ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

雑記5(自閉症スペクトラムってなんぞや)

日本に帰ってしばらく経ち、前より決まっていた療養をしている。まあ、療養といっても、仕事と並行して、カウンセリングにちょこまか顔を出すぐらいのことなのだが。まあなんというか気楽な身分なもんだなあ、と久しぶりの田舎の暮らしでそれなりに落ち着いている。よその国から帰ってくると、より一層こちらの呑気さにありがたみというものが湧いてくる。向こうは、あくせく常に人が動いていて、こちらの気も休まらなかった気がする。ずっと背伸びをしていたような。

本音を言えば、本当はもうちょっと何かしたかった。勧められていた療養の予定も、適当にすっぽかして、もう一度海外に行く準備を真剣に考えていた。こういうことをもっと勉強したい、というのがぼんやりと見えたというのもあるが、少しでもツテを作っておこうとコミュニケーションに難がある分際でそれなりの努力はしたので、それがふいになるのが恐かったのかもしれない。帰ってきてしばらくは、ちょっと体を休める程度のつもりにしていたし、日本に帰ってきた安心感も手伝い、快活に過ごしているつもりだった。友人と会って、ご飯を食べに行ったり、ちょっとした旅行へも行った。

しかし、そうして平穏な日々を過ごしているうちに、ふと自分の足元の不確かさに目がいった。俺は今ここで何をやっているんだ。俺はなんでこんな楽しそうなんだ。俺はこの先どうするんだ。何かがすっぽり抜け落ちるような音といっしょに、ぐらりとめまいのようなものがして、映るものの色合いが途端にモノクロに変わっていった。そうして、3日近く一室に引きこもってしまった。尋常な状態ではなかったのだと思う。元より、学校でもろくに人と会話もできなかったから、人間関係も構築できなかったし、そこから始まって軽程度の鬱のような症状はしばしば現れていたのは事実であった。しかし、今度のものは明らかに違う。思考に歯止めが効かなくなり、これまでの後悔やらが頭の中で鮮明な映像として浮かび上がり、周りにいる誰もかもが怖くなって、いつしか自分をなじる言葉が止まらなくなり、気づけばぼたぼたと汗なのか涙なのかよくわからない水が目からとめどなく出てきた。生まれてはじめてこんなにも鮮明に自死を真剣に考え、得体の知れぬものにおびえる自分が忌々しく、心から自身の存在そのものを呪った。破滅を願い続ける私のたましいはひたすら球の中をぐるぐると回り続けているようで、ただただ虚ろだった。

そして、周囲もそんな意気地ない私を見かね、病院へかかることを改めて勧められ、滔々了解するしかなかった。いくらか知識があるつもりだったし、それなりに精神障害に理解があるつもりだったが、いざ自分がその当事者になるとは思いもしなかった(いや、正しくは、そう思いたくなかったのだろう)ので、そこでまた不安妄想に襲われ、動悸が激しくなるを幾度か繰り返し、なんとか病院へ向かった。なんだか怪しい妄想ばかりが膨らんでしまったのだが、それは実際に先生にアウトすっかり吹き飛んだ。運が良かったのだろう。その日にカウンセリングを受け、診断を受けた後、2時間近くテストを行い、2週間後には自分の症状が判明した。どうやら「自閉症スペクトラムASD)」というものらしい。これを聞いたとき、動揺しなかった、といえばウソにはなるが(事前に自分が当てはまるかを見ても到底そこにハマるようには思えなかった)、しかし、どこか安心している私もいた。先生の言うように、今まで上手くいかないなと考えていたことがすべてこの症状のせいなんて都合の良いことはないけれど、これは病気ではなく「特性」だから時間はかかるけれども、ゆっくっり適応できるように治療しましょう、という説明だった。

「特定の音や臭いに過敏であること、人との目で見える距離感がわからなくなる、不安が胸に広がると動悸が激しくなり緊張が何時間も収まらなくなる、といったわかりやすい症状から抑えていき、徐々に身体を慣らしていくんですよ」

「へえ。そんなにうまくいくものなんですか」

「人によって、時間のかかり方が全然違いますけどね」

「でも、いずれは苦手なことも、ちゃんと向き合わなきゃダメですよね。たとえば人と面と向かって話すとか。苦痛ですけどやろうと思えばできなくもないですし、」

「いや、そんな無理はしなくてもいいですよ」

「いいんですか」

「ほら、サメっているじゃない」

「はあ」

「サメって海の中じゃ最強だけど、陸に上がるとダメでしょう。そういうことですよ」

「そういうことなんですか」

とわかったような、わからないような、絶妙なたとえ話に言いくるめられ、すっかり心が落ち着くところを見つけたような気がした。胸のつかえがとれたように感じた。

で、ここまで、わざわざ恥も外聞もなく実情をペラペラ晒しておきながら、なんなのだが、別に今ここまで気長に読んでくださっている方に同情を頂こうともくろんでいるわけではない。ただ「こういうことがあった」それだけの日記であるし、今こうして書いている現在は意外にもフラットです。むしろ、今はホッとしている。薄々分かってはいたけど、周りに流れている時間と自分のそれが合っていないことにはもっと早く気付くべきだった。こんな簡単なことが何でわかんなかったんだろう、とちょっと不思議に思ったりします。まあ、別にまだ治療の初期段階なんで、今はたまたま調子がいいから、こんなこと言ってられるだけなんですがね。

こうして、知り合いから紹介してもらった仕事を毎日3、4時間ほどやってから、余裕ができて、気分のいいときは、最近は近くのプールに泳ぎいいって、 そのまま銭湯へ向かい、サウナで整えるのが、ちょっとした日常の些細な楽しみになっている、今日にいたる。立地がいいのがうれしい。もっと気分がまともなときは、喫茶スペースのある美味しいパン屋ができていたので、そこに本を持ち込んでいったりする。いたって平穏。普通が楽しい、ということを普通に考えられるようになった、というのが最近の大きな進歩だったように思う。前はどこか普通というブラックボックスが不気味に怖かったが、今は「自分も普通なんだ」という思い込みをする方法を発見しました。思い込みも大事。

何よりも、どっこいまだ生きている。これに尽きる。

 

最後に、メンタル危うし!という状況のときに、心の拠り所になった本たちをいくつか羅列。あくまで私見です。

▲V・E・フランクㇽ『夜と霧』:描かれている本物の惨劇と、書かれている本物の言葉の強さにふるえる。何度も読んで、付箋とマーカーだらけになってしまったので、買い替えなければ。

尾崎紅葉金色夜叉』:こんなに読ませるエンタメだったとは。昔、途中で挫折した私は阿呆だ。

大橋裕之『シティライツ 完全版』:行間にやられる。この人と宮崎夏次系がいてよかった。

遠藤周作『沈黙』:何周か回って、非常に今日的だと感じる「宗教」のあり方。

高野文子『ドミトリーともきんす』:手軽に、気楽に、科学の硬質でひんやりとした懐かしみに触れ合うことができる良書。三角フラスコで透かして見えた真昼の肯定とかが思い浮かぶ。

▲梨木果歩『家守綺譚』『鳥と雲と薬草袋』:花鳥風月の描写が丁寧で、外出しようという意欲がムクムク湧いてくる。インドア派をアウトドア志向に変えるバイブル。『鳥と~』は歩き回って見聞きすることが大事だと諭される気持ちで読んでいたが、ここまで鋭敏なセンサーはないなあ。

ミヒャエル・エンデ『モモ』:時間に対する興味が湧いた原点なのかもしれない。

アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』:めちゃくちゃセレクトミスだったけども、これは面白かった。不条理小説の新たな傑作と断じても問題ない。

岡潔、森田真生『数学する人生』:宝箱のような本。

堀辰雄風立ちぬ』:こんなに文章が美しくてもいいんだろうか。夏と死の濃厚な関係性を描き切っている。

三島由紀夫金閣寺』『仮面の告白』『美しい星』『女神』:絶対に精神がフワフワしているときに読むべきでない作者だと思うのだが、誘惑に駆られて読んでしまった。太陽がぎらぎら照りつきだすと、絶対的な美にすがろうとするんでしょうか。

柳家小三治『落語家論』:立川談春『赤めだか』に並ぶ名著。

小野不由美『営繕かるかや怪異譚』:怖さと懐かしさは、私にとっては同質の感覚なんだろうなあ。怪談で感じる、空間の仄暗さはとても居心地がいい。

杉浦日向子東のエデン

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

 
シティライツ 完全版上巻

シティライツ 完全版上巻

 
シティライツ 完全版下巻

シティライツ 完全版下巻

 
沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 
ドミトリーともきんす

ドミトリーともきんす

 
家守綺譚 (新潮文庫)

家守綺譚 (新潮文庫)

 
鳥と雲と薬草袋

鳥と雲と薬草袋

 
モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 
ペンギンの憂鬱 (新潮クレスト・ブックス)

ペンギンの憂鬱 (新潮クレスト・ブックス)

 
数学する人生

数学する人生

 
風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

 
女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

 
落語家論 (ちくま文庫)

落語家論 (ちくま文庫)

 
営繕かるかや怪異譚

営繕かるかや怪異譚

 
東のエデン (ちくま文庫)

東のエデン (ちくま文庫)

 

<おしまい>

 

松岡茉優 + 大九明子『勝手にふるえてろ』

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わからん………てんで、わからんけど、なんか分かるぞ………と、どうでもいいトラウマまで呼び覚まされた名シーン

<前回>

kuro-matsu2023.hatenadiary.jp

以前カウンセリングを受けたとき、項目の中に「あなたはよくひとりごとをしゃべりますか?」とあったので、素直に「はい」と答えました。ひとりごとってやっぱり疾患だったのか。

主食といっても過言ではない、もはや生活必需品のヨーグルトを切らしている。

参ったなあ。なんで昨日の帰りに行かなかったんだ。ちくしょう。

そんなことをひとりごち、ついでに今日の夕食に作ろうと考えていたビビンバ(ビビンパのが正式なんだっけか)のレシピと貧相な冷蔵庫の在庫を照らし合わせ確認。ほうれん草は一昨日の炒め物で消費してしまい、コチュジャンも切れているし、キムチは残りわずか。テーブルのメモ書きが目に入り、銀行にもいかなきゃいけないのを思いだす。

呑気していた自分が100パーセント悪いが、わかっちゃいながらもあわあわして、メモリが極めて少ない自分の脳内に「やることリスト(至急)」なるものを作成し、いそいで自転車のサドルを跨ぎ、ペダルに足をかける。

すると今度は久しく乗っていないので、タイヤの空気がスッカラカン。なんてこった、と自分のナマケモノぶりを罵りつつ、せっせと膨らませ再出発。

銀行で用事を済ませ、スーパーへ。野菜コーナーから。ほうれん草を確保。にんにくをついでに補充。あら、お安いじゃない。卵をかごへ放り込む。続けてコチュジャンも。味噌も赤いのが欲しかったので購入。どうせすぐになくなるアイスコーヒーもこの際だ。買ってしまおう。そうだそうだ、キムチを忘れてた。と引き返し、ようやくレジ。

会計が終わり、持参したトートバッグに、かごの中の品々を投入していると、身体にピシャリと電流が。

「あ!ヨーグルト!

