ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

ノア・バームバック 『マイヤーウィッツ家の人々 (改訂版) 』

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『カルテット』で、坂元裕二は夫婦のことを「別れることができる他人」だと、松たか子に語らせていたが、兄弟(便宜上、兄と弟と書いただけで、兄と妹でも、姉と弟でも構わない)ならば、彼は何と喩えるのだろうか。

 

人が生まれてから、一番最初に属するコミュニティは、紛れもなく「家族」だ。「自分」について語るとき、切っても切り離せないのが「家族」であることは、疑いようのない事実である(血縁上のものだけが「家族」ではなく、ありとあらゆる形の家族が遍在しているので、広義の意味で使わせていただいている)。そこで、どのような立ち位置にいて、どのように愛情を受けるか。もっと些細なことかもしれない。ありとあらゆる要因が「家族」における「自分」を形成していき、それは人によっては、大人になって1人になったときに精神的支柱となったり、或いは、厄介な呪縛になったりするのかもしれない。

もう少し、「家族」を解体して見たときに、「1人っ子」か「2人以上の兄弟」のどちらで育ってきたか、といった区分けができないだろうか。これはあくまでも、個人的な実感と、これまでの短い人生での観察結果に過ぎないのだが、兄弟の有無やその構成は、人格形成において、かなり影響を及ぼしているらしい(ここには、経済的な要因も大いに含まれてしまうのは、悲劇的事実である)。

僕も(自分の話になってしまうのは恐縮なのだが)、1人っ子の期間が長かった一方で、歳の離れた弟を持っている身として、兄弟の有無による、両親からの扱いの差、というモノは敏感に肌で感じたものだ。

他の家庭と同様、僕の親も、決して完璧な人間ではない(そんなものは幻想で、そもそも自分は愚息と呼称されるに相応しい、ダメダメな息子なので、親のことをそんな風に判別する資格を持ち合わせてはいないワケだが)。なので、腑に落ちないことは、大人になるまでに、沢山あったことにはあった。それでも、ありがたいことに、愛情をかけて、時には突き放して、大切に育ててくれたから、ダメ息子なりに一生をかけて恩返しをしなくちゃいけないな、と幼少期から回顧して思うことは暫しある。歳を取ったというヤツなのだろうか。今でも両親への感謝は絶えることはない。

ただ、中学年で、弟が生まれたことで、やはり「1人っ子」ではなくなったことへの寂しさは、思い返すとあったのかもしれない。いや、明確にあった。

弟ができるまでは、世間が想像するような、ザ・1人っ子ライフを満喫しており、両親の視線が目移りすることもなく、祖父母などの親戚に会えばしつこいほどに「カワイイカワイイ」と持て囃され、言ってみれば、温室にいる蝶のように重宝されていた。「初孫」というのも、特典ポイントとしてはかなり大きく作用していたはずだ。我が人生で、もうこれから老いぼれてくたばるまで、絶対に訪れることはないであろう、アイドル黄金時代である。

それがどうだ、弟ができた途端、全く状況が一変してしまう。父も母も、歳とってできた子ども、ということで、暇さえあればビデオを回し、親戚は一様に我が家のニューカマーに付きっきりになってしまった。俗にいう、アイドルからの転落期だ。友達作りもこの頃から下手くそで、内気で家で遊んでばっかの少年だったので、せいぜい飼っていた犬しか遊び相手はおらず、より一層本に逃げ込んでしまうものだが、それはまた別のお話。

1人っ子であったことは、孤独への間に合わせの耐性を生み、また、弟がいるという比較対象がいることは、小さなヒエラルキー社会での格差を生んでしまうことになる。思春期になると、1人で籠ることが増え、親に本心を打ち明けることもなくなって、幼いころから活発で運動神経もいい弟見ると、たまに小さなジェラシーを抱くようになったりした。親も、そんな息子だから、自立のための第一段階なのだと思って、放任的になっていった(これは後から直接聞いた話だ)。音楽の才能もある彼は、当然常に関心の的になって、親戚が集まると、何のとりえもない自分はいたたまれなくなって、1人で隅に座って、関心のないようにふるまっていた。でも、当然そんなことはなく、ただ単に心の底から、弟が羨ましかったのだ。与えられても、何も返せない、浪費するだけの情けない期待外れの自分とは違うことに。そうやって、1人っ子と兄弟持ちのハーフという、面倒でくだらない厄介な身の上のまま、中二病気取りの少年は、表層的に大人になっていったのであった。

一応、明記しておくが、別にそのことを未だに恨んでいるとかではなく、そんな家庭は誰にでも起こりうる自然なことで、単純に子供心に寂しかった、というただそれだけである。それに、弟がいてもいなくても、このまま寂しい少年期を過ごしていた気もするし、逆にこのまま1人っ子が長引くと、今以上にコミュニケーションに多大なる障害を抱くようになっていたのかもしれない。あと、僕にとって弟は歳の近い息子を見ている気分で、あまり「兄弟」という感じもせず、すごく仲良しであることも付け加えておく。

話が脱線してまったが、要は、自分を語る上では、どうしても「家族」というものは、不可避であるということが言いたかったのである。

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さて、ようやく本題に入るとして、これから紹介させていただく『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』も「家族」や「兄弟」のややこしさや面倒くささ、そして、それらへのほんの少しの肯定を描いた、素晴らしい家族の肖像をとらえた、とてもささやかな小品である。

監督は、ノア・バームバック。これまでの作品は『ベン・スティラー 人生は最悪だ』『フランシス・ハ』『ヤング・アダルト・ニューヨーク』と多作で、どれも高い評価を得てきている、有能な監督である。

