ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

日帰りフランクフルト滞在記・シュテーデル美術館のためだけの早起き

4月1日、誕生日の朝であった。

特に誕生日だから、と何もめでたいことはなく、ただ一つ歳を重ね、また一つ死に向かってゆったりと駒を進めたにすぎないのだが、とはいえ、誕生日。

何か特別なことを、心のどこかで望んでしまう。

そんな淡い希望を抱きながら、4連休(復活祭で祝日に)の2つ目の朝を迎え、安アパートメントからフランクフルトへ。

ささやかな私へのご褒美、というほどのものではないが、実は前々からこの国に来て、近場で言ってみたかった都市がミュンヘンだったのである。

が、微妙に予定が合わなかった。しかたない。

仕方ない、とどこか渋々であったが、これが楽しかった。

モネとかピカソとかフェルメールとかコレクションが豊富ながら多すぎず少なすぎずで見やすかったな。歩き回らずに済んだ。特別展のルーベンスは物足りなかったけど、常設展が満足度高かったので飽きることなく回れた。

以下、写真。手持ちのスマホで撮影したので、画質がよろしくない。

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行く前に、知人から「あすこは治安が良くないから気をつけや」というありがたい助言を小耳に挟んではいたが、無事に掏摸・盗難に遭わなかった。安堵。

入場までの間、しとしと雨降りに遭いながら、前に並んでいた感じの良いご夫婦と話が弾んだのはいい思い出だった。まあ、弾む、といっても、ほぼ相手の話を聞いているだけで、ちょこっと自分がどこから来たとか些細な初見とかを述べるに過ぎなかったが、とても楽しかった。「どこに住んでるの」「今は楽しい?」「なんでこの国に来ようと思ったの?」などなど他愛もないことばかり。

 

余談だが、帰りに小さな劇場でグレイテスト・ショーマンを見れた。映画自体は今一つだったが、小さな劇場とこじんまりとした映画館という異国シチュエーションだけでもお釣りが来そうな感じはした。ただやっぱりセレクトは大きくミスってしまった野は否めない。

 

おしまい

見ないことにされてた世界・聞こえないことにされてきた声 是枝裕和『万引き家族』(前編)

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家族になろうよ』てのがありましたが、そうカンタンになれるもんじゃありませんわな

家族を家族たらしめているものは何か、というと、これまた大きく書きだしてしまった気がしてしまうのだが、やはりそれは血のつながりではなく、「共有している時間」の濃度や密度、というものの中にこそあるのだと信じている(『万引き家族』を見た後ではかえって安易に「絆」なんて言葉は怖くて使えっこない)。

もちろん、それは、ほかの様々な自然のうつろいがあってこその「時間」であって、人にかぎらずあらゆる生き物すべてにあてはまる(ほかの生物が「時間」というものを意識しているかどうかは、我々には知る余地もないのだが)。

身体を重ねる性の営みからはじまり、どれだけひとりを気取ろうとも、常に間接的に身を寄せ合うことで、営みは続いていく。

しかし、そこには個人の自我とは別の情緒というやつがあって、その脇に年輪のようにしだいに堆積して重なっていく「時間」は、常に意識の片隅に置かれている。

 

では、さらに、家族とはどういう共同体なのか、というと、これまた考え始めると途方に暮れる。ぼんやりとしたイメージはあるものの、そうした「こうあらねばならない」といった定義めいたものが、世間の理想像を神聖たらしめ、そして呪縛として親子どもを苦しめてしまう、という現実もあるので、ここで「これだ!」とズバリ断定的に述べにくいのではあるが、ひとつハッキリといわせていただけるなら、それは「①見栄とも外聞とも無関係に、②経済活動とは離れ無償で、③そして犠牲を伴うかもしれぬとも無条件で、生命を保護してくれるもの」ではないだろうか。どうしても「べき論」にすり寄ってしまうのは心苦しいところであるが、こうした関係性が暗黙の了解のもとに成り立ってはじめて、子どもが安らかに落ち着いて「当たり前に」生活のできる環境を築く、ということが可能なのではないのだろうか。

ルソー(否、尾○ママか)のような文章になってしまい、一義的に決めつけられこそはしないものの、こうした論理や感情を超越したものが、家族を特殊な共同体として繋ぎとめる、根幹のミキのような部分だと、若輩者ながら理解している(まあ所詮は「身近な他者」ですから、期待しすぎも、依存しすぎも、良くありませんがね)。

ここで、大事なことは、血縁も、地縁も、因縁も、けっして蔑ろにはできないものではあるのだけれども、それらは家族を構築するある一要素に過ぎず、根幹を成すものではないのだ、という、当たり前といえば当たり前すぎる文句をひとつ頭に入れておいてもらいたい。

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商業主義とドキュメンタリーの狭間、そして手加減のない「わかりやすさ」と「わかりにくさ」

 『星の王子さま』という一度は手に取ったことがあろうサン=テグジュペリの作品*1は、

 レオン・ウェルトに

 わたしは、この本を、あるおとなの人にささげたが、子どもたちには、すまないと思う。でも、それには、ちゃんとしたいいわけがある。そのおとなの人は、私にとって第一の親友だからである。もう一つ、いいわけがある。そのおとなの人は子どもの本でも、なんでも、わかる人だからである。いや、もう一ついいわけがある。そのおとなの人は(中略)、どうしてもなぐさめなければならない人だからである。まだ、たりないなら、そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、わたしは、その子どもに、この本をささげたいと思う。おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいる大人は、いくらもいない。)だから、わたしは、この献辞をこう書きかえよう

 子どもだったころの

 レオン・ウェルトに

 

という献辞がはじめに書きそえられている。

サン=テグジュペリとレオン・ウェルトのあいだには、かなり熱い友情が築かれており、ウェルトによる著書を紐解けば、この言葉に込められた想いもひとしおなのだが、そこは各自で見ていただくとして、この「献辞」の核となる「そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、わたしは、その子どもに、この本をささげたい」というイズムは、是枝裕和による会心の(改新の)一作につながっているように感じた。ドメスティックな視線を抱きながら、誰にでも刺さる、普遍性を守り通してきた是枝監督は、常に「かつて子供だったおとなたち」に向けて物語を綴ってきた。

是枝裕和という人は、物語の「わかりやすさ」と「わかりにくさ」をうまい具合に切り分けるのがとてもうまく、『誰も知らない』では置き去りにされた不条理な環境でサバイブする子供たち、『空気人形』では生命が宿ってしまったラブドール、『そして父になる』では子どもの取り違えを巡る父親の葛藤、『海よりもまだ深く』ではうだつが上がらない小説家志望の男の離婚した家族との再会。リアルとファンタジーの境界を跨ぎながら、とっつきやすかったりパッと目を引いたりするストーリーを提示する。そこには都市の狭間で葛藤する者たちの姿が「共感」をもってわたしたちのこころに新たな空気を吹き込む。大衆に広く支持され、商業的に成功している功績には、こうした「誰にでもわかるように」という心意気によるものであろう。

テーマは近年の作品では絞られており、「家族の肖像」を書かせれば、この人の右に出るものは現代の監督ではいないだろう、という名人の域に達している(上に述べたある種のストイックな姿勢が大きな一つの集大成として実を結んだのが、『海街diary』だと断定しても、差し支えはないはずだ)。生活の終焉を囲う「世界」を的確にフィルムに収め、映画という形で記述する。類似の監督に成瀬巳喜男小津安二郎、呉美保、エドワード・ヤンホウ・シャオシェン、という、いずれも暮らしとその下に根を張る時代を、静謐に、ときにサスペンスフルに、読み取る能力に突出した稀有な作家たちがいるが、そういったそうそうたるメンツに名前を並べても全く遜色ない。

