ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。ただ流れる言葉。雑談。意味のない話。つまらない話。聞くに値しない話。たびたび脱線するごくごく個人的な話。

だるまさんがころんだ 『クワイエット・プレイス』

マジで息をするな(by クラシンスキー)

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海外の劇場だと誰かとくっちゃべるのがデフォなとこがあるため、どうしても隣で「やばいよやばいよ…………(©出川)」とい声が聞こえてきてしまって一瞬現実に引き戻されるのですが、日本ならまだみんな大人しく見てると思うので、没入度が半端じゃないと思います。

まず、今やトップ俳優の座に君臨する男にも女にもモテる好漢クリス・プラットのこの興奮っぷりをご覧いただこう。 

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1流俳優が誉めてるから偉いとか言いたいわけではなく、彼のような映画好きが「やっぱ言葉尽したけどあきまへんわ」と語彙力を失うほどなので、よほどの事態なのである、ということを強調しておきたかったのだ。 Twitter上では、かのスティーブン・キングも大満足のようであるし、何より「いいね」の数が尋常じゃない。

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エミリー・ブラントが目を左から右へ泳がせるだけでヤバい何かが起こる緊張感が走る

さて、ではこのアラフォー俳優に代わって、この映画について説明するとして、ざっと大まかなあらすじとしては、まず、些細な音も聞き逃さずに生物を狩る、視覚のない未知の怪物が跋扈している、というのが2020年らしく、そんな世界をなんとか平穏にサバイブしてきたある一家が、母親の出産を迎え、かつてないピンチに陥る…………!!という、ものでシンプル。ありとあらゆる生活音に気を使わわなくてはならないので、そこでまずストレスフルだし、一家の大黒柱(古風な表現ですかね)である父親はとある出来事をきっかけに娘とのコミュニケーションが上手くいかなかったりで、家庭の中でも不和が起きて大変。まあこれ以上書けば、若干ネタバレになるし、とにかく見てもらうのが早いので、やはりクリス・プラット同様の結果になる。

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監督と主演が夫婦といえば、周防正行草刈民代を否が応でも思いだしますが、この夫婦もこれからそうなっていくのでしょうか。クラシンスキー監督の今後には目が離せません。

監督は『13時間 ベンガジの秘密の兵士*1』にも出演していた俳優のジョン・クラシンスキー、主演は『ボーダーライン*2』や『オール・ユー・ニード・イズ・キル*3』といった話題作に立て続けに出ているエミリー・ブラント。知っている方も多いだろうが、実はこの監督と主演は実生活でもおしどり夫婦で、今作のプロモーションで出演しているトーク番組では、そのおしどりっぷりが垣間見える。脚本は、クラシンスキーに加え、ブライアン・ウッズとスコット・ベック。製作にはマイケル・ベイ。上映時間は90分程度で、タイトなものになっており、目が見えないという設定からも『ドント・ブリーズ』という近年のホラーの中でも秀作に入る映画を思い出す人も多いはずですが、大いにホラー要素が増幅されていて、めちゃくちゃ『クワイエット・プレイス』のが怖がれた*4

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映画の後に見ると、余計にグッとくる集合写真

上画像左にいる聴覚に障害を持ち補聴器を手放せない長女役のミリセント・シモンズは実際に聾者であり、そのこともとても今作では大きく作用している。というのも、物語の概要だけ聞くと、革新的なサイレントホラー映画であるかのようだが、そうではなく、生活音が増幅されるような形で耳に忍び込んでくる仕掛けになっている。監督自身の意向もあったそうだが、彼女の存在も貢献しているはずっである。この一家が置かれている途轍もなく恐ろしい状況を、身振り手振りや表情で表現するのには、本当に耳が聞こえないからこそできる演技の域を超えたリアリティがある。手話という技術的な面でも欠かせない。

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 (以下、ネタバレをゴリゴリ含んでいるので、未見の方はここで読むのをやめていただき、ここからは本編を見ておしっこチビった後に、ご覧ください)

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まず、なんといってもこのホラー映画の定石の裏を突く設定の見事さだ。

どういうことかといえば、例えばこう。

おどろおどろしい音楽をバックに、不穏なカメラが後姿をとらえながら、ある女の子が洋館に忍び込んで、開けてはいけないとあらかじめ言われたクローゼットの扉を緊張した面持ちで開く。ここで音楽が止み、静寂が訪れる。扉の中には何もなく、少女の安堵した顔がアップに映し出される。そして、少女が振り向いた次の瞬間に「バーーーン!!!」とさっきまではなかったはずの人形が天井からつりさげられていて、女の子は恐ろしさのあまり悲鳴を上げる。

べッタベタな展開だが、ここで重要なのは一旦音楽が止むという演出。安心させたところで、次に観客を驚かせる、という手法は「緊張と緩和」ルールで、古今東西ホラーマナーとして浸透しきっており、どれだけ身構えていても、反射的にびっくりしてしまう。しかし、ある程度のホラー映画を見ていれば「あ、ここでなんか来るな」と精神的な余裕が生まれるものだ*5。そんな予定調和を壊すために、様々なホラーで試行錯誤されてきたのだが、その究極に今作『クワイエット・プレイス』があると思っていい。

今作ではそうした予定調和を排すために、大胆に「①どんな物音でも聞きつけるモンスターにより危機にある人類」という設定を用い、「②ありとあらゆる生活音を消さなければならない」ルールを敷き、「③聾者の娘がいるために手話でコミュニケーションを取ることができる利点を生かし生き延びてこられた家族」に焦点を当てることで、観客の集中力を研ぎ澄ませ、些細な音も恐怖へと変貌する空間づくりに成功している。

ここで、いやいや、アンタは何を言っとるんや、過去にそんな映画あったやないかコラ、と手元のサム・ライミがプロデュースを手掛けた『ドント・ブリーズ』のDVDを頭上に掲げる人もいるだろう。クラシンスキー監督はもともとホラー映画には馴染みが薄かったらしく、『クワイエット・プレイス』製作にあたり、『ドント~』を参考にしたらしいので、実際に影響は受けている。見れば明らか。そこ自体に反論の余地はない。

だが、この2作の決定的な違いは、襲う側に動機があるかどうか、があり、ここだけでグッとこの映画のホラーとしての質が格段に変わっている。『ドント・ブリーズ』はとても良くできた映画で、実はホラーに見せかけたシチュエーションスリラーといった色の方が濃いのであるが、自分が見た限りでは、スティーヴン・ラング演じる盲目の老人には、まだ攻撃する理由やえげつない*6凶行に及んだ動機がまだ理解はできなくもない。襲われる側*7にも若干感情移入しづらいところがあり、そこが観賞時の思考の妨げになっていた面も否めかった*8

一方、①の通り、こちら『クワイエット・プレイス』は当然だが敵はどこからともなく音を聞きつけ人間を狩りにやって来るモンスターなので、感情も動機もへったくれもない。そのため、襲われる側には無条件で理不尽さが伴い、家族は結束せねばならない*9。①の設定導入は今作のテーマである「家族の結束」というものに実にうってつけである。 

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①により発生する②のルールは大変にホラー的予定調和からの逃避のために効いていて、始終緊張感が張り詰める。そして、この映画の巧みなところは、しっかり「家族」のドラマを余計な演出を使わずに丹念に描きながら、②のルールに頼り切らずに、一切だれることなく、演出や音楽でより効果的に観客を徹底的にイジめ抜く、という点。特に劇判は非常に素晴らしく、『スクリーム』『LOGAN』のマルコ・ベラトラミが実にいい仕事をしてる。撮影もおそらく、非常に神経質にやっていたのだろうが、その努力がすべて報われるような、生活音全てを得体の知れないか域に変換する名仕事。

生活音を強調するための演出が見事で書きだすとキリがないのではあるが、スピーカーなんて使えるはずもない世界なので、イヤホンを夫婦で共有し、初々しいカップルのように踊る場面は、クライマックスで時間差で泣かされてしまった。とてもロマンティックな演出で、『ベイビー・ドライバー』を彷彿。

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ただ、ここでケチをつける、というか、この映画を好きな僕にとってはくだらない粗探し程度なのだが、ところどころ映画を円滑に進めるための「え、それはいいの」というルールが挿まれていて、例えば、「滝つぼの近くなら音がデカいので、声を出しても大丈夫!」というのも「じゃあ滝つぼの近くに家建てるなり洞窟掘るなりすればいいのでは………」と野暮なツッコミを入れたくなるし、そもそも②ルールがある中で、どうやって子作りに励んだんだ*10というゲスい疑問が湧くのだが。ところどころで、ホラー映画として機能させ、時間を稼ぐためのご都合主義的な部分が垣間見え、特に、いったんマット*11で入り口を防いで、まあこんなものは些細なものにすぎない。

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上で書いてきたように、モンスターが跋扈するホラー映画として、『クワイエット・プレイス』はとことん恐ろしいのだが、③この映画の素晴らしいところはそこだけにとどまらず、先述している通り「家族」の物語としてキッチリ泣かせる。画だけでこの家族がいかにして生き延びられてきたかを説明し、家族の連帯感や心のすれ違いを最低限のセリフだけで示し、1人の息子の死ともう1人の生命の誕生によって壊れかけていた「家族」が集結していく。上手くコミュニケーションが取れない父親(補聴器を大量に作りだすことくらいしかできない不器用さがまた泣かせる)を諭すのが、家族の中で疎外感を感じていた長男、というのも理想的な家族像だ。ラストに、やや、ど定番な死亡フラグを張って、見事家族のためにお父さんは散っていくのだが、ここで手話というコミュニケーション手段がグッとエモーションを高め、ミリセント・シモンズの説得力のある演技も相まって、ボロ泣きしてしまった。

