誰がために人は泣くのか(湯浅政明『DEVILMAN crybaby』)
「デビルマン」を信じることはできませんか?
永井豪という漫画家で、最初に頭に浮かぶ作品といえばなんだろう。男子のスケベ心を鷲掴みにした『キューティーハニー』だろうか。それともフィギュアで遊んだ方も多い『マジンガーZ』だろうか。しかし、それ以上に、もっと強烈な個性を放ち、未だに語られながらもオリジナリティは廃れず、後々に続いていく様々な傑作に、そのDNAが脈々と受け継がれていった作品がある。それが『デビルマン』だ。
といっても、自分にとって、『デビルマン』は前に挙げた2作と違って、不勉強ながら、あの伝説的な駄作として悪名高い実写版*1、有名な「外道!貴様らこそ悪魔だ!」という名言、ヒロインの絶望的な末路、など、さして情報がなく、非常に頼りない断片的な知識量で、とてもファンとは名乗れないレベルなのだが、それでも度々アニメや漫画を読んでいると「あー、これは『デビルマン』だなー」とニヤニヤすることが多々あり、それほどまでに日本のカルチャーに深く根付いて継承されている作品と呼べるのではないだろうか。先の広告が問題に放っているものの、思いつくだけでも『寄生獣』『うしおととら』『ZETMAN』『化物語』などが挙げられ、これらが実際に影響下にあったかどうかはさておき、類似したテーマ・設定のフォロワーが数多く存在する、古典的名作という位置付けには異論はないはずである。
そんな作品を、"あの"湯浅政明がリメイクするのだから、これは大事件。『マインド・ゲーム』『夜明け告げるルーのうた』とポップなイメージの作家なので、一見ギャップがあるのだが、実はその中に常に純度の高い暴力性が潜んでいるのは作品を見たことのある人なら、ご存知のはずで、この情報が発表されたときは「その手があったか!」とポンと手を叩いてしまった。
そして、いざ蓋を開けてみると、湯浅作品史上、かつてないほどに残虐で、容赦のない剥き出しのエログロヴァイオレンス劇が繰り広げられており、血に飢えた視聴者たちの喉を潤すには、十分なクオリティになっていたのだ。大正解の起用である。
永井豪の諸作のようなゴツゴツした絵面こそは、削ぎ落とされているが、自分のような一丁噛みの人間でも、監督のそこはかとない巨匠の原典『デビルマン』への愛情が感じ取れる出来で、その上、湯浅作品特有の物理法則を無視した、縦横無尽な画の躍動が生かされており、どちらのファンにも旨味のある内容であった。
不動明と飛鳥了という、コインの表と裏のようなキャラの対比がユニークだ。BL臭すらある。人の悲しみを受け入れ、泣くことができる主人公と、目的のためなら、人を殺すことに躊躇の欠片もない、わかりやすいほどのサイコパス飛鳥了(その一方で明が第一という純情っぷりもミソ)。ヒロインである美樹は、アニメ史上と言っても異論がないほどに可愛く、血みどろの惨劇の中で燦然と輝く一輪の花のような美しさを放っていた。こんなにヒロイン然としているなら、花澤香菜の方がいいのでは、とも思えたが、最後の最後で潘めぐみがキャスティングされた意義が理解できた。あの断末魔こそ「トラウマ級衝撃」と言っていいだろう。彼女を待ち受ける運命の非情さには、胸が痛んだ。裏ヒロインのミーコというキャラクター像も、非常に面白く、おしとやかに見え、性に意外と奔放だったり、押し隠してきた本当の気持ちが爆発する9話は、今作のテーマである「人は脆く弱い。でも、時として愛おしい存在でもある」という、唯一の救いを見せてくれて素晴らしかった(ただ一点、そこで人を殺めちゃうの、というのがあり、いただけなかったのだが)。陸上部に所属している、という、設定も、悪魔と人間の走り方の差異や、バトンを繋ぐ/繋げないというクライマックスの展開に作用していた。
七尾旅人のエンディングソングが
今作は「デビルマンというアニメがあった世界」の物語だという点で、我々の現実と延長線上にある。類似の試みは『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』でなされており、あの映画の中では、現実のアニメが主人公にヒーローとしての自覚を芽生えさせる装置として機能している。『LOGAN』では、アメリカンコミックに載ったXメンの姿を見て、「こんなものは作り話だ」と当事者のウルヴァリンに否定させている。『デビルマンcrybaby』では、もう少し、その設定を盛り込んで、物語を動かしてほしかった気はするものの、ネット社会(凡庸表現)と『デビルマン』が同一線上にある、という描き方は、古典を現代に「リブート」させる手段として、有効であったように思う。
全体の作品の欠点としては、無理に30分の枠に納めなくても、配信なんだから、もう少しスピードが落ちない程度に、シーンの間の説明があった方がいいのでは、という唐突さや、いい加減見飽きた陳腐化してきているクドいSNS描写、毎話冒頭に流れるラップシーンなど、力技すぎるというか、ちょっと強引で噛みあっていないな、と思うものも随所に伺えだ。もっと過激に飛ばして、マジに視聴者を凍り付かせて、トラウマを植え付けるくらいの、ブレーキの壊れ具合でもよかったようにも思える。
それでも、ネット配信という場を活かし、10話休ませる暇もないスピードを保ちながら、純粋な暴力的な画としての魔力が否応なしに増幅されており、生理的嫌悪感を感じさせる場面もしっかり用意され、劇画調なセリフもグッと心に響く映像の圧、そして『ルーのうた』でも見られた「人間になりきれない者たちの悲哀」が滲み出ていて、もうこれ以上の「リブート」は不可能なのでは、という湯浅政明の完全燃焼っぷりには頭が上がらない。拒絶されることが前提にある「悪魔」という存在の虚しさにも、愛着を注いで、本来なら目立たないところにいたはずの人間が、己で決意し、たとえその結果が報われなくとも、想いを爆発させる、というのも実に湯川作品らしい。悪魔であるが故に高貴で誇り高いシレーヌとカイムの最期は、バツグンに切ない、屈指のグッドエピソードだ。最後に全てが明かされ、独りぼっちになった広大な世界に泣いた。でも、ちゃんと救いもある。ただ不条理で終わらせないのも、監督の作品への思いやりなのでしょう。
過激で、見る者の胸を、業火で焼き尽くす、鬼才と天才の核反応は、とてつもない求心力を放っていた。
決して、「悪」を突き放さず、慈しみをもって、しっかりと愛で包み込む。
人が、人である所以とは、何なのか。「泣き虫」は誰のことだったのか。
