のうつろいがあってこその「時間」であって、人にかぎらずあらゆる生き物すべてにあてはまる(ほかの生物が「時間」というものを意識しているかどうかは、我々には知る余地もないのだが)。

身体を重ねる性の営みからはじまり、どれだけひとりを気取ろうとも、常に間接的に身を寄せ合うことで、営みは続いていく。

しかし、そこには個人の自我とは別の情緒というやつがあって、その脇に年輪のようにしだいに堆積して重なっていく「時間」は、常に意識の片隅に置かれている。

 

では、さらに、家族とはどういう共同体なのか、というと、これまた考え始めると途方に暮れる。ぼんやりとしたイメージはあるものの、そうした「こうあらねばならない」といった定義めいたものが、世間の理想像を神聖たらしめ、そして呪縛として親子どもを苦しめてしまう、という現実もあるので、ここで「これだ!」とズバリ断定的に述べにくいのではあるが、ひとつハッキリといわせていただけるなら、それは「①見栄とも外聞とも無関係に、②経済活動とは離れ無償で、③そして犠牲を伴うかもしれぬとも無条件で、生命を保護してくれるもの」ではないだろうか。どうしても「べき論」にすり寄ってしまうのは心苦しいところであるが、こうした関係性が暗黙の了解のもとに成り立ってはじめて、子どもが安らかに落ち着いて「当たり前に」生活のできる環境を築く、ということが可能なのではないのだろうか。

ルソー(否、尾○ママか)のような文章になってしまい、一義的に決めつけられこそはしないものの、こうした論理や感情を超越したものが、家族を特殊な共同体として繋ぎとめる、根幹のミキのような部分だと、若輩者ながら理解している(まあ所詮は「身近な他者」ですから、期待しすぎも、依存しすぎも、良くありませんがね)。

ここで、大事なことは、血縁も、地縁も、因縁も、けっして蔑ろにはできないものではあるのだけれども、それらは家族を構築するある一要素に過ぎず、根幹を成すものではないのだ、という、当たり前といえば当たり前すぎる文句をひとつ頭に入れておいてもらいたい。

f:id:kuro_matsu2023:20180615153319j:plain

商業主義とドキュメンタリーの狭間、そして手加減のない「わかりやすさ」と「わかりにくさ」

 『星の王子さま』という一度は手に取ったことがあろうサン=テグジュペリの作品*1は、

 レオン・ウェルトに

 わたしは、この本を、あるおとなの人にささげたが、子どもたちには、すまないと思う。でも、それには、ちゃんとしたいいわけがある。そのおとなの人は、私にとって第一の親友だからである。もう一つ、いいわけがある。そのおとなの人は子どもの本でも、なんでも、わかる人だからである。いや、もう一ついいわけがある。そのおとなの人は(中略)、どうしてもなぐさめなければならない人だからである。まだ、たりないなら、そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、わたしは、その子どもに、この本をささげたいと思う。おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいる大人は、いくらもいない。)だから、わたしは、この献辞をこう書きかえよう

 子どもだったころの

 レオン・ウェルトに

 

という献辞がはじめに書きそえられている。

サン=テグジュペリとレオン・ウェルトのあいだには、かなり熱い友情が築かれており、ウェルトによる著書を紐解けば、この言葉に込められた想いもひとしおなのだが、そこは各自で見ていただくとして、この「献辞」の核となる「そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、わたしは、その子どもに、この本をささげたい」というイズムは、是枝裕和による会心の(改新の)一作につながっているように感じた。ドメスティックな視線を抱きながら、誰にでも刺さる、普遍性を守り通してきた是枝監督は、常に「かつて子供だったおとなたち」に向けて物語を綴ってきた。

是枝裕和という人は、物語の「わかりやすさ」と「わかりにくさ」をうまい具合に切り分けるのがとてもうまく、『誰も知らない』では置き去りにされた不条理な環境でサバイブする子供たち、『空気人形』では生命が宿ってしまったラブドール、『そして父になる』では子どもの取り違えを巡る父親の葛藤、『海よりもまだ深く』ではうだつが上がらない小説家志望の男の離婚した家族との再会。リアルとファンタジーの境界を跨ぎながら、とっつきやすかったりパッと目を引いたりするストーリーを提示する。そこには都市の狭間で葛藤する者たちの姿が「共感」をもってわたしたちのこころに新たな空気を吹き込む。大衆に広く支持され、商業的に成功している功績には、こうした「誰にでもわかるように」という心意気によるものであろう。

テーマは近年の作品では絞られており、「家族の肖像」を書かせれば、この人の右に出るものは現代の監督ではいないだろう、という名人の域に達している(上に述べたある種のストイックな姿勢が大きな一つの集大成として実を結んだのが、『海街diary』だと断定しても、差し支えはないはずだ)。生活の終焉を囲う「世界」を的確にフィルムに収め、映画という形で記述する。類似の監督に成瀬巳喜男小津安二郎、呉美保、エドワード・ヤンホウ・シャオシェン、という、いずれも暮らしとその下に根を張る時代を、静謐に、ときにサスペンスフルに、読み取る能力に突出した稀有な作家たちがいるが、そういったそうそうたるメンツに名前を並べても全く遜色ない。

しかし、忘れていけないのは向田邦子の存在だ。思いもよらない斜め上の想像力、記憶が喚起される情景描写、すべてを見透かしているような貫徹された神のごとき視点、穏やかな日常の裏にむくむくと蠢く不穏で底なしの不気味さ。表現がいちいち性格で、鮮やかで、生々しい。

そんな「出てきたときにはすでに達人だった」書き手のDNAを余すことなく引き継いだ是枝裕和は『海街diary』にて、綾瀬はるか夏帆が演じる長女・幸と三女・千佳にこんなやり取りをさせている。

 

 「だって幸姉の漬け物、味しないじゃん」

 「浅漬けなんだからいいの」

 

これはまさしく是枝監督の映画に対する姿勢そのもので、作り手として畳や食卓のシミから家屋の傾きまですべて把握しながら、同時に解釈を委ねるところは委ね、多くを語らない、語らせない、という基本姿勢の表明であるといえよう。世界を完ぺきに掌握しきっているゆえに、このような「わかりにくさ」を放り出すことが許される免罪を不を手にしたのである。

しかし、どうした、是枝さん。今回はめちゃくちゃ「わかりやすい」。

『万引き』なんてのはミスリードもいいところで、犯罪街道まっしぐらな真っ黒黒すけな家族だったわけだが、それだけでなく『万引き家族』では、ドライな性が消費される空間からこれまでは意図的に遠ざけてきた濃厚でしっとりとした性描写まで、余念がない。『海街』がウソみたいなハードさである。