しかも、その最後の最後にはまさに『X-MEN』や『ストレンジャー・シングス』のような展開を迎え、最終的に『10クローバーフィールド・レーン』のおうな今後のシリーズ化も臭わせる*12。というかあのエミリー・ブラントは新世代の『エイリアン』のリプリーでいいでしょう。

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演技に触れると、やはり監督の愛妻であり、自らこの難役を引き受けたエミリー・ブラントは、このキャリアだからこその迫力の芝居を見せてくれた。まあこれまでも過酷な戦いを強いられてきた役者さんだが、まさかここに来て妊娠して産気づきながらモンスターと鬼ごっこするなどどいう、とんでもない目に遭うとは思ってもみなかっただろう。途中階段から出た釘*13に足を突き刺し苦痛にもだえる顔や、妊娠の痛みに悶えながら声を殺す苦悶の表情をスクリーンにデカデカと抜かれても微塵も嘘くささがなく、めちゃくちゃ痛そう。ヒッチコックの時代にいれば名ホラー女優の座に君臨できただろう。

この映画に跋扈する「目の見えないのに不審な音があればすぐに襲ってくるモンスター」というのは、紛れもなく社会に対する風刺であり、今のアメリカが抱えている諸問題を解決するヒントも隠されていると思えるのだが、そんなことに言及してしまうのはこの上質なホラー傑作に対しては野暮であるし、あくまで娯楽だ。

僕らはきちんと映画の前にトイレを済ませ、充分な水分補給を取り、チケットだけ購入して、この『クワイエット・プレイス』へ飛び込めばいいだけの話なのです。

youtu.be

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A Quiet Place Official Trailer #1 (2018) Emily Blunt, John Krasinski Horror Movie HD

おしまい

 

*1:ビデオスルーされているもののマイケル・ベイ監督で傑作の部類だと思います

*2:原題『シカリオ』のが好きです

*3:このときに肉体改造して以降、今作のようなハードな役もできるようになったと思うので、ターニングポイントなのだろう

*4:あくまで個人の感想ですが、まあブログってそもそも個人の感想の域を出ないですしお寿司

*5:自分はそこそこに見てはいるくせに未だにビビりますが

*6:生理的に受け付けない類の

*7:この映画の場合強盗に押し入っているので被害者とも言いづらい

*8:とはいえ、本当によくできたスリラーで、これなしに『クワイエット・プレイス』はなかったとも言えるので未見なら是非とも

*9:人相手だと、いくらシリアルキラーとはいえ倫理的に………ねえ笑

*10:あれくらいの過酷な環境でサバイブするには、一つでも子孫を残すくらいのガッツが必要なんや、野生に帰るんやヒトも………とするりと飲み込みました

*11:あれでいいのかよ、とちょっと笑っちゃった

*12:続編がある前提で作られている脚本なので、興収次第で連作化されていくんでしょうが、フランチャイズはねぇ………でも『エイリアン2』は大好きなんで、続編は見たいかも。エミリー・ブラントがどんどんマッチョ化してくのは見てたい

*13:さすがに3回目には「いい加減気づけよ!」とすかさずツッコむ

果たしてキルモンガーを克服できただろうか? 『ブラックパンサー』

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『シビル・ウォー』でのあまりのクールさにシビれてしまったので、予告編で見たこの場面で期待値グングン上昇したモノですが、今となっては「ヘタレやのになんでちょっとイキってんねん」というワカンダ国民以上に支持率ガタ落ちのティ・チャラさん。アベンジャーズではリーダーシップを発揮して、あの頭の固い社長を懐柔してほしいもんでございます。

(今記事を読んでくださる希少な物好きの方にはせっかく読もうとしてくださるタイミングで、申し訳ないのですが、いわゆる「ネタバレ」に触れておりますゆえ、そういったものを忌避しておられるなら、お読みになる前に是非とも『ブラックパンサー』本編をご覧いただくことを推奨させていただきます) 

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あまりに大好評なので(まあ一回目はカッコいいガジェットやスーツに目を奪われ友人と「ワカンダフォーエヴァーッ!!!」とワーキャー言っていたので偉そうなことは言えん)、不満を抱いている私がいけないのかしら、と世相での評判の良さとのギャップで苦しみつつ、考え直した結果、やっぱり俺間違ってねえよな、という結論に。

ただ、一つ添えておきたいのは、今作がここまで「売れて」いるということについては、何の違和感もないということ。だってこのR&Bやヒップホップがありとあらゆるジャンルを食い、ロック衰退説までまことしやかにささやかれている(?)このご時世に、メインキャストがほぼ黒人で、ここまでポリティカルにコレクトな黒人像を打ち出し、それをヒーロー映画と掛け合わせてしまうわけだから、当然「バズる」に決まっているのである。自分も愛聴しているが、サントラに集まったアーティスト()の豪華絢爛さは口から涎が出るレベル。そこに『マッドマックス 怒りのデスロード』のような、見る者を鼓舞するカルト性もスパイスとして加わっており、民族衣装は美しく、まだ見ぬ第3の故郷への郷愁にかられる。

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自在に着たり脱いだりができる特撮的なギミックや衝撃を反撃用のパワーに変換する機能は気に入ったのですが、やっぱ新スーツのデザインがイマイチだったかなぁ

だが、やはり2度目以降、そうしたヒット要因から遠ざかって、映画を眺め直したときに、歴史的な娯楽大作であるものの、実に平板でどこにでもあるお話にしか映らないのも事実なのである。

マーベルのヒーローもののみならず、大概の一作目で主人公に立ちふさがるヴィランというものは、主人公にとって鏡像のような存在で、そこに自分を映すことで見つめ直し、精神的に成長していく、というのが大筋で、『アイアンマン』や『キャプテン・アメリカ』も踏襲してきた。こうした物語では、必ず、この鏡像を克服することでステップアップするのが一番のルールである。しかし、ティ・チャラはキルモンガーを打ち克つことができたのか、正直明白に描き切れていなかったように思う。自分のリテラシー不足もあるのかもしれないので申し訳ないのだが、希薄な印象が強い。結局、戦いを収めるできたのも、白ゴリラの加勢のおかげであって、ブラックパンサー=ティ・チャラ自身の闘いへの貢献度は極めて少ない。せいぜいキルモンガーと列車でチョコマカやっていただけで、あれでは勝利できたのはラッキーパンチでしたテヘペロ☆と舌を出されても、そりゃそうだ、という話なのだ。

大体、初出の『シビル・ウォー』で、あれほど威厳と哀しみを同時に抱え絶大なカリスマ性を誇って、復讐の輪廻を絶った男なのに、劇中で時間がさして経過していないのにもかかわらず、おそろしくナヨナヨしたよくいる少年ジャンプ主人公的なメンタルになっており、ギャップがありすぎる。自分の父親がとんでもないことを過去にしでかしていたショックは計り知れないが、だからって彼女に泣きつく、そんな情けないティ・チャラ王は見とうなかった。キルモンガーとの対比にしても、ここまで豆腐メンタルにしなくてよかったはずなのだ。だって豆腐メンタルのヒーローはもうさんざんやってきたではないか。等身大も大いに結構だが、成熟した一国の主が、先王の残した負の遺産に苦しみ、理想と野望を抱えた自分の化身に立ち向かう、というプロットで十分に成り立つはずなのだ。『スター・ウォーズ』もだが、なんでも「どこにでもいる僕ら」系にしすぎではないか?

CGが粗すぎるのも気になる。確かにワカンダの未来都市と広大な自然が融合した世界は、とても綺麗だ。しかし、どうしても「嘘くささ」のようなものが鼻につく。原作コミックをあまり詳しく知らないので、どこまでが忠実なのかわからないが、やはりアメリカに住む黒人が抱く理想郷アフリカという印象が強いのである。いうなれば、欧米人が良くやる富士山やサムライや忍者がゴチャゴチャに拡販された架空国家JAPAN的な装い。このコテコテな理想郷に潜む違和感は、初めて『ALWAYS 三丁目の夕日』の似非「古き良き昭和の日本」というファンタジーが放つ「嘘くささ」に繋がる。

MCU時系列的にも、これだけ内戦がボコボコ起きているのに、あのキャプテン・アメリカが一切関知していないのが不自然に思える。もちろん『シビル・ウォー』でキャップを捕まえる側にいたマーティン・フリーマンのCIA捜査官がいるので隠れていた、という説明はつくのだが、それでもいったん死に掛けワカンダには恩義があるワケだし、あれだけの規模の非常時が起きているのなら、キャプテン・アメリカが共闘という形で未熟な王であるティ・チャラの人生の先輩メンターとして登場させれば、話運びがスマートになったと思うのである。

最後の宣言もマヌケですらある。国のために動いてたのは、結局キルモンガーのみで、他はそれぞれ過去の因習にとらわれてがんじがらめになっているようだった。

だから、結局ティ・チャラは戦いにこそ(なんとなく)勝ちはしたものの、キルモンガーを克服できてはいないし、その影が『インフィニティ・ウォー』以降で付きまとい続けるのなら、次回作ではきちんと描き切ってもらいたい。