しかし、忘れていけないのは向田邦子の存在だ。思いもよらない斜め上の想像力、記憶が喚起される情景描写、すべてを見透かしているような貫徹された神のごとき視点、穏やかな日常の裏にむくむくと蠢く不穏で底なしの不気味さ。表現がいちいち性格で、鮮やかで、生々しい。

そんな「出てきたときにはすでに達人だった」書き手のDNAを余すことなく引き継いだ是枝裕和は『海街diary』にて、綾瀬はるか夏帆が演じる長女・幸と三女・千佳にこんなやり取りをさせている。

 

 「だって幸姉の漬け物、味しないじゃん」

 「浅漬けなんだからいいの」

 

これはまさしく是枝監督の映画に対する姿勢そのもので、作り手として畳や食卓のシミから家屋の傾きまですべて把握しながら、同時に解釈を委ねるところは委ね、多くを語らない、語らせない、という基本姿勢の表明であるといえよう。世界を完ぺきに掌握しきっているゆえに、このような「わかりにくさ」を放り出すことが許される免罪を不を手にしたのである。

しかし、どうした、是枝さん。今回はめちゃくちゃ「わかりやすい」。

『万引き』なんてのはミスリードもいいところで、犯罪街道まっしぐらな真っ黒黒すけな家族だったわけだが、それだけでなく『万引き家族』では、ドライな性が消費される空間からこれまでは意図的に遠ざけてきた濃厚でしっとりとした性描写まで、余念がない。『海街』がウソみたいなハードさである。

ここ数年の是枝監督は、怒りのモードにあるのだろうが、今回は静かに怒っているようだ、ということが映画の終わりかけにようやくわかりかけるのだが、それはまた次。

理解できないから。共感できないから。自分たちとは遠く離れた世界の住人だから。

「感動」という味付けの濃い漬け物に従慣れきってしまった我々観衆は、いま一度、ほんとうの「感動」について、まっとうな「共感」について考えて見るべきではないのだろうか。

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スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし

スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし

 
星の王子さま (集英社文庫)

星の王子さま (集英社文庫)

 
思い出トランプ (新潮文庫)

思い出トランプ (新潮文庫)

 
海街diary

海街diary

 
誰も知らない

誰も知らない

 
海よりもまだ深く
 

 つづく

 

*1:いや、読んだことない人とかいるんですかね、とか書こうと思ったんですが、かく言う自分はようやくこの歳になって物語で提示される問いに、「ははあ、なるほどなるほど、なんとなくわかりかけてきたぞ」となり始めてきた感じなので、まあ読んだことがない人は『スイミー』と併せて読んでみましょう

血で血でを洗い流すために舞い降りた堕天使 白石和彌×役所広司『虎狼の血』

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ローン・ウルフの掟

現世の快楽を極めつくし、もうこの世に生甲斐を見出せなくなった「時」が来たら、後はただ冷ややかに人生の杯を唇から離し、心臓に一発打ち込んで、生まれてきた虚無の中に帰っていくだけだ。

彼にとって、快楽とは何も酒池肉林のみを意味するものでなかった。キャンパスに絵の具を叩きつけるのも肉体的快楽であり得たし、毛布と一握りの塩とタバコと銃を持って、狙った獲物を追って骨まで凍る荒野を、何カ月も跋渉することだって、彼には無上の快楽となり得た。

快楽とは、生命の充実感でなくして何であろうか。

 

大藪春彦野獣死すべし』より抜粋】

 「股をしめて、しゃんと背筋を伸ばして歩きなさい」

幼い頃、たまにこんな風に叱られた。今と変わらず内気で小心者であった私が股を大きく開いてガハガハと口を開け歩くなんぞ到底できたはずがなく、今と同じく周りをきょろきょろしながらチョコマカしていたと思うので、なんでそないなこと言われなあかんのや、と子供ながらに反抗心を抱いたものだが、あれはちゃんと真っ当でいてほしいと願う祖母なりの心づかいのこもったしつけだったのだろう、と今では理解している。

平成生まれのぬくぬくのゆとり教育で成長した温室ハウス野菜世代なので、がに股でオラつく輩、というのは夏祭りでいきがった(いきる、というのは関西弁のニュアンスです)チンピラ風情や兵庫県某市内に用事があって下りたときに見かける程度で、モノホンのヤンキーですら絶滅危惧種。そんな自分にとって、ましてや東映実録ヤクザ映画に出てくる広島弁の大人というのはフィクションというかファンタジーのような存在だった。特に初めて見た『県警対組織暴力』の菅原文太にはカルチャーショックのような衝撃を受け、そのあと続けざまに任侠モノやトラック野郎シリーズを見たほどだ。

なるほど。ふむふむ。たしかに自分の孫にこれにはなってほしくなったのだろう。

しかし、そこには祖母が「おっかない」と評した人とは違う別の熱量があった(ちなみに祖母の名誉のために添えておくと決して教育熱心な厳しい鬼婆というわけでもなく、たまたまその時に影響された新聞や書籍なりに感化されたものをそのまま受け売りで私に言っていたのだと思う。そういう人である)。あの「世界」の人間には、生きるためにしたたかな太い幹があった。「しぶとい」と表現してもいいのかもしれない。狡猾で、不屈の精神。

今同じものがソックリ現実に表出しても、それは嘘っぱちの虚勢で、心惹かれるものはないだろうから、アレは完全に時代と同居した精神性なのだろうが、10代の若者が心酔してしまうのには十分な魅力があった。

そういった過激で、でも熱がある暴力的な映画が好きなので、特にここ10年の韓国映画は大変に羨ましかった。どれもエンターテインメントとして1級品でありながら、鋭い社会批評性を持ち、同時に商業的にも大きな成功を収めている。

日本でもそうしたジャンルの映画がないワケではないが、海を隔てた国と比べると今一つ元気がない。巷で言われる「邦画がつまらない」ということには完全には首肯しかねるが、映画を囲う政治的な状況を差し引いても、すぐれた作品こそあるものの日本のそれは他のアジア圏に比べ覇気がないというのは正直なところ。まだ規制等で世界には出ていないものの、このままでは韓国ノワールが世界を席巻するのもあっちゅうまである。

そんな少し渇きすら忘れたヘニャチンな状況が慢性化してきたこのご時世にバイアグラのごとく現れた(ブッ込まれた)映画が『孤狼の血』である。

私たちの世界は暴力によって成り立ち、暴力によって生かされてきた。暴力を知ることは世界の側面を理解することに不可欠だ。暴力と向き合えることができる作家がいなくなってしまったのか。そんな現状を憂い「映画じゃけえ、何やっても許されるんじゃ!」と激しく中指を突き立てた漢こそ『ロストパラダイス・イン・トーキョー』『凶悪』の白石和彌深作欣二中島貞夫五社英雄、といった数々の巨匠たちが築き上げてきたジャパニーズ・ノワール・ムービーのDNAを継承しながら、北野武やコリアン・ヴァイオレンスのエッセンスを注入し、若松孝二の「眼」を持ちつつ、暴力性の純度を練り上げ、今の日本の空気をピリッと引き締める、という白石和彌監督だからこそできる力技*1である。猛猛しくいながら、緻密に計算された1作だ。原作は黒川博行の系譜を継ぐ柚月裕子の小説で以前に読了していたが、ただでさえハードボイルドで肉厚なこちらを更に凌駕する熱量でスクリーンに描出されたときの衝撃はこれからも消えないだろう。