本作は決して完璧な作品とは呼ばないかもしれない。人もかなり選ぶだろう。少々、説教臭すぎるようにも思う。沢山の色が塗りこめられすぎて、真っ黒になってしまった絵画のようでもある。しかし、その黒の下に眠る、まっすぐで切実な祈りはしっかり伝わってきた。
ただの安易な「リメイク」ではないことは確かだ。必然的に現代にマグマの底から蘇った異形の呻きを、しかとご覧あれ。
追記:見終わった後に「人間許さん!!」になるのは間違いなく、監督の現時点最高傑作『夜明け告げるルーのうた』と地続きにあるそちらをご覧いただいて、バランスを取られたらよろしいかと思います。同じNetflix作品なら、『悪魔城ドラキュラ』がオススメです。
唄うことは難しいことじゃない(湯浅政明『夜明け告げるルーのうた』)
さよならなんて云えないよ
出会いがあれば、別れがある。日が昇り続ける限り、自明なことであり、言葉にするのも陳腐だ。
もっと陳腐で、奥ゆかしいことに定評のある日本人ならば、口にするのも困難な言葉がある。それは「アイ・ラヴ・ユー」と「グッド・バイ」だ。このたった一言を告げることに、我々は、夏目漱石の時代から(もっと遡れば奈良時代くらいまでか?)、心を砕いてきた。本当のことなのに、ちゃんと伝わらないかもしれない。でも、口にしなければ伝わらない、もどかしい難しさ。素直に言えば、嘘くさいから、どれだけ回りくどくても「メロディ」に乗せることで、胸につかえる気持ちを吐き出してきたのだ。
人生のどこかに訪れるグッドバイに、明るく手を振りながら、「アイ・ラヴ・ユー」を告げるのが、湯浅政明監督による金字塔的ジュブナイルが『夜明け告げるルーのうた』である。
(キャラクター原案がねむようこ、キャラデザ・作画監督が伊東伸高、共同脚本には吉田玲子、と最強の布陣なのである)
あらすじは、感情を表に出すことを避けている、少年カイ(彼の趣味が動画サイトに自作の曲を投稿することで、使用する楽器がMPCの宅録とウクレレ、というのがいかにも現代的で、個人で完結しており、これだけで彼の心の閉ざし具合がわかる。かつての米津玄師のようである)が、ひょんなことから、歌うことが好きな人魚のルーと出会い、保守的な田舎町のいざこざや、人魚の伝説が絡み合っていき、次第にとんでもない事態を引き起こしていくという、ひと夏のSFボーイミーツガールだ。
(カイたちが組むことになるバンド「セイレーン」の由来でもある人魚伝承のある、山と海に挟まれた、日無の町の名物は、傘。この傘は日差しから守ってくれるバリアにもなり、人魚たちの居場所を作る道具にもなる、というのもよく考えられた、童話的な設定である)
既に各所で指摘があるように、偶然だろうが『崖の上のポニョ』と類似したものとなっている。『パンダコパンダ』や『E.T.』が初見では脳裏に浮かんだ。当初、『ルーのうた』は人魚という設定ではなく、バンパイア(日光を浴びたら身体が燃え出したり、噛まれると人魚になっちゃったり)だったらしいのだが、これが今作のポップネスに大いに貢献しているのだろう。理解されたくても、異質さゆえに理解されず、人間にあこがれ続ける存在としての人魚。そんな人間になりたくてもなれない、不完全な魂たちが蠢く、海の中の黄泉の国。その海の底には、自分を二分する片割れのような存在が、時代を超え、失われたはずのピュアな愛と共に、宝箱のように眠っていて、その海が日無町を大きく包み込んでいく、という構造がとてもうまいことできている。本来ならば、無残にこの世から消えてしまう、保健所たちの犬が「犬魚」として、海に放たれ、永遠の命として泳ぎまわる、というのも、すごく救いのある世界観で、行き場を失った命にさえも、愛着の眼差しを向ける監督の優しさが胸に沁みた。寓話の魔法。
『ポニョ』と大きく異なるのは、時折グロテスクさこそ姿を見せるものの、決して後味が悪くなく、サイダーをグイッと飲み干したような爽やかさがある、という点だろう。多幸感を舌の奥に残したまま、タップダンスでも踊りながら、劇場を後にしたくなる。そして、もう一つ、相違点を挙げるなら、この物語を単なるボーイミーツガール(響きがいいので反復させていただく)で終わらせず、干からびた日無の町の人々が、過去から愛を蘇らせ、潤いを取り戻す、いわば『あまちゃん』のような復興ものとして物語が成立しているというところであろうか。孤独な少年と異界の少女のミクロなときめきが、やがて町全体をマクロに包み込む、ダイナミックな展開になっている。吉田玲子脚本、ここにありといったところで、ブランコの場面は「やられた!」と、なぜかちょっと意味のないジェラシーを抱いたほど。「スマホ」という小道具が、後に寓話のギミックとして生かされるのもフレッシュだ。
湯浅政明の特徴として、まるで心模様をそのままスケッチブックに書き写したような、この世ではあり得ぬグニャグニャのモーションで、自在にありとあらゆる森羅万象が平面のままメタモルフォーゼしていく描写がある。まさに水を得た魚のように、「海」をテーマに添えたことで、今作はそれがより一層ドラッギーな効果をもたらしており、リズミカルな音楽をバックに、映像がうねり、物語にグルーヴを育んでいく(浜辺で町民たちが踊り狂う場面は、これまでのアニメにはなかった視覚的な快楽がある)。下手すりゃ、作画崩壊ともいわれかねないような、監督の抽象的な線画での、表現力には毎度驚嘆するばかりだ。絵で感情の表面をなでるように、見る者の心をざわつかせる。グレートな手法である。
オープニングの手拍子から始まる導入も音楽的で心地よく、ここだけで「おっ、音楽のセンスいいな」となるのだが、さらに着目したいのが両親の恋文のようなカセットの数々で、これが実にリアリティがある。RCサクセションに奥田民生、レディオヘッド、という、この統一感のなさが、なんだか背伸びした音楽少年のようで、甘酸っぱい。しかも、この時代の残骸たちがクライマックスのカタルシスに直結するというのだから、何重にも重なった時代のレイヤー構造も含め、やられた、という感じなのである。過去のファンタジーが、母屋にファンタジーのまま残っていたから、リアルを救済できる鍵となり得たのかもしれない。
そのクライマックス、というのが、廃墟と化した「人魚ランド」で、カイがウクレレを片手に、あの年代にしか出せない声の絞り方で、不器用に掠れながら、拙く歌い上げる『歌うたいのバラッド』。ここで、海底から、街の人々の歴史が同時に迫ってきて、涙腺が物の見事に崩落してしまう(下田翔太君の徐々に気持ちが籠っていく歌唱がとにかく素晴らしいのだ)。
歌うことが好きなルーは、あっけらかんと、ポップに「すきーっ!」と叫ぶ。彼女の「すき」は、瞳に映るすべてへのアイラヴユーなのだ。そんな純粋無垢な姿を見て、まっすぐに想いを吐き出せたら、どれだけハッピーなのだろうか、と思ったりする。