少々、不満が多いような書き方だったが、バックグラウンドを省いた映画としての薄さはともかく、それでも見て損はない意義深い一本ではある。たとえここにあるものが表層的で記号的なものに過ぎなくとも、すさまじい影響力を持っているのは事実で、現実を変えようとしているわけだから、いずれ「ブラックパンサー以前/以降」なんて語られ方もされるだろうしね。

ただやっぱり「キルモンガーの掲げる理想はわかるけどもワシはそれは倫理的に許せんのじゃ………」と正義を貫くのはいいものの、味方のCIAは敵機バンバン撃ち落としまくって、人乗ってたらどないすんねん、とか考えちゃったり、そこでまたあやふややな賛否どっちとも言い難い感じになるのだが、あくまでこの映画は「平凡な映画」であることがミソのようである。

あと、サントラはマジ最高なんで…………ここは強調しときます(ケンドリック・ラマーとSZAのコーチェラでのコラボはブチ上げモンでございました)

とりあえずライアン・クーグラー監督『クリード』を近いうちに見返しますよ

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Black Panther

Black Panther

  • ケンドリック・ラマー
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

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2018年の大事件&大珍事である女王ビヨンセによるコーチェラならぬBチェラパフォーマンス。これこそまさしく『ブラックパンサー』的でしたし、ビヨンセは時折キルモンガーにも見えました。

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マイケル・B・ジョーダンが『クリード』以上に仕上がりまくっていて、惚れ惚れ致しました。マジ抱いてほしい。ただあのブツブツはね…………

 

 おしまい

 

マジカルで鮮やかな色した景色の中で走りぬける子供たち『フロリダ・プロジェクト』

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僕がいる街は、大都市とはいえなくとも、程よく自然(厳密に定義された「自然」とはまた異なる)があり、そこそこに観光でにぎわっていたり、清潔な住宅街があったり、大学があったり、物騒な情勢にしては治安も良い。しかし、もちろん、社会というものがある限り、貧富の差というものが影を落とし、少し離れて目を凝らすと、とても楽観視できないような現実が見えてくる。少し人気のないところに行くと、時折子どもがチップや僕が手に持つスマートフォンをねだってくる。町の中央にある駅に降りれば、みすぼらしい格好で歯が抜けて目も虚ろな(おろらくヤク中だろう)女性が、「コーヒー一緒に飲まない」とそれしか言うことがないのかというような、決まり文句でお金を恵んでもらおう(まあ毟り取ろうというか)と縋りに来る。無論、そんなものに構ってしまうわけもなく、目も合わせず通り過ぎるのだが、やはりどこか心苦しいものも感じ、そういう感情になっている自分が見え透いた聖人気取りの偽善者のように思え、また空しくなる。街を歩いてウィンドウショッピングなんぞしていたら、ボロボロのブランケットに身を包んで寒さに凍えたながら、どこの国の歌なのかよくわからない歌を歌い、なんとか神(いるのかいないとかではなく)に縋ろうと毎日の習慣のように天を仰ぐ人々がぽつぽつといる。警察に囲まれ、尋問されているのをこっそり聞くと、不法就労かどうかで問われていたり。人が忙しなく行き交う裏で、そうして苦しい生活が淡々と進んでいく。

同様の感覚は、日本でも味わったことはある。例えば、自分は祖父母の墓参りに決まった時期になると京都市内へ行くことがあるのだが、車で帰るときに、よく。もちろん、彼らの日常を不幸せだとか我々が断定できることもできないし、そんなものは不遜以外の何でもない。ただ、やはり、あのどこかの楽園のような描かれ方をしていることから、そう離れちない場所にある、そうした風景を見ると、どこ痛ましい気持ちにもなって、またそこで自分の偽善的感情にうんざりするのである。

まあここまで歴然と目に見えるような貧困でなくとも、至る所に、格差というものは存在し、社会というものが持続している間は、どうしてもそういった辛い現実は生まれてしまうものだ。今最も世界で危うい均衡を保っている国であるアメリカはフロリダ州にも、当然ながら格差というものがあるらしい。パブリックなイメージとしては、青い海に、だだっ広いビーチ、といったものが見識の狭い時分のような人間でもパッと浮かんでくるものだが、現実はやはり太陽カンカン照りということもないらしい。2016年にナイトクラブで起こった悲惨な銃乱射事件に、2018年にも高校で乱射事件が起こり、17人の命を奪った。このままいくと、しばし銃規制云々の方に話が伸びてしまいそうなので、打ち止めにするとして、煌びやかに富裕層が反対に、やりきれない現実というものが存在する。そしてもっと悲惨なことは、「楽園」に住む人間は、その中から見える外の景色には微塵も関心がないのだ、という現実。

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さて、いつものようにくだらない(いや、くだらなくはないのだが)前置きがまたズルズルと長引いてしまったが、そういった現実のあれこれがぼんやりと観賞後に浮かんでくるような映画『カリフォルニア・プロジェクト』。

舞台はディズニーワールドのモーテルの近く。スポットが当たるのは、そこでその日暮らしを営むシングルマザーのヘイリー(ブリア・ビネイト)と娘のムーニー(ブルックリン・キンバリー・プリンス)。安モーテルの管理人ボビー(ウィレム・デフォー)は子どもたちの悪戯を優しい目で見守る。ヘイリーは仕事を解雇され、モーテルの家賃もロクに払えないので、子どもたちはたくましく、そして楽しそうに、釣銭を貰いにいったりご飯を恵んでもらったりする。しかし、そんな日常は、ムーニーとヘイリーの起こした事件によって崩れていく。

終始、子供が気まぐれに絵具で塗りたくった絵のような、パステルカラーの映像に見惚れてしまうが、そこに影を落とす売春や貧困は暗い。表面的な色彩の鮮やかさによって、よりその表層性にある種の薄気味悪さのようなものが加わる。間接的なアプローチにより鮮明に映し出される現実、というものはウェス・アンダーソンが『グランド・ブダペスト・ホテル』でも行っていたことだが、生々しさの度合いではこちらの方が数段上である。明るい「夢の国」をうたう一方で、差別をはじめとした現実の問題を炙りだす近年のディズニーの『ズートピア』のアプローチとも実に似通っている。陥った状況は大きく異なるが、同様のシングルマザーが直面する厳しい現実を描いた『ルーム』とは比較すると面白い。

(ちなみにディズニーはこの貧困問題に対して、基金に50万ドルの寄付をしたようなので、この問題はもはや企業レベルでどうにもならない域にあるのかもしれない)

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子どもの視点で映画を進めていくために、子役の演技がとても的確に、そしていやらしくなく見せていたのだが、ショーン・ベイカー監督はやはりというべきなのか、きちんと是枝裕和『誰も知らない』を事前に見返したらしい。信頼できる。もちろん、ブルックリン・キンバリー・プリンスちゃんの演技が上手なのも一役買っている。しかし、そこに頼り切らずにあるがままの子供本来の姿を作りだすことに成功している。

子供たちの悪戯は微笑ましいものの割と容赦がなく、言葉遣いは粗雑。その粗雑さゆえに、彼らがおかれてしまっている抜け出せない貧困の沼の深さ、ひいてはそこから垣間見えるピュアネスが捕まえる大人たちの悲しみまでもが浮き彫りになる。

すぐ近くにはディズニーの夢の国が見えるのだが、彼女たちを囲うありふれた日常も「子どもの視点」によって均一化され、豊かでミラクルな世界なのであることに気付かされるのである。

母親役の俳優さん、聞くところによると、演技素人のインスタグラマーなのだそうだが、未経験とは思えないし、とてもシングルマザーとしてリアリティがある。キャスティングが実に慧眼。下手に肌がキレイで金のかかってそうな綺麗な女優(そう思うと『ルーム』のブリー・ラーソンの身をやつすような気合いはとても素晴らしかった)を使うよりも生々しい。描きようによっては、ただただ怠惰でダメな母親にも映りそうだが、そうはせずに、子どものまま身体だけが大人になってしまった大人が、貧困に抗っていかなければいけないという厳しさを、視点が子供だけに偏ることなく丁寧に捉えている。ムーニーのことを愛していて、だから身体を売らなければいけないと決断する夕暮れに胸が痛む。

ウィレム・デフォーの瞳もとても素晴らしい。語らずとも滲み出る人情味。キャリア史上最高の演技、という前評判に見合う名演を見せつけてくれた。ただ怒鳴るだけじゃいけない。しっかりと子供を見守ることの大切さに気付かされる。彼の存在はこの映画においてクッションのような役割を果たしている。

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「フロリダ・プロジェクト」を見たときの既視感が引っ掛かったのだけれど、長谷川町蔵氏のツイートでNHKドキュメント72時間」と表現されていて、非常にスッキリした。川栄李奈鈴木杏のナレーションが聞こえてきてもおかしくないくらいである。

しかし今作には、ナレーションも余計な会話も必要ない。そうした歪んだ生活を、無駄な言葉で装飾せず、きれいなパステルカラーで訴えかける。子どもの視点で見える「小さな世界」は、想像力に満ち満ちていて、まさしく「夢の国」そのもの。それでも、その無垢で純粋な視点だからこそ、その外に見える抜け出すことが許されないグロテスクな貧困が生々しい。

(それにしてもこの作品がアカデミー賞が選ばれなかったことにスノッブの考えがわからない、と述べたそうだが、ごもっともだ。 嘆かわしい限りである)

