ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

ブライアン・デ・パルマ『ミッション:インポッシブル』

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ちょうどテレビでやることを知ったので(NHKなのでCMもないし)、録画したその日の晩に観賞。水槽のところで「あーガムやるな」とか「このあとトムが吊るされるんだ」とか、予測がついても無類に面白いもの。

ブライアン・デ・パルマの映画はどれも良いものばかり。『スカーフェイス』『アンタッチャブル』『キャリー』と挙げだすと全フィルモグラフィを挙げてしまいそうになります。中でも、意識し始めて(さすがに『ミッション:インポッシブル』を最初に見たときには誰が監督だなんて気にもしていない)はじめて見た作品である『ミッドナイトクロス』には、心の底から惚れ込みサスペンスの豊穣な魅力に虜になってしまった。

この人の映画、なんといっても映像がやたらに贅沢(華美なセットや俳優陣でごまかさずに) で、映画がフィルムであった時代の質感を味わえるような気がするのがいい。トリッキーではあるが真面目で、堅実でクラシカル。この人、本当にヒッチコックの『北北西に進路を取れ』が好きなんでしょうね。カメラと被写体の距離感が独特で、これだけでサスペンスを生むのですから大したものです。腹の探り合いが面白く、どの登場人物もイキイキとしているのが、よろしい。

有名なCIA潜入シーンやレストランでのにらみ合いなど、どこも好きな場面でありますが、オープニングが粋ですよね。テレビを食い入るように見る男と、画面の中では尋問が行われており、ベッドの上では女が臥せている*1。尋問を受けていた男が吐くと同時に、テレビの前の男が何かコンピューターに入力し、その後ろではコップの水に怪しげな薬品を入れている。再びテレビの中に戻ると、部屋の中に給仕が現れ、水を飲むと拘束されていた男は倒れ、尋問していた男がドアを破ってテレビの横に現れマスクを脱ぐと、イーサン・ハント(トム・クルーズ)の顔があらわになる。ここでここまでが一連の芝居だとわかり、イーサンはベッドに向かう。純白なシーツには黒いドレスをかろうじて着ているぐらいに肌を際どく露出した女が横たわり、真紅の血がはだけた胸元に滴る。舌ったらずなフランスなまりの英語が艶かしいエマニュエル・べアールが首尾を尋ねると、イーサンが「We got it.」と答え、そこで導火線に火が付き、お馴染みのあのテーマソング。完璧である。ここでもう身を委ねて良いなと、一気に引き込まれ、腰かけたソファーに浮かせた背をまたゆったり任せてしまう。「何が起こってるのかいまいちよくわかんないけどオシャレやん」感。上質。

以下は、この映画で決定づけられた自分にとっての『M:I』seriesにおける評価基準。

  • イーサンの個人プレイだけでなくチーム戦の旨みを活かしたサスペンス
  • 敵対する複数のチームとの罠の張りめぐらし合い
  • イーサン・ハントと女のロマンティックになりすぎない関係性
  • 往年のスパイアクションのようなマヌケなガジェット類(変装マスクとかカメラ内蔵のメガネとか、コナン君が好きな少年だったので普通に興奮してみていた記憶)
  • たとえ敵側がザルである等ツッコミがあっても、プロットをこねくり回そうという気持ち(?)
  • ここから始まった、ジャッキーに憧れるトムが身体の限界に挑み続ける企画は、どこまで到達するのか
  • 戸田奈津子の英語力・翻訳力は上がったのか

などなど。

御託は色々並べましたけれども、「この頃はまだ人間だったんだよな」とトムの人間としての面影があった時期を懐かしみ、ジョン・ウーの功罪*2に思いを巡らせたりして楽しんでしまいました。

この映画の欠点といえばやはり戸田センセイの字幕が96年作とは思えぬほど古臭いことくらいなのでしょうか。最近はいじられるほど派手でヘンテコな訳(マシになっただけで『フォールアウト』でもご健在ではありました)をしなくなったので、ちょっとつまんなくなり、せいぜい「トムのスタンド(幽波紋)の婆さんだ」とネタにするくらい。

上にいくつかの今シリーズの自己評価軸を並べましたが、何より素晴らしいのは、トム・クルーズの健全さだと思います。どれだけリアル指向になっても、この人がニカッと微笑めば大抵の失態でも許されてしまうような魔力がある。

あと、デ・パルマのドキュメンタリー見ていなかったような、あれ見てたかしら、とかわかんなくなったのでTSUTAYA行こうかと思います。

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<おしまい> 

*1:ここでヒッチコック好きは興奮し、『ミッドナイト・クロス』ファンは最初にニヤリとする

*2:結果オーライだし何気に大好きだけど、だって、この次に本編と関係ないロッククライミングやるなんて、だれも予想しないじゃないですか

西川美和『永い言い訳』

自分を大事に思ってくれる人を、簡単に手放しちゃいけない。

みくびったり、おとしめたりしちゃいけない。

そうしないと愛していい人が誰もいない人生になる。

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梅田のグランフロント大阪で本を立ち読み(は体質的にできないので、正しくはただ本を眺めて、ななめ読みする程度)をして検分していると、新刊書の案内が耳に入ってきた。この書店では、著者本人による自著のプロモーションが時折流れてくる。いま耳に入ってきたのはコラムニストのジェーン・スーさんの宣伝。「あなたは自分の父親の友人を3人挙げることができますか?」という問いかけから始まる、なかなか興味の惹かれる導入で、ついつい手に取っていた本を棚に戻してしまうほどだった。さすがである。そのあとは、自分が父親と折り合いがずっとつかなかったことなどが語られ、父親とのあれこれを振り返ったものをエッセイにしたためたのでぜひ手に取ってください、という言葉で締めくくられた。簡潔で実に購買意欲のそそられる文句であったので、つい開いてしまった。『戦中派の終点とブラスバンド』という目次に吸い寄せられそのまま会計してしまった。しかしまだ積読されたままだ。わたしのよくない癖である。ちなみに、わたしは自分の父親の友人は一人も並べることができない。

「永いお別れ」からまた「永い言い訳」がはじまっていく

永い言い訳

永い言い訳

 