うっかり声を漏らしてしまい、隣で荷物を詰めてたオバさんの苦笑を背に受けながら、ヨーグルトのためだけにレジに並び直し、そこでも店員さんの冷たい目線が突き刺さるのであった。

と、なぜタラタラと私の些末でくだらなさすぎる日常的な失敗談を、恥を忍んで書きだしたのかといえば、別に物忘れの酷さを訴えたいわけではないのです。ただ「ついひとりごとって出ちゃいますよね」というそれだけのこと。

考えごとにはまりこんで、つい気を抜くと、ところかまわずに、ひとりごとをつぶやいてしまう。散歩中だろうと、読書中だろうと、ぶつぶつと、ああでもない、こうでもない、と思いついたら、その端々から口に出して、ふと冷静に帰ると、急に恥ずかしくなり赤面してしまう。白い目で見られているであろうことは薄々感じつつも、さすがに私も人目を多少はばかる、紙切れ程度のデリカシーは持ち合わせてはいるので、迷惑は(たぶん)かけてはいないはずだが。物心ついたころからだとは思うのだけれども、正直いつからこんなおしゃべりなお口になったのか、さっぱりわかりません。

ただ、そうやってひとりごとをしゃべっていると、ひとりでいることへの寂しさのようなものがまぎれるから、というなんとなくの理由は見当がついてはいるのです。

勝手にふるえてろ』のヒロインのヨシカにもそのようなシンパシーを抱いてしまったのですね。

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そもそもこのブログだって「ひとりごと」の延長だし、「ごっこあそび」みたいなもんだったわ

(念のため、白状しておくと、恥ずかしながら、現段階で綿矢りさ氏の原作をまるで読んでいない―いや、正確には「おそらく読んだのだがサッパリ記憶から消えてしまっている」のだが―ので、作中の描写が、大九監督のものなのか、はたまた綿矢氏のオリジナルなのか、判別が付いていない状態です。そのため、もしかすると取り違えている箇所が多々あるのかもしれませんが、そこはどうかご容赦願いたいです。あと時効なはずなので、ネタバレにも目をつぶっていただくとありがたいです)

ノーベル文学賞で話題にもなったカズオ・イシグロの代表作に『日の名残り』というものがあります。かつて栄華を極めた伝統的な英国の貴族へ仕えた執事スティーブンスが、短い旅路の中、自分の人生を回顧していく、という筋書で、アンソニー・ホプキンス主演で映画化もされており、原作・映画共に名作*1である、という原作というノベルティ付き映像化作品(くどい表現)でも珍しい部類です。

日の名残り』は、事あるごとに手を取ってしまう魅力があります。なぜそれほど惚れ込んでしまったか。それは、一人語りがすぐるくらいのスタイルなのに、スティーブンスが、私たち読者にとって、まるで「信頼のおけない語り手」だからに他ならないんですね。心の底が読めるんだけど、肝心のことは言いません。日本人みたいです。彼は、常にうやうやしく、忍耐力のある、「品格」に忠実な執事であろう、と生涯をささげた1人の人間ですが、同時に、ミス・ケントンという女性への想いや、従事したダーリントン卿に対して抱いている割り切れなさが、チラチラ独白の端々に窺え、日が沈むまでの余生を探求していく旅路の道すがらには、過去への後悔や歴史に引き裂かれた悲しみが、ポツポツ顔をのぞかせています。主人のダーリントン卿を「遠慮深く謙虚な性格」と評しながら、そこにはどこか彼を慕ってきた自分への懺悔のような意志を感じることができ、読むたび抱く感想が自分の心中でコロコロ変わるので、全く飽きることがないのですね。 

そんなスティーヴンスとは違って、謙虚さや忍耐力とは無縁ですが、信頼のおけなさについては全く負けていない語り手が、『勝手にふるえてろ』のヨシカなのです。

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ではこの「根暗オタク」が過ちを過ちのまま、反省とは無縁のまま、大逆転してしまう、新世紀のピカレスクロマンについて

勝手にふるえてろ』は、女性が1人称の独白のような、文体を取っており、太宰治の『女生徒』の系譜にあります。主役であり、語り手となるヨシカは、中学生の頃から脳内でパンッパンに膨らませてきた「イチ」という男の子に思いを寄せ続け、現在は経理課に勤務する、独身女性です。同僚の来留美は結婚相手を捕まえようと、虎視眈々としていますが、ヨシカはお構いなしに「イチ」とのつながりを糧に生きています(痛いよ!)。そんな中で、同期入社したすこし(いや、かなりか)間の抜けた霧島から告白を受けるんですね。もちろん、ヨシカは彼にまったく好意は抱いていないのですが、生まれてこの方、異性との告白はおろか、恋愛経験もロクにないですので、浮かれまくります。霧島くんを、(生意気にも)「イチ」の次の2番目、ということで「ニ」と名付け、浮かれまくるもつかの間、そもそもヨシカには全くその気がないので、「ニ」の猛烈なアタックを受けるも気乗りしません。逡巡してるうちに、あることで死にかけたことを機に、一念発起し、どんなこと(本当にゲスい汚い手を使う)をしてでも「イチ」と逢うべく、あの手この手を尽くしまくり、どうにか再開しますが、ここでまたとんでもない事実が発覚して、ヨシカは失意のどん底へ落ちていくんですね。さて、ここからいかに大逆転するのか、というのが主なあらすじですが、まあ大体は書いてしまいましたね。

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先にも書きましたが、この映画は、1人称の告白形式を採用してまして、基本的に主人公の語りによって、ストーリーが進行し、世界がそれに合わせて動いていきます。主人公が語りをすると、映画のスピードが緩慢になってしまいますので、割とよくやっているのが、早口にしゃべらせて、細かいカット割りや時系列を複雑化させることで、スピードを上げようというもの。あと第4の壁を超えさせて、観客に語りかけることで、油断させないようにしたり。

しかし、『勝手にふるえてろ』で採用されたやり方というものが面白く、ここではヨシカの身の回りの人や物が、彼女の意志によって動いていきます。何を言っているんだ、ということなのですが。

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松岡茉優、オンステージ!! 

彼女の気分が舞い上がれば、通行人A~Zが拍手で祝福し、妄想の恋に患い涙をすれば、ウェイトレスが胸の内を聞いてくれる。同窓会で「イチ」を奪われそうになったら、天ぷら屋のおばちゃんが檄を入れてくれる。小説では(読んでないのであくまで”おそらく”ですけど)セリフだけでなく、鍵カッコのない地の文にもダラダラと漏れていたであろうヨシカの心中を、彼女の「世界」の中に取り込まれてしまった人々との会話によって、感情を暴露(表向きは本当のことを言っていない可能性がある、というのがポイント)させていくのですね。このスマートな手さばきだけでも、良い映画だということが確信に変わりますし、本作が十分に優れた文芸作品をもとにしているのだなということを認識できます。大九監督の策略がしまったわけビシッとハマってしまったわけで、すごく素敵な相乗効果をもたらしているのですね*2

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それに、なんといっても、この「ひとりごと文学」を映画として成功に導いた最大の立役者は、他の誰でもなく松岡茉優でしょう。彼女の演技力の習熟度合いには舌を巻いてしまいました。信頼できない語り手・ヨシカに対し、全面的に信頼できる若き名女優・松岡茉優。見事なまでの松岡茉優オンステージっぷりで、この人さえいれば、どんな杜撰な内容でも、パイロット版くらいのクオリティにアップするのではなかろうか、というほどの安定感。同世代の日本の女優の中でも最強クラスの傑物です。なによりも表情筋のコントロールが群を抜いて素晴らしい。高揚すると顔がパーッと明るくなり、失意のどん底に堕ちれば顔から表情がスッと消え去る。キラキラとした天真爛漫な部分から、挙動不審な所作まで、わざとらしさや「演技できるでしょアタシ」という自己主張無しに、顔のしわから目のクマまで自由自在に(たっぷりの茶目っ気をもって)キャラクタの感情を説明できる。到底できることではないです。

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この優れた信用できる若き英才・松岡茉優が演じる、ヨシカという女性は、激しい自己否定・自己卑下をやめられず、他人の善意を理解しておきながら、あれこれ妄想が勝ってしまい、閉塞的に自分を守るための心理的なシールドを張ってしまう、内向的で歪んだパーソナリティの人物です。私なんかは、「顔が違うだけで自分と変わらへんやん」と見ていられなくなるほどなのですが、人によっては激しい嫌悪感(あるいは同族嫌悪なのかも)を起こすでしょうし、彼女が最終的についたある嘘や親しい人までを巻き込む暴走っぷりは、褒められたものではありません。SNSを散々こき下ろし「日記は恥」と言いのけた後に、偽りの同窓生のアカウントを悪びれることなく騙り、自殺願望まで垂れ流し、挙句「あんた人気あるねえ」と恨み節まで言い放つ、手段の選ばなさ。告白してくれた「ニ」を、そっけなく振り回し(まあ半ばストーカーのように付き纏う「ニ」も悪いのですが)、散々煮え切らない態度を示しておきながら、自分の怒りをヨシカ自身の写し鏡的存在である彼に八つ当たりする辛辣さ。ただ、そうしたなりふり構わぬ暴走含め、決して我々とそう隔たりのある感性の持ち主ではなくて、むしろ、誰にでも持ちうる「ねじれ」なのかも、と思わされたりします。彼女は一つの凡例にすぎなくて、どこにでもいるポンコツ極まりない社会不適合者なんですね(耳が痛い)。ある意味、ここまで素直に感情をゴリゴリ表に押し出し行動に移せる、というのは羨ましさすらありますが。

こうした人生のどこかで「ねじれ」てしまった、絶滅危惧種女子の生態系を、かつてアンモナイトが存在した古代へ思いを馳せて、文科系への毒をインクにたっぷりにじませ、鋭く突きさすようなクリティカルな筆舌と女子への愛おしいまなざしを交えながら、精緻かつ乱暴に描いていくんですね。汚いうがい、詰め噛み、吐き出される唾、など綺麗ではないのだけれど、ものすごくリアルな「女の子」という生き物へ、監督が内で培ってきた愛情がむき出しになっているようです。女性に対する底知れぬ全面肯定的な母性すら感じます。

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やめろ!!!

ただ、大九監督、ただ甘やかすだけじゃありません。潔いほどにフェアなんですね。というのも、絶え間のない「女子」への愛情表現のゆたかさだけでなく、しっかり痛烈な「しっぺ返し」を欠かしません。

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痛すぎるよ………

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Base Ball Bear小出祐介吉沢亮をたすと北村匠海くんが出来上がるんですね

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ヨシカは、学生時代、誰からも見られていないような”幽霊”側の存在だったので、「視野見」というものを習得しました。メガネの奥の黒目をそのままに、視野の端だけで教室の「イチ」くんを見つめ続けてきたわけです。放課後に居残りで反省文を書かされている「イチ」にわざと間違えるアドバイスを授けたり*3、体育祭でこっそり「僕だけを見て」と言われたりしても、ヨシカはずっと視野の端でしか見続けない。正面から現実の「イチ」と接することを拒み続けてきたのです。彼女にとっては、脳内の王子様のような理想像こそが「イチ」であって、現実の一宮くんと頭の中の「イチ」を混同させたままなんですね。

教室の隅で培われたヨシカの空想癖は、名前いじりにも発展します。「イチ」に続く2番目の男、ということだけで、ぞんざいに「ニ」と命名。職場のサスペンダー上司に「フレディ」という渾名をつけて遊ぶ(ここで「We Will Rock You」のリズムが鳴らされるまでネタが細かい)。彼女にとって「名前」なんてものはどうでもよくて、自分と「イチ」が世界に存在すれば、他の人々はエキストラにすぎないので、適当に名前をつけちゃう(唯一といっていいくらい、ちゃんと名前を呼ばれているクルミちゃんが、ヨシカにとってどういう存在なのか、というのも、この物語の女子ならではの友情ともライバルともいえぬアンビバレンスな関係性が感じられます)。

そして、ガッツリと非道極まりない手段を使って同窓会に呼び寄せた「イチ」とようやく接近するチャンスを得たヨシカは、それまで黒くくすんでかかとが踏まれた薄汚れた靴から、ぴかぴかのハイヒールに履き替え、女の顔になります(ここでするりと包帯が外されるショットはエロスを感じました)。もう、ウキウキワクワクルンルンです。

