ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

学ぶという営みの美しさと難しさについて / NHKスペシャル 『ボクの自学ノート』

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https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2225660/index.html より(© 2019 NHK)

昨年は一時期フィクションをまったく受けつけずドキュメンタリーばかり見た時期があり、それ以降も年中面白そうなのがあれば録画して見ることが多かった。その中でもこのドキュメンタリーには特に強く胸を打たれた。「学ぶ(=研究)」という営為の尊さ、内なる世界の豊かさ、そして好きなことをして社会でやりくりすることの難しさ、学校という場の本来あるべき姿。様々なことをただただ考えさせられるばかりだった。

本作は、福岡の小倉に住む現在17歳になる梅田明日佳さんが10歳のときに学校の課題として出された「自学ノート」をその後7年間続けていった、その軌跡を彼の家族や周囲の大人(リリー・フランキーや福岡の文化施設学芸員)の証言と共に辿っていく構成となっている。

冒頭、まず、最初に梅田さんの部屋にあるノートの数に驚かされた。21冊。4カ月に1冊のペース。勝手に筆の早い人なのだろうという印象を抱いていたのでこの数字を意外に感じた。だが、ノートを開くと、そこにはたどたどしく(学芸員の証言にもあったが)も、1文字ずつ大地の感触を確かめるような確かさで綴られた文字の列が、人の何十倍も濃度の高い時間の層が1冊のノートに堆積していた。

小学校の課題として出された「自学ノート」。最初はただの宿題として手をつけていったつもりが、先生や時計屋の社長に見せて反応をもらうことで、自分の「学び」を共有する素朴な喜びに魅了されていき、次第に文章力や編集力を磨いていき「自分だけの世界」にハマりこんでいく様は、「学ぶ」という人間の営為の深さについて考えさせられる。このドキュメンタリーの作り手や視聴者同様、梅田さんの「学び」に対する真摯な姿勢に(戸惑いつつも)感銘を受けた周囲の大人たち*1のエピソードも素敵で、彼の積極性や「学び」を通して繋がっていく交流の純粋さは、多くの示唆と問いを投げかける。

 

中盤以降雲行きが怪しくなり、次第にまた別のものが透けて見えてくる(ここから学校生活にある程度のトラウマがある人にはかなりキツイ内容になってくる)。それは豊かな「自分だけの世界」の外にある「本物の世界」であり、社会と呼ばれる場所であり、12~18歳の少年にとっては(誰もが経験したはずの)学校という特殊な閉鎖空間だ。梅田さんは、部活動にも当然入らず、中学校になっても課題として求められていない「自学ノート」を書き続けていく。「普通」の学校生活から遠ざかることで失うものを自覚しながら、自分だけの青春を「自学ノート」に見出す梅田さんの背中は純粋で美しい*2。母親である洋子さんは、学校の教師に「コミュニケーション能力や積極性がないと社会ではやっていけない」といわれたことが今も引っかかっりつづけていて、胸中に残る苦悩をこぼす。

「明日佳みたいな子は昔もいたし、今もいるんですね。」

「その子が居場所がないっていったら、みんな今までその子たちはどうしてきたんだろう、とか色々やっぱり思ってしまって。」

「だから学校の言う"社会"ってのが、何なのかと思って。」

学校で教えるのは「勉強」だ。他人に強いて勉めることしか教えてくれない。そもそも学校とは「学習」を教える場ではないのか。学校で教わる勉強が役に立たないといいたいわけではない(実際にバカにはできない)。ただ、梅田さんのような本当の意味で「学ぶ」楽しさを知る人の受け皿はないくせに、部活に精を出すや忠実に課題をこなす生徒のみが奨励され同調圧力で豊かな内なる世界を潰そうとする今の学校システムに洋子さんと同じように強く疑問を感じたのはたしかだ。

ただ、そんな社会の狭量さにも一筋の光を差すように、うまく話せない自分をもどかしく感じないかというスタッフの質問に対して

「ものすごく(もどかしく感じることが)あるから、ノートを書いているんです。」

と答える、明日佳さんの瞳はひたすらひたむきでまっすぐである。

母親の洋子さんも

「(自学ノートの中は)楽しいことばかりですから

とつらくなったときに「自学ノート」に励まされたことを嬉しそうに振り返る。

将来を迷いながらも真摯でありつづける梅田さんの「学び」への姿勢と、彼の活躍を見続けてきた大人たちが明るい光のように、ほのかに輝いていて、ただただ自分の「学び」の足りなさについて猛省しきりであった。

 

最後に、リリー・フランキーなど子供ノンフィクション大賞の審査員たちとの温かい交流と、母親である洋子さんがこれまでの苦悩と未来への期待を語ったインタビューのリンクを張らせていただいて、締めとさせていただきます。

www.nhk.or.jp

www.nhk.or.jp

<あとがき>

インタビューに登場した漫画ミュージアム元受付の吉田有輝子さんのメーテルコスプレが超絶綺麗な方だったので、思わず検索かけてしまいました。

*1:中学生になっても自学ノートを綴る息子の成果を見てもらうために様々な文化施設に飛び込むお母さんのエピソード含めて美しいと思う

*2:ここの学校の中で浮いてしまった存在である自分を俯瞰的に分析した梅田さんの文章あたりで涙が止まらなくなってしまった

『パラサイト 半地下の家族』 (ネタバレしてませんよ編)


第72回カンヌ国際映画祭で最高賞!『パラサイト 半地下の家族』予告編

とにかく観て.......ただそれだけ

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元旦、することがなく、暇を持て余し、最初はスター・ウォーズでも見ようとシネコンに入ると、ちょうど特別上映がやっていた。ので、「ラッキーじゃん」とそのまま観賞。

 

もともと『グエムル』も『スノーピアサー』も大好きだし、現役監督の中で「作家性」という言葉がこれほど似合う人も他にいないであろうポン・ジュノ監督最新作(情報に疎い自分でもさすがに評判は耳に入っていた)ということであれば、否が応でもハードルが上がり期待するわけだが、いざ幕が開くと開始数分の怒涛のおもしろさにノックアウトし、自分の考えがいかに生ぬるかったかがよーくわかった。浅薄な期待(物語に対する渇望)を裏切り、裏切り、裏切りつづけ、とんでもない地点へと連れていってもらった。これまでに味わったことのない類の幸せな(これは自分のにおいを気にしながら劇場をあとにしているときのいやな後味を考えればあまりに不釣り合いな言葉だろう)映画体験ができた。映画とはこうでなくてはならないのか、こんなに面白くないといけないのか、という堂々たる映画っぷりをまざまざと見せつけられた。映画という芸術が緩慢に、しかし確実に死にかけている時代に、「映画にはまだできることがたくさんある!」という可能性を示してくれる『パラサイト』とは恐ろしくもとても心強くたのもしい。本当に素晴らしかった。