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なかなかに辛辣な映画であった。しばらくずっと尾を引く。

冒頭、幸夫によるぬえの喩えから始まる。妻(深津絵里)に髪を切ってもらいながら、テレビで平家物語と併せた蘊蓄を披露する自分を見て、毒を吐く小説家の幸夫(本木雅弘)。鏡の中の夫婦の目線は互いを見ているようでよそよそしく、何気ない会話にも不穏な空気が漂う。くだを巻く夫を倦怠感のこもった妻の眼差しに気づかいているのか気付いていないのか。夫はしきりに不倫相手*1からの着信を気にしている。テレビで能書きを垂れる姿も、鏡で妻に髪を切ってもらう微笑ましいシーンも自分ではないのだ、という幸夫の矛盾に満ちた複雑(に見せかけた)な多面性を表した見事な導入。それにしても、幸福な夫と書いて「幸夫」とはなんとも皮肉である。出かけた妻が不慮の事故で亡くなろうが、彼は最初から幸福な夫でも何でもなかったのである*2

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このあとも、幸夫の周りには常にカメラがあり、テレビがあり、鏡がある。自分の少し伸びて乱れた髪がすぐ気になるし、ネットで自分のペンネームを使ったエゴサがやめられない。しかし、もともと家事なんてロクにやってこなかったので、妻がいなくなる血部屋もロクにまとまらない。虚構に映る知的で自己分析に長けた彼は、段々と本来の自己否定の激しく、自己中心的で軽薄な脆い人間性を妻の死によって暴かれていってしまう。精神的に追いつめられるとやつれ、子どもとの交流でふくふくと肌につやが出る、本木雅弘の自在な身体性には脱帽するばかり。派手ではないが、視覚的にちゃんと肉体と精神が同調しているのがわかる*3

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彼と対峙する人間も、彼の性格の写し鏡でメタファーとして現れ、村上春樹の『海辺のカフカ』の文句が頭に浮かぶ。面倒を見て行くかつての真平くん*4にしろ、自分の遺伝子への恐怖から子を残さなかった幸夫とは終始正反対な竹原ピストル*5にしろ、業界人のいやらしさを凝縮したようなテレビディレクターの戸次重幸にしろ、終始メタファーが付きまとい幸夫への辛辣な自問自答を問いかけている。

メタファーとしての役割を担わされていないが、池松壮亮のマネージャーの「子育ては漢にとっての免罪符に過ぎない」という一言も幸夫には手痛い。

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彼がようやく涙を流し、妻の死を現実として受け入れ、自分が見過ごしてきたことへの懺悔をした頃には、蜃気楼のように彼女の幻影は遠くへ消えていく。後死んで残されたものが苦しみ続けるのは世の常なのだろうか。妻の亡霊を幻視し、己の過去の過ちを恥じた頃には穏やかな1人の男の回復を描いたドラマが次第にホラーのテイストを帯びて有様は、さながら現代の怪談であり、妻の言いつけを守って「後片づけ」を続ける幸夫の姿は不気味。

ぬえを構成する動物は分かっていても、鵺の核となるところは分からない。幸夫の化けの皮がはがれた頃には、ぬえの多面性を持っていたのは妻であったと悟っても遅い。妻は夫の不貞を見抜いていたのだろうか。夫と妻の理想は果たして最初から同じ所へ向かっていたのだろうか。夫への愛情はいつ妻の中で冷め切ってしまったのか。ぐるぐると頭の中で疑念が渦巻きながら、最初の《書き出し》となる髪を切る場面が最後にまたじわじわ効いてきて、また「ぞわり」とくる。

この映画自体が「永い言い訳」だったのか、と気づいた頃には、もう既に術中にはまっていて、この作品が残していった余白にじわじわと喉元を締め付けられている。

そういえば、幸夫が妻と出会ったときも「言い訳」から始まっていた。もしかすると、生きていくことそのものが「言い訳」を繰り返すことなのだろうか。

人生は、「言い訳」の連続であり、「後片づけ」は死ぬまで終わらない。

この文章も、今作に対して整理のつかなくなった感情に対する「言い訳」なのかもしれない。

これからもわたしの「言い訳」は、幸夫と同様につづいていく。

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女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

 
海よりもまだ深く
 
生きるとか死ぬとか父親とか

生きるとか死ぬとか父親とか

 
バビロン行きの夜行列車 (ハルキ文庫 フ 1-1)
 

 

<おしまい>

*1:少しの間出ただけだが、黒木華とのセックスシーンは黒い下着の脱げ方がハンパなくエロかったです

*2:深津絵里が手にしていたのがレイ・ブラッドベリの『バビロン行きの夜行列車』というのも皮肉でまるで容赦がない

*3:西川監督が多少手を抜いても、バレやしないのではないだろうか

*4:妹役とのケンカが実にリアルだが、最後の最後にちょっと子役臭さが出てしまったのが惜しい

*5:「幸夫くんにそんなこと言うんだ」という笑顔が怖いし、子どもをぶつシーンも怖すぎて心臓バクバク

こうの史代『夕凪の街 桜の国』

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あれから10年

しあわせだと思うたび 美しいと思うたび

愛しかった都市のすべてを 人のすべてを思い出し

すべて失ったなった日に 引きずり戻される

先日、毎日新聞の記事に原爆を投下した米B29爆撃機の搭乗員に対するインタビューを収めた録音テープが、広島市原爆資料館に寄贈されたという記事を読んだ。既に個人であり、当時の機長であるポール・ティベッツ氏の肉声が記録されており、日本軍にとらわれた際には自殺する際の青酸カプセルを持参していたという。そんな機密性の高い任務を果たした1945年8月6日午前8時15分の瞬間をのちに「光が包まれたとき、鉛のような味がした。きっと放射能(の影響)だろう。とてもホッとした。(原爆が)炸裂したとわかったから」と語ったらしい。鉛の味、どんなものだったのだろうか。サッパリ想像がつかないが、顔をしかめたくなるようなものであることは何となく想像できる。彼らには人々を蹂躙したことへの悔恨で夜眠れぬことがあったのだろうか。肉厚なステーキを口にしているときに、ふと鉛の味が口の中をしみわたることがなかったのだろうか。

mainichi.jp

戦争を知らない世代であるわたしたち(これはなにも自分と同世代の20代だけでなく現代の60台も含むのではないだろうか)には、どこか戦争というものを考えるときに、忌避感のようなものがまとわりついてくるように思う。理由は様々であると思うし、私くらいの年頃なら戦争に反対することが非現実的で、それを口にするのはマヌケであると冷笑に付されてしまうのではないか、というところもあるのかもしれない。戦争=つらいという植え込み(もちろんそれは本当だと思う)が強く、聴かされたり読んだりした体験談はいつも過酷で哀しいものであったから、そんなものを現実の自分とのところへ持ち込みたくないというのもあるのかもしれない。わたしたちには、爆発はテレビの中の出来事で、たいがい空腹を知らない。数字の上では古くない昔の戦争は、遠い過去の悲劇で、「忘れてはならない」と千度語られているのに、当事者ではない人々がそうやすやすと語ってはいけないのではないか、という呪縛のようなものが心の奥底にあったのだと思う。もちろん、鉛の味も、原爆がもたらした壮絶なからだへの痛みも、どちらもわたしたちは知らないし、知る由もない。