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ですが、そう幸福が続くはずもなく、一気に谷底から伸びてきた暗黒に足を絡めとられちゃうんですね。ヨシカは思い切って、学生時代から描いてきた「天然王子」なるキャラを、モデルである「イチ」本人に見せ、ようやく生身で交流を図ろうとしますが、驚愕の事実を告げられてしまいます。というのも、この「イチ」というのは、ヨシカにとって人生の一大テーマであったのとは真逆に、一宮くん本人にとっては呪いそのもので、呼ばれたくない名前だったんですね。しかも、一宮くんは「ヨシカ」という名前すら覚えていない。「イチ」という呼び名自体が、とんでもない悲劇を招いてしまうだけでなく、自分の存在を消す「視野見」という行為までもが彼女の恋の破滅を引き起こしてしまった。膨れ上がった風船が、針でひと思いに突き刺されたような萎み具合。多少の自業自得感はあるとはいえ、なかなかに惨い仕打ちの連続。この事実を知らされる前後の落差の激しさは、胃がキリキリします。布団焼失事件からの「前のめりに死んでやる」という決意と共に、やっとの思いで辿り着いた「イチ」との逢瀬に気分はクライマックスまで高ぶり、ミュージカル女優さながらの闊歩も空しく、これまでの妄想がただの「ごっこ遊び」でしかなかったこと、周りの誰の視界にも自分は映っていないということ、自分がただのエキストラであることが一気に押し寄せます*4。バスの中は一人、振り返っても誰もいない。近しいと思ってきた人は、現実では距離の離れた言葉も交わしたことのない赤の他人だった。「世界」が自分に気付かなくなり、会話を交わしてきた人たちが、失恋と一緒に遠ざかり、オカリナの「名前に支配された人生なんです」で完全にトドメです。自分のためだけに立ちあがってたミュージカル世界が、非常にイヤな皮肉として生きてくるんですね(『ラ・ラ・ランド』よりもうまい)。

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これでヨシカへの「しっぺ返し」は終わりません。顔が水で濡れたアンパンマンをさらにドブ川に叩きこむような容赦のなさ。妄想から醒め、現実と向き合おうとします。いつもゴミを捨ててくれるおばさんに、憐憫の言葉をかけますが、案の定冷たくあしらわれてしまう。安物のとってつけたような薄っぺら以前には、当然見透かされますし、結局彼女は自分が大事であるという状態から抜け出しきれません。「イチ」の夢を忘れようと、ズルズル延ばしてきた「ニ」との恋愛にもどり、つかの間の幸福を味わうも、クルミの気遣いがヨシカをまた狂わせてしまうんですね。クルミなりに掩護射撃をしたつもり(ヨシカは自分が恋愛未経験ボンクラ処女だと強く自覚しているだけに、それを「ニ」にバラされるということは、彼女の自意識に深い深い傷をつけるんですね)で、本人は気遣いのつもりなんだけど、それも善意の皮を被った嘘くさい同情でしかなく、またしても残酷な「しっぺ返し」です。

「わからないから好き」というので頷きまくっちゃうよね

こうして怒りにより歯止めが利かなくなったヨシカは、クルミへ復讐を仕掛け、会社を辞めて、自分で窮地に追い込んでしまう。一度リアルに死に掛け、「イチ」という妄想とも別離し、そしてまた息もつけない状況に追い込まれる。おそらく、普通のありきたりで、良心的なお話ならば、このあとヨシカはクルミへ自分がしたことを告白し、「ニ」への仕打ちを謝罪するのが常でしょう。

しかし、ヨシカはそんな道を歩まず、また「ごっこ遊び」を選ぶんですね。もうとんでもなくワルです。ワルですが、どこか清々しい。これがこのお話の不思議なところ。途中までは、ボンクラ処女が「ごっこ遊び」と折り合いをつけ、現実と迎合していくお話を想定していましたが、これがとんでもないピカレスクロマンでした。やめるどころか、「ごっこ遊び」を選択し、ますます堕落していく道を邁進していきます。この終わり方、やはり『スイス・アーミー・マン』と比較しないわけにはいかないのですが、共通するところが多くあると思います。

そこで雨に濡れた赤い付箋が濡れ、処女膜(概念)が破られるエロスが、ピカレスクとして生きる「勝手にふるえてろ」宣言と共に、バシッと結合するあたり、めちゃくちゃ気持ちよかったです。痛快の極み。

彼女がこのまま絶滅危惧種として生き延びるのか、はたまたもう一度盛大な「しっぺ返し」を食らうのか、ヨシカの未来が気になるところであります。

<以下、爆笑&憤死の怒涛のクライマックス>

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<余談>

黒猫チェルシーはデビュー時にすごく聴いてて、カッコいいバンドだなあ、と惚れ惚れしたものの、一時は影を潜めてしまって心配してたんですが、渡辺大知くんの活躍っぷりにホッとした元ファンでした。コンスタントに役者やってたとはいえ、ここまで引っ張りだこになるとは。銀杏の峯田君もだけど、やっぱり朝ドラの影響ってデカいのね。


黒猫チェルシー - 嘘とドイツ兵(PV)

<関連映画&書籍> 

勝手にふるえてろ
 
勝手にふるえてろ (文春文庫)

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太陽の塔 (新潮文庫)

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走れメロス (新潮文庫)

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日の名残り (ハヤカワepi文庫)

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あまちゃん 完全版 Blu-rayBOX1

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映画『聲の形』DVD

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ベイビーユー

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 <おしまい> 

 

*1:映画の方は時間の制約上か、恋愛物語としての色が濃いが、それはそれで素晴らしい映画なので、是非ともお時間に余裕のある方は比較してみていただきたい

*2:マッサージ師に愚痴るあたりは坂元裕二最高の離婚』を彷彿

*3:あんな些細な出来事だけを精神的なつながり、と呼ぶのが太宰的なんですよね

*4:映画『her』でホアキン・フェニックスに告げたルーニー・マーラの手痛い一言を彷彿しましたが、ヨシカは「ニ」と恋愛関係にあるワケではないので、よりヘヴィーかもね

All You Need is one Killer Track エドガー・ライト『ベイビー・ドライバー』

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この手の煽り文句を口にするのは、恥ずかしさすらあるのだが、でも言わせてほしい…………「この映画を見て、涙腺が壊れない、そんな血も涙もない人間、この世界にいるんですか?」と。

何度見ても激烈に「オモシロイ!」と思える映画、というのはそうそうありません。そんなのがあるなら教えてくれよ、という具合ですが、あったんですねえ。問答無用に面白い映画です、『ベイビー・ドライバー』。

しかも、5回以上は(劇場で公開されていたもの含め)見たのに、いつも懲りずに3度はどこかしらで泣いちゃうんですね。たとえば、あるときは、コインランドリーで音楽を聴きながらデボラちゃんと踊る場面。声の出ない養父のお爺ちゃんが介護施設で困らないように、ベイビーが愛用テープレコーダーに自己紹介の音声を吹き込んで録音してあげる場面。母親(スカイ・フェレイラ!)が情熱的に切なく歌うコモドアーズの「Easy」カヴァー。

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あと、最初ベイビーがT.REXを「トレックス?」と言い間違えるの、最初はジョークだとばかりに思ってたのですが、よくよく考えれば、ずっと映画やアニメのセリフでしかまともに喋らない(バンブルビーかよ!)のも踏まえると、彼には母親が残してくれた音楽と、おじいちゃんと見るテレビしか情報源がないわけですから、そりゃT.Rexなんて読み方知ってるはずがないんですよね。というか、彼にとっては、そんなことはどうだっていいんですよね。だって、母親の音楽だけをよりどころにしてきたんだし……文字通り音楽しか友達がいなくて、1人でいる時間が長くて。だから、初めてできた友達と音楽をを共有しようと目を輝かせながら、ベイビーはデボラに話しかけていたのか……とか考えだして、また目の端から水が零れてしまいます(4回でしたね)。とにかく、いつ見てもフレッシュで、まっさらな映画の愉しみに没頭できる、というのは大変に素敵なことです。音楽がずっとなっているため、おしゃべりではありません。ただ、細かい場面をひとつとっても、人物描写を欠かさず、そして映画としての推進力を失うことのない、非常にソツのない優秀な一本です。「娯楽映画」という名に恥じぬでしょう。青春の甘さとほろ苦さが、子気味な音楽とともに、巧みなドライビング・テクニックで駆け抜けていく爽快さは、病みつきです。

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85パーセントくらいは上で書いてしまいましたが、残りの15パーを引き延ばし引き延ばしやっていきます 

 

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本作の監督は、エドガー・ライトです。これまでに、『ショーン・オブ・ザ・デッド』『ホット・ファズ』『ワールズ・エンド』と、どれも愛すべきダメ男たちが、奮闘していく姿を、小気味よいジョークを交えながら進めていくのが上手いコメディの若き英才です。『アントマン』の脚本もやってましたね。過去の名作をサンプリングする手際も見事なのですが、何よりもこの監督、大層な音楽好きで、度々細かい音楽小ネタや映像と映像とシンクロした演出を挿むのを、大得意としています。熱心な映画オタクであり、熱心な音楽マニアでもあります。わかりやすいのが、『ショーン・オブ・ザ・デッド』。ゾンビを撃退しようとサイモン・ペッグニック・フロストがレコード盤を品定めしているときの「パープル・レイン(プリンス殿下の)」「ダメだ」「バットマン」「よし、投げろ!」というやり取りは爆笑必至ですし、クイーンの「Don’t Stop Me Now」の流れる中でゾンビを撃退するところでは手に汗握り、最後に同じくゾンビになってしまった相棒と流れる、同じくクイーンの「You’re My Best Friend」では、ホロリ。ここまでやられると、いやらしい、というか憎い感じもしなくはないですが、これを嫌味ゼロでやってのけるのが、この監督の持ち味なのかもしれません。『ベイビー・ドライバー』冒頭のカーチェイスシーンの元ネタ(セルフパロディか)となった、ミント・ロワイヤル「ブルー・ソング」の監督もやっています。凝ったロックオタクでもありますが、2017年には映画のプロモーションで来日した際に、参加したフジロックではコーネリアスにお熱を上げていたようです(まったく関係ない別番組で、コーネリアスのドキュメンタリーかなんかをつけたら、たまたま海外公演を見に行っていたエドガーさんがベックと一緒にコメントしてるのにはたまげました)。

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エドガーさん、イギリスのご出身ですが、最近は特にアメリカ人じゃない監督が、実にアメリカ的な王道娯楽をやる、というのが増えているのでしょうか。『バードマン』『ジャッキー』『スリー・ビルボード』と、あれ別に多くないような気もしてきたけど、多分もっとあります。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督はナシでしょうか。ところで、これはまったく関わりはないですが、笑っちゃったのが、一時期熱狂的なマンチェスター・シティのファンでしたもんで、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』をイギリスの映画だと勘違いしていたのですが、購入して開いてなかったパンフレット見たら違うんですねあれ。アメリカのリゾート地なようで、結構驚きました