 

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たのしそう

 

しかし、阿呆のごとく「おもろいおもろい」といい続けてもおもろさが伝わらない。ので、自分なりにその「おもろさ」を3つの項目に分けて書いてみようと思う。本音をいえばめっちゃ内容に踏み込んで書きたいのだが、ポン・ジュノ監督にお願いされちゃったので、もちろんネタバレは控えさせていただく。鮮度が命なのです。

 

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「うわっ....私の年収低すぎ?」ではない

1.現代的かつ普遍的なテーマ性にジャンル映画の娯楽性を組み合わせた意外性の勝利

映画は、特に、「現代」を描いたものであるべきだ。それが、たとえ過去未来現在いつの時代を舞台にしたものであったとしても。本作が取り上げるのは、近年では『万引き家族』や『ジョーカー』、『バーニング』でも扱われてきた、資本主義が生み出した格差や貧困、というまさしく「現代」を撮るなら避けては通れないもので、主人公のキム一家はこうした社会から分断された人々だ(もちろんこれまでも映画ではそういった格差が描かれたものはたくさんあるので「これこそ今のトレンドだ!」とはいわない)。このような軽々しくは扱えないテーマを取りあげる際、さまざまなアプローチが用いられてきた。たとえば、『万引き家族』なら、社会からはじかれ隠されてきた片隅の「家族」と観客の目線を合わせるよう寄り添っていくような撮影を用いることで、従来の「家族」という言葉が縛りにとらわれない普遍的な共同体として主人公一家を描いている。一方、『ジョーカー』は劣悪な社会保障制度から始まっていく負のスパイラルをデフォルメして描くことで、社会への風刺をより強めた調子に仕上げている。

では、『パラサイト』はといえば、終始劇場から笑いがくすくす漏れる、めちゃくちゃおもしろおかしく笑える、時には倫理観スレスレのユーモアの利いたブラックコメディで全体のトーンをまとめ、途中で一変(これ以上具体的なことは書けない)して『ドント・ブリーズ』を彷彿とするスリリングなサスペンスホラーに様変わりし、予想だにしない展開で観客を翻弄しくすぐりつづけた先にドスンと胃が重たくなる仕掛けが用意されている、という至れり尽くせりな大衆性と娯楽性をしっかり兼ね備えたエンターテイメントに仕上がっている*1。重たく描かれることが要される主題から逃げずに真っ正面から取り組みながら、コメディ、ホラー、サスペンスといったエンターテインメント性もしっかり担保されている、全方面的にやりきったとても偉い作品なのである。あまりに偉すぎて、映画という芸術形式のハードルがまたひとつグンッと上がってしまった。とんでもないことをしてくれたものだ。

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この妹が非常にいいキャラしてました

2.限られた小さなシチュエーションを隅々まで駆使した空間設計、「高さ」を活かした映画的な表現・演出力の巧みさ―階段、雨、重力

 ポン・ジュノ監督の前作『オクジャ/okja』が移動が多く規模の大きな作品だったのと比べれば、『パラサイト』はスケールダウンし、基本的には「半地下」と「地上」の2つのシチュエーションで進行していく。上手くやらないとかなり地味に、ヘタにやると視覚的に退屈してしまうところだが、ポン・ジュノ監督の手にかかればただの一軒家もスリリングなミステリ空間として成立してしまう。上る・下る、潜るといった「高さ」が変わるごとに幾重にも意味(社会的な地位もその場の優位性も含んでいる)を孕んでいき、徹底的にこだわり構築された空間がストーリーを展開させていく手腕は流麗で隙がない(奇しくも同時期に公開された『ジョーカー』でも階段が非常に重大な意味を持つ場所として登場したが、本作でも同様に非常に胃が痛くなるような場面で登場することになる)。

この「高さ」が表すもの、それはそのまま今の社会に潜み確実にそこにある格差に直結するわけだが、こうした「高さ」をより生々しく体感させるものの1つとして、雨や水がとても象徴的に使われている。ここはポン・ジュノ監督のことばをそのまま引用した方が早いので、毎日新聞のインタビューから引用させていただく。

「底辺」や「どん底」という状態は、まさに雨や水で象徴的に表すことができると考えます。雨や水は高いところから低いところへ降ったり流れたりするもので、その逆はない。

監督が述べている通り、印象的な場面で雨が降り注いでいく。それには浄化の意味があるわけでも、涙の比喩でもなく、上から下へ水が流れ着いた先の悲惨な現実を映し出す装置として、あるいは主人公キム一家にまとわりつく「重力」を表す装置として機能している。ありとあらゆる場面で、しつこいくらいまでに「高さ」を感じさせることで、観客はいつの間にか体感的に「半地下」と「地上」の間に立ち阻む巨大で果てしない断絶の壁が見えるようになってくる。実に見事な手際の良さだ。技巧的でありながら、わざとらしさ、いやらしさがなく、ただただ巧さに感服してしまった。

 

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3.コミカルからシリアスまで、場面場面で瞬時に切り替わり惑わすソン・ガンホの演技

これはもう現物を見ていただくしかない。ソン・ガンホの演技を見に行くだけでもお釣りが来るほどの価値がある。

一家の大黒柱でありながら気弱でどこか間の抜けた(全体としては影が薄く引いた演技が多い)ソン・ガンホが後半のある事実が発覚してから見せる、次々に変わる精神の動揺を表情の変貌が白眉なのだが、当然映画の内容に踏み込んでしまうので「ネタバレしてますよ編」まで持ち越し。

 

 

...とおおまかなポイントをさらってみたが、ほんの表層にしか触れていない。

ので、とにかく、未見の方は今すぐ見に行かれるべし、だ。

 

<引用元リンク>

https://mainichi.jp/articles/20200107/dde/012/200/013000c

 

<あとがき>

A24制作の『フェアウェル』が予告編が公開された当初から気になっていたのだけれど、一向に日本で公開される気配がないのが気がかり。

*1:本作には”ある結末”が用意されているがこれを「希望のある終わり方」として見られる人は相当幸せな人であろう

マイケル・ジャクソン症候群に陥らないために 星野源『そして生活はつづく』→『おげんさんといっしょ』

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「あなた」と「わたし」でひとつにはなれない

kuro-matsu2023.hatenadiary.jp

(星野源『アイデア』についての稿で書き損じてたところを補う形での追記のような文章になります)

 ひとりの集合体で集団や組織は形成される。どんなに結束力の強い手段でも、顔も、声も、考え方ひとつとっても全部違う。(中略)どんなに愛し合ってる男女も、ひとつになることは決してできない。どう頑張っても「ふたつ」もしくは「ふたり」だ。

 本当に優秀な集団というのは、おそらく「ひとつでいることを持続させることができる」人たちよりも、「全員が違うことを考えながら持続できる」人たちのことを言うんじゃないだろうか。