何年かぶりに自宅の書棚にある、こうの史代『夕凪の街 桜の国』を手にした。いつ呼んでもこの本は「すさまじい」と本を手に取るその手に、紙に沁みるインクが伝ってきそうな錯覚を覚えてしまう。あまりにすさまじいので嗚咽が止まなくなってしまった。ふくれあがった顔が幼稚で乱暴な線で描かれていることが怖い。もっとも弱い私たちと変わらない人々だからこそ、日常に潜む原爆の影が身体を言空溜め続けるときのモノローグに身の毛がよだってしまう。わたしたちが遠い過去であることを理由に避けてきた感情に揺り動かされる。

十年経ったけど 原爆を落とした人はわたしを見て

「やった!またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?

ひどいなあ

てっきりわたしは 死なずにすんだ人 かと思ったのに

という言葉は呪いとして、読む者の心に雨が通りすぎて風がやんだあとの地面に残った黒い「しみ」のように残り続ける。

しかし、ただ苦しみを描いているだけでない。やわらかい描線で丹念に風俗を写し取り、「生きてはいけなかった」と思っていた人へ「しあわせになってもよい」と現在からやさしく手を差し伸べる。こんな救済があっても良いのだとわたしも思う。

本書が、「知らない」というだけで口を閉ざしてきたわたしたちを呪縛から解放してくれること、空腹に苦しんだことのない世代と記憶に痛みのすみずみが刻み込まれた世代とを、現在と過去とを強くつなぐ一本の強い糸であることを、筆者やほかの読者の方たち同様にわたしも祈っている。

以下は2004年の8月に記された、こうの史代さんによる「あとがき」より抜粋させていただきます。

貴方が豊かな人生を重ねるにつれ、この物語は激しい結末を与えられるのだと思います。そう描けていればいいと思います。

また「桜の国」では、原爆と聞けば逃げ回ってばかりだった二年前までのわたしがいちばん知りたかったことを、描こうとしました。自分にとってもそうであった、と気づいてくれる貴方にいつかこの作品が出逢い、桜のように強く優しく育てられることを、心から願ってやみません。

<おしまい>

kuro-matsu2023.hatenadiary.jp

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

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テイラー・シェリダン×ジェレミー・レナー『ウインド・リバー』

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欧州の冬はとても身に応える。はじめのうちは新鮮で、「日本の冬とはまた違う風情があるわあ」とクリスマスに現を抜かす余裕もあります。しかし、しばらくするとそうもいかなくなって、本格的に辛さが増してくる。雪が降ってはしゃいでたあの頃の明るさはどこへやら。そんな「一刻も早くここを離れたい」という気持ちにさせられた厳しい冬を、故郷の奈良が恋しくなるほどのロンリネスを、茹でだこになりそうな真夏にリアルな肌感覚といっしょに思いだしました(余計なことを)。まあ劇場の冷房が効きすぎていて、汗でぐちょぐちょの半袖・半ズボンにはまったくやさしくない環境下での鑑賞だったというのもあったとは思いますが。

 

早く観たいのに先延ばしにされまくりふるえました

まず、なんといっても今作「どんだけ待ったと思ってるんだ」というのがありまして、この映画の情報が自分の耳に入ったのが2016年の12月。ハリウッド女優、いや、世界の女優の中でもトップクラスに好きな女優、エリザベス・オルセンが、『アベンジャーズ』でも親子のような並びだったジェレミー・レナーとW主演。しかも雪景色の犯罪劇ですから、そりゃもう期待しまくり。アメリカでの公開は2017年8月でしたから、そのうちに日本でもやるだろうと待っても、一向にやらない。いくら、ワインスタインが大変なことやらかした(直接の因果関係があるかはわからない)とはいえ、このお預けはつらい。今年の4月の時点には出先の本屋さんにDVDが置いてあったので、もう買ってしまおうかともレジに一直線しかけましたが、珍しく劇場で観たいかな(普段は別にそこまでのこだわりがない)と気持ちが揺らぎ、帰国後の公開を待つことにしました。結果的にはこの決断は吉と出て、非常に見ごたえのある一作でしたので、思いとどまった甲斐がありました。

 

現代でも西部劇は成り立つのか問題

ウインド・リバー*1』は新しいホワイト(二重の意味)・ノワールの佳作です。クライム・サスペンスとしても上質ですが、何より重要なのは今作が「現代だからこそ描ける新しい西部劇である」というとこ。「復讐」がテーマになっており、『レヴェナント』とも『スリー・ビルボード』とも『女は二度決断する』ともまた違う、アメリカの歴史にある膿のようなものを見せられたような気がします。まだまだ現代でも、勧善懲悪型の復讐劇が作れたのですね(しかし、娯楽として気持ちいいというワケではない)。オンタイムのアメリカを舞台にしたウェスタン風映画をつくろう、という試みはたくさんありましたが、ここまで明白に西部劇の形に則りながら、ハードな社会的なメッセージをきっちりと余韻として刻みこむことに成功した映画はあまりなかったのではないでしょうか。黒人がリーダーという異例のウェスタンだった『マグニフィセント・セブン』ではインディアンが味方につきますが、基本的には彼らは倒されるべき敵の象徴でした。白人が侵略し、元いた原住民を追いやり、生きる場所を奪っていく。この構図はまだ根強く残っているのですから、看過できるものではない。もしかしたら我々観客も気づかぬうちに「もう終わったこと」にしようとしていたかもしれない歴史を、掘り起こそうという果敢な試みがなされています。《搾取する/される》という構図は、そのまま現代アメリカにどっしり根を下ろしているわけですね。監督曰く「フロンティア三部作」を締めくくるにふさわしい(『ボーダーライン』『最後の追跡』と本作)一本には間違いないです。