でも、そんなシャイで青臭い、僕らのような歌うたいたちは、それがやっぱりちょっぴり恥ずかしかったりする。だから、悲しみをバラッドに乗せて、最後に精一杯、やがて訪れる全ての別れに、2度と戻らないあの日に、新たな夜明けに、大きく手を振り、こう告げるのだ。
「愛してる」
短いけれど、メロディに乗せれば、どんな想いも伝わるのかもしれない。
おしまい
ノア・バームバック 『マイヤーウィッツ家の人々 (改訂版) 』
『カルテット』で、坂元裕二は夫婦のことを「別れることができる他人」だと、松たか子に語らせていたが、兄弟(便宜上、兄と弟と書いただけで、兄と妹でも、姉と弟でも構わない)ならば、彼は何と喩えるのだろうか。
人が生まれてから、一番最初に属するコミュニティは、紛れもなく「家族」だ。「自分」について語るとき、切っても切り離せないのが「家族」であることは、疑いようのない事実である(血縁上のものだけが「家族」ではなく、ありとあらゆる形の家族が遍在しているので、広義の意味で使わせていただいている)。そこで、どのような立ち位置にいて、どのように愛情を受けるか。もっと些細なことかもしれない。ありとあらゆる要因が「家族」における「自分」を形成していき、それは人によっては、大人になって1人になったときに精神的支柱となったり、或いは、厄介な呪縛になったりするのかもしれない。
もう少し、「家族」を解体して見たときに、「1人っ子」か「2人以上の兄弟」のどちらで育ってきたか、といった区分けができないだろうか。これはあくまでも、個人的な実感と、これまでの短い人生での観察結果に過ぎないのだが、兄弟の有無やその構成は、人格形成において、かなり影響を及ぼしているらしい(ここには、経済的な要因も大いに含まれてしまうのは、悲劇的事実である)。
僕も(自分の話になってしまうのは恐縮なのだが)、1人っ子の期間が長かった一方で、歳の離れた弟を持っている身として、兄弟の有無による、両親からの扱いの差、というモノは敏感に肌で感じたものだ。
他の家庭と同様、僕の親も、決して完璧な人間ではない(そんなものは幻想で、そもそも自分は愚息と呼称されるに相応しい、ダメダメな息子なので、親のことをそんな風に判別する資格を持ち合わせてはいないワケだが)。なので、腑に落ちないことは、大人になるまでに、沢山あったことにはあった。それでも、ありがたいことに、愛情をかけて、時には突き放して、大切に育ててくれたから、ダメ息子なりに一生をかけて恩返しをしなくちゃいけないな、と幼少期から回顧して思うことは暫しある。歳を取ったというヤツなのだろうか。今でも両親への感謝は絶えることはない。
ただ、中学年で、弟が生まれたことで、やはり「1人っ子」ではなくなったことへの寂しさは、思い返すとあったのかもしれない。いや、明確にあった。
弟ができるまでは、世間が想像するような、ザ・1人っ子ライフを満喫しており、両親の視線が目移りすることもなく、祖父母などの親戚に会えばしつこいほどに「カワイイカワイイ」と持て囃され、言ってみれば、温室にいる蝶のように重宝されていた。「初孫」というのも、特典ポイントとしてはかなり大きく作用していたはずだ。我が人生で、もうこれから老いぼれてくたばるまで、絶対に訪れることはないであろう、アイドル黄金時代である。
それがどうだ、弟ができた途端、全く状況が一変してしまう。父も母も、歳とってできた子ども、ということで、暇さえあればビデオを回し、親戚は一様に我が家のニューカマーに付きっきりになってしまった。俗にいう、アイドルからの転落期だ。友達作りもこの頃から下手くそで、内気で家で遊んでばっかの少年だったので、せいぜい飼っていた犬しか遊び相手はおらず、より一層本に逃げ込んでしまうものだが、それはまた別のお話。
1人っ子であったことは、孤独への間に合わせの耐性を生み、また、弟がいるという比較対象がいることは、小さなヒエラルキー社会での格差を生んでしまうことになる。思春期になると、1人で籠ることが増え、親に本心を打ち明けることもなくなって、幼いころから活発で運動神経もいい弟見ると、たまに小さなジェラシーを抱くようになったりした。親も、そんな息子だから、自立のための第一段階なのだと思って、放任的になっていった(これは後から直接聞いた話だ)。音楽の才能もある彼は、当然常に関心の的になって、親戚が集まると、何のとりえもない自分はいたたまれなくなって、1人で隅に座って、関心のないようにふるまっていた。でも、当然そんなことはなく、ただ単に心の底から、弟が羨ましかったのだ。与えられても、何も返せない、浪費するだけの情けない期待外れの自分とは違うことに。そうやって、1人っ子と兄弟持ちのハーフという、面倒でくだらない厄介な身の上のまま、中二病気取りの少年は、表層的に大人になっていったのであった。
一応、明記しておくが、別にそのことを未だに恨んでいるとかではなく、そんな家庭は誰にでも起こりうる自然なことで、単純に子供心に寂しかった、というただそれだけである。それに、弟がいてもいなくても、このまま寂しい少年期を過ごしていた気もするし、逆にこのまま1人っ子が長引くと、今以上にコミュニケーションに多大なる障害を抱くようになっていたのかもしれない。あと、僕にとって弟は歳の近い息子を見ている気分で、あまり「兄弟」という感じもせず、すごく仲良しであることも付け加えておく。
話が脱線してまったが、要は、自分を語る上では、どうしても「家族」というものは、不可避であるということが言いたかったのである。
さて、ようやく本題に入るとして、これから紹介させていただく『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』も「家族」や「兄弟」のややこしさや面倒くささ、そして、それらへのほんの少しの肯定を描いた、素晴らしい家族の肖像をとらえた、とてもささやかな小品である。
監督は、ノア・バームバック。これまでの作品は『ベン・スティラー 人生は最悪だ』『フランシス・ハ』『ヤング・アダルト・ニューヨーク』と多作で、どれも高い評価を得てきている、有能な監督である。