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お話はというと、これは強盗の際の逃がし屋、所謂「ゲッタウェイ・ドライバー」をやっている男の子の物語です。ニコラス・ウィンディング・レフン監督の『ドライヴ』でも同じ職業(表稼業はカースタント)が取り上げあれ、ライアン・ゴズリングが務めました。今作『ベイビー・ドライバー』の主人公である、アンセル・エルゴートが演じる「ベイビー」てのは、彼の裏稼業での名前でして、両親を幼い頃になくしたときの交通事故の後遺症で、いまも耳鳴りが止みません。なので、そいつを相殺するために音楽を聞いてないと、「キィーン」という高音が常時聞こえてきます。その代わり、その音楽を聴くことで、ゾーンに入るんですかね。めちゃくちゃ凄まじい集中力を発揮し、華麗なドライブを披露してくれます。もちろん、ベイビー君はこんな仕事からはとっとと足を洗いたいのですが、裏世界の大物であり、彼のクライアントでもあるドク(ケヴィン・スペイシー)への借金を仕事で返さねばなりません。ベイビーの養父である、耳と足が不自由なジョー(ジョセフが本名ですがこれで統一)も、息子も同然である青年が汚い金を手にしているのが悲しいので、できるだけ早く人の役に立つ仕事についてほしいと考えています。行きつけのダイナーのウェイトレス・デボラ(リリー・ジェームズとにかく可愛いです。日本版やるとしたら白石麻衣)と音楽を通じて仲良くなり惹かれあうものの、ベイビーは当然裏稼業のことはしっかり話せない。ようやく、大きな仕事を終え、ドクへのお金を返しピザ屋の宅配ドライバーとして、平穏な日々を歩もうとしますが、優れたドライバーとしての腕を持つがために、ドクが許さず、上手い話があるんだと、またベイビーを強盗チームへ誘い込みます。抜け出せないと悟ったベイビーは、デボラを連れて街を出ようと画策します。しかし、今度の強盗チームには、バディ&ダーリン(伊勢谷友介似のジョン・ハムとエロいエイザ・ゴンザレス)のカップルに加え、曲者のバッツ(ジェイミー・フォックス)までいる。果たして、ベイビーはこのおぞましい裏社会からゲッタウェイできるのか。というところでしょうか。

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仮にこの映画を《FMラジオスタイル》と名付けよう

カーチェイスが見どころとなるクライム・アクション・ムービーですが、しつこく申し上げているように、本作の真の主役であり、ストーリーテラーであり、舞台推進装置であり、優れた演出家でもあるのは、音楽です。甘い恋の高揚感から、緊迫したサスペンスまで、すべてはベイビー君の気持ち次第で選曲が決まっていくので、音楽で物語がどう転ぶか、ハラハラさせられます(もちろん用意周到な脚本があってからこそなせる技巧で、真似すると「火傷するぜ」です)。ジェームズ・ガンの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』でも同様な、我々の涙腺をいともたやすく決壊させる音楽(10㏄はやっぱりズルいよなあ)が物語を極彩色に塗り上げていましたが、あれに近いセンス。あちらもベイビー君のように、音楽(SONYの映画はiPodメインで、非SONYの方ではウィークマン大活躍なのもおかしいですね)がクリス・プラットが幼い頃に亡くした母親と繋がるための装置として機能していましたが、曲数も段違いですし、70~80年代の音楽が占めていたので、ジャンルの豊かさでは『ベイビー・ドライバー』に軍配が上がります。

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タイトルの元ネタである、サイモン&ガーファンクルの名曲から、作中で粋(全部が粋なんですけど)な使われ方をしているキッド・コアラに、初恋に聴くベックの淡い歌声、ダブル・ミーニング的なコモドアーズ、決闘のキラー・チューンとして場を盛り上げるクイーン。他には、ダムド、ゴールデン・イヤリング、ブラー、サム&デイヴ、ブレンダ・ハロウェイ、などなど王道から渋め、ロックからヒップホップ、ブラックミュージックからUKロックまで、エドガー・ライトの趣味がふんだんに生かされた、バランス感覚の良いセレクト。音楽オタク泣かせです(キャスト面でいえば、ジェイミ・フォックスもですし、強盗チームにはレッチリのフリーもいます。ちょっと痩せていましたが、元気なお姿が見られてうれしいと思ったら、即座に殺されたポール・ウィリアムスもいました)。

SONYトライスター・ピクチャーズのロゴが流れた後の、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンに乗せた、ド頭のド派手な銀行強盗からのカーチェイスは、これまでのどのような作品でも見たことのない、素晴らしいカーチェイスの出来ですし、アイディアも見事。なんたって、エンジンを切る音から銃声までが、音楽と文字通り「同期」しているわけでして、開幕宣言として実に流麗。こんなものやられたら、もうあとは身を委ねておけばいいんですね。

無事、警察の追っ手から逃げた後の、ローリング・ストーンズのカヴァーやハウス・オブ・ペインのサンプリングでもお馴染みのボブ&アール「ハーレム・シャッフル」に合わせて、軽快に踊るアンセル・エルゴートのコメディアンっぷりは愉快です。サックスを吹くマネ、コーヒーの注文に合わせた「Yeah,Yeah,Yeah」、パトカーのサイレンと、ただシンクロさせて映像の快楽度を上げているだけにとどまらず、彼のおかれている状況や性格まで、スタイリッシュかつスマートにデッサンされています。ちなみに、アンセル、父親は有名なフォトグラファーだそうで、本人もミュージカルで活躍、と若干鼻持ちならないですが、まあいいでしょう(何が?)。

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キュン多めです。多量摂取寸前です。

こうやって、この曲はこうで…………と一つ一つを上げていくと、本当にキリがないのですが、あと数点「ブラボー!」を思わず声を上げてしまうようなシーンをいくつか挙げると、やはり一番胸がキュンキュン、ドキがムネムネ(古いし寒い)してしまった、最強にロマンティックなやり取りは、コインランドリーでの恋人デボラとの馴れ初めでしょうか。リリー・ジェームズがめちゃくちゃにかわゆい(ベイビーのお母さんが働いていたダイナーで、カーラ・トーマスの「B-A-B-Y ベイビー♪」なんてハスキーな美声で歌われちゃあ、惚れないわけにはいかぬでしょうが)。で、ここの会話がいいんですよね。デボラちゃんが「妹がメアリーで、私の名前が入った曲はベックのしかないんだけど、あれは本当は『デブラ(Debra)』だから、負けて悔しいの」と冗談交じりに、コンプレックスと今どきの10代の女の子にしてはマニアックな音楽知識を披露して、ベイビーに名前を聴くと、もちろん「ベイビー」と答えるしかないのですね。すると、デボラが「それじゃあ、この世の中の音楽は全部あなたのものになるわね」なんて嬉しそうに(いやマジでリリー・ジェームズの可愛さはどうかしている)言うわけで、イチコロなんですね。当たり前です。あなたのハートにズッキュン、君に胸キュン(キュンって擬音嫌いなんだがやむをえないです。ありがとう、秋元真夏YMO)ですよ。浮かれながら、レコード屋に駆け込んで『ミッドナイト・ヴァルチャー』を買って、自室でもうウットリ歌い上げます。で、ハッとしてGoodな感じになるんですね。ああ、そうかそうかと。彼はトラウマ的にずっと母親の形見代わりに、音楽と向き合ってたたけど、彼にとっては母親が呼ぶ「ベイビー」というのがすべてだったんだのであって、ただ音楽が好きというだけじゃなくセラピーでもあったんだなと。彼はずっと、実の親を失ってて、その「ゆりかご」のように音楽を聴いているときだけは、Youthから”Baby”。に戻ることができるんですね。ここでもティッシュでズビズビ鼻かみながらシクシク泣いてしまうんですが、これじゃあ5回泣いたことになりますね。

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このダイナーでもデボラちゃんの美声を吹き込んでいたテープレコーダーを、自分の仕事場でもある強盗の作戦会議でも使用していて、これが本編後半で、とんでもない誤解を生み、大惨事にもつれ込んでいくわけですが、スマホの時代なのに、このカセットテープの使い方がめちゃくちゃオールドスクールで、映画にイイ温もりを与えてくれている。ジェイミー・フォックスケヴィン・スペイシーが吹きこんだ声で、キッド・コアラの曲をベイビーが自宅で作っちゃう。今どきこんなことする子いるのか、という感じですけど、これがまたベイビーというキャラクターの肉付けに大いに役立っています。

ヒップホップ的な要素でいえば、フォーカスの「ホーカス・ポーカス」を背にショッピングモールに駆け込んで、逃走用に変装するんですが、ここで店で流れてるラップ・ミュージック(曲名がわかんないんでめちゃくちゃ気になってる)と合わさって、インスタントラーメン的にミックスが出来上がる。この原始的な興奮がまた映画をグッと盛り上げてくれますね。強盗シーンでのブラーの「インターミッション」や激しい銃撃戦と化学反応を起こすボタン・ダウン・ブラス「テキーラ」もですが、アレちょっと原曲を引き延ばしてやってると思うんだけど、どうやったら神がかり的にバッチリ併せられるのか、どのくらい時間を費やしたのか、知りたいものです。

恋人を失ったジョン・ハム伊勢谷友介に似てますよねやっぱり、となると日本でリメイクしたら相棒は森星がやるべきです)が、ダイナーに銃をデボラに向けながら、ベイビーに殺意をむき出しにする、とても緊迫した場面で流れるバリー・ホワイト「Never, Never Gonna Give Ya Up」の柔らかい歌声の緩急もめちゃくちゃうまい。「オレはお前を決してあきらめないぞ、逃がさないからな」と一触即発。バチバチですよ。バチバチなのにロマンスすらある。

 

ちょっとここからは駆け足気味でお送りしますが、

今作、もちろん基本は車と犯罪を軸とした青春活劇でして、代名詞のようにスバルの真っ赤なインプレッサがドンと画面に出現し、赤い悪魔のようにスクリーンを疾駆します。そして、ここからは、この「赤」が一種の悪魔のようなモチーフとして用いられます。最初は、先にも述べたベイビーの類稀なるドライバーとしての顔を引き立たせるための赤、次に、ジェイミー・フォックスが全くいいところがない極悪人として登場して赤を纏い主人公たちを振り回し、ベイビーが恋人の窮地を助けるために再びハンドルを握ったときには、赤いネオンがベイビーの顔に差し込む。最後のキラー・チューン「ブライトン・ロック」による演出が勝った、車同士のまさしく”闘牛”決闘シーンでは、赤がジョン・ハムに憑依し、そのまま炎のような怒りの悪魔に取り込まれるわけですね。

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そういったギャングたちとは一線を置いた、謂わば天使のような微笑みをもって、ベイビーを見守り、悪意から保護しようとするのが、養父のジョーです。『シェイプ・オブ・ウォーター』では、声帯の使えない女性が、アパートメントの隣人であるゲイのマイケル・スタールバーグとタップダンスしてましたが、こちらも立場は違えど、一緒に踊って生活を彩るんですね。このジョーおじいちゃんは、耳が聴こえなくて、しゃべれないから、ベイビー君(読唇術もお手の物)と手話でコミュニケーションを取るわけです。さらに、もう一つは音楽でも「会話」するんですね。ここが本当に微笑ましく、油断してるとウルッときます。どうやって、音を聴きとるのかといえば、まさしく体で聴くということで、おじいちゃんは手をそっとスピーカーに当てます。そうすると、音を体感できるのですね。これがまたラストで活きてくることになりまして、ベイビーが母親と疑似的な「再開」を果たすために、実に粋で感動的な演出となっています。もうここでまたボロ泣きは必須(あ、6回目だ………)。

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なので、今作、バランス感覚がキャラクタ(というか人種)の配置が見事で、極端な天使サイドと悪魔サイドに黒人がいて、裏社会の冷酷なドンとある意味では善き父親代わりも、理解者でもあり同時にとんでもないクレイジーも白人。ジェイミー・フォックスの『ジャンゴ』からの代わり様は、ちょっと笑えます。ただ、西部劇の善玉では、クリストフ・ヴァルツに役を食われてましたが、『ベイビー・ドライバー』では見違えるほどの救いようのないダーティなサイコ野郎を演じ切っているので、ちょっと見直したもんです。