*1:『ウィンド・リヴァー』のがいいとは思いますが、変な副題ついてないだけよしとするか

雑記5(自閉症スペクトラムってなんぞや)

日本に帰ってしばらく経ち、前より決まっていた療養をしている。まあ、療養といっても、仕事と並行して、カウンセリングにちょこまか顔を出すぐらいのことなのだが。まあなんというか気楽な身分なもんだなあ、と久しぶりの田舎の暮らしでそれなりに落ち着いている。よその国から帰ってくると、より一層こちらの呑気さにありがたみというものが湧いてくる。向こうは、あくせく常に人が動いていて、こちらの気も休まらなかった気がする。ずっと背伸びをしていたような。

本音を言えば、本当はもうちょっと何かしたかった。勧められていた療養の予定も、適当にすっぽかして、もう一度海外に行く準備を真剣に考えていた。こういうことをもっと勉強したい、というのがぼんやりと見えたというのもあるが、少しでもツテを作っておこうとコミュニケーションに難がある分際でそれなりの努力はしたので、それがふいになるのが恐かったのかもしれない。帰ってきてしばらくは、ちょっと体を休める程度のつもりにしていたし、日本に帰ってきた安心感も手伝い、快活に過ごしているつもりだった。友人と会って、ご飯を食べに行ったり、ちょっとした旅行へも行った。

しかし、そうして平穏な日々を過ごしているうちに、ふと自分の足元の不確かさに目がいった。俺は今ここで何をやっているんだ。俺はなんでこんな楽しそうなんだ。俺はこの先どうするんだ。何かがすっぽり抜け落ちるような音といっしょに、ぐらりとめまいのようなものがして、映るものの色合いが途端にモノクロに変わっていった。そうして、3日近く一室に引きこもってしまった。尋常な状態ではなかったのだと思う。元より、学校でもろくに人と会話もできなかったから、人間関係も構築できなかったし、そこから始まって軽程度の鬱のような症状はしばしば現れていたのは事実であった。しかし、今度のものは明らかに違う。思考に歯止めが効かなくなり、これまでの後悔やらが頭の中で鮮明な映像として浮かび上がり、周りにいる誰もかもが怖くなって、いつしか自分をなじる言葉が止まらなくなり、気づけばぼたぼたと汗なのか涙なのかよくわからない水が目からとめどなく出てきた。生まれてはじめてこんなにも鮮明に自死を真剣に考え、得体の知れぬものにおびえる自分が忌々しく、心から自身の存在そのものを呪った。破滅を願い続ける私のたましいはひたすら球の中をぐるぐると回り続けているようで、ただただ虚ろだった。

そして、周囲もそんな意気地ない私を見かね、病院へかかることを改めて勧められ、滔々了解するしかなかった。いくらか知識があるつもりだったし、それなりに精神障害に理解があるつもりだったが、いざ自分がその当事者になるとは思いもしなかった(いや、正しくは、そう思いたくなかったのだろう)ので、そこでまた不安妄想に襲われ、動悸が激しくなるを幾度か繰り返し、なんとか病院へ向かった。なんだか怪しい妄想ばかりが膨らんでしまったのだが、それは実際に先生にアウトすっかり吹き飛んだ。運が良かったのだろう。その日にカウンセリングを受け、診断を受けた後、2時間近くテストを行い、2週間後には自分の症状が判明した。どうやら「自閉症スペクトラムASD)」というものらしい。これを聞いたとき、動揺しなかった、といえばウソにはなるが(事前に自分が当てはまるかを見ても到底そこにハマるようには思えなかった)、しかし、どこか安心している私もいた。先生の言うように、今まで上手くいかないなと考えていたことがすべてこの症状のせいなんて都合の良いことはないけれど、これは病気ではなく「特性」だから時間はかかるけれども、ゆっくっり適応できるように治療しましょう、という説明だった。

「特定の音や臭いに過敏であること、人との目で見える距離感がわからなくなる、不安が胸に広がると動悸が激しくなり緊張が何時間も収まらなくなる、といったわかりやすい症状から抑えていき、徐々に身体を慣らしていくんですよ」

「へえ。そんなにうまくいくものなんですか」

「人によって、時間のかかり方が全然違いますけどね」

「でも、いずれは苦手なことも、ちゃんと向き合わなきゃダメですよね。たとえば人と面と向かって話すとか。苦痛ですけどやろうと思えばできなくもないですし、」

「いや、そんな無理はしなくてもいいですよ」

「いいんですか」

「ほら、サメっているじゃない」

「はあ」

「サメって海の中じゃ最強だけど、陸に上がるとダメでしょう。そういうことですよ」

「そういうことなんですか」

とわかったような、わからないような、絶妙なたとえ話に言いくるめられ、すっかり心が落ち着くところを見つけたような気がした。胸のつかえがとれたように感じた。

で、ここまで、わざわざ恥も外聞もなく実情をペラペラ晒しておきながら、なんなのだが、別に今ここまで気長に読んでくださっている方に同情を頂こうともくろんでいるわけではない。ただ「こういうことがあった」それだけの日記であるし、今こうして書いている現在は意外にもフラットです。むしろ、今はホッとしている。薄々分かってはいたけど、周りに流れている時間と自分のそれが合っていないことにはもっと早く気付くべきだった。こんな簡単なことが何でわかんなかったんだろう、とちょっと不思議に思ったりします。まあ、別にまだ治療の初期段階なんで、今はたまたま調子がいいから、こんなこと言ってられるだけなんですがね。

こうして、知り合いから紹介してもらった仕事を毎日3、4時間ほどやってから、余裕ができて、気分のいいときは、最近は近くのプールに泳ぎいいって、 そのまま銭湯へ向かい、サウナで整えるのが、ちょっとした日常の些細な楽しみになっている、今日にいたる。立地がいいのがうれしい。もっと気分がまともなときは、喫茶スペースのある美味しいパン屋ができていたので、そこに本を持ち込んでいったりする。いたって平穏。普通が楽しい、ということを普通に考えられるようになった、というのが最近の大きな進歩だったように思う。前はどこか普通というブラックボックスが不気味に怖かったが、今は「自分も普通なんだ」という思い込みをする方法を発見しました。思い込みも大事。