NYはマンハッタンに住む、彫刻家である父ハロルド(ダスティン・ホフマン)の回顧展のために集まった、疎遠だったマイヤーウィッツ家の3人の兄弟。長男のダニー(アダム・サンドラー)は、元はピアニストであったが、主夫として娘のイライザを育て、彼女の大学への進学を機に、離婚することになっている。長女のジーン(エリザベス・マーヴェル)は、会社勤めをしており、家庭内では存在感が希薄なことから、父には度々無視されてしまうことがある。次男のマシュー(ベン・スティラー)は、LAで暮らし、建築コンサルタントとして成功を飾っており、ダニーやジーンとは異母兄弟である。最も父の寵愛を受けたマシューであるが、芸術への道を歩まなかったことから、父へ負い目を感じており、ダニーとはどこか壁があって、どうやらわだかまりがあるようだ。
(継母役には、エマ・トンプソンと、これまた豪華すぎる役者が勢ぞろいである。ただでさえ地味な作品なのに。あのクソマズそうなサメのスープはエキセントリックすぎる笑)
この父親が疫病神そのもので、過去の栄光に縋り続け、盟友を前にケチをつけずにはおられず、有名な女優(シガニー・ウィーバー!)に鼻の下を伸ばし、レストランでは隣のテーブルからワインを失敬する、トンデモっぷり。
こんな父親を持ったからには、まっすぐに育つはずもなく、癇癪を起したり、離婚したり、ジーンはさらに深い闇を抱えていたり…………3人兄弟はそれぞれに複雑な問題を抱えながら、家族の不和は、回顧展に向けて、あらぬ方向へ転がっていく。
今作は、1人の身勝手でモラルが欠如した(あんな父親は勘弁である)頑固な芸術家の父に振り回されて、大人になった3人が、再び集ったことで起きる騒動から、家長である父がこれまでの人生に落としてきた過去の影と向き合い、「家族」の呪縛から解放されていく物語だ。
これまでも、演技力を見せつけてきたアダム・サンドラーだが、『マイヤーウィッツ家の人々』は彼のキャリアハイになったのではないだろうか。妻とは離婚が迫っている上に、家族の中で疎外感を味わい、怒りの矛先が見つけられず、すれ違う見知らぬ他人の車に、窓越しから罵声を浴びせることが精一杯の、惨めっぷり。伏し目がちな彼の視線が、胸を締め付ける。ちょっと『マンチェスター・バイ・ザ・シー』のケイシ―・アフレックを思い出した。
今作、駐車場を用いた、冒頭のキャラクター説明には「ハハン」と感心してしまった。場所が空いたと思ったら間に合わず、必死で探しても、車をなかなか止めることができないダニー。駐車位置によって、彼が、マイヤーウィッツ家においてどんな立ち位置にいるかを、端的に説明する手腕は、見事の一言。衣装による心情表現もユニークで、ダニーが常にだらしがなく(さらには足を引きずってもいる)、対照的にコンサルタントのマシューが小ざっぱりとしたセットアップなのも着目したいところ。
会話劇は、坂元裕二の脚本のようで、テンポがいい。互いに繋がりたくても、どこかちぐはぐで、パズルのピースがキッチリとハマらないように、むず痒くもどかしい会話から、心のすれ違いを的確に表現している。会話が終わり切らないところで、唐突にブツリと切られるスピーディな編集もコミカルである(ジーンの髪型がいきなり変わった切り替わりにはクスッとした)。
音楽を今回手掛けたのはランディ・ニューマン。彼お得意の泣きメロは今作でも実に効果的に生かされている。新しい生活への一歩を踏み出す娘イライザと、過保護気味で子離れができない無職の父ダニー。そんな不器用で愛おしい関係性が、2人の連弾による演奏によって紡がれ、これがまた泣かせる。
Genius Girl - The Meyerowitz Stories
僕は彼らのような、ある種悲劇的な生い立ちを辿っておらず、基本的には恩恵を受けて育ってきたので、共感する気持ち自体はさほどないのだが、彼らの悲しみや困惑は切実に伝わってきて、そこにアダム・サンドラ―とベン・スティラーの名演が重なって、心臓に「どすん」ときた。自分の家族とは被る要素はあまりないのに、これが不思議で、その摩擦もパンケーキのような甘い愛おしさが湧いてくるのである。
所詮、家族だって血が繋がっている程度の他人に過ぎなくて、別にトラウマを克服しなくたっていい。その傷だって、自分を形成する一つの証であって、人生は思い通りにはいかないし、どうあがいたって、坂道を前に転んでいくしかないのだ。親近感は湧くが、共感こそはできない、この滑稽な再生物語にそんな風に勇気づけられた(なんとも陳腐な表現である)ような気がした。めんどくさくて、鬱陶しくて、ままならない。だから、愛おしい。
なんだかひどく辛い家族モノのように思えてしまうかもしれないが、あくまでこれはコメディである。大いに彼らの悲喜こもごもに笑えばいい。
アダム・ドライバー(今作でもかわいげのある役で出演してましたね)主演の次回作も楽しみなノア・バームバックが書く家族の物語を、ご覧になられてはいかがだろうか。
(つらつら書いているうちに、「あー、これ年間ベスト20に入れるべきだったのでは?」と未練がましくも、後悔し始め、過去ブログを丸ごと修正しようか、うじうじなんやでいる次第。「~ベスト」なんてアテにゃならないもんですね。なんにせよ、振り返れば振り返るほど、大事な一作になった)
おしまい
ザ・ダファー・ブラザーズ『ストレンジャー・シングス』2×01 「マッドマックス」
それはただの現実逃避なのかもしれない。
でも、少なくとも、孤高と共働が一緒にある世界を目指しながら、怪物と対峙して、「彼ら」と共に冒険することで、失った青春を、屍のままの過去の肉体を、たとえ疑似的にでも、再生することができるなら、それは「救済」と呼べるのかもしれない。
これはダファー兄弟からの、親愛なる、大人になれない大人たち(またはこれから大人になる子どもたち)へのラブレターだ
「ストレンジャー・シングス2」とんでもない傑作(安易に使いたくないが止むを得ず)だった………ベーコンとイチゴジャムのある世界で、怪物を恐れず進むことを説いた小沢健二とSEKAI NO OWARIが「フクロウの声が聞こえる」で紡いだ物語が、ホーキンスの町にあったんだ。 pic.twitter.com/0wEBfwO1Ti
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年10月29日
(さて、この連載擬きの自主企画の前に、一応念のために述べておくと、以下の文章は、①初めて『ストレンジャー・シングス2』を見た体で綴ってあるということ、そして、②1話にフォーカスしていくので事前に見ていただけるとネタバレとかそういったものは回避できるということ、そもそも、③シーズン1視聴済みである前提であること、を明記しておく)
