ノア・バームバック 『マイヤーウィッツ家の人々 (改訂版) 』
『カルテット』で、坂元裕二は夫婦のことを「別れることができる他人」だと、松たか子に語らせていたが、兄弟(便宜上、兄と弟と書いただけで、兄と妹でも、姉と弟でも構わない)ならば、彼は何と喩えるのだろうか。
人が生まれてから、一番最初に属するコミュニティは、紛れもなく「家族」だ。「自分」について語るとき、切っても切り離せないのが「家族」であることは、疑いようのない事実である(血縁上のものだけが「家族」ではなく、ありとあらゆる形の家族が遍在しているので、広義の意味で使わせていただいている)。そこで、どのような立ち位置にいて、どのように愛情を受けるか。もっと些細なことかもしれない。ありとあらゆる要因が「家族」における「自分」を形成していき、それは人によっては、大人になって1人になったときに精神的支柱となったり、或いは、厄介な呪縛になったりするのかもしれない。
もう少し、「家族」を解体して見たときに、「1人っ子」か「2人以上の兄弟」のどちらで育ってきたか、といった区分けができないだろうか。これはあくまでも、個人的な実感と、これまでの短い人生での観察結果に過ぎないのだが、兄弟の有無やその構成は、人格形成において、かなり影響を及ぼしているらしい(ここには、経済的な要因も大いに含まれてしまうのは、悲劇的事実である)。
僕も(自分の話になってしまうのは恐縮なのだが)、1人っ子の期間が長かった一方で、歳の離れた弟を持っている身として、兄弟の有無による、両親からの扱いの差、というモノは敏感に肌で感じたものだ。
他の家庭と同様、僕の親も、決して完璧な人間ではない(そんなものは幻想で、そもそも自分は愚息と呼称されるに相応しい、ダメダメな息子なので、親のことをそんな風に判別する資格を持ち合わせてはいないワケだが)。なので、腑に落ちないことは、大人になるまでに、沢山あったことにはあった。それでも、ありがたいことに、愛情をかけて、時には突き放して、大切に育ててくれたから、ダメ息子なりに一生をかけて恩返しをしなくちゃいけないな、と幼少期から回顧して思うことは暫しある。歳を取ったというヤツなのだろうか。今でも両親への感謝は絶えることはない。
ただ、中学年で、弟が生まれたことで、やはり「1人っ子」ではなくなったことへの寂しさは、思い返すとあったのかもしれない。いや、明確にあった。
弟ができるまでは、世間が想像するような、ザ・1人っ子ライフを満喫しており、両親の視線が目移りすることもなく、祖父母などの親戚に会えばしつこいほどに「カワイイカワイイ」と持て囃され、言ってみれば、温室にいる蝶のように重宝されていた。「初孫」というのも、特典ポイントとしてはかなり大きく作用していたはずだ。我が人生で、もうこれから老いぼれてくたばるまで、絶対に訪れることはないであろう、アイドル黄金時代である。
それがどうだ、弟ができた途端、全く状況が一変してしまう。父も母も、歳とってできた子ども、ということで、暇さえあればビデオを回し、親戚は一様に我が家のニューカマーに付きっきりになってしまった。俗にいう、アイドルからの転落期だ。友達作りもこの頃から下手くそで、内気で家で遊んでばっかの少年だったので、せいぜい飼っていた犬しか遊び相手はおらず、より一層本に逃げ込んでしまうものだが、それはまた別のお話。
1人っ子であったことは、孤独への間に合わせの耐性を生み、また、弟がいるという比較対象がいることは、小さなヒエラルキー社会での格差を生んでしまうことになる。思春期になると、1人で籠ることが増え、親に本心を打ち明けることもなくなって、幼いころから活発で運動神経もいい弟見ると、たまに小さなジェラシーを抱くようになったりした。親も、そんな息子だから、自立のための第一段階なのだと思って、放任的になっていった(これは後から直接聞いた話だ)。音楽の才能もある彼は、当然常に関心の的になって、親戚が集まると、何のとりえもない自分はいたたまれなくなって、1人で隅に座って、関心のないようにふるまっていた。でも、当然そんなことはなく、ただ単に心の底から、弟が羨ましかったのだ。与えられても、何も返せない、浪費するだけの情けない期待外れの自分とは違うことに。そうやって、1人っ子と兄弟持ちのハーフという、面倒でくだらない厄介な身の上のまま、中二病気取りの少年は、表層的に大人になっていったのであった。
一応、明記しておくが、別にそのことを未だに恨んでいるとかではなく、そんな家庭は誰にでも起こりうる自然なことで、単純に子供心に寂しかった、というただそれだけである。それに、弟がいてもいなくても、このまま寂しい少年期を過ごしていた気もするし、逆にこのまま1人っ子が長引くと、今以上にコミュニケーションに多大なる障害を抱くようになっていたのかもしれない。あと、僕にとって弟は歳の近い息子を見ている気分で、あまり「兄弟」という感じもせず、すごく仲良しであることも付け加えておく。
話が脱線してまったが、要は、自分を語る上では、どうしても「家族」というものは、不可避であるということが言いたかったのである。
さて、ようやく本題に入るとして、これから紹介させていただく『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』も「家族」や「兄弟」のややこしさや面倒くささ、そして、それらへのほんの少しの肯定を描いた、素晴らしい家族の肖像をとらえた、とてもささやかな小品である。
監督は、ノア・バームバック。これまでの作品は『ベン・スティラー 人生は最悪だ』『フランシス・ハ』『ヤング・アダルト・ニューヨーク』と多作で、どれも高い評価を得てきている、有能な監督である。
NYはマンハッタンに住む、彫刻家である父ハロルド(ダスティン・ホフマン)の回顧展のために集まった、疎遠だったマイヤーウィッツ家の3人の兄弟。長男のダニー(アダム・サンドラー)は、元はピアニストであったが、主夫として娘のイライザを育て、彼女の大学への進学を機に、離婚することになっている。長女のジーン(エリザベス・マーヴェル)は、会社勤めをしており、家庭内では存在感が希薄なことから、父には度々無視されてしまうことがある。次男のマシュー(ベン・スティラー)は、LAで暮らし、建築コンサルタントとして成功を飾っており、ダニーやジーンとは異母兄弟である。最も父の寵愛を受けたマシューであるが、芸術への道を歩まなかったことから、父へ負い目を感じており、ダニーとはどこか壁があって、どうやらわだかまりがあるようだ。
(継母役には、エマ・トンプソンと、これまた豪華すぎる役者が勢ぞろいである。ただでさえ地味な作品なのに。あのクソマズそうなサメのスープはエキセントリックすぎる笑)
この父親が疫病神そのもので、過去の栄光に縋り続け、盟友を前にケチをつけずにはおられず、有名な女優(シガニー・ウィーバー!)に鼻の下を伸ばし、レストランでは隣のテーブルからワインを失敬する、トンデモっぷり。
こんな父親を持ったからには、まっすぐに育つはずもなく、癇癪を起したり、離婚したり、ジーンはさらに深い闇を抱えていたり…………3人兄弟はそれぞれに複雑な問題を抱えながら、家族の不和は、回顧展に向けて、あらぬ方向へ転がっていく。
今作は、1人の身勝手でモラルが欠如した(あんな父親は勘弁である)頑固な芸術家の父に振り回されて、大人になった3人が、再び集ったことで起きる騒動から、家長である父がこれまでの人生に落としてきた過去の影と向き合い、「家族」の呪縛から解放されていく物語だ。
これまでも、演技力を見せつけてきたアダム・サンドラーだが、『マイヤーウィッツ家の人々』は彼のキャリアハイになったのではないだろうか。妻とは離婚が迫っている上に、家族の中で疎外感を味わい、怒りの矛先が見つけられず、すれ違う見知らぬ他人の車に、窓越しから罵声を浴びせることが精一杯の、惨めっぷり。伏し目がちな彼の視線が、胸を締め付ける。ちょっと『マンチェスター・バイ・ザ・シー』のケイシ―・アフレックを思い出した。
今作、駐車場を用いた、冒頭のキャラクター説明には「ハハン」と感心してしまった。場所が空いたと思ったら間に合わず、必死で探しても、車をなかなか止めることができないダニー。駐車位置によって、彼が、マイヤーウィッツ家においてどんな立ち位置にいるかを、端的に説明する手腕は、見事の一言。衣装による心情表現もユニークで、ダニーが常にだらしがなく(さらには足を引きずってもいる)、対照的にコンサルタントのマシューが小ざっぱりとしたセットアップなのも着目したいところ。