何よりも、どっこいまだ生きている。これに尽きる。

(また何か発見があったらこの話題について何か書くかもしれませんが、基本的にはこれからもいつも通り「あれ見たよ、これ読んだよ」という愚にもつかぬことを書き連ねていくつもりです。何卒)

kuro-matsu2023.hatenadiary.jp

最後に、メンタル危うし!という状況のときに、心の拠り所になった本たちをいくつか羅列。あくまで私見です。

▲V・E・フランクㇽ『夜と霧』:描かれている本物の惨劇と、書かれている本物の言葉の強さにふるえる。何度も読んで、付箋とマーカーだらけになってしまったので、買い替えなければ。

尾崎紅葉金色夜叉』:こんなに読ませるエンタメだったとは。昔、途中で挫折した私は阿呆だ。

大橋裕之『シティライツ 完全版』:行間にやられる。この人と宮崎夏次系がいてよかった。

遠藤周作『沈黙』:何周か回って、非常に今日的だと感じる「宗教」のあり方。

高野文子『ドミトリーともきんす』:手軽に、気楽に、科学の硬質でひんやりとした懐かしみに触れ合うことができる良書。三角フラスコで透かして見えた真昼の肯定とかが思い浮かぶ。

▲梨木果歩『家守綺譚』『鳥と雲と薬草袋』:花鳥風月の描写が丁寧で、外出しようという意欲がムクムク湧いてくる。インドア派をアウトドア志向に変えるバイブル。『鳥と~』は歩き回って見聞きすることが大事だと諭される気持ちで読んでいたが、ここまで鋭敏なセンサーはないなあ。

ミヒャエル・エンデ『モモ』:時間に対する興味が湧いた原点なのかもしれない。

アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』:めちゃくちゃセレクトミスだったけども、これは面白かった。不条理小説の新たな傑作と断じても問題ない。

岡潔、森田真生『数学する人生』:宝箱のような本。

堀辰雄風立ちぬ』:こんなに文章が美しくてもいいんだろうか。夏と死の濃厚な関係性を描き切っている。

三島由紀夫金閣寺』『仮面の告白』『美しい星』『女神』:絶対に精神がフワフワしているときに読むべきでない作者だと思うのだが、誘惑に駆られて読んでしまった。太陽がぎらぎら照りつきだすと、絶対的な美にすがろうとするんでしょうか。

柳家小三治『落語家論』:立川談春『赤めだか』に並ぶ名著。

小野不由美『営繕かるかや怪異譚』:怖さと懐かしさは、私にとっては同質の感覚なんだろうなあ。怪談で感じる、空間の仄暗さはとても居心地がいい。

杉浦日向子東のエデン

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

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シティライツ 完全版上巻

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シティライツ 完全版下巻

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沈黙 (新潮文庫)

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ドミトリーともきんす

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家守綺譚 (新潮文庫)

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鳥と雲と薬草袋

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モモ (岩波少年文庫(127))

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ペンギンの憂鬱 (新潮クレスト・ブックス)

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数学する人生

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風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

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女神 (新潮文庫)

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落語家論 (ちくま文庫)

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営繕かるかや怪異譚

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東のエデン (ちくま文庫)

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<おしまい>

 

ふたりの姉妹とふたつの王国 フアン・アントニオ・バヨナ『ジュラシック・ワールド/炎の王国』

(本稿には今作のネタバレとなる部分への言及があります)

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もはやどうでもいい些末なことなのかもしれないけれど、とはいえ、この『炎の王国』ってドラクエみたいなタイトルはさすがにいただけないよね。どう考えても原題に倣って『堕とされた王国*1』だよね。あらかじめ。

いやあ、なんとも美味しい映画でした。しかも、一食で、ふたつのジャンルの料理が味わえる。今回は舞台が二つあって、それぞれ恐竜と人間の王国なんですね。前者では『キングコング:髑髏島の巨神』に近いスタイルのモンスター・パニック・ムービー。後者に舞台が切り替わると、テイストもコロッと変わって、古めかしい洋館を舞台としたゴシックホラーの装いに。なんともお財布に一抹の不安がある我々に優しいではないですか。ありがたや。ありがたや。

モンスター映画ですので、まず最初に最低限クリアせねばならないポイントが、なんせ相手は恐竜ですので、人間よりも大きくなくちゃいけません。しかも未知なものなんで、想像力をより働かさなくてはなりません。いかにオモシロく、大きいものを大きく見せるか、監督の腕の見せ所ですね。

そういう観客のモンスター映画への期待は、序盤できちんと叶えられて、オープニングで予想をはるかに上回る迫力と、巨大なるものへの畏怖をもって、スクリーンに出現します。潜水艇がラグーンの底を探索していると、ぬらりと後ろに大きな暗い影が。無事にミッションを果たし、回収した牙を海上へ浮き上げた先にはまた、巨大な何かがいる。おお、まさかな、とここらで我々も勘付くわけですが、潜水艇の中のおじさん達は知りませんから、そのまま帰ろうとします。すると、先ほどの黒い影がぬわっと牙をむいて、巨大なお口でがぶりと飲み込んじゃいます。恐怖にプルプルふるえながら、もう同時にゾクゾク興奮するわけじゃないですか。だって、あのモササウルスですよ。もうここで満足度かなり高いです。巨大演出のツボをきちんと押さえてらっしゃる、バヨナ監督。

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インスタ映え(もう死語なのか)は間違いないですね。

 随所まで行き届いたスカッと感が極めて高い、綿密なホラー演出の積み重ね

ジュラシック・ワールド/炎の王国』は、前作から3年後に設定されています。島にジュラシック・パークを作り出しておきながら、そのせいで人も死んでるという事実から、保護か見殺しかの板挟みになり、人間代表の語り部ジェフ・ゴールドブラムは火山活動は神の啓示だと、恐竜の王国の存亡を自然に委ねる道を示すんですね。しかし、勇敢か愚かか、人類は恐竜の救出を選択する、というまさに無謀としか言えない作戦に乗り出し、ここにまた人間の欲望が絡みついてくるんですね。

