ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

見ないことにされてた世界・聞こえないことにされてきた声 是枝裕和『万引き家族』(前編)

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家族になろうよ』てのがありましたが、そうカンタンになれるもんじゃありませんわな

家族を家族たらしめているものは何か、というと、これまた大きく書きだしてしまった気がしてしまうのだが、やはりそれは血のつながりではなく、「共有している時間」の濃度や密度、というものの中にこそあるのだと信じている(『万引き家族』を見た後ではかえって安易に「絆」なんて言葉は怖くて使えっこない)。

もちろん、それは、ほかの様々な自然のうつろいがあってこその「時間」であって、人にかぎらずあらゆる生き物すべてにあてはまる(ほかの生物が「時間」というものを意識しているかどうかは、我々には知る余地もないのだが)。

身体を重ねる性の営みからはじまり、どれだけひとりを気取ろうとも、常に間接的に身を寄せ合うことで、営みは続いていく。

しかし、そこには個人の自我とは別の情緒というやつがあって、その脇に年輪のようにしだいに堆積して重なっていく「時間」は、常に意識の片隅に置かれている。

 

では、さらに、家族とはどういう共同体なのか、というと、これまた考え始めると途方に暮れる。ぼんやりとしたイメージはあるものの、そうした「こうあらねばならない」といった定義めいたものが、世間の理想像を神聖たらしめ、そして呪縛として親子どもを苦しめてしまう、という現実もあるので、ここで「これだ!」とズバリ断定的に述べにくいのではあるが、ひとつハッキリといわせていただけるなら、それは「①見栄とも外聞とも無関係に、②経済活動とは離れ無償で、③そして犠牲を伴うかもしれぬとも無条件で、生命を保護してくれるもの」ではないだろうか。どうしても「べき論」にすり寄ってしまうのは心苦しいところであるが、こうした関係性が暗黙の了解のもとに成り立ってはじめて、子どもが安らかに落ち着いて「当たり前に」生活のできる環境を築く、ということが可能なのではないのだろうか。

ルソー(否、尾○ママか)のような文章になってしまい、一義的に決めつけられこそはしないものの、こうした論理や感情を超越したものが、家族を特殊な共同体として繋ぎとめる、根幹のミキのような部分だと、若輩者ながら理解している(まあ所詮は「身近な他者」ですから、期待しすぎも、依存しすぎも、良くありませんがね)。

ここで、大事なことは、血縁も、地縁も、因縁も、けっして蔑ろにはできないものではあるのだけれども、それらは家族を構築するある一要素に過ぎず、根幹を成すものではないのだ、という、当たり前といえば当たり前すぎる文句をひとつ頭に入れておいてもらいたい。

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商業主義とドキュメンタリーの狭間、そして手加減のない「わかりやすさ」と「わかりにくさ」

 『星の王子さま』という一度は手に取ったことがあろうサン=テグジュペリの作品*1は、

 レオン・ウェルトに

 わたしは、この本を、あるおとなの人にささげたが、子どもたちには、すまないと思う。でも、それには、ちゃんとしたいいわけがある。そのおとなの人は、私にとって第一の親友だからである。もう一つ、いいわけがある。そのおとなの人は子どもの本でも、なんでも、わかる人だからである。いや、もう一ついいわけがある。そのおとなの人は(中略)、どうしてもなぐさめなければならない人だからである。まだ、たりないなら、そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、わたしは、その子どもに、この本をささげたいと思う。おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいる大人は、いくらもいない。)だから、わたしは、この献辞をこう書きかえよう

 子どもだったころの

 レオン・ウェルトに

 

という献辞がはじめに書きそえられている。

サン=テグジュペリとレオン・ウェルトのあいだには、かなり熱い友情が築かれており、ウェルトによる著書を紐解けば、この言葉に込められた想いもひとしおなのだが、そこは各自で見ていただくとして、この「献辞」の核となる「そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、わたしは、その子どもに、この本をささげたい」というイズムは、是枝裕和による会心の(改新の)一作につながっているように感じた。ドメスティックな視線を抱きながら、誰にでも刺さる、普遍性を守り通してきた是枝監督は、常に「かつて子供だったおとなたち」に向けて物語を綴ってきた。