この映画は、「夢の国」にいる我々を含めたおとぎ話の国の人々に、同じこの世界に住む人々の存在を突きつける、重要な一作なのである。彼らは決して隠れているのではなく、目を向けていなかったにすぎないのだ。

ラストの演出をどうとらえるべきか。おそらく「よくわからない」というただの受け取り手のリテラシー不足・タイマンのような感想を抱く人もいるのだろうが、それではいけないのだ。本編が終わった後の世界は、そのまま地続きに今いる現実に繋がっている。目をそらしてはいけない。理解できない、では済まされないのだ。理解しようとする、その姿勢こそがショーン・ベイカー監督が今作で促そうとするものであるはずなのだ。語らずとも、すべてこの映画で語られている。

子供映画としても、ヤングアダルトものとしても、秀逸で、こんなポップでありながらリアリスティックなアート映画はこれまで見たことがなかった。夢の国にいるだけでは見えないエトセトラに目を向ける誰にでも優しい傑作。

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おしまい

今更にもほどがある2017年の洋楽ふりかえり Part1

アップルミュージックやスポティファイのおかげで最新の音楽にスピーディーに触れることができるこのご時世。ありがたい話でございます。ツイッタで20枚くらい選出したのとまた順序がごっちゃになっていますが、趣味趣向はコロコロ変わるのでそこのところは何卒。1/4くらいは2018年になってもう一度本腰を入れて聴き直したものが混じっております。できるだけYoutubeで聴けるものを掲載していますが、できればCDなりを買っていただく(こちらには一銭も入りませんが)か、各種配信サービスでなるべく良い音で拝聴していただきたいものです。まあ書くいう自分は今現在、五代目の三遊亭圓楽師匠のCD全集に首ったけなので、あまりアテにゃなりませんが。

ところで、ブログタイトルにも書いた「洋楽」というのは、日本国外で生み出された音楽、という意味合いですが、最近は「洋楽テイストのポップス」なんて言葉が頻繁に見かけますから、この「洋楽」という言葉も再定義化する必要があるようですね。

kuro-matsu2023.hatenadiary.jp

あんまり1枚のブログに動画のリンクをひっつけると重たくなるので、できるだけ区切ってお届けさせていただきます。

 

 

○マウント・イアリ『ア・クロウ・ルックド・アット・ミー』

soundcloud.com

小袋成彬さんのラジオで一曲目の「リアル・デス」かかっていて、即刻購入を決めました。日本人なので、どうしても「モウント・イーリエ」と読みたくなってしまうのですが、マウント・イアリです。

ど頭から、とにかく悲痛です。なんせ「リアル・デス」ですから。「死は現実」と。下手くそな意訳で歌詞をざっと引用すると、

死は現実だ

誰かがそこにいてやがていなくなってしまう

死は歌うためにあるんじゃない

死はアートにするためにあるんじゃない

死が本当に家に入り込んできたなら、

すべての詩は無能である

僕が君のいた部屋に入って

代わりに空っぽの何もない部屋を見たとき

すべてがどうでもよくなる 

(中略)

言葉を失った

という具合。正確な訳ではないので、各自ググってください。そしてググられたらわかると思いますが、この歌は歌っているフィル・エルヴラムが奥さんを無くしたことから始まっているんですね。胸を抉るような、書いたペン先から生々しい血が滲むような、痛々しさ。このローファイな音は、奥さんを看取った部屋で録音されたそうで、このぐぐもった、飾らない、切実なギターから、悲しさややるせなさがヒシヒシ伝わります。

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身近な人の死を1つの作品にしても、悲しみは消えることも慰めることもできず、それでも1枚のアルバムになって、僕らの手元に届き、そして共有されてしまう、報われなさ。報われない故の美しさをダイレクトな温度間で感じ取れます。このアルバムを支配するある種の優しさは、人を喪う辛さを慰めることはできないけど、その現実へお拒絶感を優しく肯定してくれるような懐の広さからなのでしょうか。

「いない」ということは、同時に「いる」ということでもあるのでしょうね。

 

○(サンディ)アレックスG『ロケット』

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リリース当初はぼんやりした印象で、自分の中での季節感と合わなかった感じがあったんですけど、この間雪が降って溶けかかった地面を散歩しながらふと聴いてみると、めちゃくちゃハマって、「こういうことだったのか」と納得して、それ以来毎日聴いています。どうしても音楽を色合いとか時間帯とかで自分の中で分けて聴く傾向がある(サザンは夏の始まりから終わりまでが期限みたいなやつですよ)ので、こういう妙なタイムラグみたいなのが生まれてしまうんですかね。宅録感が絶妙に効いてて、ゆるいサイケな雰囲気があるんだけど、フィラデルフィアって年中寒いんですかね、どこか冷えたところがあって、一貫して張り詰めた空気があります。ハードもソフトもジャンル関係なしに思いついたらジャンジャン入れたれ、という精神もすごく好きです。フェニックスとかフランク・オーシャンとか思いだしたりしました。

この混迷した現代において、とても象徴的な一枚がひょっこり(なんか今ひょっこりさんという芸人が流行っているみたいですね)現れた感じがします。

 

○タイラー・ザ・クリエイター『フラワー・ボーイ』


Tyler, The Creator - 911 / Mr. Lonely (Audio)

タイラー・ザ・クリエイターという人は、ある種、躁病のような気があるのかな、と多重人格的なふるまいから想像していたのですが、今作はまた打って変わってナイーヴに深化していますね。ずっと燃え尽きて灰になっているような。元々孤独な方だとは思っていましたが、タイトルに「ミスター・ロンリー」とつけちゃいますからね。その前が「ローン・ウルフ」でしたっけ。こういう病んだ憂鬱さが、時にはささくれた心をほぐしてくれたりするものです。音像は結構甘々で誰でもニュートラルに聴けるんじゃないかな、と思います。ジャケは昨年出たものの中ではピカイチに好きかもしれません。夜の少し人気のないくらい道路を走りながら聴くとズブズブ来ます。夢の中で恋人に会うためにタイラー君は車を沈む気持ちで走らせているのでしょうな。

 

○アンブローズ・アキンムシーレ『ア・リフト・イン・デコラム:ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード

A Rift In Decorum: Live At the Village Vanguard

A Rift In Decorum: Live At the Village Vanguard

  • アンブローズ・アキンムシーレ
  • ジャズ
  • ¥2200

ライヴアルバムなんですけど、先日レコード屋で手に取ったばかりです。昨年の新作が一ケタのユーロで買える良心的なたたき売りが行われていたのと、ジャケットが気に入り購入しました。帰ってYoutubeの演奏を見てまたシビれました。すごい集中力で聴いてしまったほどです。

(下の動画は少し前のモノですが物は試しというヤツです)

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ジョン・メイヤーザ・サーチ・フォー・エヴリシング』

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発売以降折に触れて聴いてたのですが、あまりに聴きすぎて、2017年発売であることをすっかり忘れていたものです。彼のイメージといえば、ギタリストとしての腕前以上に、ヤリチ…………プレイボーイな印象が強くって、リリックでもいつも女々しいというか、未練がましいというか。常に影には恋あり、という男前な顔面通りの印象で、今作でもその未練がましい甘ったるさは健在。ずっと失恋してる。あれだけテクニックがあって、女にモテモテで、声もセクシーならもう何も要らんやろ、と若干僻んだりしたくなるもんですが、天はなんでこうこの男に天才的なソングライティング能力までも与えてしまったのでしょう。ここまでくると、嫉妬とかしちゃうのも恥ずかしいです。

「スティル・フィール・ライク・ユア・マン」の『キル・ビル』もどきのMVを見ながら、そういやこの人日本に交換留学してたんだよな、と思い出したり。こういう面白ジャパニーズな映像をなぜクリエイターたちは作りたがるのか、という疑問はさておき(嫌いじゃないし、むしろ好物なのでジャンジャカ作ってほしいです)、すごく歌唱がマーヴィン・ゲイアル・グリーンのような落ち着きと奥行きを見せていて、非常にヴォーカリストとしての熟練を感じます。『ムーヴィング・オン・アンド・ゲッティング・オーヴァー』サウンドが心地いいなと浸ってたら、ピノ・パラディーノ参加してるんですよね。後で知りました。

 

 

つづく

 

光芒的タイムトラベル - 小沢健二『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』を読む

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二階堂ふみ、吉沢亮らが挑む残酷な青春『リバーズ・エッジ』予告編