この筋書きだと、辛気臭い現代文明批判じみた作品(まあ実際はそうなんですが)にもなりそうなものを、バヨナ監督は律義なまでのホラー映画に仕立て上げました。

冒頭の巨大演出で、1800円(割引で1600円でしたが)の元は取れた気もしなくはないのですが、そこだけで我々を満足させず、きちんと観客を怖がらせることを第一に考え、ミッションをクリアしていく。偉い。闇の中から差し出される折の向こうの前足、溶岩に照らされ映る顔、ガラスの中に重なる少女と恐竜の開かれた口、などアイデア満載。当たり前のようで、難しい「あぶなーい」な危機一髪シーンを、飽きさせないように巧緻に組み上げ、片時も眠らせる暇を与えません。光と影(特に鏡を使った演出を何度も天丼のように重ねることで、どんどんクライマックスまで心理的な恐怖を増幅させていく手法はお見事)、空間的な奥行きと高さ、粘膜の臭いやおどろおどろしい視覚効果を駆使したリアルな爪、といった五感を揺さぶる要素をフル活用して、突然の大きな音やパターン化しやすいドッキリのような下品な手法に依存しません。ヒッチコックのようなストイックさすら感じます。クレアやフランクリン、そしてメイジーがあげる叫び声も嘘っぽさが見えません。

クリス・プラット麻痺した身体のまま、流れてくる溶岩から逃げようと、軟体動物のように身をよじり、逃げようとする演技はコミカルで、大爆笑ものでした)

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スピルバーグだよなあ、といういくつかのマナーへの忠実さ

ジュラシック・ワールド/炎の王国』、人間同士よりも、人間と恐竜という異種同士のコミュニケーションの方がスムーズに上手くいくんですね。というか、人間が俗物ぞろい。そういった俗物の中で、心を通い合わせる、『E.T.』とまではいかないのだけれど、例に漏れず今作もスピルバーグ的な手つきを丁寧になぞらえているのですね。特にメイジーとブルーの関係性では露骨すぎるくらいに「孤児」であることが強調されており、徹底して「父性の不在・嫌悪」を戯画的なまでに誇張した脚本になりました。

物語の後半で明かされるのですが、今作のキーキャラクターであるメイジー、なんとベンジャミンが作ったクローンだったんですね。自分の娘を亡くしたがために作り出してしまった、というエゴから生まれてしまった悲しい悲劇を背負わされています。当然母親は生まれついていない存在で家政婦に育てられます。父親代わりのミルズも商売主義にとりつかれ、メイジーを粗暴に扱い部屋に閉じ込めます。もう一人、いや、もう一匹、中心にいるのがブルーも、母親が既におらず、ある目的のために粗暴な傭兵に捉えられ、檻に閉じ込められるんですね。そんな「ふたり」を繋ぐのが、圧倒的な父性を湛えたオーウェンなんですね。自分の部屋から知恵を凝らして脱出したメイジーが開いたPCに映し出された、ブルーを育てるオーウェンの姿を見て夢見心地になるメイジーの表情は感動的であり、切なくもあります。彼らを裏切り傷付けたのも、失意から救済するのも「父性」なわけです。メイジーとブルーというふたりの「少女」たちを、オーウェンという「父性」によって、疑似的に「姉妹」し「家族」を再構築する仕草はまさしくスピルバーグ的で、見事なまでに美しい流れです。

なので、今作はものすごく異生物と人間の交流がドラマチックに描かれ、映画が終わるころには、観客とブルー(ないしTレックス)の間には、固い絆のようなものが芽生えていくようなつくりになっていて、前作のような恋愛パートをごっそり削っています。スピルバーグ的「疑似家族」ドラマとホラーという二つの骨格で、ジュラシック・ワールドをふたたび我々の住む地上へ取り戻したのですね。

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ところが、ここまで恐竜に対する優しいまなざしが向けられた一方で、人間同士の心の通じ合い、つまりオーウェンとクレアの関係性が薄く、チャラチャラしたモノに映ってしまうのがもったいない。たしかに、ベタベタなラブシーンが見たいわけではないですので、上に述べたようなテーマの絞り込みは大方成功しています。ただ、最後いきなりこの家族になってしまう、というのはいささか突飛にも思えました。途中クレアがオーウェンのはだけた胸元に手を差し入れる描写も不要(あれはエロゲーのやりすぎなのか)というか、不自然。恋愛パートを削るにしても、最低限の関係性のステップアップは見せてもらいたかった。

あと、両極にある「父性」の側面を描こうという意図、「孤児」物語のカギを握る大仕掛け、はスピルバーグファンとして激賞に値しますが、「父性」と反対に「母性」というものがおざなりにされているのも気になります。クレア女傑は前作と打って変わって大活躍をしますし、メイジーを救うべく勇気のある行動をとりましたが、どうしても女傑感が強すぎて勇敢な戦士が自己犠牲を選んだ、という程度にとどまりましたし、オーウェンの父性の強さと比べると弱い。見せ場もあってカッコいいんですがね。最後の銃口を向ける場面もすごくクール。ロックウッドの家政婦も役回りとしては、「育ての親」らしく、メイジーへの献身的なところを示してもらいたかったものですが、結局何もせず自分の保身に走る姿はガッカリさせられました。立場的にしょうがないけどさあ。唯一の救いは獣医ジアですが、彼女が救えるのはブルーのみなので、やはり全体的にメイジーへの「母性」不足にはひっかかってしまいました。

(せっかく出演したジェフ・ゴールドブラムも、『世界ふしぎ発見』の草野仁みたいな、もったいぶっただけで終わっちゃって、ただの語り部になってしまったのはもったいなかったかなあ)

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ブルー、かわゆい………

2度目の観賞時にエヴァンゲリオン完結編のティーザー映像が前触れなしに流れてきて、しばらく方針としてしまいましたし、周りのざわつきが尋常じゃなかったので、戦力としては上手いと思いますが、やり口としては汚いよなあ、と完全に思うツボなのでした。

今作品の監督である、フアン・アントニオ・バヨナは過去に『永遠の子どもたち』を監督しており、バルセロナ出身の人です。なので、と書くとこじつけ臭いのですが、やはりアメリカの外にいた方ですから、先述したようなマッチョで強権的な父性の戯画化が極端で、そんなテンプレ的な悪辣白人傭兵&実業家を容赦なく殺して見せるんですね。悪役にまったく感情移入させません(歯を集めるのがただのサディスティックな悪趣味だったとは)。またすべての騒動を収めるのが、古き良きアメリカを体現した筋骨隆々のクリス・プラット、というのも最近やってそうで、やってなかった作りですね。まるで英雄のようです。ご丁寧に家まで建てさせています(『許されざる者』参照)。どうでもいいですが、彼は今くらい肉がついているのがベストですよね。