星野源『そして生活はつづく(文春文庫)』内「ひとりはつづく」より抜粋)

アーティストが肉声を絞り綴った回顧録であり、一曲でEPはおろかベストアルバムくらいの分量の情報を処理しきった、Jポップ史に残る(大袈裟でもなく)革新的な『アイデア』によって、星野源が以前から画策していたであろう歌謡界の碑石に名を刻む目論見は成功した。前回の稿にも記したように、彼は名実ともに、新たな日本歌謡界の新しい父親・母親になったわけである。

ただ、『アイデア』だけでは欠けているところがあったのではないか、と想像する。この曲を出すだけでは彼はまだ「ひとり」のままなのであって、ソロのツアーやフェスとは違う、もっと手軽なところで爆発的に広く音楽を共有する場が必要であった。彼が好きだったラジオでは、ラジペディアに続いて、不定期の放送を経てオールナイトニッポンのレギュラーの座を得たが、ラジオはあくまでニッチ(もちろんそれがいいのだけれども)なメディアである。


星野源 - SUN【MV & Trailer】

ここからはよりわたしの空想が混じることになるが、星野源は「ひと」があつまっても「ひとつ」にはなれない、という諦観と共に、「ひとり」であることに対し、奥底で恐怖を抱いていたはずである。というのも、彼はマイケル・ジャクソンを敬愛していることを度々公言し、頻繁にMJのエッセンスを自分の楽曲群に忍ばせてきたが、自身がスター街道をつっぱしていくにつれ、「マイケル・ジャクソン症候群*1」に陥るかもしれない酷く恐れていたはずなのだ*2

そして生活はつづく (文春文庫)

そして生活はつづく (文春文庫)

 

上にも引用した『そして生活はつづく』に、幼少から慕ってきたスターの訃報に触れ、このようなことを書いている。

 「うわーひとりじゃなかった」と思う日が、来たりするのだろうか。

 (中略)

 今日、マイケル・ジャクソンが亡くなった。

 そのことを知ったときに異常にショックを受けてしまい、有名人の死で初めて涙が出た。なぜそこまで好きだったのかというと、もちろん歌や踊りが素晴らしいという部分もあるけど、あんなにたくさんの人から愛されているのにもかかわらず、生涯を通して、とても孤独そうな人だったからだ。

 死ぬ間際、彼はひとりだったのだろうか。それとも、そうではないと感じながら逝けたのだろうか。小さい頃から、埼玉県の片田舎で勝手にシンパシーを感じていた私は、そこが気になって仕方がない。

 あと少しで死んでしまうというとき、走馬灯のように人生を振り返って「ああ、ひとりじゃなかったんだ」と思えたら、きっとすごく幸せなんだろう。けどもし自分がひとりでないなら、なるべく早めに気づきたいとも思う。

 いつかくるかもしれないし、死ぬまでこないかもしれないその日まで、私はいつものようにひとりきりでいるだろう。

あのテレビで「どぉもぉ~ほぉしのげんでぇぇぇすぅ!」と手をパーに広げフリフリしているお姿とはとても被りそうにない、なんとも寂しい文章であるが、まあこれは2018年から約10年ほど昔に書かれた文章だし、『ばかのうた』も発売されていない頃であるから、当然といえば当然である。自分が「ひとりじゃなかった」と今わの際に思うために、彼は暗い自分とは真逆のアクションを起こして自分の殻を破っていった。とてもわたしにはマネできそうにない*3

しかし、それだけではまだ足りない。足りないから、音楽を作るための装置としてのバンドとはまた異なる新たな「家族」をこしらえなくてはならなかったのだと思う。

www4.nhk.or.jp

そしてようやく『おげんさんといっしょ』。SNS上でもとんでもない盛り上がりを見せ、紅白歌合戦よりも瞬間最高視聴率を取ってたのではないだろうか*4

彼にとっては気心の知れる友達程度の人々が、フラッとアットホームな雰囲気のスタジオに現れるコンセプトらしいが、メンツを見ると、まるで星野源が数十年前から日本のエンターテイメントの中心核にいたか(実際これからそうなっていきそうだが)のようである。2017年の放送には旧知の仲である細野晴臣が参加。ミュージカル界から高畑充希。ラジオで「この人は地代が違えば『笑っていいとも』でレギュラーにいた人」とまでベタ褒めした宮野真守には、以前から星野源お気に入りの「雅マモル」なるキャラクターで視聴者を沸かせた*5。ラジオでも取り上げていた庭師の三浦大知は、MVでのコラボの延長で、ミニマルな空間でのダンスパフォーマンスを披露。少ないカメラの動きにより、シンプルな踊りという表現の魅力が伝わる実によくできたプロモーションであった。

ナンダカンダ

ナンダカンダ

  • 藤井 隆
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

何よりも、最高だったのが『逃げ恥』からの縁でANN*6でも共演していた藤井隆による『ナンダカンダ』*7。おそらくは星野源もそうだっただろうが、めちゃイケ世代(またはあらびき団ファン)としては、藤井隆がテレビであの瞳孔が開き切った所謂「ゾーン」に入った状態をフルで地上波のゴールデンタイムで見せられていないということに若干の不満があった*8。いくら、tofubeatsコラボによって改めて彼の潜在能力の高さを再確認したとはいっても、それは音楽に親しんでいる人々の間で起こったムーヴメントであって、まだまだ足りていない。あの『春琴抄』のようなサイコっぷり*9を地上波で目にかかりたい…そんなわたしのような人間の願いが叶ったかのような藤井隆・オンステージで思わず拍手してしまったのだ。夢のようにキラキラした時間でした*10

最後の『アイデア』も、MVでの場面転換をどう表現するか、非常に気になるところだったが、実にクレバーで改めて今作が集大成であり野心作であることを知らしめられた。いくらでも遊び甲斐のある良いおもちゃを手にしたんじゃないでしょうか、星野さん。

初回もかなり実験的な番組で楽しませてもらったが、第2回はよりパワーアップし、各演者の長所を存分に引き出した、実に素晴らしい構成でした。

www.youtube.com

巷では『友だち幻想』という本が話題となっているらしく(自分も拝読させていただきました)、広く読み直されている機会を得たようである。SNS疲れという言葉も目にすることもしばしばで、「ひとつ」になることへの抵抗が可視化されてきているのだろう。そういった「ひとり」であることへの漠然とした不安感を星野源はうまい具合に察知しすくいあげている気がする。決してノスタルジックな「あの頃は良かった」という手垢のついたテレビバラエティの手法にのめりこむことなく、自分があくまでコンポーザーとして茶の間の中心にちょこんと居座り、テレビの前の「ひとり」を窮屈な幻想から解き放つ本物のテレビマジックは、きっと「ひとり」でああった画面の中のマイケル・ジャクソンに焦がれてきた、根っからのテレビっ子であった彼が一番やりたかったことなのであろう。元・テレビっ子のわたしは、そんな姿が見れて純粋にうれしいのである。