ここ数年の是枝監督は、怒りのモードにあるのだろうが、今回は静かに怒っているようだ、ということが映画の終わりかけにようやくわかりかけるのだが、それはまた次。

理解できないから。共感できないから。自分たちとは遠く離れた世界の住人だから。

「感動」という味付けの濃い漬け物に従慣れきってしまった我々観衆は、いま一度、ほんとうの「感動」について、まっとうな「共感」について考えて見るべきではないのだろうか。

f:id:kuro_matsu2023:20180615153831p:plain

スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし

スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし

 
星の王子さま (集英社文庫)

星の王子さま (集英社文庫)

 
思い出トランプ (新潮文庫)

思い出トランプ (新潮文庫)

 
海街diary

海街diary

 
誰も知らない

誰も知らない

 
海よりもまだ深く
 

 

 

*1:いや、読んだことない人とかいるんですかね、とか書こうと思ったんですが、かく言う自分はようやくこの歳になって物語で提示される問いに、「ははあ、なるほどなるほど、なんとなくわかりかけてきたぞ」となり始めてきた感じなので、まあ読んだことがない人は『スイミー』と併せて読んでみましょう

白石和彌『孤狼の血』

f:id:kuro_matsu2023:20180519001040p:plain

ローン・ウルフの掟

現世の快楽を極めつくし、もうこの世に生甲斐を見出せなくなった「時」が来たら、後はただ冷ややかに人生の杯を唇から離し、心臓に一発打ち込んで、生まれてきた虚無の中に帰っていくだけだ。

彼にとって、快楽とは何も酒池肉林のみを意味するものでなかった。キャンパスに絵の具を叩きつけるのも肉体的快楽であり得たし、毛布と一握りの塩とタバコと銃を持って、狙った獲物を追って骨まで凍る荒野を、何カ月も跋渉することだって、彼には無上の快楽となり得た。

快楽とは、生命の充実感でなくして何であろうか。

 

大藪春彦野獣死すべし』より抜粋】

 

平成生まれのぬくぬくのゆとり教育で成長した温室ハウス野菜世代なので、がに股でオラつく輩、というのは夏祭りでいきがった(いきる、というのは関西弁のニュアンスです)チンピラ風情や兵庫県某市内に用事があって下りたときに見かける程度で、モノホンのヤンキーですら絶滅危惧種。そんな自分にとって、ましてや東映実録ヤクザ映画に出てくる広島弁の大人というのはフィクションというかファンタジーのような存在だった。特に初めて見た『県警対組織暴力』の菅原文太にはカルチャーショックのような衝撃を受け、そのあと続けざまに任侠モノやトラック野郎シリーズを見たほどだ。

なるほど。ふむふむ。たしかに自分の孫にこれにはなってほしくなったのだろう。

しかし、そこには祖母が「おっかない」と評した人とは違う別の熱量があった(ちなみに祖母の名誉のために添えておくと決して教育熱心な厳しい鬼婆というわけでもなく、たまたまその時に影響された新聞や書籍なりに感化されたものをそのまま受け売りで私に言っていたのだと思う。そういう人である)。あの「世界」の人間には、生きるためにしたたかな太い幹があった。「しぶとい」と表現してもいいのかもしれない。狡猾で、不屈の精神。

今同じものがソックリ現実に表出しても、それは嘘っぱちの虚勢で、心惹かれるものはないだろうから、アレは完全に時代と同居した精神性なのだろうが、10代の若者が心酔してしまうのには十分な魅力があった。

そういった過激で、でも熱がある暴力的な映画が好きなので、特にここ10年の韓国映画は大変に羨ましかった。どれもエンターテインメントとして1級品でありながら、鋭い社会批評性を持ち、同時に商業的にも大きな成功を収めている。

日本でもそうしたジャンルの映画がないワケではないが、海を隔てた国と比べると今一つ元気がない。巷で言われる「邦画がつまらない」ということには完全には首肯しかねるが、映画を囲う政治的な状況を差し引いても、すぐれた作品こそあるものの日本のそれは他のアジア圏に比べ覇気がないというのは正直なところ。まだ規制等で世界には出ていないものの、このままでは韓国ノワールが世界を席巻するのもあっちゅうまである。

そんな少し渇きすら忘れたヘニャチンな状況が慢性化してきたこのご時世にバイアグラのごとく現れた(ブッ込まれた)映画が『孤狼の血』である。

私たちの世界は暴力によって成り立ち、暴力によって生かされてきた。暴力を知ることは世界の側面を理解することに不可欠だ。暴力と向き合えることができる作家がいなくなってしまったのか。そんな現状を憂い「映画じゃけえ、何やっても許されるんじゃ!」と激しく中指を突き立てた漢こそ『ロストパラダイス・イン・トーキョー』『凶悪』の白石和彌深作欣二中島貞夫五社英雄、といった数々の巨匠たちが築き上げてきたジャパニーズ・ノワール・ムービーのDNAを継承しながら、北野武やコリアン・ヴァイオレンスのエッセンスを注入し、若松孝二の「眼」を持ちつつ、暴力性の純度を練り上げ、今の日本の空気をピリッと引き締める、という白石和彌監督だからこそできる力技*1である。猛猛しくいながら、緻密に計算された1作だ。原作は黒川博行の系譜を継ぐ柚月裕子の小説で以前に読了していたが、ただでさえハードボイルドで肉厚なこちらを更に凌駕する熱量でスクリーンに描出されたときの衝撃はこれからも消えないだろう。

時代に一度敗けた男たちがもう一度最後の悪あがきを線と命を燃やす煌めきに見惚れ、本能的な暴力の衝動と反骨精神の継承に哭く。

会心の一作。

f:id:kuro_matsu2023:20180519004953p:plain

顔面力の高いキャスト陣の中でも絶妙にザ○メン濃そうなお顔の役所広司石橋蓮司もこの人には勝てません。

f:id:kuro_matsu2023:20180519004804p:plain

覚醒した松坂トゥーリオの暴走っぷりはかのイ・ビョンホンを彷彿。

f:id:kuro_matsu2023:20180519005657p:plain

新たに「チンポコから真珠」という諺を作り上げた本作の陰の功労者、音尾琢真。役所ドクターの持つメスによりペニスが隠れる、というまるで『ToLoveる』のような隠し方。きっと矢吹健太朗へのリスペクト…………

f:id:kuro_matsu2023:20180519010227p:plain

ひとつ屋根の下の組のために辛抱を試されるあんちゃん江口洋介。実はヤクザは初らしい。2018年もっともドスが似合ってた男(漢)に与えられるベストドスニスト賞はこのお方でいいでしょう。

f:id:kuro_matsu2023:20180519011725p:plain

映画に一輪の華を添えたジ・アネゴこと真木よう子の強かさ(弧の言葉ってどうも悪く使われてしまうが元はいい意味なんですよ)。極妻シリーズ復活したら真っ先に彼女を!ノー・パイオツですが、あのドSっぷりと肝っ玉が見れただけでお釣りが来ます。

f:id:kuro_matsu2023:20180519010746p:plain

とにかく太々しい石橋蓮司は今回は歩くセクハラ製造機じいさん。「びっくり、どっきり、クリトリス」は流行語大賞にもうノミネートされましたよね?え、されないの?なんで?