1984年10月28日、ペンシルベニア州ピッツバーグでは、銀行強盗が起きていた。ベルが鳴り響き、警察の追っ手を振り払おうとする逃走車の中には、寡黙な少女、カリが。彼女の指示で、トンネルに入ると、パトカーが入る直前で崩落し、見事逃げ切ることに成功。しかし、警官が車から降り、トンネルの様子を再び見るも、何も起きていなかったのだ。運転手が見たのは幻覚だったのか。無事に逃走し喜ぶ強盗仲間を尻目に、依然静かなカリの鼻からは血が流れ、腕には「008」という番号が。そう、あのイレブンのように…………
舞台はハロウィンを控えたホーキンスに戻る。街を震撼させたウィル・バイヤーズの失踪からは、1年が経ち、マイク、ダスティン、ルーカス、そして「裏側」から帰ってきたウィルたちは今、『Dragon's Lair』や『ディグダグ』といったゲーム(世代じゃないけど、懐かしいと感じるのはなぜなんだろうか)の虜になっていて、小銭を集めては、ゲーム機に注ぎこんでいた。そんな中、ダスティンの最高スコアを破る「マッドマックス(!)」というゲーマーが現れたことを知らされる。
ホッパーが、胡散臭い陰謀論者の話から逃れ、カボチャの汚染の調査に乗り出す一方、学校前で、ナンシーはスティーブの願書の作成に付き合いながら、彼との将来について話し合い、雲行きの怪しさを感じ取っていた。そこに、カマロをかっ飛ばし、派手に登校するカリフォルニアナンバーの車が。車から降りたのは、上下をデニムでキメた青年とスケボーを抱えた赤毛の少女。
Scorpins - Rock You Like A Hurricane
マイクたちが授業を受けている中、カリフォルニアからの転校生が現れる。彼女の名前はマックス。最高スコア保持者の「マッドマックス」はこの赤毛の少女だったのだ。そして、ダスティンとルーカスはすっかりこの新参者に熱を上げていってしまい、半ばストーカーのようになってしまう。ウィルの母親である、ジョイスも、まるで高校生のようにボブとの恋愛に興じていて、ウィルと兄であるジョナサンの兄弟とも良好な関係を持っていた。
あらすじは、こんなところ。
さて、今回、大人も子供も浮かれたように、色恋に夢中なことが象徴的なように、シーズン2の最大のテーマであり敵となるのは、「思春期」なのだ。思春期の闇から伸びる蔦に足を絡み取られないように勇気を振り絞り、共鳴し合う魂たちの物語だ。
ウィルの描写がわかりやすく、学校から研究所へ連れて行かれるときに、彼を奇怪な目見ている(おそらくは彼の自意識過剰による妄想)のは、みんな女の子。「裏側」に惹かれていることよりも、彼が気にしているのは女の子たちの視線。異性にどうみられるか、外の世界に有象無象に潜む「視線」という名の影の魔物が、怖くて怖くてたまらないのだ。だから、母親の過剰な心配や逐一の送迎が煩わしい。愛情を享受しつつも、愛情の過剰さに溺れ、喘ぎ、息ができなくなっているのだ。言ってしまえば、「中二病」というヤツである。学校に行けば「ゾンビ」呼ばわりされ、自分が奇妙な目で見られる「異常者」であるから、心配してくれる兄にも辛辣に当たってしまう。
『桐島、部活やめるってよ』公開当初、胃がキリキリした挙句、ゲロを吐きそうになった(誇張とか無しに)ような身としては、これが痛いほどにわかる。思春期の卑屈や自意識。もちろん、僕は「裏側の世界」に行ったこともなければ、得体の知れない怪物に遭遇したわけでもない。それでも、僕の中では、思春期に蓄積した劣等感が、コールタールのような塊になって、モンスターとなって、「大人」になった今でも静かに潜んでは、肉体を巣食って暮らしている(これも決して誇張評表現ではない)。中高校生の頃は、スクールカーストでは、ずっと底辺の底辺にいて、酷いときは、自分のような人間と仲良くしていてくれた物好きな一部の友達を除けば、半年もろくすっぽ学校で会話をしなかったし、何か言えばどこかで笑われ(気のせいかもしれなかったのだが)、思い出したくもないようなあだ名で小馬鹿にされては、ヘラヘラしていた。そんな受け身のスクールライフスタイルを送っていたので、情けない話なのだが、友達の作り方なんて、未だにわからず、初対面の人に会えば、評価ばかりを気にして、会話がしどろもどろになってしまう。バカみたいだし笑ってくれていい。自分でもいつまでそんなことを根に持っているのか、と羞恥心で赤面してしまうのだが、ネガティヴな思考は壊れたテレビのように悪くなる一方で、治らないし、人と目を合わせることもままならない(目を合わせていると見せかけて、ずっと口を見ているとか、向こう側を見ているとか、そういうどうでもいい処世術だけが身についてしまった)。
一時は行方不明となり、「裏側の世界」から帰ってきたウィルは、学校での居場所に戸惑い、ロッカーには誰かが入れた「ゾンビボーイ」と悪戯半分の悪口が書かれた紙があった。でも、別に「ゾンビボーイ」は彼だけではない。恥を忍ばずに書けば、いつまで経っても、グズのままで、大人になり切れず、どうでもいいことにクヨクヨしながら、ズルズルと仮初めの大人になってしまった、そんな僕だって、今もまだ「ゾンビボーイ」のままだ。だから、思春期に苦悩するウィルをギュッと抱きしめて「大丈夫だ」と言ってあげたくなるのだ。僕の青春が報われないままでも、彼だけは「裏の世界」から帰ってきてほしいと、これもまた報われない思いを抱いてしまうのである。
胸を掻き毟りたくなるほど、切なく突き刺さったのが、エルと交信しようとするマイク。彼はエルがいなくなってから、352日、毎日トランシーバーで語りかけていたのだ。
「聞こえるかい エル?」
「僕だよ マイク」
「352日目 午後7時40分」
「まだ待ってる」
「いるなら答えて」
「合図でもいい 黙っているから」
「…………バカだな」
あまりに報われなさすぎる、運命の残酷さに心が痛んでしまった。孤独な魂が、繋がりたくても、上手く繋がらない。そのどうにもならない、厳しい現実のもどかしさが「トランシーバー」というアイテムとして、ぽつんと彼の部屋に、しこりのように残っているのだ。だから、彼はダスティンやルーカスに煩わしさを覚え、大切な友達を疎かにしてしまう。苦しい。苦しすぎる。本当に早く報われてほしい。
第1話最大のトピックは、誰とも関わってこなかったホッパーにエルという家庭ができたことではないだろうか。大人子どもこぞって恋に熱を上げる中、彼はもう一度、疑似的にでも家族を再生することによって、自分の人生を清算しようとしているのだ。小さな、小さな小屋で、細々と。娘を病気をなくして、やさぐれていたあの男が、新しい子供に「夕飯が先で、デザートはその後だ」なんて優しく説いているのだ。たったこれだけの、当たり前で、些細なことなのだけれど、その些細さにすっかり涙腺が崩壊しまった。
ここには誰かと繋がろうとして、救済された魂が、確かに存在して、そんな確かさにほっと胸をなでおろし、靴紐を結ぶのだ。