全員が違うことを考えていても、許容されるのが「家族」なのである。

『おげんさん』といっしょに、わたしたちの生活もつづいていく。

追記

星野源がモロにテクノをやってる楽曲とかあまりなかったな、とか思ったけど、彼が数少ないフィーチャリングで歌唱した宮内優里『読書』があった。


宮内優里 / 読書 (feat. 星野源)

あと第三弾以降の『おげんさん』、是非ともtofubeats氏には出てほしいし、ハマケンとの共演とか向井秀徳とかでもいいし、男率高いからPerfumeなんか最適ではないでしょうか。山下達郎NHKのあの時間帯に引っ張り出せたら大したもんだと思います。


tofubeats - ディスコの神様 feat.藤井隆(official MV)

<おしまい>

*1:急場でこしらえた造語です

*2:そもそも今でこそ「ニセ明」という名前で通っている、あの出オチ感の強いキャラクターも「ホシケルジャクソン」という、これまた出オチ感がプンプン漂う名前がついていたと記憶している

*3:だからってサブカル女子や「人見知り」をぶった斬っていいかというとそうじゃないとわたしは思いますよ。ハイ。

*4:星野源の女装がそこら辺の女性よりかわいくて困る。あんな人いるよね

*5:際どいデニム短パンでアイドルダンスを踊る宮野真守の横で小刻みにステップを踏む星野源長岡亮介の息が妙に合っていて、悔しいがくすくす笑ってしまった

*6:カラオケ企画、超好き

*7:タマフルリスナー・スーパースケベタイムの名を思い出さずにはいられない

*8:養命酒のCM、ホント最高っす

*9:動画サイトで検索したら多分ある

*10:ブンブン髪を振り回して完全にモードに入った藤井隆の呼吸に、瞬時に合わせて即興ミュージカルを展開させた鍵盤ハーモニカの石橋英子、やっぱりすごかった。前野健太『サクラ』も素敵なアルバムでした

蘇える変態は喪服でダンスを踊る 星野源『アイデア』

「おはよう」と「さよなら」、そして日常はつづく

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「ラテン文化*1の流れそのものが、レンゲの花のようなもので、私にわかりますのは日本的情緒―たとえばスミレの花のようなものだけなのです」と岡は言う。

レンゲとスミレの優劣を云々するのではない。レンゲにはレンゲの咲き方があり、スミレにはスミレの佇まいがある。ただスミレになるべき種子は、ただスミレとして目一杯咲くよりほかないのである。

岡潔・森田真生編 『数学する人生』内の「新しい自愛の読者に宛てて 《森田真生》」より引用)*2

そして生活はつづく (文春文庫)

そして生活はつづく (文春文庫)

 
いのちの車窓から

いのちの車窓から

 
蘇える変態

蘇える変態

 
働く男

働く男

 

 

星野源という男は、なんとも腹が立つ男である。

全身からチャームが発光し、今となってはキラキラしすぎて実像なんか見えてないんじゃないかと訝るほどである。

 

はじめて彼の歌を聴いたのは、ちょうど『ばかのうた』がリリースされたころ。それまでもちらちらSAKEROCKというバンド名は目にして音源も耳にしていたが、しっかりと聴いてはこなかった。ただ「えらい自虐的なタイトルやな」と手に取ってみると、これがまたなんとも暗い。

 いつかなにも 覚えていなくなるように

 今の気持ちも 忘れてしまうのかな きっと

 腐った身体だけを残して

 (『キッチン』より)

ヴィレヴァン*3でやたら取り上げられているとだけあって、なんとも文化系女子好みしそうな歌声とヴィジュアル。普通なら「こういうサブカルっぽいがウケたのね」で流してしまうところだが、しかしとてつもなく心惹かれる仄暗さ(記憶がずれているかもですが、ここらへんからバナナムーンGOLDの日村さんの誕生日企画が始まっていってたような)。

つづく『エピソード』は、『ばかのうた』の細野晴臣ソロのような歌唱から、後々彼が明言するようになったディアンジェロっぽい黒さを和風に折衷した聴き馴染みの良いポップスに仕上がっており、これにもまたやられ繰り返し聴いた。

 枯れてゆくまで 息切れるまで

 鼓動止まるまで 続けこの汗

 我は行くまで 幕降りるまで

 繰り返すまで ゆらゆらゆら

 (『湯気』より)

いってらっしゃいが 今日も言えなかったな

 帰ってこなかったら どうしよう 

 おはようが 今日も言えなかったから

 おかえりなさいは いつもの二倍よ

 (『布団』より)

決して歌がうまいとは言えないが、切実で、吐き出すような弾き語りに乗せたこうした言葉は、当時浮き沈みの激しかったわたしの心に寄り添ってくれるような気がして、当時iPodでのアルバムの再生回数は3ケタに届く勢いだった。はっぴいえんどナンバガ、と通ってきた人間にはこんなに恰好の音楽はなかったわけである。

ここからじわじわと人気が出始め、露出も増え始める。元々自身曰く「ワーカホリック」であったそうだから、雑誌の連載に役社業に、音楽活動とてんてこ舞いの日々であっただろう*4し、時間は前後するが化粧品のタイアップもこなしているので心労はただならぬものであったはず。そんな中での『Stranger』は全2作から考えれば狂気の沙汰しか思えないポップへの執念に全身から溺れるようで、一曲目である『化物』をタワーレコードで視聴した際はぞわりと鳥肌が皮膚に走ったのを今でも生々しく覚えている。

 今はこの声は届かず 未だ叶わぬ体中がもがく

 思い描くものになりたいと願えば

 地獄の底から次の僕が這いあがるぜ

 (『化物』より)

 夢の外へ連れてって 頭の中から世界へ

 見下ろす町を 歩きだせ

 (『夢の外へ』より) 

 どうせなら 嘘の話をしよう

 苦い結末でも笑いながら そう 作るものだろう

 どんなことも 消えない小さな痛みも

 雲の上で 笑って観られるように

 どうせなら作れ作れ

 目の前の景色を そうだろ

 (『フィルム』より)