時代に一度敗けた男たちがもう一度最後の悪あがきを線と命を燃やす煌めきに見惚れ、ほんのうてきな暴力と反骨精神の継承に哭く。

心のがに股、忘れていなかったか。

会心の一作。

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顔面力の高いキャスト陣の中でも絶妙にザ○メン濃そうなお顔の役所広司石橋蓮司もこの人には勝てません。

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覚醒した松坂トゥーリオの暴走っぷりはかのイ・ビョンホンを彷彿。

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新たに「チンポコから真珠」という諺を作り上げた本作の陰の功労者、音尾琢真。役所ドクターの持つメスによりペニスが隠れる、というまるで『ToLoveる』のような隠し方。きっと矢吹健太朗へのリスペクト…………

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ひとつ屋根の下の組のために辛抱を試されるあんちゃん江口洋介。実はヤクザは初らしい。2018年もっともドスが似合ってた男(漢)に与えられるベストドスニスト賞はこのお方でいいでしょう。

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映画に一輪の華を添えたジ・アネゴこと真木よう子の強かさ(弧の言葉ってどうも悪く使われてしまうが元はいい意味なんですよ)。極妻シリーズ復活したら真っ先に彼女を!ノー・パイオツですが、あのドSっぷりと肝っ玉が見れただけでお釣りが来ます。

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とにかく太々しい石橋蓮司は今回は歩くセクハラ製造機じいさん。「びっくり、どっきり、クリトリス」は流行語大賞にもうノミネートされましたよね?え、されないの?なんで?

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今作の竹野内豊(ティッシュを鼻に詰めてるグラサン)、出だしから優等生キャラを利用した「うわ~コイツ最低」感がたまりませぬでした。千葉真一とか渡瀬恒彦とかあそこら辺を意識してるのかな。

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福山雅治の座は俺だ!あんちゃんは渡さねえ!狂犬シャブ打ち中村倫也。8割くらいはこの顔で、あとはずっと目が死んでました。下の世代から上のお御所ひっくるめたヒエラルキーをぶっ壊すぜヒャッハー!というマッドマックスのウォーボーイ魂を抱いたピュア(?)な青年。日本版ニュークス。

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セクシーお色気枠はMEGUMI姐さんでしたが、素朴なエロ枠では生活感とこ悪魔感を自在に行き来したこの方。表情がコロコロ変わる。魔性とは彼女のことか。阿部純子…………恐ろしい子(白目)

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役所広司と旧知の仲である右翼団体のキーパーソンはピエール瀧。『凶悪』のような名フレーズはぶっこみませんでしたが、立ってるだけで威圧感がハンパじゃない。なのに、恐妻家。猟銃を奥さんにブッ放されてオロオロする場面はラジオで聴いてるような素の瀧さんで可愛げがあった。

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「シャブをしゃぶしゃぶに入れて"シャブしゃぶしゃぶ"じゃあ!」的なファンタジィな極道めしはこういうシチュエーションで食らうのでしょうかね。

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ガリガリ君のように机の脚を銜えさせられ「志村後ろ~」状態にされてるのは石原プロ所属岩永ジョーイ。彼はHiGH&LOWにも出ていて、そこではクルクルナイフを振り回し、自分もクルクル回る、中国雑技団顔負けの驚異的な身体能力を発揮。その上、しゃべるだけでむかつく某ネット論客のような煽りスキルの高いツラ。素晴らしい才能です。天は二物も与えたんですね。

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鶴瓶の息子を跪かせ、お行儀悪く脚を放り投げる竹野内豊。顔の良いクズ。

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中村獅童をもってしても、存在感が霞む男たちの世界。いたっけ、こんな人。

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松坂桃李と『シンケンジャー』で共演したじいや・伊吹吾郎デカレンジャーの赤・さいねい龍二も出演しているニチアサになじみ深い「大きなお友達」には嬉しいキャスティング。さいねいさんは広島の方だそうです。そういえば『SPEC』でも広島弁だったわ。

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 おしまい

 

*1:今作新兵モノとしても非常に秀逸で、近年近いアプローチものものに『フューリー』と大根仁『SCOOP!』がある。特に後者とは構造が非常によく似ていて、本人が意図しない部署に放り込まれ、暴力的で理解不能なボスのもとに尽き、次第にそのボスに惹かれて彼の魂を継承していく、というプロットは同じ。ただ、『虎狼~』はバディだったのに対し、『SCOOP!』は福山雅治がちゃっちゃと二階堂ふみに手を出しちゃうので、そこに大いなる隔たりがある。やっぱりあそこは男女とはいえあくまでもバディという位置付けであってほしかったな、という今さらな不満

イカれた狂信者と散り散りの英雄たちの狂騒曲 『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』

ワイはもう何も失いとうないんや………

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(ツイッターいじってたら色々ゲロっちゃいそうなので、ここにブツクサ感想文を連ねていこうと思っておりますなので、前半は簡単な短評もどきで、赤文字以降はネタバレをゲロるので、そこんところはご了承ください)

ビックリした。映画でここまで感情がざわざわとかき乱されたことはなかなかないし、やはり自分はMCUというジャンルが大好きなのだと再認識させてもらった一作となった。前はあれだけ映画のフランチャイズ嫌いだったのに………

ある程度サノスがヤバいヤツだとはそこそこには知っていたし、当初は『インフィニティ・ウォー』はPart1・2という構成だとアナウンスされてとてつもない超大作になる覚悟はできていたし、公開前までしつこいくらいにこちらを煽りまくり、ネタバレ禁止としつこいくらいに勧告しまくり、逆にへそ曲げて見たくなくなるくらいまでだったのだが、やはり俺達のクリス・プラット率いるガーディアンズ出るし、と見に行ったらもう完全に面食らってしまった。圧が凄すぎた。密度がパンパンに濃い。

ただでさえクセの強い主役級の俳優がそろい踏みして、ガン首揃えてるというまとめるのが困難な状況なのに、そのキャラクターそれぞれが個人で深刻な問題(『アベンジャーズ2.5』ともいえる『シビル・ウォー』でスーパーヒーローを国家が管理する超人登録法をめぐってチームの要であるキャプテン・アメリカとアイアンマンが対立し片方が国際指名手配でチームは分解、ソーは故郷と家族と片目と自信のアイデンティティである武器を失う、ハルクはどこかに飛ばされる、ブラックパンサーのいるワカンダ国は鎖国を止め開国、アントマンは登録法で動けない、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーのリーダーであるピーター・クイルは実の父と育ての父を同時に失う)を抱えていて、バックグラウンドだけでもとても1本の映画にまとまられそうな分量。チームは実質解散状態でロクにまとまらない。半数は御尋ね者で、まだまともにチームとして動けそうなガーディアンズも地球とはそこまで関係ないし、ガモーラやドラックスはサノスと浅からぬ因縁があるからあんまり近寄りたくもない…………