キャラクタ配置もですが、因果応報のバランス感覚も適切ですね。適切という言葉が積雪すぎるくらい。スカッと終われるんだけど、ちゃんと落としどころはつけて、「悪しき行動は罰せられ、善きものは良き行動で救われる」というルールに基づいています。そこにまた音楽が絡んでくるのが、泣かせどころなんで、とにかくエドガー・ライトの卓越したドライビングテクニックに、音楽オタクは転がされまくりでした

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<余談>

音楽ネタだけでなく、映画ネタもふんだんに盛り込まれていましたが、以下は私が挙げられる程度です。なんか他にもあったら教えていただきたいものです。こういう宝探し的な楽しみもいいですね。

 ○ドク→マックイーンの『ゲッタウェイ』かな

 ○マスク→キアヌの『ハートブルー』。『ハロウィン』のマイケル・マイヤーズとマイク・マイヤーズを間違えるくだりはくだらなさすぎて、映画館では顰蹙を買いそうで遠慮しましたが、自宅で腹よじりながら笑いました。

 ○カーチェイス→やっぱ『ブルース・ブラザーズ』でしょう。

 ○片目のサングラス→『俺たちに明日はない』とゴダールの『勝手にしやがれ』。どっちも名作。

 ○序盤の強盗→アレはデ・ニーロ『ヒート』ですかね。20周年記念買いました。大好き。

 

エドガー・ライトのフィルモグラフィと関連映画&音楽>

 

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The Jon Spencer Blues Explosion - Bellbottoms


T.Rex - Deborah


Queen - Brighton Rock (Official Lyric Video)


Simon & Garfunkel - Baby Driver (Audio)


Miles Davis - So What

<おしまい>

サリー・ホーキンス + ギレルモ・デル・トロ『シェイプ・オブ・ウォーター』

 

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不定形の愛について語るための、優秀な語り部である「水」

水には形がありません。定まった形はありませんから、環境によって、変化します。円錐の容器に入れれば円錐に、地面に散らせばそのまま真横へ広がり続けます。熱を加えられれば蒸気となり、冷やせば氷として固まります。しかし、それもすべては結局は水です。

水には色もありません。その時々で見え方が変わります。なので、血だろうが、海だろうが、精液だろうが、水です(もちろん科学的な構成は異なります)。

不定でありながら不変なのでして、便利がいいです。

その便利の良さから、暫し、映画では水というものを比喩として、使われています。例えば、よく見られるのは表裏一体な「生/死」のメタファーです。北野武監督の映画では、頻繁にこのモチーフが使われ「キタノブルー」という称号までもらっているほどです。近作では、『アウトレイジ最終章』で、緊迫した生の衝突を和らげる空気感の緩衝材として、または、死を看取る聖地として、海辺を舞台に置いていました。より突き進んだディストピア世界が魅力的な、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の見事なまでのSF金字塔リメイク『ブレードランナー2049』では、モロに羊水のように、生と死を包み込む装置として「水」が多種多様に用いられました。身体だけ浸かっていたら気持ち良いですが、顔をつければ溺れ死んでしまいます。水がなくては生きてはいけませんが、同時に水というものが持つ底知れなさを感じさせられました。

そして、ギレルモ・デル・トロ監督による新訳『大アマゾンの半魚人』である『シェイプ・オブ・ウォーター』では、タイトル通りに水の形を用いて果敢にも「愛(それを育む性)」の表現に挑みました。

印象深いのは、走行するバスの窓に張り付く、二つの大きな水滴が、自分たちを妨げる重力を無視するかのように”ダンス”して、次第に一つに交わる描写。こんなにも文学的で詩的な、水を使ったセックスシーン、お目にかかれませんよ。

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異業への「萌え」と二次創作精神

オープニングが絶品であれば(または、終わりさえきちんと締めれば)、ちょっと乱暴な物言いですが、大体の映画はとりあえずの点数を与えるに値すると考えています。最初で観客の心をつかんでしまえば、こっちのもんです。なので、多くの映画監督が、オープニングに命をかけていることでしょう。そりゃもう、第一印象は大事ですから。そういう側面では、『シェイプ・オブ・ウォーター』ほど、その起承転結の「起」と「結」への心血の注ぎようは、実に文句の付けどころがありません。

始まりは、孤独な独り身女性の夢からです。古めかしいアパートメントの中が、アクアリウムのように水で満たされています。浮かぶのは、サリー・ホーキンスでして、今作では口のきけない、イライザという女性を演じています。ゆっくりと水の中を進むカメラの滑らかさは、水の官能的なまでの青さをこれでもかと表現し尽しています。このオープニングの、低予算とは思えぬフェティシズムを刺激してやまない、群青の美しさには息を呑んでしまいました。正直、ここで終わってもいいんじゃないかな、と思わせるほどに完結しています。開幕でここまですべてを語ってしまうのも、なかなかに潔いですよ。

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全ての創作は、二次創作のもとにある、といっても過言じゃないのかもしれませんし、度々起こるパクリ論争も、完全なオリジナルというのはないに等しい(ドラマ『火花』を思い出したり)ので、アレ自体に議論する価値はないよう思えますが、今作については「ど真ん中の二次創作」なんですよね。この映画は、「怪物と人が結ばれちゃいけないのか」という疑問から、始まっています。ギレルモ監督が幼いころから「こんなんじゃ納得できるわけねえだろ!何で怪獣が一方的に人間に迫害されねえ図南ねえんだよ!ハッピーエンドにならねえと報われねえじゃん!」という妄想をいたいけな女子高校生よりも純情な眼差しを何十年も保ち続け、再び『大アマゾンの半魚人』を作り直しちゃう。普通に考えると狂気を帯びてくると思うのですが、この人はオタクとしての熱量がケタ違いですし、ここまでスレることなく「いい子」であり続けられるのも、レアです(そして、この「いい子」度合いが後述する、ある歪さを生み出しているのではないだろうかと考えている)。異形の者と精神的なレベルで交感し、「呪い」を解いていく、というシナリオ自体は、スピルバーグE.T.』や宮崎駿崖の上のポニョ』など、古今東西にある形式ですので、目新しいものはないのですが、ここまで「オレが考えたオレが納得するオレのためだけのもしもストーリー」で貫き通し、アカデミーまで掻っ攫う、という「偉業」を成し遂げたギレルモ氏の芯の強さ(漢気とでもいえようか)は天晴れです。

そのオタク性からの「異形」への愛着は、やり直しを重ねに重ねた造形美にしっかり結びついています。この半魚人である「彼」の、クリーチャーでありながら、神秘性を備え、美少年のようなルックスなのですね。凛とした佇まいには、王族のような気品さえ漂います(イライザの隣人が「美しい」と心奪われ、ネコを食われても「しょうがないね」と平然としてしまうのも、この王子様のような見た目に惚れてしまったのなら、何の疑問も持たない)。流線形のフォルムは、半ば耽美でもあります。モンスター映画では頻繁に議論の的となる「神は人の姿をしているか」というやり取りは本作でも行われているのですが、この「彼」はまさしく野生と神性の両方に股をかける、無垢なシンボルとして、スクリーンに現れます。

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「彼」と同じく、この世から疎外されてしまった、もう一つの無垢なるものの象徴として、イライザという女性が、これまた蠱惑的なヴィジュアルで、映画『心が叫びたがってるんだ』のような設定まで付けたされ、まさしく観客を「萌え」させるためのすべてを兼ね備えています。サリー・ホーキンスは、ウッディ・アレンブルージャスミン』や実写『パディントン』にも出演している、実力派の人ですが、この発話障害を抱えたセクシャルな「萌え」キャラを構築するために、いかんなく才能が発揮されています。とにかく身振り手振りと表情のレパートリーが豊富で、一時も同じ瞬間がなく、ディズニー・アニメーションのようです。しかも、今作では、彼女のヌードまで拝めるのですが、あの桂正和作画のような体のしなやかで豊満な曲線には、またしても「アニメかよ」とうっとりしてしまいます。さらに、この「孤児」である女性は、めちゃくちゃリアルな年相応な人間としての性欲がふんだんにあり、無垢であるゆえに、1962年という時代設定がウソみたいな積極性で「彼」に迫っていきます(「彼」と肉体的に結ばれたときに、ジェスチャーでどのようなペニスが出てくるかを、一切のいやらしさを見せずに、キラキラした瞳で語る仕草はこの上なくキュートで眩しい)。あの60年代にあそこまでダンスが踊れるところなんて、「全然内気じゃないじゃん」とこちらがあらかじめの言う内で予測してたキャラデザインを一気に覆されました。ここまで何のためらいもなく「萌え」的な感性を打ち出されると、狼狽してしまいますが、あのギレルモのキャリアでやるんだからすごいです。

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「疎外」されてきた者たちの交差点

ギレルモ・デル・トロ監督が、ここまで異形の者に執着し、「孤児」を描こうとする姿勢は、アプローチこそ違いますが、やはりスピルバーグ監督に非常に似ています(極論を言えば、『シェイプ・オブ・ウォーター』と『E.T.』の差なんて、性行為のあるなしだけじゃないですか)。今作でも、色々な「孤児」が出てきます。

まず、作中一番興味深い人間として出てくるのが、悪役であるマイケル・シャノンのストリックランド。ホワイト・ナショナリズムパワハラアメリカン・ドリームへの渇望、性差別、支配欲、倒錯的なサディズムマゾヒズム、などなど。主人公以上に属性が詰め込まれすぎて、普通ならパンク寸前ですが、見事に悪役として役を全うし、ホーキンスに並ぶ名演技を見せたシャノンには、最大級の敬意を表したいくらいです。中盤まで見事なまでの憎たらしさの一方、終盤以降の「古き良きアメリカ」に呪われ周りから「疎外」されていき、自我を崩壊していく様子に、敵ながらに同情してしまい、「一流でならなくてはならないんだ」という言葉で自分を戒め、どこかのディオ様のように人間を止めてモンスターへと変貌していく姿には切なさを覚えました。

ストリックランドとは真逆の、「疎外」された白人代表として、イライザにアパートメントの隣人として以上に寄り添っていく、本作の語り部を担うジャイルズを演じるのは、『君の名前で僕を呼んで』でゲイに素晴らしいくらいの理解を示す良き父親を演じ涙を誘った、マイケル・スタールバーグ。まだそこまで歳ではないのに、ゲイである上に、薄毛で、しかも失職中、というこれまた要素満載なキャラクタ。『君の名前で~』同様、主人公の恋の行く末を温かく見守り、手を差し伸べる善き市民として、活躍を見せます。しかも、この役は、恋をしているのですが、これがまた辛い結末を迎える。慕っていた人間が、自分が憎んでいたマッチョな白人代表格のようなレイシストであったわけですね。この事実が半飯たときの、彼の悲痛な表情と、口をいやらしくナプキンで拭う演技には、さっきまであれほどおいしそうに見えてたパイが吐しゃ物のように、変わり果てるほどでした。

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ここまで、非常に緻密なキャラ描写(幸福で退屈なまでに平凡なセックスの象徴として、マイケル・シャノンのベッドシーンが挿みこまれたのは理解できるのだが、モザイクがかかってチープだし、あまりに戯画的すぎるセックスだったので、編集でカットしてほしかった、というのはある)なのに、ガッカリなのが本当な意味で最も社会的に抑圧されているはずの、善良で良識のあるアフロ・アメリカン、ゼルダの背景が物足りなかったですね。あまりにハリウッドでやり尽されたベタ極まりない、陽気な黒人のおばちゃんキャラ、というのを他の俳優さんにやらせると、このご時世じゃ「舐めてるのかい監督は」とお叱りを受けるのが常となりつつありますが、ここをうまいこと「やりすぎない・力み過ぎない・手を抜かない」というベスト塩梅で演じるのが、オクタヴィア・スペンサー。『ヒドゥン・フィギュアズ(邦題:ドリーム)』『ギフテッド』と居れば絶対に安心感があるのが、この人の名女優たる理由でしょう。しかし、やはり薄いのは事実。このゼルダは職場でイライザに散々「うちの旦那はね」と愚痴をこぼし笑わせてくれるのですが、これが最後のストリックランドとの対決でも全く活きない。せっかく公民権運動で揺れまくっている時代だったのに、あそこの対決で、カタルシスを求めなかったのはイマイチ理解できなかったです。せめて旦那が角材をアソコでぶち込んでおけば…ま、いいか(そういう抵抗もできないほど抑圧された存在だった、というのはわかるが、あのふたりなら抵抗できたような気もします)。