f:id:kuro_matsu2023:20180519011342p:plain

今作の竹野内豊(ティッシュを鼻に詰めてるグラサン)、出だしから優等生キャラを利用した「うわ~コイツ最低」感がたまりませぬでした。千葉真一とか渡瀬恒彦とかあそこら辺を意識してるのかな。

f:id:kuro_matsu2023:20180519012315p:plain

福山雅治の座は俺だ!あんちゃんは渡さねえ!狂犬シャブ打ち中村倫也。8割くらいはこの顔で、あとはずっと目が死んでました。下の世代から上のお御所ひっくるめたヒエラルキーをぶっ壊すぜヒャッハー!というマッドマックスのウォーボーイ魂を抱いたピュア(?)な青年。日本版ニュークス。

f:id:kuro_matsu2023:20180519013025p:plain

セクシーお色気枠はMEGUMI姐さんでしたが、素朴なエロ枠では生活感とこ悪魔感を自在に行き来したこの方。表情がコロコロ変わる。魔性とは彼女のことか。阿部純子…………恐ろしい子(白目)

f:id:kuro_matsu2023:20180519013436p:plain

役所広司と旧知の仲である右翼団体のキーパーソンはピエール瀧。『凶悪』のような名フレーズはぶっこみませんでしたが、立ってるだけで威圧感がハンパじゃない。なのに、恐妻家。猟銃を奥さんにブッ放されてオロオロする場面はラジオで聴いてるような素の瀧さんで可愛げがあった。

f:id:kuro_matsu2023:20180519013805p:plain

「シャブをしゃぶしゃぶに入れて"シャブしゃぶしゃぶ"じゃあ!」的なファンタジィな極道めしはこういうシチュエーションで食らうのでしょうかね。

f:id:kuro_matsu2023:20180519014125p:plain

ガリガリ君のように机の脚を銜えさせられ「志村後ろ~」状態にされてるのは石原プロ所属岩永ジョーイ。彼はHiGH&LOWにも出ていて、そこではクルクルナイフを振り回し、自分もクルクル回る、中国雑技団顔負けの驚異的な身体能力を発揮。その上、しゃべるだけでむかつく某ネット論客のような煽りスキルの高いツラ。素晴らしい才能です。天は二物も与えたんですね。

f:id:kuro_matsu2023:20180519014511p:plain

鶴瓶の息子を跪かせ、お行儀悪く脚を放り投げる竹野内豊。顔の良いクズ。

f:id:kuro_matsu2023:20180519014732p:plain

中村獅童をもってしても、存在感が霞む男たちの世界。いたっけ、こんな人。

f:id:kuro_matsu2023:20180519015533p:plain

f:id:kuro_matsu2023:20180519015023p:plain

松坂桃李と『シンケンジャー』で共演したじいや・伊吹吾郎デカレンジャーの赤・さいねい龍二も出演しているニチアサになじみ深い「大きなお友達」には嬉しいキャスティング。さいねいさんは広島の方だそうです。そういえば『SPEC』でも広島弁だったわ。

f:id:kuro_matsu2023:20180519014853p:plain

f:id:kuro_matsu2023:20180519014926p:plain

 おしまい

 

*1:今作新兵モノとしても非常に秀逸で、近年近いアプローチものものに『フューリー』と大根仁『SCOOP!』がある。特に後者とは構造が非常によく似ていて、本人が意図しない部署に放り込まれ、暴力的で理解不能なボスのもとに尽き、次第にそのボスに惹かれて彼の魂を継承していく、というプロットは同じ。ただ、『虎狼~』はバディだったのに対し、『SCOOP!』は福山雅治がちゃっちゃと二階堂ふみに手を出しちゃうので、そこに大いなる隔たりがある。やっぱりあそこは男女とはいえあくまでもバディという位置付けであってほしかったな、という今さらな不満

『君の名前で僕を呼んで (Call Me By Your Name) 』

官能の熱を帯びる肉体、恍惚する肉体、高揚する肉体

あー、暑い、暑い。ついこの間の3月の末なんぞ、平気で気温が1ケタに達しておったのに。春を飛び越えて、夏にスキップ。生粋の暑がりで、汗っかきなので、堪ったものではない。しかし、そんな文句をブツクサ言いつつも、ウキウキする気持ちには嘘がつけない。スキップといかずとも、足取りは軽い。どこのカフェも路面にテーブルを出しては、こちらにビールの誘惑を持ちかけてくる。アイスクリーム屋はどこも行列。待ちゆく人は皆、肌を見せ、少しでも焼こうと裏路地では簡易ベンチに裸で腰掛ける強者も*1。そんな景色を眺めていたら、やはり同じ欧州はイタリアの「あの夏」を思い出さないわけにはいかない。エロスがアスファルトから湧きたつ熱気や青々とした草木に絡みつく情念を燃やす夏。

君の名前で僕を呼んで』の淡く甘美なひと夏だ。

 

f:id:kuro_matsu2023:20180314033442p:plain

珍しく服を着ているふたり

f:id:kuro_matsu2023:20180314033321p:plain

映画の大半が服を着ていなくて、そしてまた裸のシーンの大半が濡れ状態だったような…………

 

描かれるのは、クラシックの作曲が趣味の少年エリオ(ティモシー・シャラメ)が、教授である父親(マイケル・スタールバーグ)が招いた大学院生の美青年オリヴァー(アーミー・ハマー)から次第に目が離せなくなり、彼女のマルシア(エステール・ガレル)と肉体的にと結ばれるも、オリバーのことが頭から離れなくなり、とうとう実り結ばれるまでの官能に満ちた恋。きらめく太陽に、目がくらむ青、原色のような緑。丹念な自然でむつみあう男たちと家族を映しだす。ひたすらに俗世からは超越しまくっていて、貴族のような暮らし向きなので、こちらは貴族の生活を絵巻にしてみてる気分。

まず、しれっとすごいのがティモシー・シャラメの語学力やピアノの演奏。あまりにも自然になんでもできちゃう。顔が非常に良い上に、なんでもできてしまうともはやこちらの立つ瀬がない、という感じもしてしまうわけだが、そもそも貴族の戯れを遠くから眺めているようなものなので、入り込む余地なんぞハナからないのであるが。アメリカで育ち、フランス語が話せ、しかもコロンビア大学ニューヨーク大学に通っている、と書くだけでもう参りましたと降参したいのに、イタリア語を1カ月チョコッとやって習得、と来るもんだから、お手上げ。ドイツ語までさらりと出てくる。とにかく器用。器用貧乏ならぬ器用富豪。*2