会話劇は、坂元裕二の脚本のようで、テンポがいい。互いに繋がりたくても、どこかちぐはぐで、パズルのピースがキッチリとハマらないように、むず痒くもどかしい会話から、心のすれ違いを的確に表現している。会話が終わり切らないところで、唐突にブツリと切られるスピーディな編集もコミカルである(ジーンの髪型がいきなり変わった切り替わりにはクスッとした)。
音楽を今回手掛けたのはランディ・ニューマン。彼お得意の泣きメロは今作でも実に効果的に生かされている。新しい生活への一歩を踏み出す娘イライザと、過保護気味で子離れができない無職の父ダニー。そんな不器用で愛おしい関係性が、2人の連弾による演奏によって紡がれ、これがまた泣かせる。
Genius Girl - The Meyerowitz Stories
僕は彼らのような、ある種悲劇的な生い立ちを辿っておらず、基本的には恩恵を受けて育ってきたので、共感する気持ち自体はさほどないのだが、彼らの悲しみや困惑は切実に伝わってきて、そこにアダム・サンドラ―とベン・スティラーの名演が重なって、心臓に「どすん」ときた。自分の家族とは被る要素はあまりないのに、これが不思議で、その摩擦もパンケーキのような甘い愛おしさが湧いてくるのである。
所詮、家族だって血が繋がっている程度の他人に過ぎなくて、別にトラウマを克服しなくたっていい。その傷だって、自分を形成する一つの証であって、人生は思い通りにはいかないし、どうあがいたって、坂道を前に転んでいくしかないのだ。親近感は湧くが、共感こそはできない、この滑稽な再生物語にそんな風に勇気づけられた(なんとも陳腐な表現である)ような気がした。めんどくさくて、鬱陶しくて、ままならない。だから、愛おしい。
なんだかひどく辛い家族モノのように思えてしまうかもしれないが、あくまでこれはコメディである。大いに彼らの悲喜こもごもに笑えばいい。
アダム・ドライバー(今作でもかわいげのある役で出演してましたね)主演の次回作も楽しみなノア・バームバックが書く家族の物語を、ご覧になられてはいかがだろうか。
(つらつら書いているうちに、「あー、これ年間ベスト20に入れるべきだったのでは?」と未練がましくも、後悔し始め、過去ブログを丸ごと修正しようか、うじうじなんやでいる次第。「~ベスト」なんてアテにゃならないもんですね。なんにせよ、振り返れば振り返るほど、大事な一作になった)
おしまい
ザ・ダファー・ブラザーズ『ストレンジャー・シングス』2×01 「マッドマックス」
それはただの現実逃避なのかもしれない。
でも、少なくとも、孤高と共働が一緒にある世界を目指しながら、怪物と対峙して、「彼ら」と共に冒険することで、失った青春を、屍のままの過去の肉体を、たとえ疑似的にでも、再生することができるなら、それは「救済」と呼べるのかもしれない。
これはダファー兄弟からの、親愛なる、大人になれない大人たち(またはこれから大人になる子どもたち)へのラブレターだ
「ストレンジャー・シングス2」とんでもない傑作(安易に使いたくないが止むを得ず)だった………ベーコンとイチゴジャムのある世界で、怪物を恐れず進むことを説いた小沢健二とSEKAI NO OWARIが「フクロウの声が聞こえる」で紡いだ物語が、ホーキンスの町にあったんだ。 pic.twitter.com/0wEBfwO1Ti
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年10月29日
(さて、この連載擬きの自主企画の前に、一応念のために述べておくと、以下の文章は、①初めて『ストレンジャー・シングス2』を見た体で綴ってあるということ、そして、②1話にフォーカスしていくので事前に見ていただけるとネタバレとかそういったものは回避できるということ、そもそも、③シーズン1視聴済みである前提であること、を明記しておく)
1984年10月28日、ペンシルベニア州ピッツバーグでは、銀行強盗が起きていた。ベルが鳴り響き、警察の追っ手を振り払おうとする逃走車の中には、寡黙な少女、カリが。彼女の指示で、トンネルに入ると、パトカーが入る直前で崩落し、見事逃げ切ることに成功。しかし、警官が車から降り、トンネルの様子を再び見るも、何も起きていなかったのだ。運転手が見たのは幻覚だったのか。無事に逃走し喜ぶ強盗仲間を尻目に、依然静かなカリの鼻からは血が流れ、腕には「008」という番号が。そう、あのイレブンのように…………
舞台はハロウィンを控えたホーキンスに戻る。街を震撼させたウィル・バイヤーズの失踪からは、1年が経ち、マイク、ダスティン、ルーカス、そして「裏側」から帰ってきたウィルたちは今、『Dragon's Lair』や『ディグダグ』といったゲーム(世代じゃないけど、懐かしいと感じるのはなぜなんだろうか)の虜になっていて、小銭を集めては、ゲーム機に注ぎこんでいた。そんな中、ダスティンの最高スコアを破る「マッドマックス(!)」というゲーマーが現れたことを知らされる。
ホッパーが、胡散臭い陰謀論者の話から逃れ、カボチャの汚染の調査に乗り出す一方、学校前で、ナンシーはスティーブの願書の作成に付き合いながら、彼との将来について話し合い、雲行きの怪しさを感じ取っていた。そこに、カマロをかっ飛ばし、派手に登校するカリフォルニアナンバーの車が。車から降りたのは、上下をデニムでキメた青年とスケボーを抱えた赤毛の少女。
Scorpins - Rock You Like A Hurricane
マイクたちが授業を受けている中、カリフォルニアからの転校生が現れる。彼女の名前はマックス。最高スコア保持者の「マッドマックス」はこの赤毛の少女だったのだ。そして、ダスティンとルーカスはすっかりこの新参者に熱を上げていってしまい、半ばストーカーのようになってしまう。ウィルの母親である、ジョイスも、まるで高校生のようにボブとの恋愛に興じていて、ウィルと兄であるジョナサンの兄弟とも良好な関係を持っていた。
あらすじは、こんなところ。
さて、今回、大人も子供も浮かれたように、色恋に夢中なことが象徴的なように、シーズン2の最大のテーマであり敵となるのは、「思春期」なのだ。思春期の闇から伸びる蔦に足を絡み取られないように勇気を振り絞り、共鳴し合う魂たちの物語だ。
ウィルの描写がわかりやすく、学校から研究所へ連れて行かれるときに、彼を奇怪な目見ている(おそらくは彼の自意識過剰による妄想)のは、みんな女の子。「裏側」に惹かれていることよりも、彼が気にしているのは女の子たちの視線。異性にどうみられるか、外の世界に有象無象に潜む「視線」という名の影の魔物が、怖くて怖くてたまらないのだ。だから、母親の過剰な心配や逐一の送迎が煩わしい。愛情を享受しつつも、愛情の過剰さに溺れ、喘ぎ、息ができなくなっているのだ。言ってしまえば、「中二病」というヤツである。学校に行けば「ゾンビ」呼ばわりされ、自分が奇妙な目で見られる「異常者」であるから、心配してくれる兄にも辛辣に当たってしまう。
『桐島、部活やめるってよ』公開当初、胃がキリキリした挙句、ゲロを吐きそうになった(誇張とか無しに)ような身としては、これが痛いほどにわかる。思春期の卑屈や自意識。もちろん、僕は「裏側の世界」に行ったこともなければ、得体の知れない怪物に遭遇したわけでもない。それでも、僕の中では、思春期に蓄積した劣等感が、コールタールのような塊になって、モンスターとなって、「大人」になった今でも静かに潜んでは、肉体を巣食って暮らしている(これも決して誇張評表現ではない)。中高校生の頃は、スクールカーストでは、ずっと底辺の底辺にいて、酷いときは、自分のような人間と仲良くしていてくれた物好きな一部の友達を除けば、半年もろくすっぽ学校で会話をしなかったし、何か言えばどこかで笑われ(気のせいかもしれなかったのだが)、思い出したくもないようなあだ名で小馬鹿にされては、ヘラヘラしていた。そんな受け身のスクールライフスタイルを送っていたので、情けない話なのだが、友達の作り方なんて、未だにわからず、初対面の人に会えば、評価ばかりを気にして、会話がしどろもどろになってしまう。バカみたいだし笑ってくれていい。自分でもいつまでそんなことを根に持っているのか、と羞恥心で赤面してしまうのだが、ネガティヴな思考は壊れたテレビのように悪くなる一方で、治らないし、人と目を合わせることもままならない(目を合わせていると見せかけて、ずっと口を見ているとか、向こう側を見ているとか、そういうどうでもいい処世術だけが身についてしまった)。