そこになんかずっと10年近くラスボスっぽい存在感だけは臭わせ続けてきたジョシュ・ブローリンが殴りこんでくるから、さあ大変、というお話なのだが、このスター・ウォーズ以上の史上最大級の難題と作品への高い期待値に見事に応えてしまったルッソ監督には惜しみない拍手を送りたいほど。先述したような事情で寄せ集められたまとまりのないヒーローに、それぞれ見せ場を与え、ところどころギャグを交えながつつ(本当にこのシリアスな場でのガーディアンズは安心感がハンパなく、ジェームズ・ガンがセリフ監修したのも納得の違和感のなさ)、映画としては全く破たんさせることなく、完成させてしまったのだ。筋としては、インフィニティ・ストーンとかいうヤバい石(時間とか空間とか操れちゃうらしく6つ揃えると文字通り地球が終わる)を宇宙の半数を殺すという思想のためにせっせと集めるラスボス君をヒーローたちが頑張って止めよう、というものなのだが、情報の交通整理が素晴らしいので、初見でキャラがわからなくても、ちゃんと目の前で起きている事態がパワーに飲まれながらも一応は把握できる非常に親切な設計になっているのもうれしい。

しかも、このジョシュ・ブローリン=サノスがアホみたいに強いうえに、悪役という言葉では収まりきらない、「セカイ系」をそのままあのゴツい紫色の曲で表現しきっており、自らの信念に則って銀河を侵略すr狂信者としてきちんと描き切られており、こちらのキンタマはそのあまりの恐ろしさに好くもい続けるばかりだ。コミックにはなじみが薄い私でも知っているような超大物ヴィランなので、強いのは当然なのかもしれんが、その桁違いの強さで蹂躙されていく様を見るのはなかなかに絶望的で、時折大袈裟に「オオォォノォォォォオォォ」と欧米人のようなリアクションをかまし頭抱えながら見てしまった。

映画のないように圧倒されてしまって、しばらく茫然としてしまうことは幾度もあったものの、ここまで液状の全員が一斉に溜息を吐き絶望感と虚無感のあまりに腰が席から上がらなくなる、という経験は初めてであった。

とにかく「こんなんどないしますねん……」「じょ、冗談やろ兄ちゃん」「とんでもないことになってますやん」ということが手を変え品を変え、次々と我々の鳩尾に重たいパンチがのしかかるので、もうこれは生半可に「連休やしなんかたまには映画なんぞええわいね~」なんてノリで言ってしまったら一貫の終わりで、劇場を後にする頃には敗残兵のような顔つきで足取り重くなっていることだろう。

ただ、よくできた娯楽映画のひとつの極致にある一作であることは確かなのだが、先にも書いたように前後編の構成なので、今作だけで傑作どうこうを判断することは留保したいのだが、少なくとも多くの人の心を揺さぶるエンターテイメントとしてはハナマル100点満点でいいと思う。

とにかく自分としては毎回MCU作品がリリースするたびに「あと1年は生きるわ」と誓いを新たにするのだが、今回も「いや○○とか○○とか出てくるんなら見なあきまへんやん」と性懲りもなく誓いを立てるのであった。

いつになったら私は死ねるのでしょう、マーベルさん!?

 

 

 

 

 

(ここから下はネタバレゾーンになりますので何卒よろしくお願いいたします。何か見返して気づいたことがあったらその都度書き足そうと思っています)

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と、主に「ヤバい」しか書いていない感想文はここまでにしておいて、ここからは箇条書きで綴っていこうと思う。

・まず、サノスという狂信者の描き方が貫徹されており、実に魅力的だ。やっていることは増えすぎた宇宙の人口を間引きしていくことなので、到底同意することもできず、虐殺される方はたまったものではないだのだが、その信条の確固さや狂気の純粋さ、娘として引き取ったガモーラへの愛情の確かさ、カリスマ性、そして圧倒的という言葉に相応しい破壊的な暴力性、という悪役のロマンを全て体現しきったサノス、及びにジョシュ・ブローリンの演技力はすさまじく、これぞ10年に1本の超大作に相応しい。

・という上のような理由で、今作では、サノスという男が歩んできた物語をヒーロー終結に乗せて描いていくので、自然とヒーローはやられ役となり、3時間近い見せ場でも限界があり、期待していたほどのギミックはあまり見ることができなかった。ブラックパンサーなんかはほぼほぼ見せ場ゼロにちかかったし。逆にあれだけ見せてくれた、という方向で感謝すべきかも?

・流石に規模が宇宙レベルになっていて、相手はインフィニティ・ストーンとかいうワケのわからん石を使うので、映像もCGに頼らざるを得なくなるのは当然なのだが、とはいえ、アイアン・スパイダーやアイアンマンのスーツは活躍の割に今一つ映像としてぱっとしない印象を受けた。

・アクションもどうしても銀河レベルになってしまったので、光線やら魔法やら超能力やらがメインとなり、肉弾戦はどのキャラもあまり大佐がなくなり、差別化があまりなされていなかったのだが、まあ仕方がないか…………そこまで求めるのは酷だわなあ。

・ただ一つ明確にダメ出しできるのが、今回前半は宇宙船であったり夜の市街地であったり、暗い場面での戦闘がいくつかあったのが、何が起こっているのか少々わかりにくかったところ。DCユニバースでもわかりにくいのに、映像としてあまり全体的にフェティズムが働いていなかったおかげで、平淡に見えてしまった。

・とはいえ、あれだけの数のキャラがいて、全員にほぼちゃんと見せ場が用意されているのがすごい。コンビネーション技が豊富で、コミックっぽい面白さがあるのに、ちゃんと映画の画として成立させている。

・ポール・ベタニ―がポール・ベタニ―を隠すことなく登場してきたのに、寂しい演技で一瞬で泣きそうに。

・ワンダ=エリザベス・オルセンはそれでもオレの嫁

・序盤に弟であるロキまでも喪い、怒りと悲しみに任せ「俺にはもう失うものはない、サノスを殺すだけだ」と息巻くソーと対照的に、もともとグルートくらいしか家族と呼べるものがいなかったロケットがガーディアンズという仲間を経て「俺には失うものが多すぎる」と寂しそうに語る姿で、もう今作初ハンカチ使い切りました。

・カレン・ギランはやはりエロい

・まさか予告のハルクが詐欺だったとは…………騙されたぞ!

グウィネス・パルトロー、綺麗なんだけど、アップになると「やっぱめっちゃ維持費かかっているお顔だな」と余計な邪念が

・やはり今までは別々の作品にいたキャラクター同士が開校する場面は楽しすぎる

ピーター・ディンクレイジがまさかのドワーフでビックリした…………ゲーム・オブ・スローンズ好きとしては大男で出演していることに謎の感動を覚えた

・ドラックス=デイヴ・バウティスタがもはやただのカラダがデカくて可愛いおじさんキャラだったので、萌えまくりでした。

・まさかゆびぱっちんで消えるとは聞いていたけど、本当にヒーローたちが主人公耐性無視でシュンとあまりにあっけなく消えていくのは、辛すぎて見てられなかった。

・インフィニティ・ストーン揃えちゃってしまうのはいいにしても、せめてスターロードは残しておいてくれよあんまりだよぅ…………

・サノス、勝てんのかコレっていう絶望感がハンパないんですけど、ただ1回の指ぱっちんでのダメージはサノスといえど深刻で、左半身やられているので、勝機はあるのか…………ストームブレイカー(名前ダサッ!!!)も食らってたし

・ニック・フューリー=サミュエル・L・ジャクソンの十八番芸「マザファッカ」はいつ聴いても上がります。

キャプテン・マーベルブリー・ラーソンの次の登場がとにかく楽しみすぎて、次見るまでマジ死ねんわ、という気持ちを新たにするジジイなのであった

 

 

おしまい

 

禁断の果実、アプリコット『君の名前で僕を呼んで (Call Me By Your Name)