冒険はまだ始まったばかり。
いつものようにとっ散らかってしまいましたが、テーマの一つ一つは掻い摘めたのかな、とは思うので、こんな感じでダラダラ続いていきます。
つづく。
チャーリー・ブルッカー『ブラック・ミラー/サン・ジュニペロ』
あなたと歩む世界は
息をのむほど美しいんだ
人寄せぬ荒野の真ん中
私の手の中を握り返したあなた
あなた以外思い残さない
大概の問題は取るに足らない
多くは望まない 神様お願い
代り映えしない明日をください
宇多田ヒカル『あなた』の歌詞から思い起こした一作がある。それがNetflixオリジナルアンソロジーシリーズ『ブラック・ミラー』シーズン3第4話を飾る『サン・ジュニペロ』だ。初めて見たとき、そのあまりの潔い尊さに涙が止まらなかった。
『ブラック・ミラー』はちょっと先の近未来(それは5分後かもしれないし、100年後かもしれない)を描いたSFアンソロジーもので、基本的には発展した科学がもたらす不条理や集団心理的な恐怖を捉えたシニカルな単品が殆どを成す。近いものとしては、ロアルド・ダール、モンティ・パイソン、星新一、筒井康隆、藤子・F・不二雄の短編集、『世にも奇妙な物語』シリーズ、トワイライトゾーン、などなど。ああいった後味が好きならば、きっとどこかに好みのものがあるのではないだろうか。ブラックなキレ味が特徴のシリーズだ。逆に、そういった皮肉なものに耐性がない方にとっては、なんとも薦めにくいのだが、そんな中で、ようやくシーズン3で、誰の心にでも甘く響くであろうラブストーリーが生まれた。それが『サン・ジュニペロ』である(今作はエミーで脚本賞を獲得しており、納得の結果である)。
物語は1987年から始まる。クラブではヒットソングがかかり、壁に『ロストボーイ』のポスターがかかり、ネオンが艶かしく光り、ノスタルジックな空気が支配している。流行りのファッションに身を包んだ若者達の中で、冴えないメガネをかけたヨーキーは沈鬱な面持ちで時代から取り残されたように、彷徨っている。当てもなく入った「タッカーズ」で、ヨーキーは一人佇んでいると、ある女性が男を振り払うための出任せの嘘に付き合うことになる。彼女の名前は、ケリー。惹かれるものを感じたケリーに、ヨーキーはベッドに誘われるも「婚約者がいる」断ってしまう。一週間後、諦めきれないヨーキーは、また同じ「タッカーズ」へ向かい、ケリーに想いを告げることで、一夜を共にし、ヨーキーは生まれて初めての経験をすることになった。ベッドで彼女たちは、これまでの恋愛や家族のことを語り合い、忘れがたく、淡い時間を過ごした。そこから、一週間が経ち、ケリーを捜すも、彼女は「タッカーズ」に姿を見せない。バーの店員の提案で「クァグマイア」に向かったが、そこは性と暴力の支配するエリアであった。そこで、ケリーに振られやさぐれていた男と再会し、「今は1980年だ。90年代か2002年にいるかもしれない」と違う時代を捜すように教えられる。それから、また一週間おきに様々な時代を行き来し、ようやくケリーを2002年で見つける。ヨーキーは自分を遠ざけたことへの怒りをぶつけ、ケリーは楽しみたいだけだと言い放つ。しかし、ケリーはヨーキーを傷つけてしまった罪悪感から彼女に謝罪し、心から誰かを愛してしまったことへの戸惑いを告白する。そして、ヨーキーは婚約がもうすぐ控えていること、ケリーは余命が幾許も無いことや死後も「サン・ジュニペロ」に残る気はないことを伝え、現実の世界でも再開することを誓う。
仮想空間「サン・ジュニペロ」は、醜く年老いてしまった現実と離れ、謂わばノスタルジアに縛られた「亡霊」たちが歩く、死を控えた老人たちと死後の魂の居住地であったのだ。華やかでありながら、空虚で、時代が停止した「死人みたいな街」。ここでは、鏡の向こうの自分を傷つけることもままならず、拳から血を流すこともできない。でも、誰もが過去を悔やみながら、心の傷は抱えていて、ケリーはそんな場所で楽しむためだけに、迫っている「現実」と目を背けるために、深く他人と関わることを避け、ヨーキーを遠ざけてしまう。そんな繋がりたくても、繋がれない彼女たちが、初めて現実の世界で交差したときに、その「痛み」を一緒に抱き合う瞬間に、我々は涙するだろう。「楽しみ」のために、恋に躊躇うヨーキーから「初めて」を奪ったケリーが、本当の恋に苦しみ戸惑う中で、ヨーキーにキスを奪われる関係性の逆転も美しく、心に刺さった。
ここからのストーリーがどのように進み、彼女たちが「現実」と向き合い、どのような決断をするのかは、今読まれているご自身の目で確認していただくとして、実に興味深いアイディアである。仮想空間で、好きな時代を過ごすことができる。街も様々で、『時計仕掛けのオレンジ』や『マッドマックス』が合わさったエリアも個人的には惹かれてしまう。バーチャルな天国、という言葉は不気味だが、見てみると悪くないんじゃないかと思えても来る。
ネオンの光彩も、ニコラス・ウィンディング・レフンの作品のように美しく、カットの切り替わりによる仮想空間演出も自然で嫌みがない。どのカメラワークも端正で、尚且つ情緒に溢れており、画面がダイレクトに感情にもたらすカタルシスだけでグッときた(正直、なんでこれがスクリーンで見れないのか、と思ったほどだ)。現実とリンクして、ハッピーなエンディングに向かうにつれて、画面がネオンの闇から解放され、嘘みたいに晴れやかな空に包まれる演出も的確だ。海岸線のドライブは、多幸感で胸がときめきでいっぱいになってしまった。これが獲らなければ、どれがエミーを獲るっていうんだ、という出来栄えで、文句のない傑作短編であった。
(ヨーキーとケリーが一夜を共にした小屋は海辺にあったのだが、そういえば『ムーンライト』でも初めてを主人公が過ごす場所も海辺の砂場であった)
安楽死が果たして、幸福な選択肢の一つなのか、まだまだわからないし、決着がつくことはないと思う。ただ、肉体の痛みだけがリアルではない。ここには強固で、確実で偽りのない、血の通った、強い強い愛があったのだ。
そして、「現実」ならば、絶対に出会うことの運命になかった、彼女たちが眺める水平線の向こうの夕陽に、報われた恋に、そして生と死の彼岸に思いを馳せながら、『Heaven is a Place on Earth』を聴いて、また涙してしまうのかもしれない。
Belinda Carlisle - Heaven Is A Place On Earth (Official Music Video)
- アーティスト: 宇多田ヒカル
- 出版社/メーカー: Sony Music Labels Inc.