一時は行方不明となり、「裏側の世界」から帰ってきたウィルは、学校での居場所に戸惑い、ロッカーには誰かが入れた「ゾンビボーイ」と悪戯半分の悪口が書かれた紙があった。でも、別に「ゾンビボーイ」は彼だけではない。恥を忍ばずに書けば、いつまで経っても、グズのままで、大人になり切れず、どうでもいいことにクヨクヨしながら、ズルズルと仮初めの大人になってしまった、そんな僕だって、今もまだ「ゾンビボーイ」のままだ。だから、思春期に苦悩するウィルをギュッと抱きしめて「大丈夫だ」と言ってあげたくなるのだ。僕の青春が報われないままでも、彼だけは「裏の世界」から帰ってきてほしいと、これもまた報われない思いを抱いてしまうのである。
胸を掻き毟りたくなるほど、切なく突き刺さったのが、エルと交信しようとするマイク。彼はエルがいなくなってから、352日、毎日トランシーバーで語りかけていたのだ。
「聞こえるかい エル?」
「僕だよ マイク」
「352日目 午後7時40分」
「まだ待ってる」
「いるなら答えて」
「合図でもいい 黙っているから」
「…………バカだな」
あまりに報われなさすぎる、運命の残酷さに心が痛んでしまった。孤独な魂が、繋がりたくても、上手く繋がらない。そのどうにもならない、厳しい現実のもどかしさが「トランシーバー」というアイテムとして、ぽつんと彼の部屋に、しこりのように残っているのだ。だから、彼はダスティンやルーカスに煩わしさを覚え、大切な友達を疎かにしてしまう。苦しい。苦しすぎる。本当に早く報われてほしい。
第1話最大のトピックは、誰とも関わってこなかったホッパーにエルという家庭ができたことではないだろうか。大人子どもこぞって恋に熱を上げる中、彼はもう一度、疑似的にでも家族を再生することによって、自分の人生を清算しようとしているのだ。小さな、小さな小屋で、細々と。娘を病気をなくして、やさぐれていたあの男が、新しい子供に「夕飯が先で、デザートはその後だ」なんて優しく説いているのだ。たったこれだけの、当たり前で、些細なことなのだけれど、その些細さにすっかり涙腺が崩壊しまった。
ここには誰かと繋がろうとして、救済された魂が、確かに存在して、そんな確かさにほっと胸をなでおろし、靴紐を結ぶのだ。
冒険はまだ始まったばかり。
いつものようにとっ散らかってしまいましたが、テーマの一つ一つは掻い摘めたのかな、とは思うので、こんな感じでダラダラ続いていきます。
つづく。
チャーリー・ブルッカー『ブラック・ミラー/サン・ジュニペロ』
あなたと歩む世界は
息をのむほど美しいんだ
人寄せぬ荒野の真ん中
私の手の中を握り返したあなた
あなた以外思い残さない
大概の問題は取るに足らない
多くは望まない 神様お願い
代り映えしない明日をください
宇多田ヒカル『あなた』の歌詞から思い起こした一作がある。それがNetflixオリジナルアンソロジーシリーズ『ブラック・ミラー』シーズン3第4話を飾る『サン・ジュニペロ』だ。初めて見たとき、そのあまりの潔い尊さに涙が止まらなかった。
『ブラック・ミラー』はちょっと先の近未来(それは5分後かもしれないし、100年後かもしれない)を描いたSFアンソロジーもので、基本的には発展した科学がもたらす不条理や集団心理的な恐怖を捉えたシニカルな単品が殆どを成す。近いものとしては、ロアルド・ダール、モンティ・パイソン、星新一、筒井康隆、藤子・F・不二雄の短編集、『世にも奇妙な物語』シリーズ、トワイライトゾーン、などなど。ああいった後味が好きならば、きっとどこかに好みのものがあるのではないだろうか。ブラックなキレ味が特徴のシリーズだ。逆に、そういった皮肉なものに耐性がない方にとっては、なんとも薦めにくいのだが、そんな中で、ようやくシーズン3で、誰の心にでも甘く響くであろうラブストーリーが生まれた。それが『サン・ジュニペロ』である(今作はエミーで脚本賞を獲得しており、納得の結果である)。
物語は1987年から始まる。クラブではヒットソングがかかり、壁に『ロストボーイ』のポスターがかかり、ネオンが艶かしく光り、ノスタルジックな空気が支配している。流行りのファッションに身を包んだ若者達の中で、冴えないメガネをかけたヨーキーは沈鬱な面持ちで時代から取り残されたように、彷徨っている。当てもなく入った「タッカーズ」で、ヨーキーは一人佇んでいると、ある女性が男を振り払うための出任せの嘘に付き合うことになる。彼女の名前は、ケリー。惹かれるものを感じたケリーに、ヨーキーはベッドに誘われるも「婚約者がいる」断ってしまう。一週間後、諦めきれないヨーキーは、また同じ「タッカーズ」へ向かい、ケリーに想いを告げることで、一夜を共にし、ヨーキーは生まれて初めての経験をすることになった。ベッドで彼女たちは、これまでの恋愛や家族のことを語り合い、忘れがたく、淡い時間を過ごした。そこから、一週間が経ち、ケリーを捜すも、彼女は「タッカーズ」に姿を見せない。バーの店員の提案で「クァグマイア」に向かったが、そこは性と暴力の支配するエリアであった。そこで、ケリーに振られやさぐれていた男と再会し、「今は1980年だ。90年代か2002年にいるかもしれない」と違う時代を捜すように教えられる。それから、また一週間おきに様々な時代を行き来し、ようやくケリーを2002年で見つける。ヨーキーは自分を遠ざけたことへの怒りをぶつけ、ケリーは楽しみたいだけだと言い放つ。しかし、ケリーはヨーキーを傷つけてしまった罪悪感から彼女に謝罪し、心から誰かを愛してしまったことへの戸惑いを告白する。そして、ヨーキーは婚約がもうすぐ控えていること、ケリーは余命が幾許も無いことや死後も「サン・ジュニペロ」に残る気はないことを伝え、現実の世界でも再開することを誓う。
仮想空間「サン・ジュニペロ」は、醜く年老いてしまった現実と離れ、謂わばノスタルジアに縛られた「亡霊」たちが歩く、死を控えた老人たちと死後の魂の居住地であったのだ。華やかでありながら、空虚で、時代が停止した「死人みたいな街」。ここでは、鏡の向こうの自分を傷つけることもままならず、拳から血を流すこともできない。でも、誰もが過去を悔やみながら、心の傷は抱えていて、ケリーはそんな場所で楽しむためだけに、迫っている「現実」と目を背けるために、深く他人と関わることを避け、ヨーキーを遠ざけてしまう。そんな繋がりたくても、繋がれない彼女たちが、初めて現実の世界で交差したときに、その「痛み」を一緒に抱き合う瞬間に、我々は涙するだろう。「楽しみ」のために、恋に躊躇うヨーキーから「初めて」を奪ったケリーが、本当の恋に苦しみ戸惑う中で、ヨーキーにキスを奪われる関係性の逆転も美しく、心に刺さった。
ここからのストーリーがどのように進み、彼女たちが「現実」と向き合い、どのような決断をするのかは、今読まれているご自身の目で確認していただくとして、実に興味深いアイディアである。仮想空間で、好きな時代を過ごすことができる。街も様々で、『時計仕掛けのオレンジ』や『マッドマックス』が合わさったエリアも個人的には惹かれてしまう。バーチャルな天国、という言葉は不気味だが、見てみると悪くないんじゃないかと思えても来る。
ネオンの光彩も、ニコラス・ウィンディング・レフンの作品のように美しく、カットの切り替わりによる仮想空間演出も自然で嫌みがない。どのカメラワークも端正で、尚且つ情緒に溢れており、画面がダイレクトに感情にもたらすカタルシスだけでグッときた(正直、なんでこれがスクリーンで見れないのか、と思ったほどだ)。現実とリンクして、ハッピーなエンディングに向かうにつれて、画面がネオンの闇から解放され、嘘みたいに晴れやかな空に包まれる演出も的確だ。海岸線のドライブは、多幸感で胸がときめきでいっぱいになってしまった。これが獲らなければ、どれがエミーを獲るっていうんだ、という出来栄えで、文句のない傑作短編であった。
(ヨーキーとケリーが一夜を共にした小屋は海辺にあったのだが、そういえば『ムーンライト』でも初めてを主人公が過ごす場所も海辺の砂場であった)