 そして彼は『化物』を録り終えると、くも膜下出血で倒れるという歌詞になぞらえるような皮肉さえも感じるが、そこからは『蘇える変態』に書かれているような筆舌に尽くしがたいであろう苦難の闘病生活の末、世間の皆さんもご存知の復活劇を遂げる。夏帆との共演や園子温の映画(つまらない作品の多い中では比較的マシな部類であった同名タイトル作品)への出演と並行し、『地獄でなぜ悪い』『Crazy Crazy/桜の森』を発表。病床に臥して以降の彼の音楽性はおおよそここでがっしり地盤が固まっていっていったように思えるし、現実そうである。死の境界を本当に目の当たりにした人間だからこそ、ポップスとしての強度が築けたのだろう。表には出さないが、音楽の未来を背負っていこうという気負いがここからは尋常ではない。これまでも大量の音楽を摂取してきた彼だからこそ「ディアンジェロっぽさを目指してみました。てへ♡」なんて軽く舌を出してやってもまったく嫌味もなく、とにかく音楽に対し真摯で敬虔で謙虚。しかし、豪胆で遠慮がない。大衆向けにマニアックな部分をチューニングしていきながら、きちんとフェティッシュなところは残して、美味しさは損なわない。敬愛するクレイジーキャッツ桑田佳祐ユニコーンといった先達が持ち合わせてきた大衆性と遊び心も、この人はきちんと解している。『桜の森』の文学性なんかは実にエロティックな文学性が結構で、50年聴き継がれるようなクラシカルな装いが心憎い。ここ以降の彼の躍進が凄まじいのは、単にニッチなところに走らずきちんとJポップにしあげるだけでなく、時流もきちんと読んだ上で、思い浮かんだアイデアを試行錯誤し世間に向けて発信していく、提案するスタンスを常に保ってきたところが大きいのだろう。

 作りもので悪いか 目の前を染めて広がる

 動けない場所からいつか 明日を掴んで立つ

 (『地獄でなぜ悪い』より)

 お早う始めよう 一秒前は死んだ

 無常の世界で やりたいことはなんだ

 愛しいものは 雲の上さ

 意味も闇もない夢を見せて

 (『Crazy Crazy』より)

あの薄暗い居間でひっそり歌ってそうな弾き語りはどこへやら。さらりと方向転換に成功し、時流を捉えたポップソングスは瞬く間にヒット。もともと彼が兼ね備えていた人当たりの良さと、聴き馴染みのあるマイケル・ジャクソン系統のポップネスが炸裂する『SUN』はスマッシュヒット。まさか「ひ~む~ら近寄る~な~」というバナナマン日村への誕生日ソングが、こんなセンス抜群のディスコ歌謡に生まれ変わるとは予想できるはずもなく、ラジオリスナーは揃ってニタニタしていたと思う。自分もその一人だ。

 君の声を聞かせて

 雲を避け世界を照らすような

 君の声を聞かせて

 遠い所も 雨の中も

 すべては思い通り

 (『SUN』より)

しかし、この時期からわたしはこのヒットソングに現を抜かすと同時に、星野源という男に嫉妬心をぎらつあせるようになっていく。なんとこの男、売れだすとaikoから二階堂ふみの鞍替えしたのである。なんともふざけた話だ。恥を知れ恥を。信憑性とか内輪の事情とかどうでもいいけど、aikoのファンとしては見逃せぬ悪行。許すまじと憤怒したのも記憶に新しい(今は新垣結衣らしいじゃないですか、え?)。ここからわたしは星野源へのひねくれた歪んだ愛憎をたぎらせていくことになる(ひとり勝手に)。

というのも、近年は「人見知りであると宣言して始めるようなコミュニケーションは恥ずべきだ(だいぶ語弊のある書き方だが概ねこんな論旨だろう)」などと宣いやがっているのだ。あれだけサブカル女子(ヴィレヴァンに通ってそうな文科系女子)を露骨なくらいにターゲットにしていたのに。あんなに「いやいや、全然自分はモテてなんかいませんって」とかいってたじゃん。あなたあんだけ自虐とサブカル女子へのアピールで銭稼いで飯を食ってきたじゃない。仰ってること自体は身も蓋もない正論だが、「僕、ちょっとコミュ障なんすよね、えへへ」とはじまるコミュニケーションもあったっていいじゃないか。そもそもお前がそうなんじゃねえのか。「スタバで"グランデ"」と頼むだけで葛藤してはりましたやん。何もそんな真っ向から否定することないですやん。とここらで私は再び怒りをあらわにするのだが、ジェントルマンらしくは矛を収めておくとする。だって、いちどでなく二度も死にかけたお人の意見である。むげにできないもの。それがまた癪に障る。

そうやって腹を立て始めると「よく見たら全然カッコよくないもんね(でも、かわいいよ源ちゃん)」と複雑な感情になり、新垣結衣と共演という知らせをスマホで見たときは(特にガッキーに異性として惹かれたことはないのに)、本気でスマホを床に叩きつけるか思案した。テレビに出るといっちょまえにコメディアンのように振る舞ってるし、それがまたチャーミングでちょっと面白かったりするから、また「キーッ」と癇癪玉を暴発させ手元のハンカチを噛み締めることになる。こちらも中々か大変なのだよ。どうしてくれるのだ星野君。


星野源 - アイデア【Music Video】

 

と、一旦ここまでサゲたならもう当然のことながらあとは誉めまくらねばならない。誉めまくらないと多分どこかしらから怒られる。なので褒めちぎっていく。このまま未練たらしい女を演じるのもいやよあたし。本当は『恋』『Family Song』も振り返りたいが、変にサゲの方の筆が強まってしまったので、割愛させていただく(もうみんな散々聴いてるっしょ)。

まず、通して『アイデア』を一聴した感想は「なんてクレバーで味わい深い一曲なのか」というところ。出音でわくわくさせるというSAKEROCKの頃から一貫してきたあった推進力のある性急なビートに、『恋』『Family Song』『ドラえもん』というタイアップ職人としてのキャリアを生かしたパブリックイメージを逆手に取った複雑な構成。天下のNHK朝ドラ(『半分、青い』はつまんないけど)を自分の手品のトリックに使って見せる大胆さはもはや策士。.垢ぬけた「星野源印」という形容が通じそうな聞き覚えのある疾走感あふれるポップソングから一転、2番でSTUTSが奏でるビートと三浦大知の演出による踊り、という日本のエンターテイメントの最先端同士が聴覚と視覚で共鳴し交錯して、リリックもそれに合わせてフランク・オーシャンのように内省的になり、そのまま弾き語りに流れ込み、ブレイクを挟んで逆再生するような映像と優美なストリングスとが絡んで、うねりをあげてクライマックスのまま駆けていく。そのまま疾走感に乗せて、まんまと泣かされる。ずるい。

