ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

過去に置き去りにされた女 パブロ・ラライン×ナタリー・ポートマン『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』

ツイッターでネタを募集していたという作家にあるまじきトンデモ行為をしでかしてた大罪を忘れるくらいには『半分、青い』にそこそこハマってます。めちゃくちゃハマってるというほどでもないのだが、なんだかんだ見てしまう。

2018年7月現在、これといって習慣的に見ているドラマがあまりないのだが、連続テレビ小説『半分、青い』は、離脱することなく、朝食のタイミングで視聴している。北川悦吏子の脚本に、そこまで関心を持っていなかったのですが、要所に抜けがあるものの(さすがに律が全然関係ない女と結婚してた時はそのリアルさにどん引いたし、「夢見させておくれよぉ」と涙目になりました)、ついつい鈴愛ちゃんのことが気になり、胃に穴が空きそうな思いをしながらも、苦行に耐え、食パンと共に消化している。

中でも目が離せないのは、この鈴愛ちゃん(一部でウザいだのワガママだの散々言われているしそれも致し方ない嫌われっぷりのヒロイン)を演じている永野芽郁の演技で、彼女の表情の空虚さがいたたまれないほどに苦しく、ハッキリ言ってもう見たくないくらい。このヒロインに対する仕打ちは、近年の朝ドラでも類を見ないほど容赦がなく、明らかに才能がない(創作の源泉が今のところ輝かしいキラキラした青春しかない)のに、アラサーを目前に漫画家として目が出ないまま、日が過ぎていくわ、想い人は結婚してるわ、秋風先生(つまらない回でもトヨエツさえいれば何とかしてくれそうな安心感)は親と師匠のあいだの立場で迷うわ、ホンマの親も娘のことが心配で信用できなくなってるわ、という有様。朝の8時と星野源のホわっとした間の抜けた歌とは、明らかに相性の悪い剣呑さ。この絶望の底なし沼に引きずられていき、無感動になっていく諦観に満ちた悲痛な表情が、実にうまい。この女優さんのキャリアを、そこまで存じ上げないのだが、まだ10代なのに、一人の女性が人生で抱えた空虚を、ここまで全霊で肉薄した表現でやりきれる役者、というのはこの先がとても有望ではないでしょうか*1

そして、この永野さんのこの素晴らしい熱演が、映画『ジャッキー』をご覧になられたうえで導きだれたものだとすれば、もっと素晴らしいと思うのだが、まあそんな「ひょっとしたら」あるはずないですね。妄想です。

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本稿を書き上げた後にレビューを見ると点数が低くたまげたのだが、それと同時に「まあそれも無理はないわな………」と納得せざるを得なかった

で、こちらが誉れ高いワタクシデミー賞「色々とえげつねえ」部門最優秀賞を授与した『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』なのだが、これが本当に歪で狂ってて、良い。永野芽郁さんにも、いずれこういう作品に主演で出ていただきたいもの。ウッディ・アレンブルージャスミン』における、ケイト・ブランシェットにも近しい凄まじさを体現した、ナタリー・ポートマンにはただただ感服するしかなかったです。

この映画、ジョン・F・ケネディ大統領夫人が、夫の暗殺を受けて、国葬を取り仕切る激動の4日間を描いています。なんとかして大統領として威光や名誉を守ろうと、血眼(本当に血の涙が出ている)で奔走します。このジャクリーン夫人、恐ろしく肝が据わった人で、旦那が銃殺されたにもかかわらず、紆余曲折を経ながらも、大衆の前に堂々と出てくるんです。「脳みそがこぼれないように、頭おさえてたのよ」なんてナタリーが言う様は、伊藤潤二ホラー漫画にも似た狂気を感じさせる。記者にも鋭い指摘をされますし、弟にはこれまた手痛いことを言われますが、全く耳にも入らない。とんでもない執念。

この夫人、どうしてここまで必死になってるのかといいますと、リンカーン大統領に大変な憧れを抱いている。ホワイトハウスの家具やらを、なんとか自分の時代に引っ張ってきてまで使おうとしている。いってみれば、王政復古主義者のようなんですね。なんとかして王朝を取り戻そう、ともがくわけです。