安楽死が果たして、幸福な選択肢の一つなのか、まだまだわからないし、決着がつくことはないと思う。ただ、肉体の痛みだけがリアルではない。ここには強固で、確実で偽りのない、血の通った、強い強い愛があったのだ。
そして、「現実」ならば、絶対に出会うことの運命になかった、彼女たちが眺める水平線の向こうの夕陽に、報われた恋に、そして生と死の彼岸に思いを馳せながら、『Heaven is a Place on Earth』を聴いて、また涙してしまうのかもしれない。
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少々センチになってしまったが、これを見ずにドラマは語れない、と極論を言ってしまってもよさそうなくらいの素敵な小品なので、お時間のある方は一度。
おしまい
欅って書けない『長濱ねると齋藤冬優花の2人の休日in長崎』
事の始まりは、『欅って書けない』内のフィーリングカップル(途中、ハライチ澤部さんがねるとんネタをやっても、土田さんが拾うまでメンバーがポカンとするのが可笑しかった)なる、女の子と女の子のイチャイチャが見たい若干変態的な趣向を持ったオタクからしてみれば、 この上なくたまらない企画からで、番組内で様々なカップルが成立する中、長濱さんと齋藤さんも晴れて相思相愛となった。両想いになったことで、2人っきりのロケに行くことができるようになり、各々候補地を挙げるわけだが、長濱さんは地元である長崎は五島列島の中通島に位置する奈良尾を挙げる。しかも、ふーちゃん(齋藤冬優花さんのニックネーム)用の部屋を屋根裏を改装して用意してあるというのだ。ハッキリ言って、こんなロケ企画、オタクからすれば、推しの女の子がキャッキャしてるだけで十分な満足度があるわけで、別に好きなところに行けばいいのだ。それを「自分の地元に招待したい」という。なんとも素敵な真心、地元愛ではないか。生まれも育ちも、田舎に隣接した新興住宅地で、目玉があるとすれば、せいぜい近所のケーキ屋くらいのところで育ってきた自分からすると、中々に信じられない完成だったので、素直に感心してしまった。
写真集の紹介をお願いしたところ、ひたすら五島列島の魅力をプレゼンしてくれた長濱さん😂😂😂😂#長崎 #五島列島 #上五島 #ねるプレゼン pic.twitter.com/KGfzDD5bZJ
— 長濱ねる1st写真集 ここから【公式】 (@neru_nagasaki) 2017年11月7日
長濱ねるというアイドルが、加入からどれだけ苦難の道を歩んできたか、それぞれでググっていただくとして(ネットの情報も最近は幾分怪しくなってきたので『乗り遅れたバス』を聴くだけでも十分といえるかもしれない)、彼女ほど人間らしさとアイドルらしさ、そしてタヌキらしい愛おしさ(本人はなぜかまだ認めてはいないそうだ)を同時に兼ね備えた人間はいないのではないだろうか。声と容姿とカリスマ性を神に選ばれた平手友梨奈とは対照的な存在であり、彼女のおかげでグループの均衡が保てているように思わせるところもある。「ながはまねる」という名前の与える語感も日本語的に柔らかく心地よい。顔の形に、フワッとした髪型、容姿、立ち居振る舞い、その全ても名前に合わせて、丸みを帯びているかのようだ。森博嗣『幻惑の死と使途』にて、「名前」のために生きることを犀川は「綺麗」だと表現していたが、彼が長濱ねるさんを見ればそんなことをつぶやくのではないだろうか。ときたま自分もこんなふんわりした名前だったら、日々を穏やかに過ごせたかもしれない、と思う程である。要は、彼女ほど往年の「アイドル」を体現した存在はいないだろう、という話なのである(小耳に挟んだところによると、どうやらロアルド・ダールのファンのようで、これもまた推せる事実である)。
長濱ねるを長濱ねるという名前から長濱ねるという語感からキャラデザインを描き起こした、という説が俄かに濃厚になってきた pic.twitter.com/eUcM1DVloX
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年4月21日
そんな少女の地元が、生まれ育った区域が、垣間見れるというのだから、これはもう見ない手はない。何を見て、どんな空気を吸って、成長したのか興味をそそられる。
さて蓋を開けると、これがまた率直に言って、最高のロケ企画だった。私的神回を更新してしまった。内容自体は、参拝したり、釣りをしたり、料理したり、買い物したり、海辺で遊んだり、と何の変哲もないものだは、そこには一本の短編映画を見た様な温かみに溢れていて、うっかり泣いてしまったくらい(たとえ「テレビ的な」演出があったとしても、だ)。青い海に、おいしそうな魚に、温かい地元の人々。言葉にすると、陳腐極まりないのだが、画面に映るそれらはとても魅力的で、その「なんでもない」ほのぼのした感じが、時間の流れが退行している姿が、心を打ちぬいてしまった。なるほど、この景色は自慢したくなる。そして、長濱さん、とにかく愛されている。番組上の演出を感じさせない地元民からの寵愛っぷりである。手を握れば「冷え性、治さないとね」と心配され、街を歩けば「こんな小さかったのに」とみんなが写真を持ち寄ってくる。若い人が減って、過疎化が伺える小さな島でも、時折彼女は帰ってくるそうだ。もうそのエピソードだけでもご馳走様でした、という具合である。彼女たちを出迎えてくれる、地元の人たちのキャラクターたちがまた濃くて素晴らしいこと。釣りの師匠、スーパーのおじさん、山内さん、魚屋のおばちゃん、保育園の先生、と匿名で地元に息づく人々が、長濱さんを台風の目に、自然に風景として立ち上がっている。天性の人たらし、とは彼女のことだろう。猫を抱えて、手紙を渡すために待ち構えていたあの子は未来のアイドルなのかもしれない。特に「わたしが一番カッコいいと思っている」と紹介される酒屋のおじさんも、渋くてキュートだった。
日本の外にいると頻りに思うことだが、自分のホームタウンがあることが自分をいかに安心させてくれるか、を痛感させられる。些細な出来事なのかもしれないが、居場所が用意されている、という事実だけで途轍もない勇気が湧いてきたりすることもあるのだ。長濱ねるさんも、そんな心境でいつも地元に足を踏み入れているのかもしれない、と思うと、その人間臭さにまたじんわり胸に広がって温かな心持になれる。齋藤さんにこの景色を見せたかったというのも頷ける。お世話になった人を、欅坂というもう一つの家族に受け入れてくれた人を、自分の家族として紹介したかったのだ。この真心にウルッと来てしまった。齋藤さんのお手紙も本当に気配りの神様みたいで素敵でした。いいもの見せてもらえた。
今年もありがとう、欅坂。絆っていいね。坂組だ。祈りや願いに支えられるのも悪くない、という『W-KEYAKIZAKAの詩』のフレーズがふと去来した。
やっぱり「ねるちゃんはスーパー人間」でしたね。井口さん、慧眼です。
そして、長濱さん、兼任解除、お疲れ様でした。
ひらがなけやき坂の井口さんが滔々と漢字の欅へ専任となった長濱ねるさんへの思いを最新のブログで綴ってるのだが、文章がめちゃくちゃ拙くて、小学生並みなのに、その中で溢れ出る想いが一途すぎてめちゃくちゃ泣ける。https://t.co/tR71SGsFKk
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年9月28日
後日談として、放送を見ていた志田愛佳さんが涙を流したそうだが、そこも含め、まさしく「最高かよ!(by 長濱ねる)」でした。
なお、本ブログは長濱ねる1st写真集「ここから」の販促では断じてないのですが、ご購入を検討されるのもアリかと思われますよ。
(余談ですが、天使の器に入れ込められたポンコツな魂を象徴した、天使オブ天使こと渡辺梨加さんの地元がギリシャ(?)という事実が判明したのもすべてが解決したようでよかったです。だからあの子あんなに話せなかったのか。あと、「けやかけ」の笑顔をつかさどる象徴的存在だった今泉さんが、何事もなかったかのように自然な姿でスタジオにいた、その姿だけで少々エモーショナルになり、涙ぐみそうになりました。おかえり、ずーみん)
The Best TV Shows of 2017 (高密度で高速な時代の移り変わり)