やあ、あまりにすごすぎた。まだか、まだなのかい、と待ちわびた『アルペジオ』ですが、これはすごすぎました。小沢健二という人の曲は、いつも後になってメロディから歌詞が染み出てきて心にジワジワと砂糖のように溶けてくのが多く、この前の『フクロウの声が聞こえる』のようなド頭のイントロで「あ、こいつは名曲だな」とピンと来ちゃうもの以外は、あまりぱっと聴きですぐにいい曲だ(もちろん毎度憎たらしいくらい上質なメロディではある)と飛びつくべきではないのだけれど、それにしてもこの曲はすごい。タイトルが、童話チックで、間が抜けている(ように思える)だけに、歌詞のある種の執念深さとの落差で拝聴している椅子から転げ落ちてしまいました。いやもう端的に詩がすごいです。Appleの企画で対談していた銀杏Boys峯田和伸の言葉を借りるなら、「歌詞じゃなくて詩」がそのまま音楽に乗って紡がれている。もっと言えば、小説に勝手にメロディがついてそのまま節がついて歌になった、いや、歌になっちゃった感じ。自然現象みたいな。雨が落ちて川になりそれが大気に流れて雲になってみたいな自然さ。赤裸々なヒップホップでやるラップミュージックとはまた違うし、ポエトリーリーディングでもない。途中の二階堂ふみ吉沢亮(声帯の震え方が朴訥で素敵)のセリフもマジックのように、突如口の中にもぐりこみ、いつの間にか飴玉が舌から消えていく。なんなんだこれ、というクエスチョンマークで頭を覆い尽くされているのに、心は別の静かで明るいところへ持っていかれています。メロディはカントリーの土の臭いがする中でスルスルと水流のように詩が紡がれ、リズムもカントリーのマナーに則っている。『流動体について』が『ある光』を踏襲したような楽曲だったのに対し、『春にして君を想う』のリベンジなのか、とか勘繰ったりしますが、真相やいかに。凱旋からここまで考え抜いて用意周到に作られたようにも思えるし、たまたまポンと生まれたような軽快さも感じます。風通しはいいのに、詩の厚みが一短編を丸っと作れちゃうんじゃないか、というほどに重い。これまでヒップホップでも素晴らしい楽曲が生み出されると度々「私小説的だ」などという形容詞は用いられるのを見かけました(ケンドリック・ラマーの名盤『To Pimp A Butterfly』なんか分かりやすい)し、ボブ・ディランノーベル文学賞を獲得して世間をあっと驚かせる時代なわけですから、決して歌詞が文学的であること自体には驚きはないのです。ただ、Jポップという文脈の中で、ポエトリーではなく、強度が高くもメロディと組み合わさることは難しかった詩が奇跡的に融け合うというのは、これはまさに『神秘的』と言わざるをえないのではないでしょうか。この曲をジム・オルークが聴いたらどう思うのだろう、とかそんなこともつい考えてしまいました。ああ、あとベックとか(そういえばベックってエドガーライト連れてコーネリアスのライブに行っていましたね。遠回りに小沢健二に繋がらないかしら)。R.E.Mとか『ヨシュア・ツリー』期のU2とかも親和性がありそうです。ジャスティン・ティンバーレイクがリアルな1人のアメリカ出身の人間として、R&Bとカントリーを織り交ぜた60分に及ぶ大作『Man Of The Woods』が発売された時期と、アメリカ文学に魅入られたかつての文学青年が長い時を経て日本で自分のルーツと共に一枚のシングルを作り上げた時期が、偶然にせよ被っているのはなんだかおもしろいです。より音楽が個人のもの、「あ、これって俺にしかわからんぞ」的な感覚が強く残るカルチャーになってくのでしょうか。

 

と、まあ専門的な音楽知識も特段持ち合わせていない人間のなんちゃってレビュー擬きはここまでにして、これから以下に続く文は、フリッパーズ・ギター以降のオザケンの軌跡と歌詞を照合(深読みしたくなるほどに要素が多すぎるのだから無理はない)するようなことは、熱心なオザケンフリークの方が必死にやられるであろうから、そういうことはそちらにお任せしておくとして、この私小説のストーリーをぼんやりと追えたらいいな、と思います。なので、後述の「君」が岡崎京子であろうこと、そして小山田圭吾とか嶺川貴子とかそこらへんの事情は一旦忘れている風を装って筆を進めていくことにします。

(今作でこんなにディープに突っ込んだオザケンの若かりしパーフリ全盛期の四方山話に触れたとなると、これから渡辺満里奈とかカヒミ・カリィとかも歌詞に出てきちゃうんですかねぇ)

 


「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」ティーザー映像

    幾千も灯る都市の明かりが

      生み出す闇に隠れた

    汚れた川と  汚れた僕らと

 

舞台は、都会の仄暗い、川辺の闇で生活をする「僕ら」から始まります。シティポップの寵児として王子様のようにふるまっていたかつての小沢健二のイメージからすると、生々しくどこかダーティな歌いだしです。

 

    駒場図書館を後に 君が絵を描く原宿へ行く

           しばし君は

   「消費する僕」 と 「消費される僕」をからかう

 

固有名詞の入れ方がとてもストレートですね。駒場といえば、東大ですから、中々にインテリな語り手の「僕」はナイーヴな文学青年なのだろうか、とかそんなことが過ります。図書館を後にした「僕」は友達の「君」に会いに行きます。原宿で絵を描く友達なんて、凡庸極まりない田舎育ちの人間からすれば、なんてハイソなと冷ややかな気持ちがなくもないですが、それはそれ。

その友達である「君」は、「僕」のことを消費する側でありながら消費される側でもあることをからかう、中々にシニカルで愉快な毒舌家のようです。「僕」は世間に出るような仕事をしているんでしょうね。モデルとか俳優とか。はたまたアーティストとか。図書館に足しげく通っているような青年ですから、きっと熱心な読書家なのかな。「君」はとりあえずは絵描きさんということでいいのでしょう。

 

      この頃の僕は弱いから

     手を握って  友よ  強く

 

消費される側の「僕」は精神的に参っているようです。ここの「友」というのは誰のことを指しているのか、まだ判別しがたいですかね。

 

      でも魔法のトンネルの先

    君と僕の心を愛す人がいる

    本当だろうか? 幻想だろうか? と思う

 

さて、ここで一つ難関なのですが、この「でも」とは一体何に対する「でも」なのでしょうね。ここだけだとイマイチわかりにくい唐突さがあります。後のこの疑問に向けたアンサーのようなフレーズから類推すると、ここは素直に「僕」と「君」のこの他愛もないやり取りを、未来のある地点から、「魔法のトンネル」の向こう側から、眺めている未来を知っている「僕」と、その未来に現実味を感じない「僕」の葛藤のようなものに見えます。ここでいきなり「僕」がどこの時間にいるのかわからなくなっちゃいますが、過去のある時間にいると思ってよさそうです。

 

      僕の彼女は君を嫌う

   君からのファックス隠す 雑誌記事も捨てる

 

日常に戻ります。「僕」には「彼女」がいるようで、この娘はどうやら「君」を嫌っている節があります。1番に当たる箇所で、東京が舞台であることはわかりましたが、ここで「ファックス」というアイテムによって、きっと少し前の80~90年代あたりの携帯がまだ普及する以前の日本であることはぼんやりですが、汲み取れなくもないです。「君」は絵を描く人のようなので作品を送ったりしているのか。ただ単に「彼女」が「君」を嫌っているわけではなく、送られたファックスを破るわ、雑誌の記事も捨てるわ、ヒステリーを起こしているような苛烈な反応ですね。雑誌の記事というのは、いわゆるフライデーとか文春とかの類なのか、それとも「君」がインタビューでもされているカルチャー雑誌なのか(嶺川貴子と付き合ってたって自分からゲロっちゃうのかよオザケン!という驚きはここでは堪えましょう)。

 

    その彼女は僕の古い友と結婚し

    子ども産み育て離婚したとか聴く

 

そうかと思えば、次の行でいきなり「彼女」が「僕」の「古い友」と結婚して子供産んで、しかも、離婚までしているといういきなりすぎるどんでん返し。ヒエッ。名前は伏せておくにしても、「彼女」と「古い友」にしてみれば、「僕」の「君」への私信でこんな半ば当てこすりのような巻き込まれ事故をされちゃ、ちょっと止まったもんじゃないかもしれませんが、「僕」が青春時代と向き合って消化できる齢に到達した、ということなのでしょう。

 

     初めて会った時の君

   ベレー帽で 少し年上で 言う

  「小沢くん、インタビューとかでは

  何も本当のこと言ってないじゃない」

 

次はさらに遡り、「僕」が初めて「君」と出会った頃に戻ります。「君」という人物の風貌と年齢が明かされ、「ベレー帽で/少し年上」のようです。別に画家がベレー帽をかぶっちゃいけないとか、漫画家はみな一様に手塚治虫のコスプレをしているとか、そんな偏見はありませんが、ここはズルしてアポステリオリ的な卑怯な手口で強引に漫画家であろうと断定しちゃいます。ついでに口調から女性かもしれないことも。そんな「君」は「僕」のことを本当のことを言わない人間だと言います。

 

     電話がかかってくる

   それはとてもとても長い夜

   声にせずに歌う歌詞が振動する

    僕は全身全霊で歌い続ける

 

そして、「僕」に電話がかかります。時制が見えにくいので、若干飛躍してはいるかもしれませんが、きっと「彼女」が「古い友」と結婚したことを報されたことと見るのが妥当に思えます。この前の歌詞での、素直に思っていることを言わず、仮面をかぶったままの「僕」の人物像から、1人で真夜中に電話機の前で悲しみに暮れていたのでしょう。

泣いている、と直球で書いてしまうと赤面してしまいそうなくらいに野暮なので、様々な表現者たちによりこれまで様々な表現が生み出されてきました。しかし、この「声にせずに歌う歌詞が振動する」という言葉は、より切実で涙が枯れきった「僕」の青春の喪失のようなものが窺える、非常に秀逸な表現です。そんな悲痛な「僕」にできることは、もう歌を歌うことで感情を吐露していくことしかなくなってしまったようです。全身全霊で歌う、というのはアメリカからの凱旋以降の小沢健二の歌い回しを聴いていると、とても腑に落ちます。