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NYはマンハッタンに住む、彫刻家である父ハロルド(ダスティン・ホフマン)の回顧展のために集まった、疎遠だったマイヤーウィッツ家の3人の兄弟。長男のダニー(アダム・サンドラー)は、元はピアニストであったが、主夫として娘のイライザを育て、彼女の大学への進学を機に、離婚することになっている。長女のジーン(エリザベス・マーヴェル)は、会社勤めをしており、家庭内では存在感が希薄なことから、父には度々無視されてしまうことがある。次男のマシュー(ベン・スティラー)は、LAで暮らし、建築コンサルタントとして成功を飾っており、ダニーやジーンとは異母兄弟である。最も父の寵愛を受けたマシューであるが、芸術への道を歩まなかったことから、父へ負い目を感じており、ダニーとはどこか壁があって、どうやらわだかまりがあるようだ。

(継母役には、エマ・トンプソンと、これまた豪華すぎる役者が勢ぞろいである。ただでさえ地味な作品なのに。あのクソマズそうなサメのスープはエキセントリックすぎる笑)

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この父親が疫病神そのもので、過去の栄光に縋り続け、盟友を前にケチをつけずにはおられず、有名な女優(シガニー・ウィーバー!)に鼻の下を伸ばし、レストランでは隣のテーブルからワインを失敬する、トンデモっぷり。

こんな父親を持ったからには、まっすぐに育つはずもなく、癇癪を起したり、離婚したり、ジーンはさらに深い闇を抱えていたり…………3人兄弟はそれぞれに複雑な問題を抱えながら、家族の不和は、回顧展に向けて、あらぬ方向へ転がっていく。

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今作は、1人の身勝手でモラルが欠如した(あんな父親は勘弁である)頑固な芸術家の父に振り回されて、大人になった3人が、再び集ったことで起きる騒動から、家長である父がこれまでの人生に落としてきた過去の影と向き合い、「家族」の呪縛から解放されていく物語だ。

 

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これまでも、演技力を見せつけてきたアダム・サンドラーだが、『マイヤーウィッツ家の人々』は彼のキャリアハイになったのではないだろうか。妻とは離婚が迫っている上に、家族の中で疎外感を味わい、怒りの矛先が見つけられず、すれ違う見知らぬ他人の車に、窓越しから罵声を浴びせることが精一杯の、惨めっぷり。伏し目がちな彼の視線が、胸を締め付ける。ちょっと『マンチェスター・バイ・ザ・シー』のケイシ―・アフレックを思い出した。

今作、駐車場を用いた、冒頭のキャラクター説明には「ハハン」と感心してしまった。場所が空いたと思ったら間に合わず、必死で探しても、車をなかなか止めることができないダニー。駐車位置によって、彼が、マイヤーウィッツ家においてどんな立ち位置にいるかを、端的に説明する手腕は、見事の一言。衣装による心情表現もユニークで、ダニーが常にだらしがなく(さらには足を引きずってもいる)、対照的にコンサルタントのマシューが小ざっぱりとしたセットアップなのも着目したいところ。

会話劇は、坂元裕二の脚本のようで、テンポがいい。互いに繋がりたくても、どこかちぐはぐで、パズルのピースがキッチリとハマらないように、むず痒くもどかしい会話から、心のすれ違いを的確に表現している。会話が終わり切らないところで、唐突にブツリと切られるスピーディな編集もコミカルである(ジーンの髪型がいきなり変わった切り替わりにはクスッとした)。

音楽を今回手掛けたのはランディ・ニューマン。彼お得意の泣きメロは今作でも実に効果的に生かされている。新しい生活への一歩を踏み出す娘イライザと、過保護気味で子離れができない無職の父ダニー。そんな不器用で愛おしい関係性が、2人の連弾による演奏によって紡がれ、これがまた泣かせる。


Genius Girl - The Meyerowitz Stories

僕は彼らのような、ある種悲劇的な生い立ちを辿っておらず、基本的には恩恵を受けて育ってきたので、共感する気持ち自体はさほどないのだが、彼らの悲しみや困惑は切実に伝わってきて、そこにアダム・サンドラ―とベン・スティラーの名演が重なって、心臓に「どすん」ときた。自分の家族とは被る要素はあまりないのに、これが不思議で、その摩擦もパンケーキのような甘い愛おしさが湧いてくるのである。

 

所詮、家族だって血が繋がっている程度の他人に過ぎなくて、別にトラウマを克服しなくたっていい。その傷だって、自分を形成する一つの証であって、人生は思い通りにはいかないし、どうあがいたって、坂道を前に転んでいくしかないのだ。親近感は湧くが、共感こそはできない、この滑稽な再生物語にそんな風に勇気づけられた(なんとも陳腐な表現である)ような気がした。めんどくさくて、鬱陶しくて、ままならない。だから、愛おしい。

 

なんだかひどく辛い家族モノのように思えてしまうかもしれないが、あくまでこれはコメディである。大いに彼らの悲喜こもごもに笑えばいい。

アダム・ドライバー(今作でもかわいげのある役で出演してましたね)主演の次回作も楽しみなノア・バームバックが書く家族の物語を、ご覧になられてはいかがだろうか。

 

(つらつら書いているうちに、「あー、これ年間ベスト20に入れるべきだったのでは?」と未練がましくも、後悔し始め、過去ブログを丸ごと修正しようか、うじうじなんやでいる次第。「~ベスト」なんてアテにゃならないもんですね。なんにせよ、振り返れば振り返るほど、大事な一作になった)

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kuro-matsu2023.hatenadiary.jp

 

おしまい