- 発売日: 2017/12/08
- メディア: MP3 ダウンロード
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少々センチになってしまったが、これを見ずにドラマは語れない、と極論を言ってしまってもよさそうなくらいの素敵な小品なので、お時間のある方は一度。
おしまい
欅って書けない『長濱ねると齋藤冬優花の2人の休日in長崎』
事の始まりは、『欅って書けない』内のフィーリングカップル(途中、ハライチ澤部さんがねるとんネタをやっても、土田さんが拾うまでメンバーがポカンとするのが可笑しかった)なる、女の子と女の子のイチャイチャが見たい若干変態的な趣向を持ったオタクからしてみれば、 この上なくたまらない企画からで、番組内で様々なカップルが成立する中、長濱さんと齋藤さんも晴れて相思相愛となった。両想いになったことで、2人っきりのロケに行くことができるようになり、各々候補地を挙げるわけだが、長濱さんは地元である長崎は五島列島の中通島に位置する奈良尾を挙げる。しかも、ふーちゃん(齋藤冬優花さんのニックネーム)用の部屋を屋根裏を改装して用意してあるというのだ。ハッキリ言って、こんなロケ企画、オタクからすれば、推しの女の子がキャッキャしてるだけで十分な満足度があるわけで、別に好きなところに行けばいいのだ。それを「自分の地元に招待したい」という。なんとも素敵な真心、地元愛ではないか。生まれも育ちも、田舎に隣接した新興住宅地で、目玉があるとすれば、せいぜい近所のケーキ屋くらいのところで育ってきた自分からすると、中々に信じられない完成だったので、素直に感心してしまった。
写真集の紹介をお願いしたところ、ひたすら五島列島の魅力をプレゼンしてくれた長濱さん😂😂😂😂#長崎 #五島列島 #上五島 #ねるプレゼン pic.twitter.com/KGfzDD5bZJ
— 長濱ねる1st写真集 ここから【公式】 (@neru_nagasaki) 2017年11月7日
長濱ねるというアイドルが、加入からどれだけ苦難の道を歩んできたか、それぞれでググっていただくとして(ネットの情報も最近は幾分怪しくなってきたので『乗り遅れたバス』を聴くだけでも十分といえるかもしれない)、彼女ほど人間らしさとアイドルらしさ、そしてタヌキらしい愛おしさ(本人はなぜかまだ認めてはいないそうだ)を同時に兼ね備えた人間はいないのではないだろうか。声と容姿とカリスマ性を神に選ばれた平手友梨奈とは対照的な存在であり、彼女のおかげでグループの均衡が保てているように思わせるところもある。「ながはまねる」という名前の与える語感も日本語的に柔らかく心地よい。顔の形に、フワッとした髪型、容姿、立ち居振る舞い、その全ても名前に合わせて、丸みを帯びているかのようだ。森博嗣『幻惑の死と使途』にて、「名前」のために生きることを犀川は「綺麗」だと表現していたが、彼が長濱ねるさんを見ればそんなことをつぶやくのではないだろうか。ときたま自分もこんなふんわりした名前だったら、日々を穏やかに過ごせたかもしれない、と思う程である。要は、彼女ほど往年の「アイドル」を体現した存在はいないだろう、という話なのである(小耳に挟んだところによると、どうやらロアルド・ダールのファンのようで、これもまた推せる事実である)。
長濱ねるを長濱ねるという名前から長濱ねるという語感からキャラデザインを描き起こした、という説が俄かに濃厚になってきた pic.twitter.com/eUcM1DVloX
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年4月21日
そんな少女の地元が、生まれ育った区域が、垣間見れるというのだから、これはもう見ない手はない。何を見て、どんな空気を吸って、成長したのか興味をそそられる。
さて蓋を開けると、これがまた率直に言って、最高のロケ企画だった。私的神回を更新してしまった。内容自体は、参拝したり、釣りをしたり、料理したり、買い物したり、海辺で遊んだり、と何の変哲もないものだは、そこには一本の短編映画を見た様な温かみに溢れていて、うっかり泣いてしまったくらい(たとえ「テレビ的な」演出があったとしても、だ)。青い海に、おいしそうな魚に、温かい地元の人々。言葉にすると、陳腐極まりないのだが、画面に映るそれらはとても魅力的で、その「なんでもない」ほのぼのした感じが、時間の流れが退行している姿が、心を打ちぬいてしまった。なるほど、この景色は自慢したくなる。そして、長濱さん、とにかく愛されている。番組上の演出を感じさせない地元民からの寵愛っぷりである。手を握れば「冷え性、治さないとね」と心配され、街を歩けば「こんな小さかったのに」とみんなが写真を持ち寄ってくる。若い人が減って、過疎化が伺える小さな島でも、時折彼女は帰ってくるそうだ。もうそのエピソードだけでもご馳走様でした、という具合である。彼女たちを出迎えてくれる、地元の人たちのキャラクターたちがまた濃くて素晴らしいこと。釣りの師匠、スーパーのおじさん、山内さん、魚屋のおばちゃん、保育園の先生、と匿名で地元に息づく人々が、長濱さんを台風の目に、自然に風景として立ち上がっている。天性の人たらし、とは彼女のことだろう。猫を抱えて、手紙を渡すために待ち構えていたあの子は未来のアイドルなのかもしれない。特に「わたしが一番カッコいいと思っている」と紹介される酒屋のおじさんも、渋くてキュートだった。
日本の外にいると頻りに思うことだが、自分のホームタウンがあることが自分をいかに安心させてくれるか、を痛感させられる。些細な出来事なのかもしれないが、居場所が用意されている、という事実だけで途轍もない勇気が湧いてきたりすることもあるのだ。長濱ねるさんも、そんな心境でいつも地元に足を踏み入れているのかもしれない、と思うと、その人間臭さにまたじんわり胸に広がって温かな心持になれる。齋藤さんにこの景色を見せたかったというのも頷ける。お世話になった人を、欅坂というもう一つの家族に受け入れてくれた人を、自分の家族として紹介したかったのだ。この真心にウルッと来てしまった。齋藤さんのお手紙も本当に気配りの神様みたいで素敵でした。いいもの見せてもらえた。