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もう1人、キーパーソンであるロシア人がいるわけですが、コイツが必要だったのか、そもそもこれは冷戦時代である必要ってあったのか、ちょっと怪しい。が、その怪しさも、ミュージカル場面の鮮やかな手際と、「主役級」ともいえるアレクサンドル・デスプラの美麗なスコアで劇的に吹き飛びます。あのファンタジックですらある時代を、より鮮明に浮かび上がらせるのに、この仕事がなければ成り立っていなかったでしょう。イライザは口をきけない分、非常に音楽が(マイケル・スタールバーグ以上に)有能な代弁者として、流暢に語ってくれ、作品自体にフェリーニの映画のようなエレガントを持たせています。一つのメロディが反復され、そして変化されることで変わる、作品の青の色合い。お見事な相乗効果。「You’ll Never Know」のアレンジは、映画の端役にすぎないはずのジャズミュージックとは思えぬ粋さです。

ギレルモ的な「ふるまい」による違和感がひとつ

ただ、さきほど、疎外というワードに、カッコをつけたのだが、ここに実は実写『美女と野獣』降板から本作への流れから生まれる、ある1つの違和感が生じます。というのも、ギレルモさん、今作のプロモーションを兼ねたインタビューで以下のようなことを仰っている(文春オンラインの記事から) 。

「独身の中年女性の日常として普通だよ。セックスとバイオレンスは人間のリアリティだし、イライザもリアルな容貌をしている。孤独に生きてきた清掃員が化粧品のCMみたいな美女じゃおかしいからね。僕は『美女と野獣』が好きじゃない。『人は外見ではない』というテーマなのに、なぜヒロインは美しい処女で、野獣はハンサムな王子になるんだ? だから僕は半魚人を野獣のままにした。モンスターだからいいんだよ」

 

「イライザは意見を封じられた人々の象徴だ。彼女の友達も、身寄りのないゲイの老人や、ぐうたらな夫を抱えた黒人女性など、世間の隅っこに忘れられた人々ばかりで、彼らがモンスターを救うために戦う物語なんだ」

 

bunshun.jp

 

まあ、優等生っちゃ優等生すぎる、いかにもギレルモ氏らしい発言に、特に問題はないと思います。が、この"いかにも"なギレルモ氏の「ふるまい」と本作のお話の「あるべき姿」が、ちょっと違うんじゃないか、という風にも思えるのです(無論、作品をどうあるべきかは、作り手次第なのですが、とはいえ、作り手のもとから離れれれば、作品はこちらのものでもありますので、あくまで個人の解釈です)。

前にも書きましたが、本作のストーリーは「人間として生まれついてしまう呪いをかけられた、水中生活を夢想する女性が、恋によって生への苦しみと宿命であった呪いから解放される」というところです。そして、それは、大まかにも成功しています。

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ギレルモ氏はイライザを、「身寄りのないゲイ」や過程に問題を抱えた黒人女性と、とても近しい女性だと捉えました。つまり、*1ざっくばらんにいえば、「怪獣オタク」をマイノリティ側に寄せています。

が、正直このマイノリティ観は明らかにおかしい。というか、まずいです。これだと《世間から迫害されている怪獣しか好きになれないオタク》が、未だに日常レベルで激しい差別を受けたり、現実に厳しい状況に追いやられていたり、と問題が山積しているLGBTやアフロ・アメリカンと同列に語られるは、危うさを抱えているからです。もちろん、個人のレベルで、自分の趣味のマニアックさゆえに友達ができなかった、とかは現代でもあると思います。しかし、もはや「オタクであることは一種の特権」ともいえなくもない現代において、今作のような「いい歳して怪獣なんか好きな孤独な女性(=ギレルモ)」を、まるで意見すら封じられたマイノリティであるかのように、ご丁寧にも声を使えなくして、「意見を封じられてしまった不遇な人間」サイドにすり寄せてしまうのは、若干の(ギレルモが天然ゆえの)策略すら感じてしまい、少々気分がいいものとはいえません。悪気はないのは分かるのですが、流石にこれはいただけないところですし、欺瞞的という批判は言い逃れできないと思います。そもそも、現実の「オタク」と呼称される方は、今最も多種多様で活気のあるマジョリティ側の人間ともいえます。というか、イライザが「孤独な女性」というわりには、上のように性に奔放で、無邪気です(バスタブオナニーが日課で、そのオナニーもおそらく並みの女性以上にハードではないのか)。『美女と野獣』に反発し『アメリ』風に仕上げたサリー・ホーキンスというキャスティングですが、彼女が「CMみたいな美女」でないにしても、出てくる男性がほぼ反射的に心を奪われる魅惑的なセックス・シンボルとして、肉付けしたギレルモの意図も、ちょっと食い違ってきます。あと美女かどうかはさておき、サリー・ホーキンスはめちゃめちゃに可愛い部類ですよ川上未映子の『全て真夜中の恋人たち』の方が、まだ全く可愛くない女性が、まったく見た目のよくないおっさんと恋をするという情景が、事細かに脳裏に浮かびながら、泣かされてしまったので、ジャンルは違いますが、是非ギレルモ氏には読んでほしい一冊であります。

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作品としての、純度が高く、ギレルモがピュアなだけに、こういう価値観がまかり通ってしまうのは、ある種「ヤバさ」すらあるのではないでしょうか。権力によって、世界の片隅に追いやられて、肩を寄せ合う。そんな人を一色単に語ってしまうのは、危険極まりないはしでもあるワケですね。それにやはり、先のように、別にそれじゃあ冷戦時代下である必要って一体………とかも、このノイズのせいで考えてしまいます。

現実を否定し、イライザ*2を絶対的に無条件で受け入れてくれる存在として、あるいは現実を忘却される「ごっこ遊び」の心の拠り所として、「彼」を作り出してしまった執念には、ひとつの歪さを感じざるを得ません。

でも、やっぱり

こういうネガティブな感想を吹き飛ばすくらいには、美術セット音楽がパーフェクトですから、なんにせよ必見の映画ではあるのです。ただ、ここ位ある価値観を鵜呑みにするのは、ちょっとやめた方がいいのではないでしょうか。という、ひとつの啓蒙をもって、本稿を締めくくりたいと思います。

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なお、本稿に「Part.1」とふっていますが、あといくつかこの「ごっこ遊び」についての近年の映画を、5本ほど取り上げてみようかと考えています。

アメリ [Blu-ray]

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すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫)
 

 

<とりあえず、おしまい。そして、つづく>

*1:今作では、声が出ない、ということは宿命のひとつにすぎず、少なくとも本作上で、彼女が発話障害を抱えたことによる目立った弊害というのは、あの美しいミュージカルシーン(サリー・ホーキンスエマ・ストーンの数倍は歌唱力があり、あの声の掠れ具合から伸びやかな発声に至るまでのプロセスをひとつのか細い身体のみで表現しきったことには、ただただ感嘆するばかり)の契機となる場面のみで、あくまで呪いを受けてしまったことによる、ひとつのシンボルとしてしか扱われていない。なんなら、話せないことで、彼女は状況をうまく乗り切って、最後には上司に向かって「FUCK」とやる始末

*2:しつこいようだが、もちろん、ギレルモ

中茎強・久保茂昭 『HiGH&LOW THE MOVIE3 / FINAL MISSION』

正直本稿だけで自分のハイローへの愛憎(ラブが8割ですよ)をいつか『HiGH&LOWとオタクと私』というクソタイトルでブチ撒けたいのですが、とりあえず、一旦の区切りである『最終章』を見た感想をメインに書いてみることにします。

以下、不満・苦情をつらつら書き立てますが、愛が9割なんです。

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ちょうど日本を発つころに公開されていた本作。泣く泣く観賞を諦めていたのですが、ようやくDVDで見ることができました。しかし、時間が経つと、おそろしいのは、自分の理想ばかりが(『勝手にふるえてろ』のヨシカちゃんのように)膨らんでしまうところ。ああであってほしい、という願いばかりがブクブク太るばかり。では、長らくお預けを食らった『HiGH&LOW THE MOVIE3 / FINAL MISSION』、蓋を開けると、どうだったかといえば、正直これがまた釈然としない何かがずっとモヤモヤッと残ってしまったのが率直な感想。

まず、チキンなので、以下のような熱中ぶりを見せていたことから、いかに私がこのシリーズに熱を上げていたかお分かりいただけると思います。決して、フッと湧いて出たアンチではないことを、きちんと示しておきたい。いや、何も有効な証拠能力も持たないのであるが。一応。

 

 (佐野岳の出演や公害的なニュアンスなど、今思えば、あながち外れていない予想までしていた…………どうかしちまってた時期)

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そもそもこのシリーズの「うまみ」って一体…………

ということで、本稿で、詳しくハイローシリーズへの思いを書き綴ることは避けておくとし、自分が(みなさんがどうかはワタシには知り得ませんので、あくまで一個人の感想)ハイローの何に強烈に惹かれていったかを、簡潔にまとめますと、

 

①もはやマジョリティであるオタクが分け隔てなく楽しめるサブカルチャー全体へのピュアで愚直なオマージュと、ネット文脈との親和性が極めて高い二次創作精神。

 

②記号化されたキャラクタたちが一本の作品ではありえないような情報量でひしめき合うことで発散される熱量。(潤沢な資金と)それら「記号」で構成される、徹底的にジャンクでカラフルなユニバース的世界観。

 

③普通にやれば、一部のコアなファンにしか見向きされないような粗雑さ(ジャンクさ)とは裏腹に、作品として指向性が高く、密度の濃い、確かなダンス的身体能力で培われた最先端と読んで差し支えないアクションと、それを撮影するカメラ。及びに、「若者」たちが放つ、瑞々しい肉体性(なぜ若者をカッコ書きしたかといえば、ご存知の通り、一部の役者自体は特に若くもないからである)。

 

という大きく分けたこの3つあたりではないでしょうか。他には、まるでMVのような水準の高いクラブシーンや、作品を盛り上げる音楽の中毒性などもあります。画面の端のモブキャラまで、世界観の構築に参加していて、画としてスキがないんですね。とにかく、誰でも(かつて私が抱いていたようなEXILE的なモノへのある種の毛嫌いさえ乗り越えれば)楽しむことのできる、開かれた門戸に、所謂「オタク」という人種に含まれる方々もガツンとのめり込んでいったことでしょう。

 

なので、決して大手アイドルグループに依存しきっているワケではなく、むしろ、そのグループのファンの方々のお金でこんなにもフェティッシュで、映画として志が高いクオリティが作られている、という贅沢を享受できることに、申し訳なさすら感じるほどなのです。

 

じゃあ、本題に入りますね

 

さて、では、この志の高い試みの最終章が完全燃焼だったかといえば、必ずしもそうではなく、なんともモヤモヤする終わり方でした。一応の話の落としどころはつけてくれているのですが、志の高いシリーズだけに残念さが目立つ印象を受けました。散々広げに広げた風呂敷ですので、今更これを全部回収するなんて無理な話だろうとは思っていましたが、それでもやはりしこりが残る、そんなところです。

 