音楽を担当するのは、スフィアン・スティーヴンス。かねてからの大ファンなので、今作での抜擢は大喜び。どの曲もため息が出るほど美しく、幸福感に満ち満ちていながら、鬱鬱とした文学性もあり、彼のパーソナリティがそっくりそのまま映画に寄り添うような印象。もともと躁病のような、ケラケラ笑いながらほろほろ号泣するような、ピカソの『泣く女』のような、スフィアンの作家性はそのままエリオの過ごす夏の煌めきによりそう。相変わらずアレンジや音色の豊かさには惚れ惚れします*3

劇中のダンスシーンでかかるジョルジオ・モロダーインパクト抜群だが、冒頭での坂本龍一『M.A.Y. in the Backyard』にはさすがにギョッとさせられてしまった。不穏さがマックスで、この避暑地で殺人事件でも起こるのではないかとよからう推測が働いてしまったのが、安心ください、そんなことは一切起こらない

今作、ジャンル分けとして、BL映画*4に入れられる類のようだが、実はそうでもなく、前半はエリオとガールフレンドの恋を中心に描かれ、なんならガッツリとあんなことやこんなことをしているので、かなり濃厚なセックスシーン多め。エロいというか、アート性で誤魔化されているものの、相当生々しい部類だと思うので、カップルでご覧になられるなら特に鑑賞の際はご注意ください *5

しかし、『君の名前で僕を読んで』がBLとしてヌルいのかといえば、決してそんなことはない。僕はこれを発明的だと思ったのだが、エリオがアーミー・ハマー演じるオリバーのギリシア彫刻のような肢体を忘れられず、桃に己の陰茎を突っ込み、悶々とした性欲をぶつけ、それを(最悪なことに)オリバーに見つかってしまう、という爆笑必至のシーン。思春期あるあるなのかは分からないが、ああいうことって世界中どこでもやるヤツいるんだな、と性への飽くなき探求心を感じた。伊丹十三タンポポ』でも桃に指を突き刺し、中から汁をじんわり出すエロティックな場面があったが、そちらよりも牡蠣に一日を舐め挙げる役所広司の方が近いフェチズムがある。食欲も性欲も突き詰めれば「生」に繋がりますからね。直接肉体と肉体で交わりあう以上に、桃に吐き出した相手の白濁を果実ごと齧り体内に受け入れるという行為は濃厚なエロスがある。

あと超絶美少年エリオ君ですが、パンツをクンカクンカしたり、あまつさえ頭からかぶっちゃうんですから、盛りまくりも良いところでございます。

f:id:kuro_matsu2023:20180425061131p:plain

f:id:kuro_matsu2023:20180425054807p:plain

映画史に残る桃TENGAシーン、劇場では大爆笑に包まれておりましたが、表現としてはこれ映像にしちゃうか、という生々しさがありました

(ここから下では、物語の結末部分に触れているので、俗にいう「ネタバレ」がなされています。それゆえ、ネタバレを避けたい方は、お読みになるのを後回しにされるとよろしいかと思われます。とはいえ、決して、それを知ったからといって、物語の深みや面白味は損なわれませんが、ただ、どんなコンテンツでも何の前情報もなしに見るというのが基本的には一番だとは思いますので、そういう先駆け的な行為がどうしても性に合わない方は、やはり、先に映画本編を見て頂くほかはありません)

f:id:kuro_matsu2023:20180425055133p:plain

f:id:kuro_matsu2023:20180425055230p:plain

f:id:kuro_matsu2023:20180425055003p:plain

f:id:kuro_matsu2023:20180425054655p:plain

f:id:kuro_matsu2023:20180425054441j:plain

f:id:kuro_matsu2023:20180425054410j:plain

見終わり、何が特に良かったか考えると、やはり主人公エリオの父親であるマイケル・スタールバーグと母親のアミラ・カサールのパールマン夫婦の存在なのだろう。

この映画、おもしろいことに、エリオという少年が恋に身を焦がす姿を描きながら、彼のこころとは離れたところにカメラがある。彼の歓びや痛みには表面上さらりと触れる程度で、ズイズイと見る者に感情移入させまいと一線引いたところに視点がある。エリオに自らを語らせることをせずに、その脇にいる父母の目線に我々観客を寄せる。

しかも、その両親はというと、決して彼らの子意地に足を踏み入れる野暮はせず、ひたすら見つめ、受容する。グザヴィエ・ドラン『トム・アット・ザ・ファーム』のような父性的な暴力性はない。エイズの前に時代を置いたこともポイントだろうか。同性愛映画ではステレオタイプ化してきた「ゲイに眉を顰める保守的な両親」といった存在はここでは排除されており、今以上に同性愛がファンタジーであったであろう偏見がはびこっていた時代では考えられないような実に感動的なスピーチが行われる。胸の痛みや悲しさは張り裂けるような痛みだが、人を殺すことはない。

ただ、数回見ると、実はこのスピーチは要らなかったのでは、という疑問が湧いてくる。確かに、観客の色眼鏡を外してくれる、すごく大切な役割で、ここで見る者はエリオ通りバーを詰めるこの映画の視点の正体に気付き、この人の言葉で今作が性差を超えた「愛すること」そして「受け入れること」について真摯でピュアな恋愛映画なんだと知る。しかし、この映画の肝心な部分はそこのみにあるのではないように思えた。

というのも、マイケル・スタールバーグが語らずとも、この二人の結末は明らかに提示されているのだ。それは途中、家を訪ねるゲイの老カップ*6だ。彼らはつまり未来のオリヴァーとエリオの姿そのものであることは明らかなので、痛みを受け入れることの大切さを語らずとも、あの二人が現れた時点でもう一つの悲しみが訪れることは提示され、そしてその先のどこで結ばれ合うことが暗示されている。と解釈できなくもない。

それまでは雲上人の優雅な遊びを傍から見物するようなカメラが、最後の最後にオリヴァーから結婚したという報告を受け、暖炉の前ですすり泣くエリオにすり寄り、彼以外の世界が一気に遠ざかる。そこでかかるのはスフィアン・スティーヴンス作曲の『ギデオンの視線』。ここで見る者は、ようやく彼の失恋を追体験でき、そしてもう一度あの夏の日々を回顧したときにまた別の熟れた果実の瑞々しい甘酸っぱさが舌を刺激するのだ。

恋は、甘く酸っぱいなんてのは炭酸飲料水のコマーシャルのようでベタだが、この映画で執拗に桃がモチーフなのもそういった意図があったのかもしれない。

f:id:kuro_matsu2023:20180425054629p:plain

 

f:id:kuro_matsu2023:20180307045847p:plain

f:id:kuro_matsu2023:20180425055546g:plain

「君の名前で僕を呼んで」オリジナル・サウンドトラック

「君の名前で僕を呼んで」オリジナル・サウンドトラック

 