2017年ベスト映画の記事の際に「ドラマももはや映画と一緒に語られなきゃ本来はおかしいよねー」という旨のことを書きましたし、時間数的にも映画よりドラマ見てる方が多いに決まっているので、それならばとまたまたカウントダウン形式でダラーッと備忘録的にまとめていこうと思います。今回はタイトルを羅列していくだけになるのですが、この中のいくつかは後で別個で記事にできたらな、と将来的に考えています。多分、年を跨いでからになりますが。誰か一人でも「参考になった」なんて声があれば、私のナンチャラ欲求が満たされるというモノです。お金にゃなりませんけど。
(尚、基準は現段階で2017年に僕が見たもの、とします)
1.ストレンジャー・シングス
2.火花
3.マスター・オブ・ゼロ
4.ナルコス
5.カルテット
6.ウエストワールド
7.レギオン
8.マインドハンター
9.オザークへようこそ
10.ブラック・ミラー 「サン・ジュニペロ」「殺意の追跡」
11.ファーゴ
12.ザ・クラウン
13.監獄のお姫さま
13.ゴッドレス
15.ボージャック・ホースマン
16.ナイト・オブ・キリング
17.しあわせの記憶
18.デアデビル
19.架空OL日記
20.ダーク・ジェントリー
21.アメリカン・ゴッズ
22.ハロー張りネズミ
23.ユニークライフ
24.刑事ゆがみ
25.富士ファミリー2017
26.ゲット・ダウン
27.ひよっこ
28.ラブ
29.アメリカを荒らす者たち/ハノーバー高校落書き事件簿
30.アンという名の少女
31.The OA
32.やすらぎの郷
33.GLOW
34.13の理由
35.プリーチャー
36.デッドストック
37.下北沢ダイハード
38.わにとかげぎす
39.仮面ライダーアマゾンズ
40.シャーロック
と、まあ、ザッとキリのいい40個目でやめておくとして、まだ見ていないドラマ(あとアニメはけものフレンズ以外は全然消化できていない)も多いので、「ああ、これもよかった」ってのがあったら、随時付け足していくと思います。まだ終了していないものも一部混ざってますが、今の時点での満足度の高さで放り込みました。
ランクインはしていないもので言うと、『ブルックリン99』『アンブレイカブル・キミー・シュミット』は非常にオススメです。スナック感覚で見れます。今年の朝ドラ、クソつまんねえな、なんてときとかちょうどいいかも。
『アンブレイカブル・キミー・シュミット』
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年8月18日
カルト教団の監禁から抜け出した女性が人生ををやり直そうとするが様々な困難が立ちはだかる………と書くと構えてしまうが、中身はひたすらハイテンションで疲れた心にはこれくらいぶっ飛んだちょうどいいわ
出てくるみんなが愛おしい。特にタイタス(笑) pic.twitter.com/MNGENvGBiO
ブルックリン99メンツによる最強の警察映画談義、どれもわかる。 pic.twitter.com/S00ZbZ4xP1
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年10月26日
『ツイン・ピークス リターン』『THIS IS US』『ファーゴ3』『ジ・アメリカンズ』は、まだ序盤でストップしてしまっているので、いずれクリアしていきたい所存です。ソフト待ちかな。このブログ(という名のメモ)を書いている間に思い出したのが『デリバリーお姉さんNEO』で、こちらも早く見なければなりません。あと『ビッグ・リトル・ライズ』『フュード』『ダーク』も気になる。
まあこうやって挙げてって、ヒシヒシ感じますけど、ドラマというジャンルの表現範囲の豊かさは、ストリーミングによって格段に進化しましたね。乗り遅れ気味の日本でも、これからは『火花』に続く形でいい刺激的な作品を生み出す流れができていったら、もっと潤沢になるでしょうね。未知は長そうだが。
「コイツ、あれ見てねえのか」とかあったらコメント欄にでもお寄せいただくと勉強になります(他力本願)。
2017 Best Movies 20 (ベストと言いつつ「あの映画見てなかった」が沢山でお手上げです)
早くも「暦の上ではディセンバー」ということに気付き膝が笑うわ。なんつって。年の瀬ですからね、どこもかしこも「総決算、総決算」とやかましく、せっつくように便乗して「映画ベスト」という、なんともしょうもないリストを作らなければならなくって(そんな義務はどこにもない)。
というワケで、まず、しっかりと断っておきますと、敢えてこのランキングからは、ドラマシリーズを取り除いております。じゃないと『ストレンジャー・シングス』『ナルコス』『マスター・オブ・ゼロ』『レギオン』『ウエストワールド』『ブラック・ミラー』『ファーゴ』『ナイト・オブ・キリング』『アメリカン・ゴッズ』『13の理由』『プリーチャー』といった作品群がひしめき合うことになり、「それはそれでどうなんだ」と思わなくもないので。ただやっぱり、ドラマの時間密度を体感していると、どうしても映画の限界がたまにちらりと見えてきたりするのもまた事実で。もはや10何時間の映画、ともいえるワケで。でも、やっぱり映画という様式美で最大限表現できるものは、こちらも最大限に受信していきたいものですし、可能性は信じていきたいので、まあ謂わばジレンマみたいなものもあったり(笑) あくまで「テレビドラマ」という文化としてしばらくは自分の中で住み分けしていこうと思います。
それでは1位から順番にカウントダウンしていきます
(Twitterで既に投稿はしたのですが、後追いで見たので多少の変動があります。ほぼその通りですが一応)
2017年の映画ベスト16です。敢えて、ドラマは外しました。入れてしまうと1~3位が埋まってしまいますから。見ていないのも多くあるし、そのときのテンションとかもあるので、あまりアテにはならないです。 pic.twitter.com/YXcn4W1k4F
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年12月10日
1.エドガー・ライト『ベイビー・ドライバー(Baby driver)』
これ以上にパーフェクトでマーベラスな映画はなかったように思います。音楽が物語の速度を上げるエンジンではなく、ハンドルとなってまさしく映画と「同期」したような感覚になる。こんな発明されちゃ敵わんです。少し残念なのが、この映画によって「私たちの」エドガー・ライトが遠くに行っちゃったことくらいでしょうか(笑)
映画見て「最高」しか言わないヤツ嫌いなんだけど(まあ素直といえば素直)、これに関しては「最高ッッッ!!!」しか言えないです。エドガー、あんたは真の漢やで。
『ベイビー・ドライバー』冒頭6分間の映像を見れば憂鬱な気分も吹っ飛ぶので試してみてほしいhttps://t.co/oVj6M5osLf pic.twitter.com/zwNwEgpHIY
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年7月23日
『ベイビー・ドライバー』は、ダムドのパンクロックに、ヤングMCのヒップホップと縦横無尽な音楽が、ドアを閉める音から銃声までありとあらゆる音と動きまでもがミックスされた、ノンストップで疾走する新世代的"プレイリスト"映画。pic.twitter.com/uytkoW0nif
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年8月20日
2.バリー・ジェンキンス『ムーンライト(Monnlight)』
『ムーンライト』は、日本版公式ホームページのコメントにあるのですが、「せわしない日々、私が2時間休めるなら、迷わず再びこの映画を選ぶでしょう」という椎名林檎の賛辞が全てだと思います。月の光で照らされる少年の青い影が、指先から心に沁み込んでくる。こんなにも優しく、誰にでも響き、共鳴するシンプルなラブストーリーがかつてあったのだろうか。傷つきながら無垢を保ち続けたまっさらな想いが、開放された瞬間、さらさらと目から涙がこぼれ落ちました。ニコラス・ブリテルの奏でる音楽も素晴らしい。心を保ち続けることは何と美しいのだろう。静かに燃え続ける炎を胸にしまっておく人生もある。痛みもすべて抱えながら。
(Netflix加入されているなら、合わせて『ブラック・ミラー/サン・ジュニペロ』はリンクしまくるので見ていただきたいです)