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ただ突拍子もないことをやるだけじゃなく、自身のディスコグラフィを統括した流れを6分ほどの楽曲・映像に詰め込む手腕には、肩に力が入っておらず微塵も暑苦しさを感じさせずクールだ。新しいところから、ミニマムあところへ落ち着くさまはダフト・パンク『RAM』のようであるが、今回は一曲でアレを成立させてしまっているので、数枚上手かもしれない。なんともすさまじい構成力(ドラムスがうちっこみっぽい音からラストでナマっぽい叩き方になっているのも実に結構)だ。映像があって初めて成立する、というのも昨今のポップスの潮流も大きく反映させながら、「虚構と現実とさらにその手前にある虚構」を提示してみせ、リスナーをクリエイションの奥深い森へ誘い込んでいく。しかし、これだけ複雑な入れ子構造でも、一曲としての求心力は少しも損なっていない。ハッキリ断言してしまうと、この新たに”提案”された『アイデア』はJポップを総括し、これから家事を取っていく星野源スタイルポップスの一つの到達点であるとみていい。毎回新作の度に「Jポップの基準・スタンダード」を上塗りしてきた男は一つも二つも違う。なによりも熱心なラジオヘビーリスナーであり、ピュアなミュージックフ・ファンであった男が、ここまで溢れんばかりのクリエイションへの愛情を恥ずかしげもなく漏らしているのは泣けるではないか。

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それに忘れてはならないのが、「湯気」「おはよう」「生活」「虚構」「ひとり/マイノリティ」「さよなら=死」といった上に挙げた歌詞にもひそめていた、星野源が頻繁に使用しているモチーフと生活へのやさしいまなざしがスパイスのようにちりばめられている、というところ。

 おはよう 世の中

 夢を連れて繰り返した 湯気には生活のメロディ

 独りで泣く声も 喉の下の叫び声も

 すべては笑われる景色

 つづく日々の道の先を 塞ぐ陰にアイデア

 雨の音で君と歌おう 音が止まる日まで

一度死にかけ復活するだけに飽き足らず、不死鳥の如く名前のとおりにスターとなった男・星野源が、もう一度自分の人生を回顧し、そしてまた通過儀礼として喪に服し、今度は自らまた生と死のはざまへ飛び込み、現実と虚構のまんなかで踊り狂い、聞き手の方へ手を差し伸べる。

エッセイ『働く男』でもフェイバリットに挙げていた『ブルース・ブラザーズ』のジョン・ベルーシダン・エイクロイドも、彼が影響を受けたイデビアン・クルーも、喪服を着て踊っているし、伊丹十三の好きな作品に『お葬式』を挙げるほどだから、決して彼が軽はずみに思いつきで「死の再現」をやっているのではないということは、聡いリスナーならとっくに承知済みであろう。あともっと古参のリスナーならば、一着しか持っていない喪服のスーツを着て、コンビニまで小踊りして買い出しに行っていた『そして生活はつづく』のエピソードなんかも思いだして、相好を崩すかもしれない*5。おふざけで死を演じてみせているわけではないのだ。

さて、公約通りここまで褒めちぎっておいてアレだが、やはり気に食わないところもあるのが正直なところ。今までは「いい曲だけど歌はそこまでだよね。味があるけど」とお茶を濁してこられた歌唱力も、きっと度重なるフェスやライヴ(休んでんの?)で鍛えられたのであろう、非常に高音域に伸びが出て『Family song』では、まるでアル・グリーンといえば大袈裟だが、聴いていて心地の良いソウルフルを醸し出しているのだ。なんともまたいけ好かないではないか。どうして可愛い上に色気まで兼ね備えちゃってんのよ。あざといよなあ。まったく。

 

星野源という才能は、チャーミングで複雑なゆえに、まったく癪に障るのである。

<『アイデア』を構築したであろうアイデアたち> 

アイデア

アイデア

  • provided courtesy of iTunes
DIVE!

DIVE!

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大迷惑 (シングル・ヴァージョン)

大迷惑 (シングル・ヴァージョン)

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Dear Theodosia (Reprise)

Dear Theodosia (Reprise)

  • チャンス・ザ・ラッパー & フランシス アンド ザ ライツ
  • ヒップホップ/ラップ
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Uptown Funk (feat. Bruno Mars)

Uptown Funk (feat. Bruno Mars)

  • マーク・ロンソン
  • ポップ
  • ¥250
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The Blues Brothers (1980) - Everybody Needs Somebody to Love Scene (6/9) | Movieclips


Aretha Franklin - Think (feat. The Blues Brothers) - 1080p Full HD

www.youtube.com


三浦大知 (Daichi Miura) / Cry & Fight -Music Video- from "BEST" (2018/3/7 ON SALE)


STUTS - Sail Away feat. Alfred Beach Sandal (BLACK FILE exclusive MV “NEIGHBORHOOD”)


SAKEROCK / Emerald Music [Music Video & Best Album Trailer] サケロック / エメラルドミュージック

 

<おしまい>

*1:西欧文化とそのまま置き換えていい

*2:文脈を無視して「岡潔」をむやみに引用してしまうのはかなり危ういのですが、最近読んだこの箇所と星野さんの掲げる「イエロー・ミュージック」という折衷案がバチッとはまったので、切り取って引用させてもらいました。自分もかなり岡潔先生に刺激を受けた人間なので広く読まれてほしいと思う一方、岡潔はあくまで岡潔でしかなく、彼の言葉を一言一句(小林秀雄との対談で神風礼賛してしまってるところとかはわたしでも普通にドン引いたし)現代にトレスし、すべてを鵜呑みに心酔すると、エライ目を見ることになるので、森田先生の手により上手く編纂された『数学する人生(新潮社)』を手に取っていただき、あとがきまでキチンと読まれることを推奨します。近年稀に見る名著です。決して名文家でもないですが、不器用な語りで芭蕉や情緒について「わかる」感覚を明文化しようとするさまには心打たれました。

*3:この前何年かぶりに入店しましたが、ずいぶん凡庸なお店になっていたな、となんか妙なガッカリ感を覚えてしまいました

*4:サカナクション山口一郎、べボべ小出祐介、そしてハマオカモト、という4人で「サケノサカナ」復活させてくんないかなあ

*5:あと葬式といえば同じく『そして生活はつづく』にあった、葬式に早く着きすぎて喪服のまま汗だくでカレーを食って、参列した葬式で人の目も憚らず寿司をバクバク食った後に、性感マッサージを受けさらにラーメンまで平らげたという、おそらくは皆川猿時であろう俳優のエピソードがおそろしく最低でくだらなさすぎて大好きです

西川美和『永い言い訳』

自分を大事に思ってくれる人を、簡単に手放しちゃいけない。

みくびったり、おとしめたりしちゃいけない。

そうしないと愛していい人が誰もいない人生になる。

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梅田のグランフロント大阪で本を立ち読み(は体質的にできないので、正しくはただ本を眺めて、ななめ読みする程度)をして検分していると、新刊書の案内が耳に入ってきた。この書店では、著者本人による自著のプロモーションが時折流れてくる。いま耳に入ってきたのはコラムニストのジェーン・スーさんの宣伝。「あなたは自分の父親の友人を3人挙げることができますか?」という問いかけから始まる、なかなか興味の惹かれる導入で、ついつい手に取っていた本を棚に戻してしまうほどだった。さすがである。そのあとは、自分が父親と折り合いがずっとつかなかったことなどが語られ、父親とのあれこれを振り返ったものをエッセイにしたためたのでぜひ手に取ってください、という言葉で締めくくられた。簡潔で実に購買意欲のそそられる文句であったので、つい開いてしまった。『戦中派の終点とブラスバンド』という目次に吸い寄せられそのまま会計してしまった。しかしまだ積読されたままだ。わたしのよくない癖である。ちなみに、わたしは自分の父親の友人は一人も並べることができない。