是枝裕和という人は、物語の「わかりやすさ」と「わかりにくさ」をうまい具合に切り分けるのがとてもうまく、『誰も知らない』では置き去りにされた不条理な環境でサバイブする子供たち、『空気人形』では生命が宿ってしまったラブドール、『そして父になる』では子どもの取り違えを巡る父親の葛藤、『海よりもまだ深く』ではうだつが上がらない小説家志望の男の離婚した家族との再会。リアルとファンタジーの境界を跨ぎながら、とっつきやすかったりパッと目を引いたりするストーリーを提示する。そこには都市の狭間で葛藤する者たちの姿が「共感」をもってわたしたちのこころに新たな空気を吹き込む。大衆に広く支持され、商業的に成功している功績には、こうした「誰にでもわかるように」という心意気によるものであろう。

テーマは近年の作品では絞られており、「家族の肖像」を書かせれば、この人の右に出るものは現代の監督ではいないだろう、という名人の域に達している(上に述べたある種のストイックな姿勢が大きな一つの集大成として実を結んだのが、『海街diary』だと断定しても、差し支えはないはずだ)。生活の終焉を囲う「世界」を的確にフィルムに収め、映画という形で記述する。類似の監督に成瀬巳喜男小津安二郎、呉美保、エドワード・ヤンホウ・シャオシェン、という、いずれも暮らしとその下に根を張る時代を、静謐に、ときにサスペンスフルに、読み取る能力に突出した稀有な作家たちがいるが、そういったそうそうたるメンツに名前を並べても全く遜色ない。

しかし、忘れていけないのは向田邦子の存在だ。思いもよらない斜め上の想像力、記憶が喚起される情景描写、すべてを見透かしているような貫徹された神のごとき視点、穏やかな日常の裏にむくむくと蠢く不穏で底なしの不気味さ。表現がいちいち性格で、鮮やかで、生々しい。

そんな「出てきたときにはすでに達人だった」書き手のDNAを余すことなく引き継いだ是枝裕和は『海街diary』にて、綾瀬はるか夏帆が演じる長女・幸と三女・千佳にこんなやり取りをさせている。

 

 「だって幸姉の漬け物、味しないじゃん」

 「浅漬けなんだからいいの」

 

これはまさしく是枝監督の映画に対する姿勢そのもので、作り手として畳や食卓のシミから家屋の傾きまですべて把握しながら、同時に解釈を委ねるところは委ね、多くを語らない、語らせない、という基本姿勢の表明であるといえよう。世界を完ぺきに掌握しきっているゆえに、このような「わかりにくさ」を放り出すことが許される免罪を不を手にしたのである。

しかし、どうした、是枝さん。今回はめちゃくちゃ「わかりやすい」。

『万引き』なんてのはミスリードもいいところで、犯罪街道まっしぐらな真っ黒黒すけな家族だったわけだが、それだけでなく『万引き家族』では、ドライな性が消費される空間からこれまでは意図的に遠ざけてきた濃厚でしっとりとした性描写まで、余念がない。『海街』がウソみたいなハードさである。

ここ数年の是枝監督は、怒りのモードにあるのだろうが、今回は静かに怒っているようだ、ということが映画の終わりかけにようやくわかりかけるのだが、それはまた次。

理解できないから。共感できないから。自分たちとは遠く離れた世界の住人だから。

「感動」という味付けの濃い漬け物に従慣れきってしまった我々観衆は、いま一度、ほんとうの「感動」について、まっとうな「共感」について考えて見るべきではないのだろうか。

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スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし

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星の王子さま (集英社文庫)

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思い出トランプ (新潮文庫)

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海街diary

海街diary

 
誰も知らない

誰も知らない

 
海よりもまだ深く
 

 つづく

 

*1:いや、読んだことない人とかいるんですかね、とか書こうと思ったんですが、かく言う自分はようやくこの歳になって物語で提示される問いに、「ははあ、なるほどなるほど、なんとなくわかりかけてきたぞ」となり始めてきた感じなので、まあ読んだことがない人は『スイミー』と併せて読んでみましょう