官能の熱を帯びる肉体、恍惚する肉体、高揚する肉体

あー、暑い、暑い。ついこの間の3月の末なんぞ、平気で気温が1ケタに達しておったのに。春を飛び越えて、夏にスキップ。生粋の暑がりで、汗っかきなので、堪ったものではない。しかし、そんな文句をブツクサ言いつつも、ウキウキする気持ちには嘘がつけない。スキップといかずとも、足取りは軽い。どこのカフェも路面にテーブルを出しては、こちらにビールの誘惑を持ちかけてくる。アイスクリーム屋はどこも行列。待ちゆく人は皆、肌を見せ、少しでも焼こうと裏路地では簡易ベンチに裸で腰掛ける強者も*1。そんな景色を眺めていたら、やはり同じ欧州はイタリアの「あの夏」を思い出さないわけにはいかない。エロスがアスファルトから湧きたつ熱気や青々とした草木に絡みつく情念を燃やす夏。

君の名前で僕を呼んで』の淡く甘美なひと夏だ。

 

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珍しく服を着ているふたり

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映画の大半が服を着ていなくて、そしてまた裸のシーンの大半が濡れ状態だったような…………

 

描かれるのは、クラシックの作曲が趣味の少年エリオ(ティモシー・シャラメ)が、教授である父親(マイケル・スタールバーグ)が招いた大学院生の美青年オリヴァー(アーミー・ハマー)から次第に目が離せなくなり、彼女のマルシア(エステール・ガレル)と肉体的にと結ばれるも、オリバーのことが頭から離れなくなり、とうとう実り結ばれるまでの官能に満ちた恋。きらめく太陽に、目がくらむ青、原色のような緑。丹念な自然でむつみあう男たちと家族を映しだす。ひたすらに俗世からは超越しまくっていて、貴族のような暮らし向きなので、こちらは貴族の生活を絵巻にしてみてる気分。

まず、しれっとすごいのがティモシー・シャラメの語学力やピアノの演奏。あまりにも自然になんでもできちゃう。顔が非常に良い上に、なんでもできてしまうともはやこちらの立つ瀬がない、という感じもしてしまうわけだが、そもそも貴族の戯れを遠くから眺めているようなものなので、入り込む余地なんぞハナからないのであるが。アメリカで育ち、フランス語が話せ、しかもコロンビア大学ニューヨーク大学に通っている、と書くだけでもう参りましたと降参したいのに、イタリア語を1カ月チョコッとやって習得、と来るもんだから、お手上げ。ドイツ語までさらりと出てくる。とにかく器用。器用貧乏ならぬ器用富豪。*2

音楽を担当するのは、スフィアン・スティーヴンス。かねてからの大ファンなので、今作での抜擢は大喜び。どの曲もため息が出るほど美しく、幸福感に満ち満ちていながら、鬱鬱とした文学性もあり、彼のパーソナリティがそっくりそのまま映画に寄り添うような印象。もともと躁病のような、ケラケラ笑いながらほろほろ号泣するような、ピカソの『泣く女』のような、スフィアンの作家性はそのままエリオの過ごす夏の煌めきによりそう。相変わらずアレンジや音色の豊かさには惚れ惚れします*3

劇中のダンスシーンでかかるジョルジオ・モロダーインパクト抜群だが、冒頭での坂本龍一『M.A.Y. in the Backyard』にはさすがにギョッとさせられてしまった。不穏さがマックスで、この避暑地で殺人事件でも起こるのではないかとよからう推測が働いてしまったのが、安心ください、そんなことは一切起こらない

今作、ジャンル分けとして、BL映画*4に入れられる類のようだが、実はそうでもなく、前半はエリオとガールフレンドの恋を中心に描かれ、なんならガッツリとあんなことやこんなことをしているので、かなり濃厚なセックスシーン多め。エロいというか、アート性で誤魔化されているものの、相当生々しい部類だと思うので、カップルでご覧になられるなら特に鑑賞の際はご注意ください *5

しかし、『君の名前で僕を読んで』がBLとしてヌルいのかといえば、決してそんなことはない。僕はこれを発明的だと思ったのだが、エリオがアーミー・ハマー演じるオリバーのギリシア彫刻のような肢体を忘れられず、桃に己の陰茎を突っ込み、悶々とした性欲をぶつけ、それを(最悪なことに)オリバーに見つかってしまう、という爆笑必至のシーン。思春期あるあるなのかは分からないが、ああいうことって世界中どこでもやるヤツいるんだな、と性への飽くなき探求心を感じた。伊丹十三タンポポ』でも桃に指を突き刺し、中から汁をじんわり出すエロティックな場面があったが、そちらよりも牡蠣に一日を舐め挙げる役所広司の方が近いフェチズムがある。食欲も性欲も突き詰めれば「生」に繋がりますからね。直接肉体と肉体で交わりあう以上に、桃に吐き出した相手の白濁を果実ごと齧り体内に受け入れるという行為は濃厚なエロスがある。

あと超絶美少年エリオ君ですが、パンツをクンカクンカしたり、あまつさえ頭からかぶっちゃうんですから、盛りまくりも良いところでございます。

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映画史に残る桃TENGAシーン、劇場では大爆笑に包まれておりましたが、表現としてはこれ映像にしちゃうか、という生々しさがありました

(ここから下では、物語の結末部分に触れているので、俗にいう「ネタバレ」がなされています。それゆえ、ネタバレを避けたい方は、お読みになるのを後回しにされるとよろしいかと思われます。とはいえ、決して、それを知ったからといって、物語の深みや面白味は損なわれませんが、ただ、どんなコンテンツでも何の前情報もなしに見るというのが基本的には一番だとは思いますので、そういう先駆け的な行為がどうしても性に合わない方は、やはり、先に映画本編を見て頂くほかはありません)

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見終わり、何が特に良かったか考えると、やはり主人公エリオの父親であるマイケル・スタールバーグと母親のアミラ・カサールのパールマン夫婦の存在なのだろう。

この映画、おもしろいことに、エリオという少年が恋に身を焦がす姿を描きながら、彼のこころとは離れたところにカメラがある。彼の歓びや痛みには表面上さらりと触れる程度で、ズイズイと見る者に感情移入させまいと一線引いたところに視点がある。エリオに自らを語らせることをせずに、その脇にいる父母の目線に我々観客を寄せる。

しかも、その両親はというと、決して彼らの子意地に足を踏み入れる野暮はせず、ひたすら見つめ、受容する。グザヴィエ・ドラン『トム・アット・ザ・ファーム』のような父性的な暴力性はない。エイズの前に時代を置いたこともポイントだろうか。同性愛映画ではステレオタイプ化してきた「ゲイに眉を顰める保守的な両親」といった存在はここでは排除されており、今以上に同性愛がファンタジーであったであろう偏見がはびこっていた時代では考えられないような実に感動的なスピーチが行われる。胸の痛みや悲しさは張り裂けるような痛みだが、人を殺すことはない。

ただ、数回見ると、実はこのスピーチは要らなかったのでは、という疑問が湧いてくる。確かに、観客の色眼鏡を外してくれる、すごく大切な役割で、ここで見る者はエリオ通りバーを詰めるこの映画の視点の正体に気付き、この人の言葉で今作が性差を超えた「愛すること」そして「受け入れること」について真摯でピュアな恋愛映画なんだと知る。しかし、この映画の肝心な部分はそこのみにあるのではないように思えた。

というのも、マイケル・スタールバーグが語らずとも、この二人の結末は明らかに提示されているのだ。それは途中、家を訪ねるゲイの老カップル*6だ。彼らはつまり未来のオリヴァーとエリオの姿そのものであることは明らかなので、痛みを受け入れることの大切さを語らずとも、あの二人が現れた時点でもう一つの悲しみが訪れることは提示され、そしてその先のどこで結ばれ合うことが暗示されている。と解釈できなくもない。