「永いお別れ」からまた「永い言い訳」がはじまっていく

永い言い訳

永い言い訳

 

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なかなかに辛辣な映画であった。しばらくずっと尾を引く。

冒頭、幸夫によるぬえの喩えから始まる。妻(深津絵里)に髪を切ってもらいながら、テレビで平家物語と併せた蘊蓄を披露する自分を見て、毒を吐く小説家の幸夫(本木雅弘)。鏡の中の夫婦の目線は互いを見ているようでよそよそしく、何気ない会話にも不穏な空気が漂う。くだを巻く夫を倦怠感のこもった妻の眼差しに気づかいているのか気付いていないのか。夫はしきりに不倫相手*1からの着信を気にしている。テレビで能書きを垂れる姿も、鏡で妻に髪を切ってもらう微笑ましいシーンも自分ではないのだ、という幸夫の矛盾に満ちた複雑(に見せかけた)な多面性を表した見事な導入。それにしても、幸福な夫と書いて「幸夫」とはなんとも皮肉である。出かけた妻が不慮の事故で亡くなろうが、彼は最初から幸福な夫でも何でもなかったのである*2

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このあとも、幸夫の周りには常にカメラがあり、テレビがあり、鏡がある。自分の少し伸びて乱れた髪がすぐ気になるし、ネットで自分のペンネームを使ったエゴサがやめられない。しかし、もともと家事なんてロクにやってこなかったので、妻がいなくなる血部屋もロクにまとまらない。虚構に映る知的で自己分析に長けた彼は、段々と本来の自己否定の激しく、自己中心的で軽薄な脆い人間性を妻の死によって暴かれていってしまう。精神的に追いつめられるとやつれ、子どもとの交流でふくふくと肌につやが出る、本木雅弘の自在な身体性には脱帽するばかり。派手ではないが、視覚的にちゃんと肉体と精神が同調しているのがわかる*3

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彼と対峙する人間も、彼の性格の写し鏡でメタファーとして現れ、村上春樹の『海辺のカフカ』の文句が頭に浮かぶ。面倒を見て行くかつての真平くん*4にしろ、自分の遺伝子への恐怖から子を残さなかった幸夫とは終始正反対な竹原ピストル*5にしろ、業界人のいやらしさを凝縮したようなテレビディレクターの戸次重幸にしろ、終始メタファーが付きまとい幸夫への辛辣な自問自答を問いかけている。

メタファーとしての役割を担わされていないが、池松壮亮のマネージャーの「子育ては漢にとっての免罪符に過ぎない」という一言も幸夫には手痛い。

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彼がようやく涙を流し、妻の死を現実として受け入れ、自分が見過ごしてきたことへの懺悔をした頃には、蜃気楼のように彼女の幻影は遠くへ消えていく。後死んで残されたものが苦しみ続けるのは世の常なのだろうか。妻の亡霊を幻視し、己の過去の過ちを恥じた頃には穏やかな1人の男の回復を描いたドラマが次第にホラーのテイストを帯びて有様は、さながら現代の怪談であり、妻の言いつけを守って「後片づけ」を続ける幸夫の姿は不気味。

ぬえを構成する動物は分かっていても、鵺の核となるところは分からない。幸夫の化けの皮がはがれた頃には、ぬえの多面性を持っていたのは妻であったと悟っても遅い。妻は夫の不貞を見抜いていたのだろうか。夫と妻の理想は果たして最初から同じ所へ向かっていたのだろうか。夫への愛情はいつ妻の中で冷め切ってしまったのか。ぐるぐると頭の中で疑念が渦巻きながら、最初の《書き出し》となる髪を切る場面が最後にまたじわじわ効いてきて、また「ぞわり」とくる。

この映画自体が「永い言い訳」だったのか、と気づいた頃には、もう既に術中にはまっていて、この作品が残していった余白にじわじわと喉元を締め付けられている。

そういえば、幸夫が妻と出会ったときも「言い訳」から始まっていた。もしかすると、生きていくことそのものが「言い訳」を繰り返すことなのだろうか。

人生は、「言い訳」の連続であり、「後片づけ」は死ぬまで終わらない。

この文章も、今作に対して整理のつかなくなった感情に対する「言い訳」なのかもしれない。

これからもわたしの「言い訳」は、幸夫と同様につづいていく。

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女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

 
海よりもまだ深く
 
生きるとか死ぬとか父親とか

生きるとか死ぬとか父親とか

 
バビロン行きの夜行列車 (ハルキ文庫 フ 1-1)
 

 

<おしまい>

*1:少しの間出ただけだが、黒木華とのセックスシーンは黒い下着の脱げ方がハンパなくエロかったです

*2:深津絵里が手にしていたのがレイ・ブラッドベリの『バビロン行きの夜行列車』というのも皮肉でまるで容赦がない

*3:西川監督が多少手を抜いても、バレやしないのではないだろうか

*4:妹役とのケンカが実にリアルだが、最後の最後にちょっと子役臭さが出てしまったのが惜しい

*5:「幸夫くんにそんなこと言うんだ」という笑顔が怖いし、子どもをぶつシーンも怖すぎて心臓バクバク

こうの史代『夕凪の街 桜の国』

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あれから10年

しあわせだと思うたび 美しいと思うたび

愛しかった都市のすべてを 人のすべてを思い出し

すべて失ったなった日に 引きずり戻される

先日、毎日新聞の記事に原爆を投下した米B29爆撃機の搭乗員に対するインタビューを収めた録音テープが、広島市原爆資料館に寄贈されたという記事を読んだ。既に個人であり、当時の機長であるポール・ティベッツ氏の肉声が記録されており、日本軍にとらわれた際には自殺する際の青酸カプセルを持参していたという。そんな機密性の高い任務を果たした1945年8月6日午前8時15分の瞬間をのちに「光が包まれたとき、鉛のような味がした。きっと放射能(の影響)だろう。とてもホッとした。(原爆が)炸裂したとわかったから」と語ったらしい。鉛の味、どんなものだったのだろうか。サッパリ想像がつかないが、顔をしかめたくなるようなものであることは何となく想像できる。彼らには人々を蹂躙したことへの悔恨で夜眠れぬことがあったのだろうか。肉厚なステーキを口にしているときに、ふと鉛の味が口の中をしみわたることがなかったのだろうか。

mainichi.jp

戦争を知らない世代であるわたしたち(これはなにも自分と同世代の20代だけでなく現代の60台も含むのではないだろうか)には、どこか戦争というものを考えるときに、忌避感のようなものがまとわりついてくるように思う。理由は様々であると思うし、私くらいの年頃なら戦争に反対することが非現実的で、それを口にするのはマヌケであると冷笑に付されてしまうのではないか、というところもあるのかもしれない。戦争=つらいという植え込み(もちろんそれは本当だと思う)が強く、聴かされたり読んだりした体験談はいつも過酷で哀しいものであったから、そんなものを現実の自分とのところへ持ち込みたくないというのもあるのかもしれない。わたしたちには、爆発はテレビの中の出来事で、たいがい空腹を知らない。数字の上では古くない昔の戦争は、遠い過去の悲劇で、「忘れてはならない」と千度語られているのに、当事者ではない人々がそうやすやすと語ってはいけないのではないか、という呪縛のようなものが心の奥底にあったのだと思う。もちろん、鉛の味も、原爆がもたらした壮絶なからだへの痛みも、どちらもわたしたちは知らないし、知る由もない。