Sufjan Stevens - Mystery of Love (From "Call Me By Your Name" Soundtrack)

www.youtube.com

 

おしまい 

*1:なんでそんなに肌を焼くの、と聞くと「そりゃモテたいやん」というこれ以上にないシンプルな答えが返ってきました

*2:相手役のアーミー・ハマーもやんごとなき出自の御方なのだが、こちらはすでに周知の情報かもしれないので省きます。気になった人はググって

*3:名盤『キャリー&ローウェル』『イリノイ』と出すアルバムどれも名盤ですが、ここは敢えてこの狂気に満ちたクリスマスアルバムを http://amzn.asia/dgPBuP0 

*4:LGBTものというべきでしょうか

*5:ところで、セックスシーンで大胆な脱ぎっぷりを見せたエステール・ガレルのヌード、こちらとしては思いきっりタイプの顔なので、美青年と美少年のイチャコラに加えこんなものまで見れるのか、と得した感じがあったのだが、肝心の男の方の脱ぎが女性に比べるとヌルかったので、これは「脱ぎ損」というヤツなのでは、とひっかかってしまった。契約にかかわる諸々の事情があったらしいけれども。

*6:原作者アンドレ・アシマンと製作者ピーター・スピアーズ

マジカルで鮮やかな色した景色の中で走りぬける子供たち『フロリダ・プロジェクト』

f:id:kuro_matsu2023:20180314035207j:plain

僕がいる街は、大都市とはいえなくとも、程よく自然(厳密に定義された「自然」とはまた異なる)があり、そこそこに観光でにぎわっていたり、清潔な住宅街があったり、大学があったり、物騒な情勢にしては治安も良い。しかし、もちろん、社会というものがある限り、貧富の差というものが影を落とし、少し離れて目を凝らすと、とても楽観視できないような現実が見えてくる。少し人気のないところに行くと、時折子どもがチップや僕が手に持つスマートフォンをねだってくる。町の中央にある駅に降りれば、みすぼらしい格好で歯が抜けて目も虚ろな(おろらくヤク中だろう)女性が、「コーヒー一緒に飲まない」とそれしか言うことがないのかというような、決まり文句でお金を恵んでもらおう(まあ毟り取ろうというか)と縋りに来る。無論、そんなものに構ってしまうわけもなく、目も合わせず通り過ぎるのだが、やはりどこか心苦しいものも感じ、そういう感情になっている自分が見え透いた聖人気取りの偽善者のように思え、また空しくなる。街を歩いてウィンドウショッピングなんぞしていたら、ボロボロのブランケットに身を包んで寒さに凍えたながら、どこの国の歌なのかよくわからない歌を歌い、なんとか神(いるのかいないとかではなく)に縋ろうと毎日の習慣のように天を仰ぐ人々がぽつぽつといる。警察に囲まれ、尋問されているのをこっそり聞くと、不法就労かどうかで問われていたり。人が忙しなく行き交う裏で、そうして苦しい生活が淡々と進んでいく。

同様の感覚は、日本でも味わったことはある。例えば、自分は祖父母の墓参りに決まった時期になると京都市内へ行くことがあるのだが、車で帰るときに、よく。もちろん、彼らの日常を不幸せだとか我々が断定できることもできないし、そんなものは不遜以外の何でもない。ただ、やはり、あのどこかの楽園のような描かれ方をしていることから、そう離れちない場所にある、そうした風景を見ると、どこ痛ましい気持ちにもなって、またそこで自分の偽善的感情にうんざりするのである。

まあここまで歴然と目に見えるような貧困でなくとも、至る所に、格差というものは存在し、社会というものが持続している間は、どうしてもそういった辛い現実は生まれてしまうものだ。今最も世界で危うい均衡を保っている国であるアメリカはフロリダ州にも、当然ながら格差というものがあるらしい。パブリックなイメージとしては、青い海に、だだっ広いビーチ、といったものが見識の狭い時分のような人間でもパッと浮かんでくるものだが、現実はやはり太陽カンカン照りということもないらしい。2016年にナイトクラブで起こった悲惨な銃乱射事件に、2018年にも高校で乱射事件が起こり、17人の命を奪った。このままいくと、しばし銃規制云々の方に話が伸びてしまいそうなので、打ち止めにするとして、煌びやかに富裕層が反対に、やりきれない現実というものが存在する。そしてもっと悲惨なことは、「楽園」に住む人間は、その中から見える外の景色には微塵も関心がないのだ、という現実。

f:id:kuro_matsu2023:20180416195515p:plain

さて、いつものようにくだらない(いや、くだらなくはないのだが)前置きがまたズルズルと長引いてしまったが、そういった現実のあれこれがぼんやりと観賞後に浮かんでくるような映画『カリフォルニア・プロジェクト』。

舞台はディズニーワールドのモーテルの近く。スポットが当たるのは、そこでその日暮らしを営むシングルマザーのヘイリー(ブリア・ビネイト)と娘のムーニー(ブルックリン・キンバリー・プリンス)。安モーテルの管理人ボビー(ウィレム・デフォー)は子どもたちの悪戯を優しい目で見守る。ヘイリーは仕事を解雇され、モーテルの家賃もロクに払えないので、子どもたちはたくましく、そして楽しそうに、釣銭を貰いにいったりご飯を恵んでもらったりする。しかし、そんな日常は、ムーニーとヘイリーの起こした事件によって崩れていく。

終始、子供が気まぐれに絵具で塗りたくった絵のような、パステルカラーの映像に見惚れてしまうが、そこに影を落とす売春や貧困は暗い。表面的な色彩の鮮やかさによって、よりその表層性にある種の薄気味悪さのようなものが加わる。間接的なアプローチにより鮮明に映し出される現実、というものはウェス・アンダーソンが『グランド・ブダペスト・ホテル』でも行っていたことだが、生々しさの度合いではこちらの方が数段上である。明るい「夢の国」をうたう一方で、差別をはじめとした現実の問題を炙りだす近年のディズニーの『ズートピア』のアプローチとも実に似通っている。陥った状況は大きく異なるが、同様のシングルマザーが直面する厳しい現実を描いた『ルーム』とは比較すると面白い。

(ちなみにディズニーはこの貧困問題に対して、基金に50万ドルの寄付をしたようなので、この問題はもはや企業レベルでどうにもならない域にあるのかもしれない)

f:id:kuro_matsu2023:20180416211256j:plain

 

子どもの視点で映画を進めていくために、子役の演技がとても的確に、そしていやらしくなく見せていたのだが、ショーン・ベイカー監督はやはりというべきなのか、きちんと是枝裕和『誰も知らない』を事前に見返したらしい。信頼できる。もちろん、ブルックリン・キンバリー・プリンスちゃんの演技が上手なのも一役買っている。しかし、そこに頼り切らずにあるがままの子供本来の姿を作りだすことに成功している。