この映画、各章で食事の場面が挿し込まれます。幼年期、輪に馴染めない"リトル"を麻薬ディーラーのフアン(マハーシャラ・アリというキャスティングがまた良い)がファストフードに誘う。少年期、母親は麻薬に溺れ、学校にも居場所がないシャロン("シャイロン"読みが正しいだろう)は、テレサに温かい家庭料理で迎えられる。感情を押し殺して、見た目も変わり、心も体も鎧で覆った"ブラック"に、彼がかつて恋心を抱いていたケヴィンが差し出すのは「シェフのオススメ」。居場所がない人に居場所を与えるために、食事を差し出す。なんて人間的で、根源的なのか。ダイナーでの場面はとても象徴的で、差し出す側のケヴィンは素手で料理を作り、差し出される側のシャロンは鎧である金のグリル(馴染みのない方はわかりにくいかもしれないですが、アレは金歯じゃないですよ)を外し、愛情を受け入れるために自分の歯で料理を噛み締め、心から味わう。砂浜の夜のことを胸に秘めながら。これほどまでに官能的で緊張感のある食事シーンは初めて見ました。エロい。一途ではないか。内向的であった彼が、心を開いた瞬間のときめきは言葉にできない。ひたすらにこぼれる涙をそっと隠してひっそり胸にこのときめきを閉じ込めておきたい。あと人生で何回見るのでしょうか。
3.ドゥニ・ヴィルヌーヴ『ブレードランナー2049(Bladde Runner 2049)』
ヴィルヌーヴ、よくやった。これに尽きるのかなと。史上最難度のトンチに見事に応えてみせた彼の力量には改めて感服してしまった。最もフォロワーが多いであろうカルト映画の金字塔として、長年崇め奉られてきた『ブレードランナー』の続編なんて誰も引き受けたくないでしょう(笑)。しかも、今までに『ブレラン』っぽい風景のSFなんかゴマンと作られてきて、もう飽和状態になっていたところに、この話が彼のもとに舞い込んだわけだから、そりゃもう心労は半端じゃなかったと思いますよ。正直予告編が出るまでは『~2049』というタイトル含め、受け入れられなかったクチでした。
でも、そんな不安は杞憂だったんですね。見事に一掃してくれました。まず、ストーリーが素敵ではありませんか。ハートが抉れそうなほど痛々しく切ない。これまでに提示された謎を一つずつ解き明かしていきながら、タルコフスキーのような画に加え、映像体験としてもこれまでとは違った新たなディストピア像を生み出し、流麗なアートムービーへと昇華し、新型の「レプリカント」の想像に成功したんですね。しかも、ヴィルヌーヴの作家としての個性もきちんと生きていて、『灼熱の魂』『プリズナーズ』『ボーダーライン』のすべてがエッセンスとして混入しており、漸進したものにもなっていました。
妖しく光る繁華街のネオン、吹き荒ぶ砂嵐、崩壊した建造物、孤独な人々。
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年10月27日
「ブレードランナー2049」はリアルな"至近未来"を描いたSF(にジャンル付けすることを躊躇うほど至近である)で、思考を促す余白が大きい幽玄なアートムービーである。そして、ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画であった。 pic.twitter.com/ILtQ8eMZKB
何か言うとネタがバレそうな気がして、来年1月にDVDリリースされたら『ブレラン2049』について、思索しながらブログ書こうと思っています(と書いておけば、やるだろうという半ばメモ書き程度の姑息な宣言)。ヒントはキリストの生誕。あるいはピノキオ。ピノキオとコオロギ。あと映画『ゴースト』も。ああ、そうだ。アレを見返そうと思って忘れてたな………
荒廃した未来の食料を再現するために虫育てるとか本気すぎるだろ『ブレードランナー2049』 pic.twitter.com/bIMZ1qJxDd
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年9月28日
ところで、虫ってちゃんと食したことがなくって、生理的にダメなのだけれども、いつかはチャレンジしてみたいジャンルではございます。
4.ポン・ジュノ『オクジャ/okja』
外連味は抑え目ながらも、やはりポン・ジュノです。意地が悪い。悪すぎる。資本主義を人型にしたような敵役はとにかく不気味で憎たらしいのに、見終わった後考えていくと、実は…………というのが本当にやらしい。感動したのも束の間、イヤな後味がザラリと舌に残る。ミジャの勝利が決して美しいものではなかったように、綺麗事だけじゃ生きていけないし、もう元には戻れないこの残酷さ。人間はかくも醜い。我々は「"彼女"は最後に何をささやいたのか」を考えるしかないようです。世界を変えることも、まだ間に合うのかも。
アメコミヒーロー映画というか西部劇でしたね。明確な『シェーン』へのオマージュ。マッカーシー文学にも近い。イーストウッド『グラン・トリノ』の延長線上にある物語でもある。死ねない男が、贖罪のために死を携え、ただただ生きては、仲間を喪い、かつての希望も絶たれ、自ら命を絶つこともできず、ただ老いが過ぎるのを待っていた、死を看取りすぎた男が、命の落とし前をひたすら模索し続けるサムライ映画のようでもあります。特筆すべきはヒュー・ジャックマンの身体性そのものでしょう。一人の男の人生を演じ切る、血生臭い演技。「彼」の死は1つの終着でもあり、新たな始まりでもあって、 「生き永らえる」というのは必ずしも「肉体の不死」を指すのではなく、「精神の不滅」を表すこともあるのかもしれません。 ローガンの長い長い旅は終焉を告げましたが、その終焉は改めて我々に生の重みを感じ取らせてくれました。ヒュー・ジャックマン、お疲れ様です。日本の温泉にでも来てください。
6.ジム・ジャームッシュ『パターソン(Paterson)』
ぶっちゃけ1位です(笑)。でも、やっぱここら辺に置いてじっくりと抱きしめておきたい、そんな逸品。あと2017年ベスト犬ムービーですね。犬採点方式だと犬5つ。何も起こらない幸せに感謝して、ネリーの幸福を祈るのです。心から心地よいと思える豊かな世界がこんなところにありました。平凡な退屈を愛する平凡な「詩人」たちへのジャームッシュからの賛歌ではないでしょうか。この映画を見てから、静かなパブでビールのなんともうまいこと。星野源の『くだらないの中に』が改めて沁みます。
宇宙でヒーローが活躍するアクション映画や鋭い批評性の社会派映画もいいんですけど、それだけでは気づけなかった(敢えて見てこなかった)ものもあって、騒騒しい社会で欠落していた穴を埋めてくれるような作品もやっぱり必要とされているワケでして。『パターソン』はまさに欠けた茶碗の一欠片のような一作です。あらゆる全てに愛を。詩の魔法は解けないよ。この時間を共有できたことは宝物です。
『パターソン』で孤高の詩人を演じたアダム・ドライバーの巨体から滲み出る繊細さ。つうか顔がジャームッシュそっくりだな。息子なんじゃないかw pic.twitter.com/yI9f7zwBjN
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年9月1日
7.シェーン・ブラック『ナイスガイズ!(The Nice Guys)』
いやはやライアン・ゴズリング、大活躍でしたね、2017年。そんな中で、最も光ってたこの『ナイスガイズ』。喜々として安い笑いを取りに行くあのコメディへの漲るやる気はどこから湧いて出たのか。もう終始笑い転げてましたし、実は『ベイビー・ドライバー』に続いて、一番劇場で見に行った映画。だって、好きなモンが全部乗ってるんですよ。1970年代ファッション&ミュージック、怪しげな私立探偵、バディもの、粗暴な熊おじさん、ダメなパパ、利発な子供、オフビートな笑い、スラップスティック、ブラックネタ、ガンアクション、顔が良すぎる殺し屋、などなど。そりゃもう支持しないわけにはいかないんですよ。不謹慎な笑わせ方がとにかく安易で、軽薄なのに、ハチャメチャ面白いプロットに、硬派なメッセージ性と「ナイスガイズとはこういうことよ」と態度で示す律義さ。ズルいですよ。シンプルに「あ、映画ていいもんだよな」というところに帰らせてくれる私的大ヒット作でした。ドラマシリーズ、マジで期待してますから!!