それまでは雲上人の優雅な遊びを傍から見物するようなカメラが、最後の最後にオリヴァーから結婚したという報告を受け、暖炉の前ですすり泣くエリオにすり寄り、彼以外の世界が一気に遠ざかる。そこでかかるのはスフィアン・スティーヴンス作曲の『ギデオンの視線』。ここで見る者は、ようやく彼の失恋を追体験でき、そしてもう一度あの夏の日々を回顧したときにまた別の熟れた果実の瑞々しい甘酸っぱさが舌を刺激するのだ。

恋は、甘く酸っぱいなんてのは炭酸飲料水のコマーシャルのようでベタだが、この映画で執拗に桃がモチーフなのもそういった意図があったのかもしれない。

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「君の名前で僕を呼んで」オリジナル・サウンドトラック

「君の名前で僕を呼んで」オリジナル・サウンドトラック

 


Sufjan Stevens - Mystery of Love (From "Call Me By Your Name" Soundtrack)

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おしまい 

*1:なんでそんなに肌を焼くの、と聞くと「そりゃモテたいやん」というこれ以上にないシンプルな答えが返ってきました

*2:相手役のアーミー・ハマーもやんごとなき出自の御方なのだが、こちらはすでに周知の情報かもしれないので省きます。気になった人はググって

*3:名盤『キャリー&ローウェル』『イリノイ』と出すアルバムどれも名盤ですが、ここは敢えてこの狂気に満ちたクリスマスアルバムを http://amzn.asia/dgPBuP0 

*4:LGBTものというべきでしょうか

*5:ところで、セックスシーンで大胆な脱ぎっぷりを見せたエステール・ガレルのヌード、こちらとしては思いきっりタイプの顔なので、美青年と美少年のイチャコラに加えこんなものまで見れるのか、と得した感じがあったのだが、肝心の男の方の脱ぎが女性に比べるとヌルかったので、これは「脱ぎ損」というヤツなのでは、とひっかかってしまった。契約にかかわる諸々の事情があったらしいけれども。

*6:原作者アンドレ・アシマンと製作者ピーター・スピアーズ

だるまさんがころんだ 『クワイエット・プレイス』

マジで息をするな(by クラシンスキー)

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海外の劇場だと誰かとくっちゃべるのがデフォなとこがあるため、どうしても隣で「やばいよやばいよ…………(©出川)」とい声が聞こえてきてしまって一瞬現実に引き戻されるのですが、日本ならまだみんな大人しく見てると思うので、没入度が半端じゃないと思います。

まず、今やトップ俳優の座に君臨する男にも女にもモテる好漢クリス・プラットのこの興奮っぷりをご覧いただこう。 

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1流俳優が誉めてるから偉いとか言いたいわけではなく、彼のような映画好きが「やっぱ言葉尽したけどあきまへんわ」と語彙力を失うほどなので、よほどの事態なのである、ということを強調しておきたかったのだ。 Twitter上では、かのスティーブン・キングも大満足のようであるし、何より「いいね」の数が尋常じゃない。

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エミリー・ブラントが目を左から右へ泳がせるだけでヤバい何かが起こる緊張感が走る

さて、ではこのアラフォー俳優に代わって、この映画について説明するとして、ざっと大まかなあらすじとしては、まず、些細な音も聞き逃さずに生物を狩る、視覚のない未知の怪物が跋扈している、というのが2020年らしく、そんな世界をなんとか平穏にサバイブしてきたある一家が、母親の出産を迎え、かつてないピンチに陥る…………!!という、ものでシンプル。ありとあらゆる生活音に気を使わわなくてはならないので、そこでまずストレスフルだし、一家の大黒柱(古風な表現ですかね)である父親はとある出来事をきっかけに娘とのコミュニケーションが上手くいかなかったりで、家庭の中でも不和が起きて大変。まあこれ以上書けば、若干ネタバレになるし、とにかく見てもらうのが早いので、やはりクリス・プラット同様の結果になる。

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監督と主演が夫婦といえば、周防正行草刈民代を否が応でも思いだしますが、この夫婦もこれからそうなっていくのでしょうか。クラシンスキー監督の今後には目が離せません。

監督は『13時間 ベンガジの秘密の兵士*1』にも出演していた俳優のジョン・クラシンスキー、主演は『ボーダーライン*2』や『オール・ユー・ニード・イズ・キル*3』といった話題作に立て続けに出ているエミリー・ブラント。知っている方も多いだろうが、実はこの監督と主演は実生活でもおしどり夫婦で、今作のプロモーションで出演しているトーク番組では、そのおしどりっぷりが垣間見える。脚本は、クラシンスキーに加え、ブライアン・ウッズとスコット・ベック。製作にはマイケル・ベイ。上映時間は90分程度で、タイトなものになっており、目が見えないという設定からも『ドント・ブリーズ』という近年のホラーの中でも秀作に入る映画を思い出す人も多いはずですが、大いにホラー要素が増幅されていて、めちゃくちゃ『クワイエット・プレイス』のが怖がれた*4

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映画の後に見ると、余計にグッとくる集合写真

上画像左にいる聴覚に障害を持ち補聴器を手放せない長女役のミリセント・シモンズは実際に聾者であり、そのこともとても今作では大きく作用している。というのも、物語の概要だけ聞くと、革新的なサイレントホラー映画であるかのようだが、そうではなく、生活音が増幅されるような形で耳に忍び込んでくる仕掛けになっている。監督自身の意向もあったそうだが、彼女の存在も貢献しているはずっである。この一家が置かれている途轍もなく恐ろしい状況を、身振り手振りや表情で表現するのには、本当に耳が聞こえないからこそできる演技の域を超えたリアリティがある。手話という技術的な面でも欠かせない。

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 (以下、ネタバレをゴリゴリ含んでいるので、未見の方はここで読むのをやめていただき、ここからは本編を見ておしっこチビった後に、ご覧ください)

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まず、なんといってもこのホラー映画の定石の裏を突く設定の見事さだ。

どういうことかといえば、例えばこう。

おどろおどろしい音楽をバックに、不穏なカメラが後姿をとらえながら、ある女の子が洋館に忍び込んで、開けてはいけないとあらかじめ言われたクローゼットの扉を緊張した面持ちで開く。ここで音楽が止み、静寂が訪れる。扉の中には何もなく、少女の安堵した顔がアップに映し出される。そして、少女が振り向いた次の瞬間に「バーーーン!!!」とさっきまではなかったはずの人形が天井からつりさげられていて、女の子は恐ろしさのあまり悲鳴を上げる。

べッタベタな展開だが、ここで重要なのは一旦音楽が止むという演出。安心させたところで、次に観客を驚かせる、という手法は「緊張と緩和」ルールで、古今東西ホラーマナーとして浸透しきっており、どれだけ身構えていても、反射的にびっくりしてしまう。しかし、ある程度のホラー映画を見ていれば「あ、ここでなんか来るな」と精神的な余裕が生まれるものだ*5。そんな予定調和を壊すために、様々なホラーで試行錯誤されてきたのだが、その究極に今作『クワイエット・プレイス』があると思っていい。