子供たちの悪戯は微笑ましいものの割と容赦がなく、言葉遣いは粗雑。その粗雑さゆえに、彼らがおかれてしまっている抜け出せない貧困の沼の深さ、ひいてはそこから垣間見えるピュアネスが捕まえる大人たちの悲しみまでもが浮き彫りになる。

すぐ近くにはディズニーの夢の国が見えるのだが、彼女たちを囲うありふれた日常も「子どもの視点」によって均一化され、豊かでミラクルな世界なのであることに気付かされるのである。

母親役の俳優さん、聞くところによると、演技素人のインスタグラマーなのだそうだが、未経験とは思えないし、とてもシングルマザーとしてリアリティがある。キャスティングが実に慧眼。下手に肌がキレイで金のかかってそうな綺麗な女優(そう思うと『ルーム』のブリー・ラーソンの身をやつすような気合いはとても素晴らしかった)を使うよりも生々しい。描きようによっては、ただただ怠惰でダメな母親にも映りそうだが、そうはせずに、子どものまま身体だけが大人になってしまった大人が、貧困に抗っていかなければいけないという厳しさを、視点が子供だけに偏ることなく丁寧に捉えている。ムーニーのことを愛していて、だから身体を売らなければいけないと決断する夕暮れに胸が痛む。

ウィレム・デフォーの瞳もとても素晴らしい。語らずとも滲み出る人情味。キャリア史上最高の演技、という前評判に見合う名演を見せつけてくれた。ただ怒鳴るだけじゃいけない。しっかりと子供を見守ることの大切さに気付かされる。彼の存在はこの映画においてクッションのような役割を果たしている。

f:id:kuro_matsu2023:20180416205116p:plain

「フロリダ・プロジェクト」を見たときの既視感が引っ掛かったのだけれど、長谷川町蔵氏のツイートでNHKドキュメント72時間」と表現されていて、非常にスッキリした。川栄李奈鈴木杏のナレーションが聞こえてきてもおかしくないくらいである。

しかし今作には、ナレーションも余計な会話も必要ない。そうした歪んだ生活を、無駄な言葉で装飾せず、きれいなパステルカラーで訴えかける。子どもの視点で見える「小さな世界」は、想像力に満ち満ちていて、まさしく「夢の国」そのもの。それでも、その無垢で純粋な視点だからこそ、その外に見える抜け出すことが許されないグロテスクな貧困が生々しい。

(それにしてもこの作品がアカデミー賞が選ばれなかったことにスノッブの考えがわからない、と述べたそうだが、ごもっともだ。 嘆かわしい限りである)

この映画は、「夢の国」にいる我々を含めたおとぎ話の国の人々に、同じこの世界に住む人々の存在を突きつける、重要な一作なのである。彼らは決して隠れているのではなく、目を向けていなかったにすぎないのだ。

ラストの演出をどうとらえるべきか。おそらく「よくわからない」というただの受け取り手のリテラシー不足・タイマンのような感想を抱く人もいるのだろうが、それではいけないのだ。本編が終わった後の世界は、そのまま地続きに今いる現実に繋がっている。目をそらしてはいけない。理解できない、では済まされないのだ。理解しようとする、その姿勢こそがショーン・ベイカー監督が今作で促そうとするものであるはずなのだ。語らずとも、すべてこの映画で語られている。

子供映画としても、ヤングアダルトものとしても、秀逸で、こんなポップでありながらリアリスティックなアート映画はこれまで見たことがなかった。夢の国にいるだけでは見えないエトセトラに目を向ける誰にでも優しい傑作。

f:id:kuro_matsu2023:20180416211146j:plain

f:id:kuro_matsu2023:20180314040326j:plain

おしまい

いつもポケットにハンカチを(ナンシー・マイヤーズ『マイ・インターン』)

人間というヤツの性質は、どうやらそう変わることはないらしい。よく「歳を取ると頑固になる」なんてのを聞くが、そんなことはないなずなのだ。今現在、口から唾を飛ばしながら、どうでもいいことにイチャモンをつけているような老人は、決して痴呆のせいではなく、元から彼(あるいは彼女)が、短気で怒りっぽい人間だっただけに過ぎない。逆に、歳を取っても、機知に富んでいる人は、若い頃からしっかりと物事によく目を凝らし、熟慮し判断を重ねてきた、賢明さがもたらしたものである。そう簡単に変われたら、誰も苦労しない。そんなことを考えながら、時たま、「無駄にこだわりだけが強い可愛げの欠片もないクソジジイ」として、周りから忌み嫌われる老後の己の姿を想像しては、ぞっとしてしまう。下手なホラーよりも肝が冷える話だ。

f:id:kuro_matsu2023:20180103112033p:plain

世の中には「お仕事映画」なるジャンルがある。最近のものだと、『シェフ (ジョン・ファヴロー監督)』や『バクマン。(大根仁監督)』など良作は多い。そんな豊かで共感度の高いジャンルの中でも、屈指の良作だと確信しているのが、2015年公開『マイ・インターン』。主演は、これまでにこやかな笑顔と共に、数多の人間を葬ってきたロバート・デ・ニーロと、『プラダを着た悪魔(個人的には嫌いな部類の作品だが)』『レ・ミゼラブル』のアン・ハサウェイ。監督・脚本には『恋愛適齢期(これも良作なので是非)』のナンシー・マイヤーズ。もうこの時点で十分に盤石ではある。

(ただ、なぜか今作のロッテントマトの点が低く、こういう時ほど批評家ってアテにならないな、とは常々思う。特に『最後のジェダイ』がいい例だ)

恋愛適齢期(字幕版)

恋愛適齢期(字幕版)

 

デ・ニーロが、妻を失い、生きがいを求め、インターンに応募する70歳の老紳士ベン。ハサウェイが、イケイケバリバリに、ファッション通販サイトを経営する女社長ジュールズ。となれば、あらかたの人が「古臭い爺さんが、現代の女社長に振り回されつつ、なんか温かい心の交流的なアレで、ちょっとしたラブロマンスとかしちゃって、最終的に説教臭くなるヤツなんちゃいますの?」なんて邪推が働きそうだが、ところがどっこい、そんな安易なことはさせない。だって脚本がナンシー・マイヤーズですよ。見慣れすぎて欠伸が出そうな「若者vs老人」の衝突なんてやらない。そんな臭いドラマを用いなくても、しっかりとした脚本と演出があれば、スマートな映画になるのである。