『ナイスガイズ!』全編でマーチはずっと情けないんですが、その中でもとびっきりなのが「オレは切れ者の探偵だぜ~」と有頂天になっていたら、脇にいる死体を見つけてしまい、腰を抜かして、ラッセル・クロウに助けを求めようとするも、声が全く出せなくなったところですね。本当に見ててお腹痛かった pic.twitter.com/VOGBZkcVOW
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年3月16日
8.クリストファー・ノーラン『ダンケルク(Dunkirk)』
強烈でした。「体験」そのものを観客にぶつける映像体験。プリミティブな制作方法に戻ることで、これまでになく究極にリアルで革新的になった『ダンケルク』は、間違いなくクリストファー・ノーラン最高傑作。それは彼のこれまでの作品があったからこそ。フィルムに対する執着、狂気じみた実物主義、そして時間へのこだわり。これらはいかにノーランが「映画を劇場で体感する」ことに重きを置いているのかを担保するものだと思います。改めてこの偉業に至るまでの長い道のりに敬服するばかりです。3/4をIMAXで撮影された今作の規格外の没入度は「ゲーム」と形容するべきなのかもしれないですね。カメラが「人の目」になることで、神話打ちこわし、ナマな新世代のVR体験を生み出してしまった。生々しい情報をシャットアウトし、戦場のあるシチュエーションを拡大し、情報量の少なさから憶測させ、何が起こるかわからない恐怖を観客の心内で増幅させる。しかも、戦場のゴールが見えないワケです。徹底的に恐怖を叩き込む映画としての強度の高さ。このオープンワールド的な映像によって『ダンケルク』の戦場の"体験者"となった観客が、チャーチルの言葉をどう捉えるのか。ここにノーランは映画が持つメッセージ性の部分を託したように感じました。人間の尊厳について思考し、ダンケルク・スピリットを共有することの意義。
『ダンケルク』は聞いて、肌で感じて、そして目撃するタイムサスペンス。
チクタクチクタクが心臓に悪い。
『ダンケルク』のトム・ハーディ、『マッドマックス』以上に物言わぬ役で、ほぼほぼ顔も隠れた演技だったんですが、やはりトムハは違いますね。目であんだけ語れるのは一流。
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年9月9日
そして彼の操縦するスピットファイアはあまりにカッコよすぎて、クライマックスの勇姿で泣きそうに。 pic.twitter.com/N6qP2DVKCq
9.アントワーン・フークア『マグニフィセント・セブン(The Magnificent Seven)』
「マグニフィセント・セブン」のクリス・プラットのキャラクターを分かりやすく説明するとジョセフ・ジョースターですね。ホラ、段々見たくなってきたでしょう? pic.twitter.com/imQ5TTEsfi
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年1月28日
「マグニフィセント・セブン」を最も盛り上げたのは、グッドナイト(イーサン・ホーク)とビリー(イ・ビョンホン)のスナイパー&必殺仕事人コンビですね。
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年1月27日
長年連れ添った夫婦、というよりガキの頃から一緒のマブダチみたいなサッパリした爽やかな友情で結ばれた2人に幸あれと願わんばかりでした pic.twitter.com/cWKiPhDhCx
理由が全く理解できないんですけど、「マグニフィセント・セブン」でヴァスケスが単身乗り込むときに、ギラッとした目でニヤつくシーンでボロ泣きしてしまったんですよね。 pic.twitter.com/sNA0mFTHc1
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年2月1日
西部劇を模った、アイドル映画ですね。地方復興アイドル映画。アイドル志望のデンゼル・ワシントンが町興しのためにクリス・プラット、イーサン・ホーク、イ・ビョンホンら、精鋭アイドルを募り、アイドルグループを結成して、大手事務所の大規模グループと戦うっていう(なんだこの喩え)。いつだって世界を救済するのはアイドルなんですよ。全世界共通で。劇場で思わず拍手しそうになった数少ない作品です。クライマックスが常時続いている映画なんて、飽きちゃいそうなんだけど、『マグ7』に関していえば例外。ずーっとアドレナリン出まくりで、クライマックスに楽しい。最高すぎる(また使っちゃったよ)ヤツである。アタマからケツまで「21世紀最高の西部劇を作ってやろうぜッ」というフークア監督のパッションが漲ってて、その心意気にまんまと泣かされました。キャラクターもどいつもこいつもみんな際立って素晴らしく、みんなが文句なしにカッコいい。生き残ったやつも、命を落としたやつも、キラキラに輝いてるんですよね。なんと潔いのか。7人が決して偶然ではなく、必然的であったかのように邂逅した、という「事実」がまた泣ける。人間はやっぱこうでなくっちゃ行けないと思わせられてしまうんですね。理屈抜きで心で通じ合う仲間だからこそジャック・ホーンの「尊敬できるヤツらと死ねるなら本望だ」って言葉が胸に迫ってくるんですよ。
決して、『七人の侍』『荒野の七人』をなぞっただけの作品ではないのも素晴らしいと思います。あくまでも「農民が蜂起することで戦いに勝利した」という結末に物語としての美徳と侍という生き方の哀しみを感じる『七人の侍』と差別化し、『マグニフィセント・セブン』ではそれらをエマ(ヘイリー・ベネット)という夫を無残に奪われた農民代表として登場させることで見事に消化しているんですよね。
あとね、デンゼル・ワシントン始めとした役者陣の拳銃捌きがフェチに刺さりまくって、萌えの許容値オーバーでした。
10.ケネス・ロナーガン『マンチェスター・バイ・ザ・シー(Manchester by the Sea)』
他の誰かにとって、死は別れでもあり、新たな始まりでもある。後ろに進んでも、不可逆な時間はひたすら前に進む。陳腐な表現ですが、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を見終わってそんなことを深く考えてしまいました。唐突な最愛の人の死(誰にでも訪れる別離)によって分断された人々が、心の隙間を埋め合わせるように、寄り添うも、どこかぎくしゃくしてしまう哀しさと滑稽さ。雪が溶けて岩肌が見えるまで待ち続けるような、落ち着いた優しい視線で悲しみを見つめる。決して成長や克服を強いることはしない。報われない後悔の物語に心が救われてしまった。予定調和で安易な救済ではなく、寛容な心でギュッと抱き寄せるような優しさに泣いてしまった。見る者を絶対に一人ぼっちにはさせない。ケイシー・アフレックに役を譲ったマット・デイモンには惜しみない賞賛を送らなければなりませんね。ミシェル・ウィリアムズも名演でした。『ムーンライト』同様、一生大事にしていきたい一作です。これも「他者を受け入れていく」ことを説いた映画なんですよ。
そう、小津安二郎はまだ生きていたんですね。
12.ジェームズ・ガン『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス(Guardians of the Galaxy Vol.2)』
13.デイミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド(LA LA LAND)』
14.ロバート・エガース『ウィッチ(The VVitch)』
15.北野武『アウトレイジ 最終章』
17.パク・チャヌク『お嬢さん(The Handmaiden)』
18.メイコン・ブレア『この世に私の居場所なんてない』
19.湯浅政明『夜明け告げるルーのうた』
20.ジョーダン・ヴォート=ロバーツ『キングコング: 髑髏島の巨神(Kong: Skull Island)』
『哭声(The Wailing)』観た。謎の奇病と闇の國村隼が暗躍して中盤からの怒涛の超次元ハイテンション展開に脳の処理が間に合わず精神が削られる異様な映像体験だった………そして、吊り下げられたカラスと燃え盛る炎の中で呪術を唱える國村隼がひたすら異様で最高だった…… pic.twitter.com/XFAJMzc4CD
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2016年11月15日
本来ならば20位以内には入れていてもいい、怪作ナ・ホンジン『哭声/コクソン』はDVDが出てすぐに輸入盤を購入して昨年見たので、外させていただきました。ただ、こちらもまだ見ていらっしゃらない方がいるのなら、頭から浴びてほしい映画でございます。ゾンビ映画にシャーマニズムやキリスト教を放り込んでグツグツ煮たら、異形の化物が地の底から這い出てきたような作品でして、こればかりは「見てくれ」としかレコメンドができないものでございます。ホラーというよりもカルト。見たものしか信じないし、信じたいように人は信じる。そんな心理を掻いて、ミスリードに次ぐミスリードで、疑心暗鬼の種を植え付け、その種が悪魔を生んでしまうという、という他では経験しがたいものです。認識というモノを根本から否定する。神業と呼ぶにふさわしい編集で、救済の橋をことごとく粉砕する潔いまでの悪魔的所業。認識をテストするリトマス試験紙でもあるわけで。しかも國村隼さんがほぼ半裸で出ているんですよ。見ない理由ないですよね(強引)。是非。
このランキングが参考になるかどうかはわからないのですが、元々備忘録で作ったものにメモを付け加えた程度のモノなので、そこらへんは何卒。
こういうの考えると、さして見ていなくても通ぶれるからいいですね 笑
ライアン・ジョンソン『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』
(まず断っておきたいのが、僕はこの映画に対しては賛70%、否が15%で、残りの15%はまだ自分の中で決着がつけられていない、という状態であること。これはきちんと記しておこうと思う)