 

   この頃は 目が見えないから

    手を握って 友よ 優しく

 

「目が見えない」というのも、流れからそのまま泣いているのであろう、と踏んでよさそうです。ここで「友」というのは、「彼女」と結婚した「古い友」ではなく、やはり「君」のことと見て間違いはないですね。青春と別離したのと同時に、きっと「古い友」とも訣別したのでしょう(安易な不仲説とかではなく)。

 

    きっと魔法のトンネルの先

    君と僕の言葉を愛す人がいる

   汚れた川は 再生の海へと 届く

 

このサビのところは、未来から輝かしくも苦々しいあの頃を見つめる「僕」の視点と捉えていいですかね。都会の灯りとは離れたところに影を落としていた、汚れた「僕」たちの青春も、川が流れ着いた海では、遥かなる「トンネルの先」では、眩い光を伴った海となって誰かを癒す存在になりうる、という自らの過去への救済であり、同時に物語を伝承していく「詩人たち」への賛歌と受け取ってよいのではないでしょうか。ちょっと又吉直樹『火花』が浮かびました。

 

   日比谷公園の噴水が春の空気に虹をかけ

     「神は細部に宿る」って

    君は遠くにいる僕に言う 僕は泣く

 

ここで「僕」と「君」のどちらが「日比谷公園の噴水が春の空気に虹をかけ」ている「魔法のトンネルの先」にいるのか、ということが疑問ですが、「僕」にとって「君」が過去から現在に至るまでの精神的な支柱であったこと、そしてこれも逆算みたいな思考の飛躍なのですが、「君」は過去にとどまっている存在であることもなんとなく仄めかされているので、過去から「僕」に「君」が語りかけている描写でいいでしょう。「神は細部に宿る」という言葉も、絵描きである「君」らしいですね。「僕」が生み出すものには、意図しない領域にまで、「僕」が経験してきた痛みも歓びも血肉となって詰まっているんですね。人生に無駄な事なんてない、とかクサいこと言いやしませんけど、これほど力強い言葉で肯定されてしまったら、そりゃ感情を表に出さなず煙に巻いてきた「僕」も泣かざるを得ません。

 

      下北沢珉亭

  ご飯が炊かれ 麺が茹でられる永遠

  シェルター 出番を待つ若い詩人たちが

    リハーサル終えて出てくる

 

最後に、「魔法のトンネル」を抜けて、「僕」がこの歌を歌っている現代に帰ってきます。東京の片隅では、今日も当たり前のようにごはんが焚かれて、永遠に続くかのように麺が茹でられています。日々は続く、ご飯と一緒に。これは前作での『フクロウ』『シナモン(都市と家庭)』などで書かれていた、生活と食べることというテーマに通じているのではないでしょうか。小沢健二の詩を読むと、なぜかお腹がすくんですよね。東京に住んでいないので、「下北沢珉亭」という場所に対し、具体的なことは述べられないのですが、一度昔『とんねるずのみなさんのおかげでした』でそんな名前の中華屋さんを見た記憶がありました。「シェルター」というのは自分のような田舎者でもさすがに知っています。ライブハウスで出番を待つこれから物語の紡ぎ手となる「詩人たち」の日常も、そんな中華屋や噴水のある公園のある都市の影で、ひっそりと輝かしく続いていく。そう予感させ、綺麗に「僕」の過去の点が未来へと一本の光の線で繋がっていきます。

 

こうして順を追って読むとなかなかのものでしょう。拙いこんな読み手でもこれだけのことが読み折れるので、もっとセンシティブな性格の方はこの倍以上のことを読み解かれるのでしょう。骨が折れます。

アメリカ文学というモノに、造詣が深いわけではないのですが、このジャンルが今でも多くの人々の心のつかんで離さないのは、結局「自分」とは何なのか、という普遍的なテーマに行き当たるからだそうです(小沢健二がかつて在籍していたゼミの教授である柴田元幸が書いていたような)。 

あと、1人の人間が物語ることができるのは、せいぜい1つの物語でしかない、ということなのかもしれない、とふとそんなことを考えたりしました。村上春樹の小説ってそんな感じじゃないですか。

最後に一つ、なぜ今回、わざわざ小山田圭吾周辺の話や岡崎京子のことをを無視したかといえば、それはもう単に「アルペジオ」という曲が、とても小説的なのだけれど、この曲ほど一聴して今までのオザケンを知らなければよかった、と思うことはないからです。『ラブリー』も『ブギー・バック』も。なんなら小沢健二の「お」の字も知らないフラットな価値観の世代がパッと聴いてどう思うか。そんな現代のティーン(じゃなくてもいいけど)の感触を少しでも味わってみたかった。それだけなんですね。まあジェラシーです、若さへの。小沢さんは若いこと、青いことへのジェラシーってあるのかしら。

(そういえば、英語でレンブラント光線を「天使の階段」って言うんだったっけ。甘ったるい喩えだ)

歌詞に出てくるような固有名詞にとらわれなくても、この「文学」は若い人たちの心を掬ってくれるような気がします。

「詩人たち」に仄暗いトンネルの中をともすランプを授けてくれるはずです。

 

夢が夢なら

夢が夢なら

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 おしまい

ジェーン・ドゥの解体新書(野木亜紀子『アンナチュラル』第1~2話)

「名前」のない毒

み-こと【尊/命】

 1⃣⦅名⦆上代、神や人の呼び名の下に付けた敬称。「…のみこと」の形で使う。

 2⃣⦅代⦆二人称の人代名詞。

かい-ぼう【解剖】 

 ⦅名⦆スル

 1⃣生物体を切り開いて、内部の構造、あるいは病変・死因なども観察すること。腑分け。解体。

 2⃣物事を細かく分析し、その因果関係などを明確にすること。「事件をーする」「真理ー」

ふ-じょうり【不条理】 -デウリ

 ⦅名・形動⦆

 1⃣筋道が通らないこと。道理が合わないこと。また、そのさま。「ーな話」

 2⃣⇨実存主義の用語。人生に何の意義も見いだせない人間存在の絶望的状況。

  ⇨カミュの不条理の哲学によって知られる。

 ⇨ーえんげき【不条理演劇】 *1

世の中には、言霊というものがあるらしい。

自分は世間一般の中では、信心深さとは比較的に無縁の人種(とりわけ日本という無宗教の社会において)で、融通無碍というべきか、罰当たりというべきなのか、クリスマスもお盆も平等に取り扱っている。そんな人間でも、過去にふと言ったことが、後々に尾ひれをつけ現れるような場面に立ち会おうと、言霊というヤツを思わず信じてしまいそうにはなる。何かをふと思いついて口にしたことが、様々な意志を身に纏って、実体化してしまうような感覚は、誰しもが感じることではないのだろうか。

悪魔祓い、という仕事もそんな言霊とやらを武器にしているようだ。(映画『プリ―スト 悪魔を葬る者』なんかは近年豊作な韓国映画の中で埋もれた良作なので、参考になるはずだが、)悪魔を祓う際に必要とされるのは「名前」である。悪霊は姿どころか「名前」も知られずに、現実に融けこみ、悪行を働こうとする。そのため悪魔は『名前』が知られることひどく嫌う。知られていない、ということは大いなる力になりうる。つまりは「名前」を知られることは、己のアイデンティティの根源を解明されてしまうことなのだ。悪魔からすればたまったもんじゃない。商売あがったりである。彼らは、人間が定義できる善悪を超越し、静かに息をひそめ、真に「名前」を知られることもなく、執拗に牙をむく機会を窺う。狡猾なのかもしれないが、これは権力を維持するためには実に合理的で、正しい。

(どちらも齧った程度なのだが、『Fate/Grand Order』でも『血界戦線』でも、自分の真名を知られることは服従権や封印に関わることで、自ら明かすことはあまり為されていない。諱を知られてしまえば、過去のアーカイブからすべてを検索できてしまう)

小沢健二いわく、人に見られたい権力者はアマチュアだそうだ。知られていないことで、彼らはバリアーを張っているのかもしれない。僕らが雨の中で傘をさすように。

ともあれ、モノにはすべて「名前」がある。悪魔ですら、持っているのだ。

そもそも、人という生き物は、モノに「名前」を付けることで、一目見ただけだと、不可解で不条理な現象を理解し、知恵として取り込み、生活を築きあげてきた。モノに「名前」をつけて認識することはヒトしかやらない。他の動物では、数種類のカテゴライズで済むものを、「名前」で選り分け、複雑な分解能を手にしてきた(だからといって、人間の方が理知的で優れた生き物だ、ということではない)。誰もが一度は幼い頃に見聞きしたはずであろう、ヘレン・ケラーの逸話がいい例だ。目も見えず、耳も聞こえなかった彼女にとって、我々が日常で何気に目にするありとあらゆるすべては、恐怖の対象にすらなっただろう。そんな彼女が、身の回りのことを自分の感覚として理解するための第一ステップは、「名前」がある、ということを知ることだったはずなのだ。そうすることで不思議と不安を排除て、初めて己の知覚で感じよう、としただろう。人間のすべての思考のはじまりは「名前」をつけるところにあるともいえる。逆に言えば、「名前」を知ることは、その事象の芯を知ることに等しいことなのかもしれない。