f:id:kuro_matsu2023:20180103123752j:plain

「お仕事映画」だから、まず最低限として、「お仕事」の光景を、魅力的な映像でシンプルに発信しなければいけないのだが、この映画のそれは非常にスムーズで、明快だ。冒頭、デスクで電話対応するアン・ハサウェイの社長が、次の仕事のスケジュールを確認しながら自転車に乗り、そこについていくと、社内で行われるアットホームなパーティーの様子や散乱するデスクの惨状、という会社の雰囲気と問題点がサラッと明らかになり、シーンを跨いでカメラが到着するのは、別の撮影場で、インターンのことを告げられる。この一連の流れで、もう映画として良いことが明白で、軽い気持ちで見れないぞ、と気持ちも引き締まる。主役二人以外の脇に映る、作品の筋とは関係のない人たちの「仕事」もしっかりと丁寧な撮り方で見せているのも、この映画の美点と言っていい(髭を剃る理容室ひとつとってもそうだ)。

f:id:kuro_matsu2023:20180108081400j:plain

世代間のギャップ描写も使い古された、しょうもない衝突を使わずに、ちゃんと小道具で表現し、尚且つその人柄も説明する。それだけでなく、その世代間ギャップを感じさせるFacebookを、意思疎通のツールとして機能させるスマートさ。

f:id:kuro_matsu2023:20180108081509j:plain

f:id:kuro_matsu2023:20180108075515p:plain

インターンとして合格し、席に付いたデ・ニーロが取り出したのは、道具の数々で、これまでの勤勉な仕事ぶりを窺わせる。彼がただ時代に乗り遅れているわけではない、という証左として、よく見かけるステレオタイプな「パソコンのキーボードが打てない」なんて陳腐な表現も廃していることにも注目していただきたい。ここまでで、彼がどれだけ柔軟にこれまでの会社に務めてきたのか、明白だ。さらに、

「ハンカチって意味ある?」

「女性が泣いたときのため」

という受け答えだって、普通ならば、なんだかスケベだなあ、と思ってしまうわけだが、ここまでの彼の人となりの説明によって、スキのない気転の利いた返答であることがわかる。ベンが「仕事」に真摯な人間である上に、紳士としての引きの巧みさも加わり、老獪で思慮深く、前に出過ぎず、常に全体を見まわす人物であることを、押しつけがましさなしに教えてくれる。誰かがやってほしいことを察して、全て先回りで率先して行う、という途轍もなくすごいことを、表面上何のそぶりも見せずに、当たり前のようにさらりとこなす。これはそのまま「一見どこにでもいそうな洞察力に満ちた老紳士」という姿を、佇まいだけで表現する老獪なロバート・デ・ニーロの演技にそのまま直結しているのかもしれない。そして、それらを余計な演出を一切使わずに、ミニマムにさらりと見せる監督の手腕。「サヨナラ」という茶目っ気のある挨拶だって、なんというかあざといくらいに目ざとい。

f:id:kuro_matsu2023:20180103112737j:plain

アン・ハサウェイの社長像も新鮮で、彼女がステレオタイプな高圧的で嫌味な人間のようにはキャラ付けせず、自分で電話対応もし、どんな仕事相手にもポジティブさを失わない熱心さを見せ、その裏で1人の人間としても苦悩している(ママ友という社会は歪で面倒である)のも臆面なく見せてしまう。ただ、今作それら以外にはどうしても引っかかり、「単純にこの人スケジュール管理がド下手なのでは」という社長としては圧倒的にダメダメな部分が目に余ってしまうのは否めず、今後が心配になってしまうところではあった。

彼女のチャームとして「笑顔」が挙げられるのだが、今作はその「笑顔」の使い分けが実に巧みで、それを自然とリラックスして、自由自在にこなしている様子から、伸び伸びと演技できていることもわかる。作中での夫婦問題は意外にあっさり完結してしまったように思えたが、あれ以上やるとジメジメしてしまうから、これくらいがよかったのかもしれない。まあ、社長がダメダメなのも、華麗なデ・ニーロを光らせる小道具と思えば、そこまで気にはならない。

f:id:kuro_matsu2023:20180108081613p:plain

あと、この映画、シンプルに発話が素晴らしく、聞き取りやすい。スピードには緩急もありながら、「英会話の勉強にうってつけ!」なんて看板を飾りたいほどに教科書的で、耳に滑らかに入ってくる。聞いているだけで、心地がいい会話というのは、これ結構難しいので、参考になるんじゃないだろうか。オールドスクール(デ・ニーロのスーツのように)なんだけど、肩肘張らないで、くつろげる空間も確保されている。脚本ももちろんこれに貢献しているのだが、やはり主演二人の演技による賜物であることには違いない。アダム・ディヴァインのアクセントも個人的にはかなりフェチだ。

f:id:kuro_matsu2023:20180108081242j:plain

 

目を凝らすと、色々なところに映画を形作るエッセンスがちりばめられていて、わかりやすいようで、実はすごく細かい「目配せ」の映画なのだ。それでいて、誰が見ても簡潔で、共感しやすく、視覚的に気持ちがいい。

現実にはこんなことあり得ない、と思う方も大勢いるだろうが、そこを「現実でもこういうあるべき姿にしていこう」という風になれたら、きっと世界はちょっとはマシになるのかもしれない。もちろん、そんなにすべてが上手く事が運ぶはずもないのだが。手始めにハンカチを持つことから始めてみてはどうだろう。


映画『マイ・インターン』予告編(120秒)【HD】2015年10月10日公開

 

 おしまい

 

Netflixで「どれから見ればいいのかしら?」と迷ったときの処方箋

もう既に各所で「Netflixなら○○がオススメ!」というのを見かけまくって、ウンザリしておられる方も、きっと多いことでしょうが(自分もわざわざそんなものは見ないし)、とはいえ、普段の会話で、比較的ストリーミングサービスに馴染みのない方から、「ヘイ、ユーはどんなの見てるんだい?」と聞かれることも少なくなく、憚りながらも自分のフェイバリットをレコメンドさせていただく機会が度々あるので、それならばもういっそまとめちゃいえばよかろう、と今回のまとめのような記事を書かせていただく次第でございます。「もう、そんなビギナー向けのナメたのはごめんだね」という方には既視感バリバリの見慣れまくったものになっていると思うので、他のブログ同様に筆者の自己満足的なモノと思っていただいて、サクッと読み飛ばしてもらえれば幸いです。