今年もありがとう、欅坂。絆っていいね。坂組だ。祈りや願いに支えられるのも悪くない、という『W-KEYAKIZAKAの詩』のフレーズがふと去来した。
やっぱり「ねるちゃんはスーパー人間」でしたね。井口さん、慧眼です。
そして、長濱さん、兼任解除、お疲れ様でした。
ひらがなけやき坂の井口さんが滔々と漢字の欅へ専任となった長濱ねるさんへの思いを最新のブログで綴ってるのだが、文章がめちゃくちゃ拙くて、小学生並みなのに、その中で溢れ出る想いが一途すぎてめちゃくちゃ泣ける。https://t.co/tR71SGsFKk
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年9月28日
後日談として、放送を見ていた志田愛佳さんが涙を流したそうだが、そこも含め、まさしく「最高かよ!(by 長濱ねる)」でした。
なお、本ブログは長濱ねる1st写真集「ここから」の販促では断じてないのですが、ご購入を検討されるのもアリかと思われますよ。
(余談ですが、天使の器に入れ込められたポンコツな魂を象徴した、天使オブ天使こと渡辺梨加さんの地元がギリシャ(?)という事実が判明したのもすべてが解決したようでよかったです。だからあの子あんなに話せなかったのか。あと、「けやかけ」の笑顔をつかさどる象徴的存在だった今泉さんが、何事もなかったかのように自然な姿でスタジオにいた、その姿だけで少々エモーショナルになり、涙ぐみそうになりました。おかえり、ずーみん)
The Best TV Shows of 2017 (高密度で高速な時代の移り変わり)
2017年ベスト映画の記事の際に「ドラマももはや映画と一緒に語られなきゃ本来はおかしいよねー」という旨のことを書きましたし、時間数的にも映画よりドラマ見てる方が多いに決まっているので、それならばとまたまたカウントダウン形式でダラーッと備忘録的にまとめていこうと思います。今回はタイトルを羅列していくだけになるのですが、この中のいくつかは後で別個で記事にできたらな、と将来的に考えています。多分、年を跨いでからになりますが。誰か一人でも「参考になった」なんて声があれば、私のナンチャラ欲求が満たされるというモノです。お金にゃなりませんけど。
(尚、基準は現段階で2017年に僕が見たもの、とします)
1.ストレンジャー・シングス
2.火花
3.マスター・オブ・ゼロ
4.ナルコス
5.カルテット
6.ウエストワールド
7.レギオン
8.マインドハンター
9.オザークへようこそ
10.ブラック・ミラー 「サン・ジュニペロ」「殺意の追跡」
11.ファーゴ
12.ザ・クラウン
13.監獄のお姫さま
13.ゴッドレス
15.ボージャック・ホースマン
16.ナイト・オブ・キリング
17.しあわせの記憶
18.デアデビル
19.架空OL日記
20.ダーク・ジェントリー
21.アメリカン・ゴッズ
22.ハロー張りネズミ
23.ユニークライフ
24.刑事ゆがみ
25.富士ファミリー2017
26.ゲット・ダウン
27.ひよっこ
28.ラブ
29.アメリカを荒らす者たち/ハノーバー高校落書き事件簿
30.アンという名の少女
31.The OA
32.やすらぎの郷
33.GLOW
34.13の理由
35.プリーチャー
36.デッドストック
37.下北沢ダイハード
38.わにとかげぎす
39.仮面ライダーアマゾンズ
40.シャーロック
と、まあ、ザッとキリのいい40個目でやめておくとして、まだ見ていないドラマ(あとアニメはけものフレンズ以外は全然消化できていない)も多いので、「ああ、これもよかった」ってのがあったら、随時付け足していくと思います。まだ終了していないものも一部混ざってますが、今の時点での満足度の高さで放り込みました。
ランクインはしていないもので言うと、『ブルックリン99』『アンブレイカブル・キミー・シュミット』は非常にオススメです。スナック感覚で見れます。今年の朝ドラ、クソつまんねえな、なんてときとかちょうどいいかも。
『アンブレイカブル・キミー・シュミット』
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年8月18日
カルト教団の監禁から抜け出した女性が人生ををやり直そうとするが様々な困難が立ちはだかる………と書くと構えてしまうが、中身はひたすらハイテンションで疲れた心にはこれくらいぶっ飛んだちょうどいいわ
出てくるみんなが愛おしい。特にタイタス(笑) pic.twitter.com/MNGENvGBiO
ブルックリン99メンツによる最強の警察映画談義、どれもわかる。 pic.twitter.com/S00ZbZ4xP1
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年10月26日
『ツイン・ピークス リターン』『THIS IS US』『ファーゴ3』『ジ・アメリカンズ』は、まだ序盤でストップしてしまっているので、いずれクリアしていきたい所存です。ソフト待ちかな。このブログ(という名のメモ)を書いている間に思い出したのが『デリバリーお姉さんNEO』で、こちらも早く見なければなりません。あと『ビッグ・リトル・ライズ』『フュード』『ダーク』も気になる。
まあこうやって挙げてって、ヒシヒシ感じますけど、ドラマというジャンルの表現範囲の豊かさは、ストリーミングによって格段に進化しましたね。乗り遅れ気味の日本でも、これからは『火花』に続く形でいい刺激的な作品を生み出す流れができていったら、もっと潤沢になるでしょうね。未知は長そうだが。
「コイツ、あれ見てねえのか」とかあったらコメント欄にでもお寄せいただくと勉強になります(他力本願)。