ジュラシック・ワールド/炎の王国』は《誰が恐竜を人間から解放して、王国をビルド&スクラップしていくか》が主題となり、三部作物の橋渡しとしてよくできた大衆娯楽でありながら、どこか現代風刺劇のような風味もある、出来の良い脚本とホラー演出が冴えわたった一作だと思います。久しぶりに上質なモンスター映画が見れました。

kuro-matsu2023.hatenadiary.jp

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<おしまい>

*1:「堕ちた王国」だと味気がないので、カズオ・イシグロのタイトルから借りました

こうの史代×片渕須直×のん(a.k.a. 能年玲奈)『この世界の片隅に』+日曜劇場枠ドラマ版第1話

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「現在」音痴

「過去」や「未来」に気を取られているうちに、「現在」を見過ごしてしまうことが多々あります。というか日常がほぼそんな感じ。そこに「現在」のみずみずしい瞬間が転がっていても、きまっていつもみすみす逃がしてしまうんですね。

陳腐なたとえ話ですが、いつかの陽が斜めに差し込む時間帯のファミレスの窓辺でくだらないはなしに花を咲かせているときに、好き(正しくは、だった)な人が普段はしなかったようなアンニュイで物憂げな目付きをして頬杖をついていて、そのとき、「なんでこの人はこんなにも何もかもに飽きてしまったような表情をしているのだろう」とか、「もしかして自分がさっきの会話で何か気に障ることを話してしまったのか」とか、その表情の理由やそれまでのいきさつに気を取られてしまうし、そこからこのシチュエーションに至るあれこれに足りない脳みそで考えを巡らせ、考えた結果、何も起こっていないことが確認できた頃には、肝心の会話からワンテンポ遅れてしまう。思い返しても、彼女がどういう顔で何に目をやっていたか、判然と思いだせない。こういうときに、瞬間を切り取るシャッターが眼に埋まってたらいいのにとか、綺麗に風景ごと彼女を切り取るペンがあればいいのにとか、またまた陳腐なもしもに気づき思いを巡らせますが、時すでに遅し。いつも何か大切なことが過ぎてしまった後になってから、その瞬間の時間が放つ美しさを知る。

こんな調子なので、映画を見るときも、大概は一回ではぼんやりとした全体像しか記憶にとどまっていないんですね。みなさん、きっと記憶が優れていらっしゃると思いますので、こんなことはないでしょうが。「現在」に対する僕のセンサーは人よりいくらか壊れているのだろうか。

なにも「感動」したくて映画を見ているわけじゃない

近頃はあまりに「号泣」という言葉が使われすぎているのではないか。というのは、森博嗣のショート・エッセイ『つぼねのカトリーヌ』の第4項目にある主張なのですが、ごもっともだと思います。この中で、森氏は「ちょっと涙が流れたくらいで使うようになった」と斬りこみ、テレビバラエティ番組のタレントを例に「泣くことが恥ずかしいことだと感じない」ことを「下品」と断じています。ただただ首肯。他にも「傑作」や「感動」という言葉も同様で、日常的に目に触れすぎ、いささか重みに欠けるような印象があります。そして、森さんは「号泣」についての項を以下のように文章で結んでいます。

 いずれにしても、感動で号泣することはあり得ないだろう。そういう泣き方は、もっと恨めしさとか悔しさとか、圧倒的な悲しさだけにあるものだ。

  泣くなという話ではない。号泣するときは、自分一人だけのときにすれば良い。人に見せるものではない、ということである。そうしないと、「ああ、この人は、人前で号泣するような育ちの人か」と思われる。そのマイナスを考量してから号泣するようにしてもらいたい。これは、ドラマや映画やアニメなどでも、同じだと思う。作り手の文化を見ることができる。

  (森博嗣『つぼねのカトリーヌ』講談社文庫より)

「号泣」というものは、丹念で切実な描写の積み重ねにより初めて起こるもので、決して安易なものではなく、泣かせよう、感動させよう、という意図が丸見えの作りものには辟易してしまいます。こういう繊細なところに気遣える作り手が減ってきているのは、平積みされた本の帯文やコマーシャルとして挿入される宣伝をいくつか見ていれば、歴然です。

では「暮しの手帖」がなぜ泣けるのか

ただ、私はいつも『この世界の片隅に』を見ると、なぜ自分がこんなにもポロポロと涙を流しているのかが、まるでさっぱりわからなくなるのですね。

たしかに、冒頭の森博嗣が言うように、小さな力ではどうにもならない理不尽への「恨めしさとか悔しさ」であったり、ひとりの人間が背負うには重すぎる「圧倒的な悲しさ」であったり、やりきれないむなしさに涙する、というのは実際にあります。

わかりやすい箇所を挙げますと、たとえば、それまで表向きぼーっとしたまま、北條家に嫁いで生活を送っていた浦野すずのもとへ、海軍帰りの幼なじみ水原哲がふらり現れ、時を経てふたりきりで対面したときに、内側からそれまでの鬱憤と後悔がドバドバとめどなくあふれ出したシーンは、彼女が心の片隅で慕い続けてきたほのかな初恋がやっと明らかになり、胸がギュッと苦しくなります。すずさんが右手と共に晴美ちゃんを失ってしまい、自分を責め続けた果てに、配線を告げられたときのあのやりきれなさも辛い。初めて劇場で鑑賞した(満員のため立ち見)際も、中盤からは各所からズルズル鼻をすする音がやみませんでした。

しかし、そういったわかりやすい「感動」や「号泣」のポイントとは、まったく別のところで、泣かせるのがこの作品の凄みなんですね。それは、日常のほんの些細な、炊きあがった白米の粒の立ち方であったり、青い海に走る白波であったり、食卓を照らす灯りだったり、至る所にある当たり前すぎて見過ごしてしまう一瞬に潜んでいます。本作、思い切った編集をしていて、不要なところは思い切って捨て去る、一般的な「わかりやすさ」とはちょっとかけ離れた、こちらの想像力で内容を補填することが求められる構成になっています。そのおかげで、タペストリー(和服を継ぎ合わせたもんぺのように、という比喩の方が適切ですかね)のように繋ぎ合わされた、綿々と紡がれた日常の暮らしの一幕たちが、とてもイキイキとしているんですね。