(尚、日々様々な良作が生まれているNetflixさんでございますから、随時更新していく予定です。あと、『ファーゴ』『ブルックリン99』『アメリカン・ホラー・ストーリー』など、見ていただきたいものはあるのですが、今記事ではオリジナルコンテンツ限定とさせていただきます)

kuro-matsu2023.hatenadiary.jp

f:id:kuro_matsu2023:20180107053220p:plain

悪魔城ドラキュラ』もグラフィックが堪んないですよ

ドラマ篇

『私立探偵ダーク・ジェントリー』

f:id:kuro_matsu2023:20180107054334j:plain

騙されたと思って、S1の3話くらいまで試しに見てください。で、騙された、と思ったら、そこでやめていただいて、なんだか気になるぞ、と思えば、そのままラストまで突っ走るのみです。多分後者なら、間違いなくその時点で、あなたはこの作品の虜となっていることでしょう。原題に『全体論的探偵事務所 』とあるように、一つの手がかりからどんどん追っていく、などという従来の探偵像はここになく、「すべての出来事は繋がっている」と、行き当たりばったりなのかなんだかよくわからない感じで、主人公ダークに振り回されるばかりの、我々視聴者とイライジャ・ウッド。終始一貫して、ダークがウザいです。でも、なんだか憎めない。というか、出てくる登場人物みんな愉快でかわいげのある。なんて思ってたら、あれよあれよと、これまでの不可思議な現象が一本の線に集約されて、とんでもないとこに着地する、なんともジャンル分け不可能な作品でございます。

 

『このサイテーな世界の終わり』

f:id:kuro_matsu2023:20180107055806j:plain

サイコパスの少年と、人生のすべてを変えたい少女が思いついたロードトリップ。けど、その道程は、思った以上に山あり谷ありで…。漫画が原作のブラックコメディ」という、公式の紹介文丸々抜き出した紹介文だけでも、説明十分なくらいなんですけど、これがもう個人的にはピカイチの大当たりで、近いうちにでも記事にまとめたいと思っております。20分が8話なんで、ちょっと時間的な物足りなさを感じなくもないですが、久しぶりにグッと来たロードムービーでございました。浅はかで、愚かで、短絡的な、若さあふれる青春ものという、筆者の大好物なのです…………ただのフェチなんですが。アレックス・ロウザーの虚無感が良いです。顔の良い男子に虚無を見出したいんですよ。

 

『ザ・クラウン』

f:id:kuro_matsu2023:20180107061555j:plain

薄い感想ですが、まあお金かかってますよね。お金かかってる上に、1話1話が重たすぎる。うっかり流し見なんてできないので、困ったものです。とてつもなく濃厚な人間ドラマでございます。正直こちらはビンジウォッチングには不向きなので、週一ペースで大河ドラマを見るくらいの気持ちで臨んでいただけたら、よいのではと。結構赤裸々で「こんなことやってもいいの?」という感じの描写が多々ありますが、91歳のエリザベス女王もお気に召されているようで、英国の芸能への懐の深さを感じます。マーガレット王女にヴァネッサ・カービーというキャスティングが見事すぎますよね。

kuro-matsu2023.hatenadiary.jp

kuro-matsu2023.hatenadiary.jp

kuro-matsu2023.hatenadiary.jp

 

映画篇

『マッドバウンド』

f:id:kuro_matsu2023:20180107081116j:plain

こちらも近いうちにまとめたいです。「傑作」と呼んでも差し支えないです。黒人差別を描いた作品は数あれど、こんな表現手法は見たことがありませんでした。ミシシッピの泥臭い農園を舞台に、白人の無意識の差別を描きながら、同時に黒人による黒人の立場も炙りだす、という何とも身も蓋もない現実がそこにはあり、叶わぬ友情に泣きました。メアリー・J.ブライジの好演も必見です。

 

『この世に私の居場所なんてない』

f:id:kuro_matsu2023:20180107081340j:plain

『ダーク・ジェントリー』に続き、イライジャ・ウッドくん出演です。いるだけでも、安心感があります。ダメ人間が似合う。迂闊な人々が引き起こす、トンデモ珍事はまるで『ファーゴ』のようです。小さな犯罪から、現実の世界のひずみを浮かび上がらせる手口なんかはまさしく。タイトルがドン臭い感じで嫌厭されそうですが、見逃し厳禁の一作となっております。90分程度の尺で、タイトに引き締まった脚本が魅力的で、クライマックスで見せるあの神がかり的なテンポの良さは芸術の域。

 

『スペクトル』     

f:id:kuro_matsu2023:20180107081820p:plain

ガジェットがめちゃくちゃカッコいいし(SFとしてはまず大事)、幽霊の新解釈にも感心しきりでした。オリジナル作品で、このクオリティを維持できるって、恐ろしい時代ですよ。ちゃんとこちらの予想を覆すようなプロットも面白いし、物語運びそのものはアッサリしているので好感が持てました。

kuro-matsu2023.hatenadiary.jp

 

ドキュメンタリー篇

実は、Netflixで一番見てほしいのは、ドキュメンタリーだったりするのですが、ちょっと手を出しにくいジャンルだな、という方もいらっしゃるはずなので、ピックアップしてお送りします。これ以外も、どれも高水準のもので、これからますますドキュメンタリー作品のプラットフォームとしても、市場を広げていくのでは、という充実っぷりです。

 

『イカロス』

f:id:kuro_matsu2023:20180107091448j:plain

薬物検査の有効性を実証するべく、自らドーピングしてロードレースに参加するという計画から、自体が思わぬ方向へと動いていき、国家ぐるみのドープング不正を暴いていく、というドキュメンタリー。関わったのがWADAのラボの所長だったせいで、事態が全く様相を変え「偶然撮れてしまったヤバい映像」感が孕んでいくこのドキュメンタリーの醍醐味には、ゾクゾクしました。太陽に手を伸ばしすぎたあまり、偽りのロウの翼が溶けて落ちるワケですね。いやあ、ホント大変だったと思いますよ。スタッフめっちゃ怖かっただろうな、という緊張感が走る怒涛の後半、見ているこちらがビビってしまいます。この作品を見てしまうと、プーチンをネタになんかできなくなりますからね。

 

『ホットガールズ・ウォンテッド』

f:id:kuro_matsu2023:20180107093052p:plain

アメリカのポルノ業界の悲惨さを赤裸々に綴ったドキュメンタリー。AV女優の裏側に迫った内容が主なのだが、そこで繰り広げられる虚無な日々が切ないやら。お金も稼げて、セックスで有名になれて、なんて甘い話あるワケはなく、なんとも苦しい現実。当たり前のように消費されて、捨てられる悲惨さ。『~オンライン・ラヴ』という後続シリーズも面白いので、そちらも。

 

『シェフのテーブル』

f:id:kuro_matsu2023:20180107093647p:plain

この手のドキュメンタリー、芸術の方に走りすぎて、食がおろそかになっているような感じがして、苦手な人もいると思うのですが、 このシリーズはちゃんと「食べること」の大切さを教えてくれたりします。シーズン3の韓国の尼僧、チョン・クワンさんのエピソードがとても、生き方としてビューティフルでした。悟りの感覚、学びたいものです。あと同シーズンの3話目もオススメ。

 

と、まあまだまだ取り上げたいヤツがあるのですが、あくまで〈初級編〉的な位置付けなので、あまり深掘りするのは野暮ですし、各々が気に入ったものを見つければいいと思います。ビバ、ストリーミング引きこもりライフ!