今作ではそうした予定調和を排すために、大胆に「①どんな物音でも聞きつけるモンスターにより危機にある人類」という設定を用い、「②ありとあらゆる生活音を消さなければならない」ルールを敷き、「③聾者の娘がいるために手話でコミュニケーションを取ることができる利点を生かし生き延びてこられた家族」に焦点を当てることで、観客の集中力を研ぎ澄ませ、些細な音も恐怖へと変貌する空間づくりに成功している。

ここで、いやいや、アンタは何を言っとるんや、過去にそんな映画あったやないかコラ、と手元のサム・ライミがプロデュースを手掛けた『ドント・ブリーズ』のDVDを頭上に掲げる人もいるだろう。クラシンスキー監督はもともとホラー映画には馴染みが薄かったらしく、『クワイエット・プレイス』製作にあたり、『ドント~』を参考にしたらしいので、実際に影響は受けている。見れば明らか。そこ自体に反論の余地はない。

だが、この2作の決定的な違いは、襲う側に動機があるかどうか、があり、ここだけでグッとこの映画のホラーとしての質が格段に変わっている。『ドント・ブリーズ』はとても良くできた映画で、実はホラーに見せかけたシチュエーションスリラーといった色の方が濃いのであるが、自分が見た限りでは、スティーヴン・ラング演じる盲目の老人には、まだ攻撃する理由やえげつない*6凶行に及んだ動機がまだ理解はできなくもない。襲われる側*7にも若干感情移入しづらいところがあり、そこが観賞時の思考の妨げになっていた面も否めかった*8

一方、①の通り、こちら『クワイエット・プレイス』は当然だが敵はどこからともなく音を聞きつけ人間を狩りにやって来るモンスターなので、感情も動機もへったくれもない。そのため、襲われる側には無条件で理不尽さが伴い、家族は結束せねばならない*9。①の設定導入は今作のテーマである「家族の結束」というものに実にうってつけである。 

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①により発生する②のルールは大変にホラー的予定調和からの逃避のために効いていて、始終緊張感が張り詰める。そして、この映画の巧みなところは、しっかり「家族」のドラマを余計な演出を使わずに丹念に描きながら、②のルールに頼り切らずに、一切だれることなく、演出や音楽でより効果的に観客を徹底的にイジめ抜く、という点。特に劇判は非常に素晴らしく、『スクリーム』『LOGAN』のマルコ・ベラトラミが実にいい仕事をしてる。撮影もおそらく、非常に神経質にやっていたのだろうが、その努力がすべて報われるような、生活音全てを得体の知れないか域に変換する名仕事。

生活音を強調するための演出が見事で書きだすとキリがないのではあるが、スピーカーなんて使えるはずもない世界なので、イヤホンを夫婦で共有し、初々しいカップルのように踊る場面は、クライマックスで時間差で泣かされてしまった。とてもロマンティックな演出で、『ベイビー・ドライバー』を彷彿。

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ただ、ここでケチをつける、というか、この映画を好きな僕にとってはくだらない粗探し程度なのだが、ところどころ映画を円滑に進めるための「え、それはいいの」というルールが挿まれていて、例えば、「滝つぼの近くなら音がデカいので、声を出しても大丈夫!」というのも「じゃあ滝つぼの近くに家建てるなり洞窟掘るなりすればいいのでは………」と野暮なツッコミを入れたくなるし、そもそも②ルールがある中で、どうやって子作りに励んだんだ*10というゲスい疑問が湧くのだが。ところどころで、ホラー映画として機能させ、時間を稼ぐためのご都合主義的な部分が垣間見え、特に、いったんマット*11で入り口を防いで、まあこんなものは些細なものにすぎない。

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上で書いてきたように、モンスターが跋扈するホラー映画として、『クワイエット・プレイス』はとことん恐ろしいのだが、③この映画の素晴らしいところはそこだけにとどまらず、先述している通り「家族」の物語としてキッチリ泣かせる。画だけでこの家族がいかにして生き延びられてきたかを説明し、家族の連帯感や心のすれ違いを最低限のセリフだけで示し、1人の息子の死ともう1人の生命の誕生によって壊れかけていた「家族」が集結していく。上手くコミュニケーションが取れない父親(補聴器を大量に作りだすことくらいしかできない不器用さがまた泣かせる)を諭すのが、家族の中で疎外感を感じていた長男、というのも理想的な家族像だ。ラストに、やや、ど定番な死亡フラグを張って、見事家族のためにお父さんは散っていくのだが、ここで手話というコミュニケーション手段がグッとエモーションを高め、ミリセント・シモンズの説得力のある演技も相まって、ボロ泣きしてしまった。

しかも、その最後の最後にはまさに『X-MEN』や『ストレンジャー・シングス』のような展開を迎え、最終的に『10クローバーフィールド・レーン』のおうな今後のシリーズ化も臭わせる*12。というかあのエミリー・ブラントは新世代の『エイリアン』のリプリーでいいでしょう。

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演技に触れると、やはり監督の愛妻であり、自らこの難役を引き受けたエミリー・ブラントは、このキャリアだからこその迫力の芝居を見せてくれた。まあこれまでも過酷な戦いを強いられてきた役者さんだが、まさかここに来て妊娠して産気づきながらモンスターと鬼ごっこするなどどいう、とんでもない目に遭うとは思ってもみなかっただろう。途中階段から出た釘*13に足を突き刺し苦痛にもだえる顔や、妊娠の痛みに悶えながら声を殺す苦悶の表情をスクリーンにデカデカと抜かれても微塵も嘘くささがなく、めちゃくちゃ痛そう。ヒッチコックの時代にいれば名ホラー女優の座に君臨できただろう。

この映画に跋扈する「目の見えないのに不審な音があればすぐに襲ってくるモンスター」というのは、紛れもなく社会に対する風刺であり、今のアメリカが抱えている諸問題を解決するヒントも隠されていると思えるのだが、そんなことに言及してしまうのはこの上質なホラー傑作に対しては野暮であるし、あくまで娯楽だ。

僕らはきちんと映画の前にトイレを済ませ、充分な水分補給を取り、チケットだけ購入して、この『クワイエット・プレイス』へ飛び込めばいいだけの話なのです。

youtu.be

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A Quiet Place Official Trailer #1 (2018) Emily Blunt, John Krasinski Horror Movie HD

おしまい

 

*1:ビデオスルーされているもののマイケル・ベイ監督で傑作の部類だと思います

*2:原題『シカリオ』のが好きです

*3:このときに肉体改造して以降、今作のようなハードな役もできるようになったと思うので、ターニングポイントなのだろう

*4:あくまで個人の感想ですが、まあブログってそもそも個人の感想の域を出ないですしお寿司

*5:自分はそこそこに見てはいるくせに未だにビビりますが

*6:生理的に受け付けない類の

*7:この映画の場合強盗に押し入っているので被害者とも言いづらい

*8:とはいえ、本当によくできたスリラーで、これなしに『クワイエット・プレイス』はなかったとも言えるので未見なら是非とも

*9:人相手だと、いくらシリアルキラーとはいえ倫理的に………ねえ笑

*10:あれくらいの過酷な環境でサバイブするには、一つでも子孫を残すくらいのガッツが必要なんや、野生に帰るんやヒトも………とするりと飲み込みました

*11:あれでいいのかよ、とちょっと笑っちゃった

*12:続編がある前提で作られている脚本なので、興収次第で連作化されていくんでしょうが、フランチャイズはねぇ………でも『エイリアン2』は大好きなんで、続編は見たいかも。エミリー・ブラントがどんどんマッチョ化してくのは見てたい