「日々を淡々と生きることは素晴らしいのです」「生きているだけで幸せなのです」こんなありきたりなことは、わざわざ言われるまでもありませんし、言葉にすると、あまりにチープで嘘くさく、逆に難しいこった表現を使うとまどろっこしくなります。意外とこれが至難のものなのですね*1

生活への、「現在」への、鋭いセンサー

この世界の片隅に』で、すずさん*2は、周囲から「ボーっとしてる」性格だと評されています。それは単に彼女がおっとりしているからというだけではなく、常に生活に転がっている「現在」にしか瞳の中に入ってこないからなんですね。空想が豊かで、絵を描くのが上手いため、「現在」へのセンサーがピンと何本も立っているんだと思います。「現在」を大きな澄んだ瞳で見つめ、軽やかに「現在」を自分の中で咀嚼し、真横を通り過ぎる「時間」に目がいかない。で、ここでキャラメルってそういうことだったのか、と気づいたりします。あれはなかなか丹念に味わわなくてはなりませんし、口内にしつこいくらいに甘ったるさが残ります。普通の人ならやり過ごす(便利なことに忘れる機能があるので)ような「現在」を、輪郭の線の一つ一つという細かい単位から見ているんですね。すずが絵を描く場面は、劇中ではさわり程度に端的にしか描かれていないが、それを補う、こうの史代片渕須直の生活に忠実な眼差し。細切れの、ほんの一瞬の、でも絶対に欠かすことのできない、そこにしかない「現在」を確実な描写のひとつひとつが、すずの代弁者となっていくんですね。

段々と戦争が日常に影を落とし、否応なく周りの「時間」が早まっていっても、すずさんは「現在」を捉えようと、懸命に(見た目はホンワカ)生活をペン代わりに乗り越えていこうとします。しかし、そんな努力も空しく自分と「現在」とを繋ぎとめていた想像の翼の象徴でもある右腕を、幼子と共に失ってしまいます。ある日突然、それまで自分と世界をかろうじて繋ぎとめていた、確かな一本の糸がプツンと切られてしまう。義理の姉を亡くした自責の念から、それまで自分を素通りしていっていた「過去」が彼女を襲い、見てこなかった《もしも》が降りかかってくる。それまでは、ヘラヘラと過ごしていたのが、一気にモノローグが増え、普通の映画だとかなり過剰な語りだと思われますし、前半とのトーンがまるっきり変わってくるのですが、このぎゃぷにまた胸を痛めてしまう。こんなに悲しくてやりきれない、いっそのこと死んだ方がマシとまで思わせるような目に遭っても、それでもなんとか生きていかない、生かされたものは生きぬことが死者への供養である、というのが、この作品の優しいところでもあり、シビアなところでもあり、救済といえるものなのかもしれません。たとえ、右腕を失っても、日常は続いていく。文字にするだけで普通すぎますが、この普通ほど保つのが難しいことはない。だから、生活の明かりがともるだけで泣けてくる。

悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない、あの限りないむなしさを、「生活」にすがることで、乗り越えてきたすずの「暮しの手帖」は、これからも救いになるのだと祈っています。

<おしまい>

追記 7/5>

www.tbs.co.jp

どうやら、この原稿を書いている現在(2018年7月5日)にこの漫画・アニメが実写ドラマとして、制作されることを知りました。脚本・岡田恵正、音楽・久石譲、という気合の入りっぷりで、期待は持てますが、どうやら尺の都合なのか(こういうときに便宜を図って5話くらいに絞るとかすればいいのに、民法ってイマイチこういう融通が利かない印象がある)、現代パートなるものが挿まれるようで、一抹の不安が過ってしまいます。まあ既に各所で指摘のある通り、某作家原作の戦争映画の記憶が嫌でも呼び覚まされるわけですが、どうなることやら。

そういや二階堂ふみって『西郷どん』にも出ていましたよね。日曜引っ張りだこですねえ。

追記 7/16> 

第1話のドラマ版を拝見いたしましたが、そこまで悪くはないようでしたが、どうしても実写の限界(豪華な制作陣とセットの完成度からすれば、そりゃやたら同じ海の場面ばかりにもなるよなあ、という)というものがちらちら窺えなくもないかな。ただ『ひよっこ』ファンとして贔屓に見続けようかな、ぐらいの面白さはあったと思います。まだ判断はできないんですが、懸念されていた現代パートの主人公である榮倉奈々を、漫画に影響をされて舞台に移住するという『激レアさん連れてきた』枠なエキセントリックな女性(と古舘祐太郎のアホそうな彼氏)にしたのはよかったんじゃないでしょうか。

松本穂香はすごくアニメみたいな顔立ちですよね。あるときは田舎臭い芋な子に見えるし、あるときはものすごく可愛く見えるし、またあるときは色っぽさもある。演技でやってるのか、はたまた地なのか、天然に見える計算ずくなのか。まったく読めないトロ臭さは『溺れるナイフ』の小松菜奈を彷彿とさせました。不思議な女優さんです。竹内結子以外で誰かに似ているなと思ったら、『シェイプ・オブ・ウォーター』のサリー・ホーキンスですね。向こうがディズニーアニメーションなら、こっちは日本アニメ顔です(ひねりなし)。

松坂桃李広島弁は板についていましたね。凄く達者。ドロンズ石本さんは地元なのでそりゃうまいですが、松坂君は器用にこなしますよね。て、よく考えたら、『虎狼の血』で広島弁喋りまくってました。それにしても、桃李君のルックスは、周作さんと瓜二つです(ただ役どころ仕方ないですが、村上虹郎くんよりも松坂のが身体検査パスしそうなのは若干のキャストミス。しかし、これは前述の通り、周作は彼しかいないというハマりぶりなので、良しとする)。 

<関連映画&書籍>

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マイマイ新子と千年の魔法 [DVD]

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戦争中の暮しの記録―保存版

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一汁一菜でよいという提案

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<おしまい>

 

 

*1:誰でもわかる平易な言葉で、真理をブサリと貫くことに成功している日本の詩人は、宮沢賢治谷川俊太郎くらいしかいないと思っています

*2:今となっては、この役が能年玲奈以外じゃ考えられない