それはもうウキウキしながら、映画館へ駆け込んだ。予約もせずに行ったので、当日駆け込んで早めについたが、アッサリ席を確保。しかもなんとツイているのか、初日のIMAX3D(日本ではないです)で、自分以外に腰を下ろしているのは、左隣の可愛らしい老風と斜め前の家族連れ。『ジャスティス・リーグ』のときはガキンチョやカップル連れが多くて、かなり騒々しい劇場だったが、終始静かでこの上なく快適な視聴環境。上機嫌にポップコーンとナチョス(ソース付き)とコーラを買い込み、ふんぞり返りながらスター・ウォーズを満喫、ということで最上の滑り出し。もう既に料金の半分は満足してしまった 。本編が終わり、劇場を後にしようとすると、隣の老夫婦が「美しい終わりだった」としんみり語っているのが聞こえ、なんだかそれが妙な重みを帯びていた。『スター・ウォーズ』は人生なのだ。そんなことを改めて感じさせられた(「~は人生」という謳い文句は往々にして存在するのだが)。ルーク・スカイウォーカーという人生にどのように終止符を打つのか、誰もが気になっていた中、ああいう答えを出したことは少なからず、いずれ去りゆく僕らに勇気のようなものを与えてくれたはずだ。
さて、それでは肝心の本編はどうだったのか、といえば「こんなオカズ詰め込んでよく弁当箱から出なかったね」といったところで、当初の予想通りと言えばそうだが、やはり消化不良で食べ残した点も多いし、いらなかったオカズが多いようにも、ご飯とのバランスがおかしいような感じもする。まあそれだけ思い入れがあるといえばその通りではある。
とりあえず誉めていく(上げてから下げるスタイルって卑怯なように思えるが、そこは勘弁してほしい)として、あの重たい展開でも、しっかりユーモアは残しておいて、構図も実にユニークで、ちゃんとアクションもかんばった。クライマックスの殺陣なんか芸術的と言っていい出来で。往年の黒澤明や五社英雄、そして鈴木清順(『関東無宿』かな)といった古き良き日本映画マナーに則った撮影は美しく、大胆で、SW史上これまでにない高水準な出来であっただろう。今だからできる境地だったかもしれない。あの真っ赤な舞台は絶対にクロサワ『乱』だと思うのだが。
『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』、チャンバラのカメラワークが滑らかで美しく、黒澤明を彷彿とさせるところもあり、ダイナミックさに目を奪われてしまいました。赤を基調とした色使いから、もしかするとライアン・ジョンソンは『乱』を見たのかもしれない。 pic.twitter.com/gspI1DBnQc
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年12月14日
どのショットも実に魅惑的で、野心的であり、インディペンデント映画の魂が宿った作りにはこれまでにない心意気が感じ取れ、シリーズの進化に感慨深い気持ちにさせられた(ただ3Dの意味はほぼなかったといっていいし、これは以降の課題になっていくだろう)。枚挙に暇がないが、ルークとレイアが再開しじっくりと見つめ合う場面は思わず泣いてしまった。破壊描写・爆発シーンも容赦がなく、なかなかにハードな撮り方をしていた。
『最後のジェダイ』なんといっても最大の功績は「もう血筋とかそんなもん古臭えんだよッ!!」と呪縛から解き放ったことがなにより大きいのではないだろうか。同様の試みは既に『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.2』では行われていたが、とうとうそれをスペースオペラ最大手がオフィシャルで断言してしまった。つまり、散々オタクの間で議論と考察が交わされたレイの出自が明らかになるわけだが、なんてことはない、彼女だってただの普通の人間なのだ。「選ばれし者」なんてハナからいなかったワケだ。英雄は祭り上げられるものではないし、そんなものは存在しない。すべての人が歴史の中では主役であり、『スター・ウォーズ』という物語は「遺伝子」を引き継ぐ話ではなく、「物語(ミーム)」を継承する装置なのであった。こんな普遍的で根本的なことを、ファミリー向けの映画でキッチリと提示する。ルーカスがやりたくても、やり切れなかったのはこれだったのだろう。だから、彼は今作を絶賛する立場にいる。納得である。元をたどれば、ルークだって、たまたまスカイウォーカーの血筋が流れていただけで、農家の倅に過ぎなかった。そもそも農家継ぐ気満々だったし。島(スケリッグ・マイケル!)に引きこもって、老いぼれになっても、なんだかんだ情けないんで、迷ってるところを霊体で(笑)現れたヨーダに稲妻でアッサリとジェダイの樹を燃やされ、『人間は失敗から学んでいくんやで」と諭される始末。ジェダイだって、エリートの血統主義で失敗してきたのだ。だから、ヨーダは過去を後悔し、ルークは己をフォースで解き放ち、開けた未来に引導を渡す。すごくこれまでのSWの景色とは違うものが見えてきた気がする。ここに反動が多いのも頷けるし、この呪縛から逃げ切った「神話」がどう進んでいくのか、見守っていきたい。きっとBTTF3が好きなのでしょうね、ライアン・ジョンソン。
「教えを説いた弟子が師を超える。それこそがマスターの真の責任」
今作ラストで、霊体としてカイロ・レンの目の前に現れ、ドタバタとライトセイバーを振るうのベン君を一部の隙も無く避ける、全ての束縛から解放された、あのルークは舞いのように綺麗で、熟練という言葉が似合う。最後は、一人でフォースと一体になって夕陽に融けていき、人生を閉じていく。素晴らしいフィナーレだ。あれこそ「ライフ・イズ・ビューティフル」だろう(己を消すことが美しいとされるのは幾分日本的に思えるが、アレが海外の人にも伝わっていたら嬉しい)。ルークが眼差しを向ける2つの夕陽に、人生の斜陽に思いを馳せるのだ。
『最後のジェダイ』実に現代的だったのが、善でも悪でもない、グレーな存在で、戦争が起こる中でああいう存在がいることを明かしたのは、批評的でよかった。レイとレンが歩んでいくこれからの道筋の指標にもなっている。
と、ここからは、ダメだったポイントを羅列していく形になって、決定的にダメだったのが、「まともな判断ができる人間はどこにいるんだ?」というところで、あまりにレジスタンス側もファーストオーダー側も物事を全体から見ることができる人間がいなさすぎる。ポー・ダメロンはキャラの性質上大目に見るとして。ファーストオーダーだって、いつまでもあんな素直にレジスタンスと鬼ごっこしてたらバカみたいに見えてくる。レジスタンス側の作戦もなんと杜撰で、よく組織が持っているなと逆に感心した。一番まともなハックスも不憫なコメディキャラになってしまい、これには困ってしまった。新たに加わるローズも決して嫌いなキャラではない。『ローグ・ワン』という「何者でもない者たち」を引き継ぐ形での雄弁な代弁者として立ち上がる姿には胸が熱くなった。ただ、どうもこのキャラ、行き当たりばったりというか、行動に「?」が多い。競走馬を逃がしてしまうのだって、御都合主義だからギリ許されるものの、アレで子供たちが奴隷主によってますます酷い目に遭うのかもしれないし、あの動物だって野生に馴染めず殺処分されるのがオチかもしれない。いくら正しい行動とはいえ、もう少し配慮しろよとは思った。ローズがフィンが決意した特攻を邪魔するのも、彼が主役級で、尚且つ愛されキャラだから、助けてよかったのかなとか思えるんだけど、あんな決意した表情キメたのに、横入りして止めるのは解せない(もちろん特攻行為を称賛するものではないです)。しかも体当たりでフィンが死んでもおかしくないし。なんというか困ったキャラクターなのだ。フィンとのラブロマンスが芽生え、それを見つめるレイちゃんと、バチバチのバトルロマンスが繰り広げられていくかもしれないので、そこは期待するが。
『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』で素晴らしいと感じたのが、スピンオフ扱いの『ローグ・ワン』が全く無駄に終わっていなくて、ちゃんとジン・アーソたちのスピリットが継承されているところでした。名もなき英雄たちの命も掬いあげる。単なる訣別の話じゃない。 pic.twitter.com/71jsk7ACHO
— 黒松商店 (@PONKOTSUforever) 2017年12月15日
7作目公開時に限定版パンフの表紙を飾るも、すぐにゴミ箱粋という悲しい末路を辿ったキャプテン・ファズマ。『最後のジェダイ』予告であれだけこちらの期待を煽ってくれたので、さぞフィンとバチバチのバトルを繰り広げてくれるのかと思いきや、これがガッカリ。予告編以上の展開は何も起きずサクッと決着し、オイシイところは全部フィンが掻っ攫っていく。ファズマのファン(そしてGoTファン)としてこんなに惜しいことがあるだろうか。もう彼女が生き返ることもないし。ここで拗ねてしまった笑。もっと暴れさせてくれよ
デザイン面も相当に物足りなかった。斬新なのはスノークの部屋くらいで、他はあまりに既視感に満ち溢れたもので、シリーズに新風を吹かせるはずのカジノの場面もなんか薄すぎる。力入れていたみたいだが、ポケモンみたいな動物群も印象に残りにくく、こちらもどこかで見た感じ。やはりこのシリーズからはかつての「こんなの初めて見る!」というフレッシュな感動を得ることは難しくなってしまったのだろう。だって世界には『ブレードランナー2049』も『エクス・マキナ』も『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』もあるのだから。
この『最後のジェダイ』前作以上にリスキーなモノになったのかもしれない。シリーズから離れてしまうファンもいるのかもしれない。でも、マンネリの打破には確実に成功していて、これを見て新たにSWに魅入られる観客も同じくらい大勢いるはずである。今が新陳代謝のときで、大きな転換点なのだろう。
しかし、マンネリ打破には成功しつつも、今作は実は何も新しい価値観自体を提示できていない、ということが脚本のバカの露呈っぷり(失礼)以上にマズいと思える。フレッシュな価値観は一切示さず、ただただ血統を否定した。これは果たして物語として必要なのか。どうにも納得がいかず咀嚼しきれていないのが正直なところである。「神話の否定」は果たして成功しているのか。サーガへの責任放棄ではないのか。「ただの普通の人間の物語」に魅力はあるのか。それに『フォースの覚醒』から、ちっとも話は進んでおらず、この後はバカの尻拭いをさせられてしまうわけだ。これもマズいだろう。脚本としての整合性を蘇らせるために、多くの人材が骨を折らねばならないことを考えたら胸が痛むばかりである。
エピローグとして、付け加わる少年の姿を9作目の監督はどう引き継いでいくのか。蛇足で強引にも思えてしまったが、この映画のテーマを考えれば素晴らしいシーンではあった。キラリと光る箒は眩しい。
「神話」を解体し、新たな希望を紐解いたこの脱構築的で野心的な「問題作」は、これからどのようにして光へ導いていくのか。