何年かぶりに自宅の書棚にある、こうの史代『夕凪の街 桜の国』を手にした。いつ呼んでもこの本は「すさまじい」と本を手に取るその手に、紙に沁みるインクが伝ってきそうな錯覚を覚えてしまう。あまりにすさまじいので嗚咽が止まなくなってしまった。ふくれあがった顔が幼稚で乱暴な線で描かれていることが怖い。もっとも弱い私たちと変わらない人々だからこそ、日常に潜む原爆の影が身体を言空溜め続けるときのモノローグに身の毛がよだってしまう。わたしたちが遠い過去であることを理由に避けてきた感情に揺り動かされる。

十年経ったけど 原爆を落とした人はわたしを見て

「やった!またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?

ひどいなあ

てっきりわたしは 死なずにすんだ人 かと思ったのに

という言葉は呪いとして、読む者の心に雨が通りすぎて風がやんだあとの地面に残った黒い「しみ」のように残り続ける。

しかし、ただ苦しみを描いているだけでない。やわらかい描線で丹念に風俗を写し取り、「生きてはいけなかった」と思っていた人へ「しあわせになってもよい」と現在からやさしく手を差し伸べる。こんな救済があっても良いのだとわたしも思う。

本書が、「知らない」というだけで口を閉ざしてきたわたしたちを呪縛から解放してくれること、空腹に苦しんだことのない世代と記憶に痛みのすみずみが刻み込まれた世代とを、現在と過去とを強くつなぐ一本の強い糸であることを、筆者やほかの読者の方たち同様にわたしも祈っている。

以下は2004年の8月に記された、こうの史代さんによる「あとがき」より抜粋させていただきます。

貴方が豊かな人生を重ねるにつれ、この物語は激しい結末を与えられるのだと思います。そう描けていればいいと思います。

また「桜の国」では、原爆と聞けば逃げ回ってばかりだった二年前までのわたしがいちばん知りたかったことを、描こうとしました。自分にとってもそうであった、と気づいてくれる貴方にいつかこの作品が出逢い、桜のように強く優しく育てられることを、心から願ってやみません。

<おしまい>

kuro-matsu2023.hatenadiary.jp

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

 

 

テイラー・シェリダン×ジェレミー・レナー『ウインド・リバー』

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欧州の冬はとても身に応える。はじめのうちは新鮮で、「日本の冬とはまた違う風情があるわあ」とクリスマスに現を抜かす余裕もあります。しかし、しばらくするとそうもいかなくなって、本格的に辛さが増してくる。雪が降ってはしゃいでたあの頃の明るさはどこへやら。そんな「一刻も早くここを離れたい」という気持ちにさせられた厳しい冬を、故郷の奈良が恋しくなるほどのロンリネスを、茹でだこになりそうな真夏にリアルな肌感覚といっしょに思いだしました(余計なことを)。まあ劇場の冷房が効きすぎていて、汗でぐちょぐちょの半袖・半ズボンにはまったくやさしくない環境下での鑑賞だったというのもあったとは思いますが。

 

早く観たいのに先延ばしにされまくりふるえました

まず、なんといっても今作「どんだけ待ったと思ってるんだ」というのがありまして、この映画の情報が自分の耳に入ったのが2016年の12月。ハリウッド女優、いや、世界の女優の中でもトップクラスに好きな女優、エリザベス・オルセンが、『アベンジャーズ』でも親子のような並びだったジェレミー・レナーとW主演。しかも雪景色の犯罪劇ですから、そりゃもう期待しまくり。アメリカでの公開は2017年8月でしたから、そのうちに日本でもやるだろうと待っても、一向にやらない。いくら、ワインスタインが大変なことやらかした(直接の因果関係があるかはわからない)とはいえ、このお預けはつらい。今年の4月の時点には出先の本屋さんにDVDが置いてあったので、もう買ってしまおうかともレジに一直線しかけましたが、珍しく劇場で観たいかな(普段は別にそこまでのこだわりがない)と気持ちが揺らぎ、帰国後の公開を待つことにしました。結果的にはこの決断は吉と出て、非常に見ごたえのある一作でしたので、思いとどまった甲斐がありました。

 

現代でも西部劇は成り立つのか問題

ウインド・リバー*1』は新しいホワイト(二重の意味)・ノワールの佳作です。クライム・サスペンスとしても上質ですが、何より重要なのは今作が「現代だからこそ描ける新しい西部劇である」というとこ。「復讐」がテーマになっており、『レヴェナント』とも『スリー・ビルボード』とも『女は二度決断する』ともまた違う、アメリカの歴史にある膿のようなものを見せられたような気がします。まだまだ現代でも、勧善懲悪型の復讐劇が作れたのですね(しかし、娯楽として気持ちいいというワケではない)。オンタイムのアメリカを舞台にしたウェスタン風映画をつくろう、という試みはたくさんありましたが、ここまで明白に西部劇の形に則りながら、ハードな社会的なメッセージをきっちりと余韻として刻みこむことに成功した映画はあまりなかったのではないでしょうか。黒人がリーダーという異例のウェスタンだった『マグニフィセント・セブン』ではインディアンが味方につきますが、基本的には彼らは倒されるべき敵の象徴でした。白人が侵略し、元いた原住民を追いやり、生きる場所を奪っていく。この構図はまだ根強く残っているのですから、看過できるものではない。もしかしたら我々観客も気づかぬうちに「もう終わったこと」にしようとしていたかもしれない歴史を、掘り起こそうという果敢な試みがなされています。《搾取する/される》という構図は、そのまま現代アメリカにどっしり根を下ろしているわけですね。監督曰く「フロンティア三部作」を締めくくるにふさわしい(『ボーダーライン』『最後の追跡』と本作)一本には間違いないです。

*1:『ウィンド・リヴァー』のがいいとは思いますが、変な副題ついてないだけよしとするか