まず、ザッとこれまでのドラマから前作『HiGH&LOW THE MOVIE 2 / END OF SKY (以下『2』と省略します)』までの成り行きを簡単におさらい(立木文彦の声で脳内再生していただくとより一層の臨場感が)すると、

 

AKIRA井浦新というやたらに腕っぷしが立つバイク乗りの兄ちゃんが、MUGENというなんだかすごそうなチームを作り、雨宮兄弟という彫刻みたいな男前となんか色々ある

・九龍というヤクザグループがカジノ計画のためにSWORD地区の乗っ取りをもくろむ

・SWORD地区でにらみ合う勢力(山王街二代目喧嘩屋を名乗るMUGENの後継組織《山王連合会》、クラブを経営する『時計仕掛けのオレンジ』をモロにオマージュした衣装に身を包む《White Rascals》、ヤクザ業界への高い就職率を誇るらしい喧嘩バカのエリートが集まる《鬼邪高校》、パルクールでクルクルとスラム街を駆けまわる守護神《RUDE BOYS》、祭りがあれば何でもいいテキ屋のお兄ちゃん集団《達磨一家》、という5つ)が、内部抗争やMIGHTY WARRIORSとの激しい闘いを経て、ひとつにまとまっていく

・雨宮兄弟の長男坊である斎藤工が、やくざと政治家の癒着を暴くためになんやかんや頑張ってUSBを残す

・SWORDで唯一マトモにお金を稼いでるWhite Rascalsが刑務所から出てきた中村蒼とぶつかり合う。なんやかんやまたSWORDが結束する。

・上の抗争と並行して、斎藤工が残してったUSBを公表しようと、琥珀さん(AKIRA)と相方の九十九、そして雨宮ブラザーズが因縁を乗り越え、USBを執拗に狙う日本刀携帯式ヤクザ型ターミネーター源治(小林直己)率いるヤクザ軍団と、(ただのバイク乗りに過ぎない4人なのに)決死の攻防を繰り広げ、何とかミッション達成

・とうとう津川雅彦岩城滉一といった「アウトレイジに出てそうで出てない俳優陣」が顔首揃える九龍グループがシビレを切らし、「ヤクザじゃけえ、何してもええんじゃ」と、血気盛んなお兄ちゃんを痛めつけるべく、ようやく本気を出す。

 

まともに一からストーリーを追いかけると、重度の頭痛を引き起こしそうな時系列の煩雑さなので、色々省略しましたが、気になったらDVDなりHuluなりで見ていただいて、上のテキトー極まりない説明書きが、決して的外れではないと、確かめてもらえれば幸いです。

 

上のような紆余曲折を経て、山王連合会の総長であるコブラ(岩田剛典)が九龍グループの一角である善信会の会長(岸谷五郎)にマンツーマンで宣戦布告したことがキッカケで、いよいよ《SWORD連合vs最大ヤクザ勢力》or《大人vs若者》という戦争が始まるんですね。一時ある女優さんが被ってしまった、大手事務所とのもめ事を想起せずにはいられませんが、この構図は芸能界の縮図みたいなモンじゃないのではないでしょうか。『アウトレイジ』もそういう感じでした。怒ったヤクザのおじさん達が、各地区に侵攻していき、文字通り蹂躙していく様は、ディストピア映画のようです。コブラちゃんも、ヤクザのトップにケンカ売ったもんだから、決死のゲリラ戦もむなしく、屈強なおじさんにあっけなく捕獲され、黒ゴマスムージー生コンクリートを飲まされる激しい拷問を受けます。しかも、ディストピア映画さながらの残虐非道なヤクザ・ムーブメントはとどまることを知らず、「無名街爆破セレモニー」なる素面では到底思いつかぬ、トチ狂ったスラム街爆破計画を敢行するのです。一方その頃、SWORD連合とは別行動を取っていた琥珀&雨宮は、刑事である西郷の手引きにより九龍グループとの決着をつけるある証拠を守るために、奔走しています。はたしてとらわれたコブラは、無名街は、その他の兄ちゃんたちの運命はいかに。ジャンジャカジャン。

 

ここまで書いて、脚本家は本当にシャブを打ってないのか検査するべきではないかという気がしてきたのですが、こういった正気とは思えないプロットを、バチバチのアクションに、キレキレのキャラ立ち、ゴリゴリのセット、キメキメのドラッグ感の掛け算で、圧倒的な熱量と不可思議な説得力を持たせてくれるところが、このシリーズの醍醐味なんですね。

 

こうなると、やはりここでこの『最終章』に期待するモノといえば、手の届かぬところで蠢いていた巨悪が、小さき者たちの勇気ある行動によって、一般市民に告発され、壊滅に追い込まれていく。という筋書が予想できます。

 

で、実際にそうなっていきます。これまでドラマシリーズから散々撒きに撒いていておいて、あとで拾い集める気なんてサラサラないように思われていた、細かい「ああ、そういえば謎の鉱石とかあったなあ」という諸々の設定を一本の中心線に集約させ、《大人vs若者》の一大戦争がクライマックスへうねりを上げていくのは、シリーズを見ていたものからすれば、それなりに感涙モノです。

 

しかし、やはりどうしても随所でこのシリーズが本来持っていた、大きな弱みが、白日の下にさらされてしまったような気分で、なんだかちょっと見ていられず途中ハット我に帰ってしまう瞬間もあったし、そのハット我に帰っている冷静さにまた悲しくなってしまった部分も大きかったのも事実でした。

 

というのも、このシリーズは先ほどのように、この「記号」が飽和状態を超えた先にある、クライマックス感が売りだったのですが、『2』の振り切ったアクション娯楽はどこへやら、ウェットすぎるんですね。まあ、こういう辛気臭いお話、酒の肴にはなるんでしょうが、自分はまっぴらごめんだな、という若干危惧していたような仕上がりになっていました。第九に乗せた、あのバトルロワイヤルさながらの予告編の通り、「お祭り」のまま終わらせてほしかったのが、正直なところ。元々、異常なフィジカルの情報量とEXILE的な野郎BGMがドカッと押し寄せてくる、あの高揚感が気持ちよかったのに、アクションシーンがあまりにアッサリ(普通の映画なら「すごい」と形容されるレベルではあるのですが、ここまでハードルを上げ過ぎていたがために、制作期間の短さによるやっつけ感が目立ってしまいました)していたのも悲しかったです。そのせいで、ずっと誤魔化せてきた、粗っぽいストーリー・テリングが前面に押し出されて、空虚すぎるスッカラカン度合い。古今東西あらゆるサブカルチャーから拝借したモチーフが、ひとつの群像劇として動くから面白く、自分でその情報から「萌え」ることができるものを選び取る喜びがあったはずなのですが、不必要にヤクザサイドに肩入れしたりするもんだから、物語の主軸がまるで定まらず宙ぶらりんなまま迎える、この『FINAL MISSION』でのラストの(一応は感動的な)展開には非常に萎えてしまうのですね。

結局、こんなのは「自分がHiGH&LOWシリーズにどのような愉しみを求めていたか」に終始してしまうわけですが、やはりガッカリしてしまいました。

 

前述のように、とても素面で書いたとは思えぬプロットなので、ここに更にツッコミを細かに入れるのは野暮ですし、やめるべきなのですが、どうしても看過できなかった箇所をいくつか

・『2』から新登場した、どう考えてもこれを活かさない手はないであろう、強烈なヴィラン・源治とのアクションが、時間の制約があったとはいえ、簡略化されすぎてしまったのは惜しい。AKIRA&青柳&&TAKAHIRO&登坂が、ヤクザノ追ってから逃げ回る、狭い廃ビル(?)を縦横無尽に駆け巡るアクションと、それを追うカメラには度肝抜かれたのですが、ターミネーター小林直己のやられ方は、あまりにあっけない。どうでもいい会話を挿んだ意図が見えない。

・そもそもこのお話、中心にあるのは「若者の群像劇」なのに、いつの間にか老いぼれ共がメインになり、津川雅彦に至っては、悪の元凶なのに、いきなりめちゃくちゃぬるいことを言い出す始末。極悪非道を尽くす割にいちいち言うことが手ぬるいのはどうなんですかあんだけバカげたセレモニーを画策しといて、バイキンマンよりもあっさり引き下がるのは、ちょっと情けなくないか。コブラもせっかく抵抗を訴え、不屈の精神で退ける場面なのに、カッコよく見えないです。

・悪行を尽くしてきた二階堂やキリンジは、このシリーズ内のどこかで、大きなしっぺ返しを食らわないといけないはずなのですが、どうも釈然としない。

・多忙なスケジュールでどうにかあったわずかなスケジュールの中、窪田正孝の最期を撮影したのは理解できるが、一瞬にしてヤクザにやられてしまって、気づいたらお墓(『LOGAN』オマージュと呼ぶにはあまりにまんま過ぎるパクリ感すら出てしまうぞんざいさ)の中なので、消化不良。せめて、スモーキー窪田が最後に必死の抵抗を見せた証拠として、例えばリンチにかけたはずのヤクザが顔にアザだらけだったとか、二階堂が悔しそうな表情を見せるカットを挿むとか、くだらない語りを入れるなら、せめて重大キャラの弔いとして、それぐらいの配慮は欲しかった。

・爆弾の線のどの色を切るか、という最近はすっかり王道すぎて見なくなった展開を入れるのは構わないが、あんだけ迷った挙句に、どの線も切らなかった→爆破→ポカン、という体たらくで、ひょっこり山王連合会に帰ってきたダンや九十九は何の貢献もしていない。

・いくらなんでもセリフが抽象的すぎて、斉藤洋介と子役の訴えも薄い。

・戦力は作中一あるし、目的はどの集団よりも明白(音楽とクラブ)なはずなのに、いまひとつ何がしたいのか意味が解らなかったMIGHTY WARRIORS

・いくら続編ありきとはいえ、一応最終章を銘打っているので、よくわからないバルジ(ずっと『2』で「主がお呼びだ」とジェシー(NAOTO)が言われてると勘違いしてたんですが、まさか薬草みたいな名前だったとは)をしつこく強調して存在を臭わせすぎたのは、興醒め。

 

 

要は、「少年期からいかに現実との折り合いを付けるか」がテーマとしてあったはずですが、そこがおざなりにされてしまっているように見て取れましたし、このまま続編に繋げる医師がプンプン匂ってしまったので、やはり、きちんとこのSWORDの歴史には一旦のケジメをつけてほしかったです。

 

結構厳しめなことを言っておいてなんですが、、どう考えても、この対策を終わらせるには短い、異常なスパンで製作されていた中で、ここまでの物を作り上げようという意思は大いに買いたいですし、ヒロさん並びに制作陣の方々には、ゆっくり休んで、英気を養っていただきたいものです(アベンジャーズ壊滅の続編を1年も待たされる苦行に比べれば、この大作の異常なまでのスパンの短さは驚異的ですよホンマ)。

 

 

とりあえずおしまい

クエンティン・タランティーノ『ジャンゴ 繋がれざる者』

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ハッタリが勝つ正義

いいですね。こういういい加減で、よくできた映画は。飽きがくることがありません。マカロニウェスタンというのもいいです。

1858年。南北戦争の始まる3年ほど前ですね。黒人奴隷のジャンゴ(ジェイミー・フォックス)と歯科医の賞金稼ぎシュルツ(クリストフ・ヴァルツ)は、偶然賞金首探しによって出会い、知遇を得ます。ジャンゴには奴隷としてとらわれ生き別れになった奥さんがいましたので、このために二人は協力して、農園主カルビン・キャンディ(レオナルド・ディカプリオ)に乗りこみ、彼女を救出しようと、一世一代の大芝居を仕掛けるわけですね。しかし、キャンディというのが目の鋭いやつで、執事(サミュエル・L・ジャクソン)も目ざとく、厄介者。これだけでもうワクワクします。