何も持たずに産み落とされた赤ん坊も「名前」を授かることで、この世に生きるための秘密のカギを得る。「名前」を持つということは、歴史を持つことでもあり、それがある限りは人格・性格からありとあらゆる名声まで、すべてをその「名前」に封じ込められている。だから、その「名前」に則り生きることは、ある意味では堅苦しく窮屈で偏狭に見えるが、非常に簡潔で美しい。

こういうことを考えていると、自分を囲むものが、まるで不可視の巨人によって組み立てられた、幻想のパズルのように思えてくる。

人は死を恐れているのではなく、死に辿り着く生の過程を恐れているのであって、死した後に「名前」を忘却されることを恐れているのではないか、と思うのだがどうだろう。灰になろうが、土の下に埋められようが、骨になろうが、死して消えるのは存在ではなく、それまでに記されていた「名前」だ。だから、ご丁寧に墓石に彫ってまでこの世にしがみつこうとする。神さまの長い目で見れば、ごく一瞬の束の間に過ぎない私たちの世界においては、「名前」で認識する分解能の生物にとっては、これはごくごく自然な感情だ。

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アーカイブからの解体新書

監督・野木亜紀子×主演・石原さとみ×演出・塚原あゆ子、という盤石の布陣で届けられるのは、2018年1月から始まったTBSの冬ドラマ『アンナチュラル』だ。

シン・ゴジラ』のときもだったが、どうも石原さとみがキャストに載っていると、少し期待値が下がってしまう。もちろん、バラエティ番組等で見る、石原さとみという女優のパーソナルは好ましいもので、決して個人が嫌いなわけではないのだが、未だに『てるてる家族』のイメージが強かったり、CMで見せる演技が安っぽく見えたりして、どうも食指が伸びにくい。

しかし、各作品でムラこそあるが、『アイアムアヒーロー』『掟上今日子の備忘録』という2本の満足度の高さから、野木亜紀子という人には一定の信頼を寄せていて、優れた実写化請負人スペシャリスト書き手という認識なので、そんな女史が原作ものではなく、法医学モノという難易度高めのジャンルでオリジナル作品を書いたということで、「おおっ!」と驚いた。

SAKEROCKや『ばかのうた』時代からの、非常に面倒くさいタイプの星野源のファンであるがために、『逃げ恥』をしっかり見れていない…………野木先生、お許しください!とか、チャージマン研っぽいことをほざきながら、見始めた期待値微妙の『アンナチュラル』、これが滅法面白かった。

(そういえば、確か月9の枠で、瑛太が主演で『ヴォイス』という法医学性のドラマをやってたけど、アレにも石原さとみが出ていたな。アレはいまいちだった。全話見たけど)

死因不明社会―Aiが拓く新しい医療 (ブルーバックス)

死因不明社会―Aiが拓く新しい医療 (ブルーバックス)

 

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これまでの日本のドラマ史が築き上げてきた知恵を結集したかのような内容である。このクオリティが毎週続いたら、驚異的な筆力と称えざるを得ないし、1・2話だけでも傑作ドラマに位置づけることが可能なほどに、高密度&高水準なドラマに仕上がっており、めちゃくちゃすごいことをしているのに、ギミックに溺れていないさりげなさも野木亜紀子という脚本家のキャリアハイを裏付けているはずだ。

舞台は、神倉保夫(松重豊)が所長を務める、UDI(=Unnatural Death Investigation Laboratory)という設立して間もない死因究明に特化としたラボ。主人公の三澄ミコト(石原さとみ)は、ここに所属する法医解剖医で、彼女が率いる三澄班には、臨床検査技師の東海林夕子(市川実日子)と、バイト医大生で記録員の久部六郎(窪田正孝)。ミコトの率いる班とは別に、中堂系(井浦新)がリーダーの中堂班が存在し、常時不機嫌な彼のもとには坂本誠(飯尾和樹)という臨床技師が常に戦々恐々。1話完結のスタイルで、この5人が主体となって様々な死因を究明し、未来の誰かを救命していく。

先進国で最低の解剖率を誇るらしい日本で死因がいかに究明されていないかを問う試みは、海堂尊の一連の書籍や『死因不明社会』等で行われているのを度々見かけていたので、テーマ自体の目新しさはないのだが、いくつかのフレッシュなアプローチによって、実に生き生きとした法医学ミステリに生まれ変わっている。

まず、このドラマ、根幹である「解剖」というモチーフ選びが秀逸。野木亜紀子さん、相当に熱心なドラマウォッチャーなのであろう。音楽において、サンプリングという言葉がある。ギターフレーズやドラムを過去の曲から抜き出し、新たな音楽へ移植する手法だ。『アンナチュラル』も実にサンプリング的で、様々な場面で半ば意図的に過去の国内外問わない作品群へのオマージュが盛り込まれている。火葬国家であることをネタに、『ウォーキングデッド』や「骨で全部分かればいいのに」と『ボーンズ』を持ち出したり、『科捜研の女』や『臨場』といったTBSとは他局であるテレ朝ネタも持ち出すほど。こういった小ネタだけでなくとも、UDIラボの面々や脇を固めるキャストたちのキャラ立ち及び配役の巧さは、ドラマフリークである野木亜紀子の意向を大いに汲んだ結果だろう。そもそも物語はいつだってで、古くからある物語を「解剖」し、見分することで、新たな生体へとつなぎ合わせてきたのだから、完全なオリジナルなどは存在しないのだが、ここで「解剖」というモチーフを持ち出したことで、完全に勝ちなのだ。

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名前のない悪魔への宣戦布告

「解剖=死」というテーマを真ん中に添えておきながら、決して重苦しさを失わずに、意地の悪い視聴者からは一歩間違えれば不謹慎と捉えられかねないくらいに、「食べること=生」に忠実。

1話の更衣室で始まる冒頭、響きがチャラいというところから、異性間交流会という名目の合コントークから裏テーマにある「名前」というキーを盛り込みつつ、ミコトが貪り食うのは朝から脂っこい天丼。法医解剖医という「死」が傍に控えた特殊な職種にありながら、彼女たちは普通に恋をして、普通に食事をする。どこまでもしぶとく「生」にしがみついてやろう、という野木さんによる高らかな開幕宣言だ。あんパンのくだりは、ちと出来過ぎていて、あざとい気もしたが、この作品の根幹に流れる「生」への執着が彼女たちをああいう風にさせたのなら致し方なし。あんパンを文字通り貪り食う石原さとみの所作はナチュラルで、「食べること=生きること」に気付かせてくれる。こんな豊かな表情を持った女優だったのか、という発見もあるが、おそらくこの「演技していない演技」感は塚原演出の賜物だろう。

集団自殺に見せかけた殺人がテーマの第2話でも「食べること」への執着は健在だ。むしろより執念のようなものが表層に出ている。あんパン同様、バナナをムシャムシャ(という擬音が様になる)食らうミコトの姿に加え、窮地に陥った際の

三澄「明日何食べよっか」

は、まるで開高健のような「食べること=生きること」への執念を感じさせた。事件が解決した後の

久部「三澄さんは、絶望とかしないのかな」

東海林「ミコトは絶望しないのかって言ってるよ」

三澄「絶望?絶望してる暇があったら、美味いもの食べて寝るかな。行こ!肉!

というやり取りなどは、もはや"宣言"を超えて"宣誓"といった趣すらある。人間の欲望やどす黒い感情が、ありとあらゆる形で迫りきたとしても、なお「生」しがみ続けるための一本木を立てる高らかな宣誓。この宣誓に運ぶために「名前」のない少女の、自分の命をかなぐり捨てでも、大切な誰かのために紙切れを飲み込んで、救おうとする、一見不合理だが、かすかな一本綱を頼りに「生」へのバトンを繋ごうとした終着へ感嘆した後のミコトの

「人間は、意外としぶとい」

という言葉も、ただの発話ではなく、彼女なりの「食べること=生きること」祈りなのだと思う。当初はダイイングメッセージだったものが、「生」の便りの綱になる、という作劇も

「法医学は未来のための医学」

というミコトのメッセージに結び付ける手腕も、これぞ野木亜紀子クオリティといった具合だ。拾われるはずになかった運命の屍を拾い上げ、未来を、生を、肯定していく。淡々と、日常を送りながら。

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そして、このドラマには「名前」というモノが裏テーマとして潜んでいる。長ったらしく滔々と語った前置きでも述べさせていただいたように、「名前」というモノは存在と同義にであると捉えることも可能である。「名前」を奪うことは、存在を個人から剥奪することに等しい。 『アンナチュラル』の三澄ミコトも、「名前」を子供の頃に本人の意図を無視して剥奪された主人公だ。それも「ろくでもないクソ親」によって。奇しくも、坂元裕二『anone』の主人公である辻沢ハリカも「名前」を奪われているのが、まあここには触れないでおこう。

1話は、『名前のない毒』と題づけられ、劇薬毒物を取り扱う部署にいる被害者の恋人に容疑がかかったかと思えば、二転三転し、被害者が海外へ出張していたことが浮かび上がり、MERSコロナウイルスであることが判明し、感染源を隠蔽しようとする病院、そして異国からウイルスを持ち込んだ被害者への不特定多数かつ不可視のバッシング、といった巨大な「名前のない毒」が立ちふさがる、というミクロ→マクロへの展開とテーマ回収は流麗だ。これらの事件の裏にいる大きな匿名の悪魔に対峙したときに、