*13:さすがに3回目には「いい加減気づけよ!」とすかさずツッコむ

果たしてキルモンガーを克服できただろうか? 『ブラックパンサー』

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『シビル・ウォー』でのあまりのクールさにシビれてしまったので、予告編で見たこの場面で期待値グングン上昇したモノですが、今となっては「ヘタレやのになんでちょっとイキってんねん」というワカンダ国民以上に支持率ガタ落ちのティ・チャラさん。アベンジャーズではリーダーシップを発揮して、あの頭の固い社長を懐柔してほしいもんでございます。

(今記事を読んでくださる希少な物好きの方にはせっかく読もうとしてくださるタイミングで、申し訳ないのですが、いわゆる「ネタバレ」に触れておりますゆえ、そういったものを忌避しておられるなら、お読みになる前に是非とも『ブラックパンサー』本編をご覧いただくことを推奨させていただきます) 

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あまりに大好評なので(まあ一回目はカッコいいガジェットやスーツに目を奪われ友人と「ワカンダフォーエヴァーッ!!!」とワーキャー言っていたので偉そうなことは言えん)、不満を抱いている私がいけないのかしら、と世相での評判の良さとのギャップで苦しみつつ、考え直した結果、やっぱり俺間違ってねえよな、という結論に。

ただ、一つ添えておきたいのは、今作がここまで「売れて」いるということについては、何の違和感もないということ。だってこのR&Bやヒップホップがありとあらゆるジャンルを食い、ロック衰退説までまことしやかにささやかれている(?)このご時世に、メインキャストがほぼ黒人で、ここまでポリティカルにコレクトな黒人像を打ち出し、それをヒーロー映画と掛け合わせてしまうわけだから、当然「バズる」に決まっているのである。自分も愛聴しているが、サントラに集まったアーティスト()の豪華絢爛さは口から涎が出るレベル。そこに『マッドマックス 怒りのデスロード』のような、見る者を鼓舞するカルト性もスパイスとして加わっており、民族衣装は美しく、まだ見ぬ第3の故郷への郷愁にかられる。

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自在に着たり脱いだりができる特撮的なギミックや衝撃を反撃用のパワーに変換する機能は気に入ったのですが、やっぱ新スーツのデザインがイマイチだったかなぁ

だが、やはり2度目以降、そうしたヒット要因から遠ざかって、映画を眺め直したときに、歴史的な娯楽大作であるものの、実に平板でどこにでもあるお話にしか映らないのも事実なのである。

マーベルのヒーローもののみならず、大概の一作目で主人公に立ちふさがるヴィランというものは、主人公にとって鏡像のような存在で、そこに自分を映すことで見つめ直し、精神的に成長していく、というのが大筋で、『アイアンマン』や『キャプテン・アメリカ』も踏襲してきた。こうした物語では、必ず、この鏡像を克服することでステップアップするのが一番のルールである。しかし、ティ・チャラはキルモンガーを打ち克つことができたのか、正直明白に描き切れていなかったように思う。自分のリテラシー不足もあるのかもしれないので申し訳ないのだが、希薄な印象が強い。結局、戦いを収めるできたのも、白ゴリラの加勢のおかげであって、ブラックパンサー=ティ・チャラ自身の闘いへの貢献度は極めて少ない。せいぜいキルモンガーと列車でチョコマカやっていただけで、あれでは勝利できたのはラッキーパンチでしたテヘペロ☆と舌を出されても、そりゃそうだ、という話なのだ。

大体、初出の『シビル・ウォー』で、あれほど威厳と哀しみを同時に抱え絶大なカリスマ性を誇って、復讐の輪廻を絶った男なのに、劇中で時間がさして経過していないのにもかかわらず、おそろしくナヨナヨしたよくいる少年ジャンプ主人公的なメンタルになっており、ギャップがありすぎる。自分の父親がとんでもないことを過去にしでかしていたショックは計り知れないが、だからって彼女に泣きつく、そんな情けないティ・チャラ王は見とうなかった。キルモンガーとの対比にしても、ここまで豆腐メンタルにしなくてよかったはずなのだ。だって豆腐メンタルのヒーローはもうさんざんやってきたではないか。等身大も大いに結構だが、成熟した一国の主が、先王の残した負の遺産に苦しみ、理想と野望を抱えた自分の化身に立ち向かう、というプロットで十分に成り立つはずなのだ。『スター・ウォーズ』もだが、なんでも「どこにでもいる僕ら」系にしすぎではないか?

CGが粗すぎるのも気になる。確かにワカンダの未来都市と広大な自然が融合した世界は、とても綺麗だ。しかし、どうしても「嘘くささ」のようなものが鼻につく。原作コミックをあまり詳しく知らないので、どこまでが忠実なのかわからないが、やはりアメリカに住む黒人が抱く理想郷アフリカという印象が強いのである。いうなれば、欧米人が良くやる富士山やサムライや忍者がゴチャゴチャに拡販された架空国家JAPAN的な装い。このコテコテな理想郷に潜む違和感は、初めて『ALWAYS 三丁目の夕日』の似非「古き良き昭和の日本」というファンタジーが放つ「嘘くささ」に繋がる。

MCU時系列的にも、これだけ内戦がボコボコ起きているのに、あのキャプテン・アメリカが一切関知していないのが不自然に思える。もちろん『シビル・ウォー』でキャップを捕まえる側にいたマーティン・フリーマンのCIA捜査官がいるので隠れていた、という説明はつくのだが、それでもいったん死に掛けワカンダには恩義があるワケだし、あれだけの規模の非常時が起きているのなら、キャプテン・アメリカが共闘という形で未熟な王であるティ・チャラの人生の先輩メンターとして登場させれば、話運びがスマートになったと思うのである。

最後の宣言もマヌケですらある。国のために動いてたのは、結局キルモンガーのみで、他はそれぞれ過去の因習にとらわれてがんじがらめになっているようだった。

だから、結局ティ・チャラは戦いにこそ(なんとなく)勝ちはしたものの、キルモンガーを克服できてはいないし、その影が『インフィニティ・ウォー』以降で付きまとい続けるのなら、次回作ではきちんと描き切ってもらいたい。

少々、不満が多いような書き方だったが、バックグラウンドを省いた映画としての薄さはともかく、それでも見て損はない意義深い一本ではある。たとえここにあるものが表層的で記号的なものに過ぎなくとも、すさまじい影響力を持っているのは事実で、現実を変えようとしているわけだから、いずれ「ブラックパンサー以前/以降」なんて語られ方もされるだろうしね。

ただやっぱり「キルモンガーの掲げる理想はわかるけどもワシはそれは倫理的に許せんのじゃ………」と正義を貫くのはいいものの、味方のCIAは敵機バンバン撃ち落としまくって、人乗ってたらどないすんねん、とか考えちゃったり、そこでまたあやふややな賛否どっちとも言い難い感じになるのだが、あくまでこの映画は「平凡な映画」であることがミソのようである。

あと、サントラはマジ最高なんで…………ここは強調しときます(ケンドリック・ラマーとSZAのコーチェラでのコラボはブチ上げモンでございました)

とりあえずライアン・クーグラー監督『クリード』を近いうちに見返しますよ

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Black Panther

Black Panther

  • ケンドリック・ラマー
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

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2018年の大事件&大珍事である女王ビヨンセによるコーチェラならぬBチェラパフォーマンス。これこそまさしく『ブラックパンサー』的でしたし、ビヨンセは時折キルモンガーにも見えました。

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マイケル・B・ジョーダンが『クリード』以上に仕上がりまくっていて、惚れ惚れ致しました。マジ抱いてほしい。ただあのブツブツはね…………

 

 おしまい