マカロニ・ウェスタンというのは、もともとは淀川長治先生が名付けた、元はスパゲッティ・ウェスタン(Spaghetti Western)というものなのですが、私もマカロニの方がしっくり来ます。イタリアの西部劇なので、こういう差別化が行われてますが、もともとは西のドイツの西部劇から引き継がれたものだそうです。気障で痛快さがたまらない。セルジオ・レオーニやセルジオ・コルブッチには、ずいぶん親しんできました。

特に、善人のジェイミー・フォックスや怪演ディカプリオを霞ませる、絶品与太話を光らせるクリストフ・ヴァルツの表情の豊かさったらないのですが、彼はドイツのお隣オーストリアの出身です。この人がいるだけで、きっと良い映画なのだろう、という確信が生まれますね。『007/スペクター』はお話としては、割にしょうもなかったですが、ヴァルツが悪役のドンをやってくれていたというだけで、映画としてのクオリティが幾分上がったように思えます。

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これはスタンダップよりも落語とか漫才の血を引いているんだと確信しました

このお話の面白いところは、「ハッタリ合戦を制したモノだけが生き残る」と言うところにあると思います。「偽物」が「本物」の面を被って、その場を支配したものが生き残る、という厳粛なルールが存在します。ここではつまり、善人が悪党の面を被って、一芝居打つ。「良心」や「プライド」に負けると、化けの皮がはがれ、戦線離脱が決定するのですね。誰がペテンなのかわからなくなるドキドキ感がスリル満点です。特に、今作は勧善懲悪の色が強いため、よりハッタリ合戦の白黒がわかりやすいです。しかし、これをやるには、話術(を操る技術)が抜群に上手くやってのけないのといけませんが、この監督はさらりとこなします。

パルプ・フィクション』でも『ヘイトフル・エイト』でも、何をやっても、タランティーノ作品は落語になっていくような感じがあります。きちんとした起承転結があって、そこにのらりくらりとしたテンポの良い与太話で、トントンと話を推進させていく。こういう落語のようなスタイルでやらせて、この人の右に出る作家は、今のところジェームズ・ガンくらいしかいないので、やはり相当稀有な才能なんでしょうね。残虐なバイオレンスをしつこくやっても、それがカラッとしていて、ただ物語を進めるシステムのひとつにすぎないんですね。

会話のリズム感がいい。ジャズのような即興性。説明書きみたいなことが一切ない。暗黙の裡にある観客とのコンセンサスを一切合切無視していく潔さ。それでいて、話芸だけで乗せていく気持ちよさ。これは滅法面白い、と感服してしまうのはこの映画のことですね。ジャズでひと段落あって、そこにアドリブが繋がって、さらにひと山あって、そこにまたアドリブが重なる、リズムの刻み方。映画オタクならではの、サンプリング的な手法も楽しいんですが、シンプルに言葉がスイングしていく、この快楽が堪りません。

随所に「ドリフかよ」とツッコミを入れたくなるボケを挿みこんでくるのも、日本人好きする所以なのかもしれません。志村けんのひとみおばあちゃんのような、サミュエルのジジイボケ。マスクが群れるとごねるも、必死の説得で被って出撃したはいいが、あっけなく虐殺されるKKK。監督自ら爆破されていく身を挺したギャグに至っては、もうまんまドリフ。

『続・荒野の用心棒』『タクシードライバー』『殺しが静かにやってくる』といった引用胃による、ヒップホップ的サンプリング精神に則り、デタラメな歴史観を真っ赤な血と不謹慎な笑いで塗り込む。こういうある種の荒唐無稽さの裏の真理に、偽物が本物に追いつく凄みを垣間見た気がするのですね。それこそまさに、シュルツが、妻であるブルームヒルダを救わんとする姿を、そのまま勇者ジークフリートに重ねたように。

悪党が残らず死んでくれるので、こういう西部劇はやめられないんですね。

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おしまい

是枝裕和『万引き家族』

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家族になろうよ』てのがありましたが、そうカンタンになれるもんじゃありませんわな

家族を家族たらしめているものは何か、というと、これまた大きく書きだしてしまった気がしてしまうのだが、やはりそれは血のつながりではなく、「共有している時間」の濃度や密度、というものの中にこそあるのだと信じている(『万引き家族』を見た後ではかえって安易に「絆」なんて言葉は怖くて使えっこない)。

もちろん、それは、ほかの様々な自然のうつろいがあってこその「時間」であって、人にかぎらずあらゆる生き物すべてにあてはまる(ほかの生物が「時間」というものを意識しているかどうかは、我々には知る余地もないのだが)。

身体を重ねる性の営みからはじまり、どれだけひとりを気取ろうとも、常に間接的に身を寄せ合うことで、営みは続いていく。

しかし、そこには個人の自我とは別の情緒というやつがあって、その脇に年輪のようにしだいに堆積して重なっていく「時間」は、常に意識の片隅に置かれている。

 

では、さらに、家族とはどういう共同体なのか、というと、これまた考え始めると途方に暮れる。ぼんやりとしたイメージはあるものの、そうした「こうあらねばならない」といった定義めいたものが、世間の理想像を神聖たらしめ、そして呪縛として親子どもを苦しめてしまう、という現実もあるので、ここで「これだ!」とズバリ断定的に述べにくいのではあるが、ひとつハッキリといわせていただけるなら、それは「①見栄とも外聞とも無関係に、②経済活動とは離れ無償で、③そして犠牲を伴うかもしれぬとも無条件で、生命を保護してくれるもの」ではないだろうか。どうしても「べき論」にすり寄ってしまうのは心苦しいところであるが、こうした関係性が暗黙の了解のもとに成り立ってはじめて、子どもが安らかに落ち着いて「当たり前に」生活のできる環境を築く、ということが可能なのではないのだろうか。

ルソー(否、尾○ママか)のような文章になってしまい、一義的に決めつけられこそはしないものの、こうした論理や感情を超越したものが、家族を特殊な共同体として繋ぎとめる、根幹のミキのような部分だと、若輩者ながら理解している(まあ所詮は「身近な他者」ですから、期待しすぎも、依存しすぎも、良くありませんがね)。

ここで、大事なことは、血縁も、地縁も、因縁も、けっして蔑ろにはできないものではあるのだけれども、それらは家族を構築するある一要素に過ぎず、根幹を成すものではないのだ、という、当たり前といえば当たり前すぎる文句をひとつ頭に入れておいてもらいたい。

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商業主義とドキュメンタリーの狭間、そして手加減のない「わかりやすさ」と「わかりにくさ」

 『星の王子さま』という一度は手に取ったことがあろうサン=テグジュペリの作品*1は、

 レオン・ウェルトに

 わたしは、この本を、あるおとなの人にささげたが、子どもたちには、すまないと思う。でも、それには、ちゃんとしたいいわけがある。そのおとなの人は、私にとって第一の親友だからである。もう一つ、いいわけがある。そのおとなの人は子どもの本でも、なんでも、わかる人だからである。いや、もう一ついいわけがある。そのおとなの人は(中略)、どうしてもなぐさめなければならない人だからである。まだ、たりないなら、そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、わたしは、その子どもに、この本をささげたいと思う。おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいる大人は、いくらもいない。)だから、わたしは、この献辞をこう書きかえよう

 子どもだったころの

 レオン・ウェルトに

 

という献辞がはじめに書きそえられている。

サン=テグジュペリとレオン・ウェルトのあいだには、かなり熱い友情が築かれており、ウェルトによる著書を紐解けば、この言葉に込められた想いもひとしおなのだが、そこは各自で見ていただくとして、この「献辞」の核となる「そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、わたしは、その子どもに、この本をささげたい」というイズムは、是枝裕和による会心の(改新の)一作につながっているように感じた。ドメスティックな視線を抱きながら、誰にでも刺さる、普遍性を守り通してきた是枝監督は、常に「かつて子供だったおとなたち」に向けて物語を綴ってきた。

是枝裕和という人は、物語の「わかりやすさ」と「わかりにくさ」をうまい具合に切り分けるのがとてもうまく、『誰も知らない』では置き去りにされた不条理な環境でサバイブする子供たち、『空気人形』では生命が宿ってしまったラブドール、『そして父になる』では子どもの取り違えを巡る父親の葛藤、『海よりもまだ深く』ではうだつが上がらない小説家志望の男の離婚した家族との再会。リアルとファンタジーの境界を跨ぎながら、とっつきやすかったりパッと目を引いたりするストーリーを提示する。そこには都市の狭間で葛藤する者たちの姿が「共感」をもってわたしたちのこころに新たな空気を吹き込む。大衆に広く支持され、商業的に成功している功績には、こうした「誰にでもわかるように」という心意気によるものであろう。

テーマは近年の作品では絞られており、「家族の肖像」を書かせれば、この人の右に出るものは現代の監督ではいないだろう、という名人の域に達している(上に述べたある種のストイックな姿勢が大きな一つの集大成として実を結んだのが、『海街diary』だと断定しても、差し支えはないはずだ)。生活の終焉を囲う「世界」を的確にフィルムに収め、映画という形で記述する。類似の監督に成瀬巳喜男小津安二郎、呉美保、エドワード・ヤンホウ・シャオシェン、という、いずれも暮らしとその下に根を張る時代を、静謐に、ときにサスペンスフルに、読み取る能力に突出した稀有な作家たちがいるが、そういったそうそうたるメンツに名前を並べても全く遜色ない。

しかし、忘れていけないのは向田邦子の存在だ。思いもよらない斜め上の想像力、記憶が喚起される情景描写、すべてを見透かしているような貫徹された神のごとき視点、穏やかな日常の裏にむくむくと蠢く不穏で底なしの不気味さ。表現がいちいち性格で、鮮やかで、生々しい。

そんな「出てきたときにはすでに達人だった」書き手のDNAを余すことなく引き継いだ是枝裕和は『海街diary』にて、綾瀬はるか夏帆が演じる長女・幸と三女・千佳にこんなやり取りをさせている。

 

 「だって幸姉の漬け物、味しないじゃん」

 「浅漬けなんだからいいの」

 

これはまさしく是枝監督の映画に対する姿勢そのもので、作り手として畳や食卓のシミから家屋の傾きまですべて把握しながら、同時に解釈を委ねるところは委ね、多くを語らない、語らせない、という基本姿勢の表明であるといえよう。世界を完ぺきに掌握しきっているゆえに、このような「わかりにくさ」を放り出すことが許される免罪を不を手にしたのである。

しかし、どうした、是枝さん。今回はめちゃくちゃ「わかりやすい」。

『万引き』なんてのはミスリードもいいところで、犯罪街道まっしぐらな真っ黒黒すけな家族だったわけだが、それだけでなく『万引き家族』では、ドライな性が消費される空間からこれまでは意図的に遠ざけてきた濃厚でしっとりとした性描写まで、余念がない。『海街』がウソみたいなハードさである。

ここ数年の是枝監督は、怒りのモードにあるのだろうが、今回は静かに怒っているようだ、ということが映画の終わりかけにようやくわかりかけるのだが、それはまた次。

理解できないから。共感できないから。自分たちとは遠く離れた世界の住人だから。

「感動」という味付けの濃い漬け物に従慣れきってしまった我々観衆は、いま一度、ほんとうの「感動」について、まっとうな「共感」について考えて見るべきではないのだろうか。

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海街diary

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誰も知らない

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海よりもまだ深く
 

 

 

*1:いや、読んだことない人とかいるんですかね、とか書こうと思ったんですが、かく言う自分はようやくこの歳になって物語で提示される問いに、「ははあ、なるほどなるほど、なんとなくわかりかけてきたぞ」となり始めてきた感じなので、まあ読んだことがない人は『スイミー』と併せて読んでみましょう