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しかしもちろん、そんなものは夢にすぎない。夫の死を機に、豪華絢爛な飾りたちは一気にはぎとられていき、彼女はその《夢》の死と共に、黒に身を包み、喪に服していきます。彼女についていくグレタ・ガーウィグ(『フランシス・ハ』のあの人)には、自分のことを夫の名前と酷似した「ジャッキー」という名前で呼ばせるところから、より、この一種の妄想は強まっていきます。

彼女は夫を愛していたのか、というのが一つの主題となってくると思うのですが、現実問題としては怪しかった(普段だけでなく最後の晩も一緒に寝てなかったわ、とか言ってるし)とは思います。ただ「愛していた」対象が、夫そのものでなく、ジャックの幻影に映し出した「強さのための歴史」で、相当に倒錯した愛情表現だったのだろうと推察できます。だから自分を「ジャッキー」と呼ばせ、己の半身である亡くなった夫への妄想を肥らせるしかありません。

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さらに、それじゃ何がここまで彼女を駆り立てるのか、少し首を傾げるところではあるのですが、それはやはり彼ら彼女ら自身が「特権階級を持っただけの人間」にすぎないのだ、ということを無意識的にでも、明白に自覚しているからなのでしょう。どれだけリッチな生活をしていようと、大統領夫人という肩書がなくなれば、学費を工面せねばなりません。結局は、歴史から消え去っていく1人にすぎないんですね。

この映画の何よりの皮肉は、偉大なる過去にすがる女の倒錯した愛の復讐劇を、非アメリカ人監督・非アメリカ人主演俳優・非アメリカ人撮影監督(製作のダーレン・アロノフスキーアメリカ生まれ育ってますが、ロシア系のユダヤ家庭の出自です。脚本のノア・オッペンハイムが生粋のアメリカ人なのでしょうか)によって手掛けられたものである、ということです。監督のパブロ・ララインがチリ出身だったからこそ、ここまで歪みに歪んだ過去に自分を置き去りにしてしまった女の滅びがっドラマティックでサスペンスに満ちたものになったのでしょうし、フランス出身のレオス・カラックスの作品に参加していたような撮影監督だからこそ、この悲劇を愛を超越する狂気をはらんだ、三島由紀夫に通じる滅びの美学を描き切れたのだと思います。

そして、なによりも、イスラエル出身のナタリー・ポートマンの狼狽演技には天晴れとしか言いようがないです。身体の隅々まで、ジャッキーを落とし込み、神話的悲劇性を持って、歴史から追いやられる様を表現した、彼女のベストアクトだと思います。意見として、どうやら彼女のアップが多すぎる、という意見が見られましたが、先にも述べたように、これはアメリカの幻想にとらわれてしまった、普遍的で狂った女性の一代記ですので、むしろ「こうでなければならなかった」のです。あの夫の血を浴びた彼女の涙を他の女優がやる、というのはちょっと考えにくい。

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ダーレン・アロノフスキー製作だけあって、今作は、異常なまでに美しい端正な画作りが心がけています。マデリーン・フォンテーヌが手掛けた衣装デザインも忘れてはなりません。画面の端から端まで、調度品のように意匠が凝らされ、そこにジャッキーの記憶の曖昧さからくる時系列の複雑な入り乱れが、次第に妄想と理想のふくらみを、助長させて、壮大な女の《復讐劇》を完成させていく様子は、見ていて胸が痛いものがあります。

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フィルムの質感にまで異様なこだわりを見せた『ジャッキー』、インタヴュー形式のドキュメンタリー・テイストでありながら、シンプルで誰でもわかり共感しやすい「愛の物語」に着地させず、狂気と悲劇に呪われ、歴史の威光に夫婦の姿を倒錯してしまった女性を、断罪してしまう切れ味の鋭さと一筋なわっではいかなさに、チリ出身監督の野心と才気を見せつけられました。ナタリー・ポートマンはよりこの後も貫禄を増していくことでしょう。

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おしまい

*1:ちなみに、自分はわりに鈴愛ちゃんに共感してしまっている節があるので、世間のヘイトには真っ向から立ち向かいたい所存である。「他人を羨ましくなりすぎて、気が狂いそうになる時、あるよね。わかるぜ」と影で密かに握手してみたい気持ちにもなる。このヒロインの痛みがわからないなら、押見修造の『惡の華』でも呼んで出直して来い、といきり立ちかけたのだが、そもそも、朝の爽やかな時間帯に『惡の華』をやる道理がないので、やっぱ北川悦吏子おかしいってばよ…………(一周戻る)