三澄「協力すれば無敵だと思いませんか」
中堂「無敵。敵は何だ」
三澄「不条理な死」

と「不条理」という諱を読み上げ、宣戦布告を突きつける。

2話では、座間市の事件を彷彿とさせる集団練炭自殺(事件が発覚する以前に野木さんは脚本を書き上げていたそうなので、彼女の衝撃はさぞかしすごかっただろう)の中にあった凍死の死体から、もう一人の被害者が出てくる、という筋書きだが、そこには「三毛猫」と名乗る少女が、偶然出会ったもう一人の被害者を何とか救済しようとした魂を掬い上げるストーリー。集団自殺ではなくスーサイド・マーダーだ、と鋭く指摘したミコトの「名前」に対する反応も見逃せない。未来への紡ぎ手としてミコトと「三毛猫」が次第に重なっていく作劇はとても美しい。

「三毛猫」という少女の本当の「名前」は明かされることはないが、確かに彼女は存在して、その存在を無駄にはせず「生」に繋ぎとめようとするミコトの姿は、脚本家・野木亜紀子ともオーバーラップしているようにも見受けられたのだが、さすがに深読みだろうか。

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キャラの立たせ方と、見事にマッチしたキャスティングのツボの押さえ方も最高に効いている。一筋縄ではいかない性格と人懐っこさを兼ね備えた見事な人選。主役の石原さとみは現時点でキャリアハイなのは間違いなく、タイトルと裏腹に演技は滑らかでナチュラルだ。表情筋の使い方がすごく上手になった。じっと見つめる視線の中に、複雑な感情を織り交ぜる演技もこれまでになく新鮮だ。脇に佇む役者たちもイキイキしている。『シン・ゴジラ』のカヨコ&ヒロミにムズムズしたファンにはたまらない、生活感がハンパなく、斜め45度からのショットが美しい市川実日子。「チゲ」という言い方が無駄に可愛い、二重スパイ(やっぱりな!)のバイクが無駄に様になる医大生ネズミ窪田正孝。ニコニコしながらも策略家で腹の読めない、メシを食わない井之頭五郎ではなく松重豊。不機嫌キャラだがアッサリツンデレがばれる井浦新(『解体新書』を読んでいたのはギャグだったのだろうか)。おびえている姿が可愛げのあるので、もっといじめられてほしい飯尾和樹。クズが似合う池田鉄洋北村有起哉。胡散臭さマックスの葬儀屋キョウリュウレッド竜星涼

米津玄師の主題歌も今作の「泣かせ」要素に大いに貢献していて、『打上花火』に続いてタイアップ職人としての敏腕を発揮している。

物語自体は実にエモーショナルで、役者の演技(ゲスト出演で参加した我らが乃木坂46松村沙友理も普段のポンコツさからは予想を覆されるいい演技)も心に響くのに、当事者の深いトラウマを抱えた三澄マコトは実に淡々としている。

そして、それがいいのだ。

*1:大辞泉より引用

雑記4(ルイボスティーとかハイコンテクストな日本語とか)

ハーブティー20パックが100円程度で買える国なので、ここぞとばかりにルイボスティーを買い占め、毎日5パックペースで消費している。おかげで、肌の調子がすこぶるいい。

と、書きだし、なんだこの気色悪い始まりは、と筆を折ろうかと迷ったが、事実は事実なので致し方無し。誰も得をしない美肌化。まあもともとそんな肌とか荒れないんですが…………

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5カ月密着でその程度かよ、という気持ちはなくもなかったが、齋藤飛鳥というこの世に馴染むことができなかった天使が、乃木坂という場所で居心地よさそうに佇んでいる姿は、ただただ美しかった。大江健三郎中上健次伊藤計劃を手に取っている背伸び感もいじらしい。なんか背表紙がカッコイイというだけで三島由紀夫金閣寺』を選んだ中学二年生の自分のようだ。女の子が1人で何かをする、という光景も別段珍しくもなくなった中で、スレている感じも可愛い。そんな齋藤さんももう20歳なのだ。『乃木坂ってどこ?』時代から見ていて、最初から決して優遇されていたわけではない彼女が1人の魅力的な女性として、羽化していく様を見るのはなんだか切なく、これが親心または兄弟心か、などと気持ち悪いことを考えていたら、その日の夜に、延々と齋藤さんと瀬戸内海を臨んでドライブする夢を見たので、目覚めたことを激しく公開してしまった(気持ち悪ッ)。

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坂元裕二『anone』、完全に『カルテット』以降の系譜の作品に仕上がってて、思ってた以上にやり放題で、安心した。へヴィーなヤツを想定していたので。主題歌ないんだろうな、無いんだろうな、と思ってたら、本当になかったので、びっくりした。そして、ボロボロに泣いてしまった。あまりに報われない。瑛太が久しぶりに、つるんとした肌で出ていたので、この人こんな男前だったのか、と再確認。広瀬すず平手友梨奈さんが共鳴し合う世界線に思いを馳せる。

『アンナチュラル』が良くできた法医学ミステリで感心した。あまりのこの手のヤツは上手くいっているのを見たことがないだのが、オリジナル脚本でここまでやるとは、野木亜紀子は本物だ。あと『電影少女』もいい感じです。あれにも清水尋也くんが出ていますね。

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2018年の目標(どうせ3カ月もすれば忘れる)に、「読書量を全盛期に戻す」「アニメをもう少しちゃんと追う」という半端なモノを掲げたので、公約通りに『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』でリハビリを。『たまこラブストーリー』『ガールズ&パンツァー』『SHIROBAKO』 『聲の形』とこれまで確実な仕事ぶりを見せてきてくれた安心と信頼の吉田玲子先生だから、これ以降の展開には心配はしていないのですが、現段階だとちょっと引きが弱かったのかな、という印象は否めず。ただちょっと説明が多めになってたのも、それは京アニの作画力を信頼した上でのものなのかもしれない。というか、シンプルに絵の力だけでここまで見せられるというのは驚嘆するばかりだ。劇判もよく、ずっとドラマチックな感じかと思いきや、ヴァイオレットの感情に合わせ、音がフッと消えたりするので、上手いなと感心した。判断は保留したいところなのだが、自動手記人形のお姉さんの衣装が安っぽい方のセクシー方面だったので、アレは納得する説明を今後してほしい。そういえば山田尚子さんの『リズと青い鳥』もすごく待ちわびておりますよ。

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ポプテピピック』すごくお金がかかって、おもしろいことを真剣に最大ふざけながらやってる姿勢に、『おそ松さん』が辿り着けなかった境地を見た。ハチャメチャなパンクとしか形容できない、このアニメを語る語彙力のなさ。ただ、同じものを2回やる手口は第1話だけで良かったようにも思うのだが、もう少し見守ろうとは思う。「滑り芸」をどこまでやり通せるかが気になる。『恋は雨上がりのように』はもうOPから泣きそうになるくらい思い入れがある作品なので、シャツの匂いを嗅ぐシーンで胸が苦しくなりました。アレを「オッサンの妄想」みたいに貶す人の想像力のなさに愕然とする。理解されない恋心もあるし、そこには年齢も性差もないはずなのに馬鹿だよなあ、ああいう人。Aimerの曲が素晴らしく、編曲に玉井健二とクレジットされていて「やっぱり!!」とガッツポーズしてしまった。無性にTomato n'Pineが聴きたくなる。ことあるごとに聴き直しているが、未だにこのグループの『PS4U』を凌駕するポップアルバムに出会えていないのは正直なところだ。

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PS4U

PS4U

 

友人が「日本人の『ヤバい』という言葉の意味合いの広さには戸惑う。便利だけど」と笑いながら云うので、最近は「マジ卍」という言葉も生まれたことを教え、混乱している表情を見て、ニヤニヤする。そして「マジ卍」という言葉の意味合いから、日本語がいかにハイコンテクストか、みたいな話になり、そんなことで1時間ぐらい盛り上がった。感情を感情のまま言語化できている言語なんてほかいないのでは、みたいな話に行き着き、ピザの配達で中断。こんな白熱するとは。日本の都会のJK(といっても一部なんだろう実のところ)、恐るべし。

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最近はけやき坂の丹生明里さんの「いつもポツンと参考書片手にバスを待っている、自分だけが気になっているあの子」感がたまらなくツボです。いつか朝ドラに出そうな雰囲気がある。あと影山優佳さんが日々可愛くなられていて、困っております。握手会でお見かけしたときから、可憐さには一目置いていたのですが。

この前の紅白の欅坂について書いたブログの通りのことが起きたようで、平手友梨奈さんが全治一カ月の負傷をされたそうだ。

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こんな状態がいつ起きてもおかしくはないはずだったので、むしろ武道館に今回立てなかったことは不幸中の幸いだったように思う。もちろん、彼女たちが悔しい気持ちを抱いていることはわかっているのだが、もうずっとボロボロのまま、ステージにいつまで経てるかのチキンレース状態だったので、どこかで一区切りする必要があったのだ。ゆっくり休んで、万全のまま欅坂46平手友梨奈として新たにステージに立ってほしい。切なる一人のファンの願いである。前田敦子の二の舞はごめんだ。残酷ショーでしか、ポテンシャルを引き出せないと信じているような根性論信仰は彼女たちだけで終わらせて良かったのだ。ひらがなけやき坂は飛躍の年になるはずなので、必然的にとんでもない試練が訪れてしまった感じもする。でも、彼女たちならやれそうな確信もあるので、めちゃくちゃ応援したい。

 

今回の雑記はこの辺で。

 

おしまい