ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

マジカルで鮮やかな色した景色の中で走りぬける子供たち『フロリダ・プロジェクト』

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僕がいる街は、大都市とはいえなくとも、程よく自然(厳密に定義された「自然」とはまた異なる)があり、そこそこに観光でにぎわっていたり、清潔な住宅街があったり、大学があったり、物騒な情勢にしては治安も良い。しかし、もちろん、社会というものがある限り、貧富の差というものが影を落とし、少し離れて目を凝らすと、とても楽観視できないような現実が見えてくる。少し人気のないところに行くと、時折子どもがチップや僕が手に持つスマートフォンをねだってくる。町の中央にある駅に降りれば、みすぼらしい格好で歯が抜けて目も虚ろな(おろらくヤク中だろう)女性が、「コーヒー一緒に飲まない」とそれしか言うことがないのかというような、決まり文句でお金を恵んでもらおう(まあ毟り取ろうというか)と縋りに来る。無論、そんなものに構ってしまうわけもなく、目も合わせず通り過ぎるのだが、やはりどこか心苦しいものも感じ、そういう感情になっている自分が見え透いた聖人気取りの偽善者のように思え、また空しくなる。街を歩いてウィンドウショッピングなんぞしていたら、ボロボロのブランケットに身を包んで寒さに凍えたながら、どこの国の歌なのかよくわからない歌を歌い、なんとか神(いるのかいないとかではなく)に縋ろうと毎日の習慣のように天を仰ぐ人々がぽつぽつといる。警察に囲まれ、尋問されているのをこっそり聞くと、不法就労かどうかで問われていたり。人が忙しなく行き交う裏で、そうして苦しい生活が淡々と進んでいく。

同様の感覚は、日本でも味わったことはある。例えば、自分は祖父母の墓参りに決まった時期になると京都市内へ行くことがあるのだが、車で帰るときに、よく。もちろん、彼らの日常を不幸せだとか我々が断定できることもできないし、そんなものは不遜以外の何でもない。ただ、やはり、あのどこかの楽園のような描かれ方をしていることから、そう離れちない場所にある、そうした風景を見ると、どこ痛ましい気持ちにもなって、またそこで自分の偽善的感情にうんざりするのである。

まあここまで歴然と目に見えるような貧困でなくとも、至る所に、格差というものは存在し、社会というものが持続している間は、どうしてもそういった辛い現実は生まれてしまうものだ。今最も世界で危うい均衡を保っている国であるアメリカはフロリダ州にも、当然ながら格差というものがあるらしい。パブリックなイメージとしては、青い海に、だだっ広いビーチ、といったものが見識の狭い時分のような人間でもパッと浮かんでくるものだが、現実はやはり太陽カンカン照りということもないらしい。2016年にナイトクラブで起こった悲惨な銃乱射事件に、2018年にも高校で乱射事件が起こり、17人の命を奪った。このままいくと、しばし銃規制云々の方に話が伸びてしまいそうなので、打ち止めにするとして、煌びやかに富裕層が反対に、やりきれない現実というものが存在する。そしてもっと悲惨なことは、「楽園」に住む人間は、その中から見える外の景色には微塵も関心がないのだ、という現実。

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さて、いつものようにくだらない(いや、くだらなくはないのだが)前置きがまたズルズルと長引いてしまったが、そういった現実のあれこれがぼんやりと観賞後に浮かんでくるような映画『カリフォルニア・プロジェクト』。

舞台はディズニーワールドのモーテルの近く。スポットが当たるのは、そこでその日暮らしを営むシングルマザーのヘイリー(ブリア・ビネイト)と娘のムーニー(ブルックリン・キンバリー・プリンス)。安モーテルの管理人ボビー(ウィレム・デフォー)は子どもたちの悪戯を優しい目で見守る。ヘイリーは仕事を解雇され、モーテルの家賃もロクに払えないので、子どもたちはたくましく、そして楽しそうに、釣銭を貰いにいったりご飯を恵んでもらったりする。しかし、そんな日常は、ムーニーとヘイリーの起こした事件によって崩れていく。

終始、子供が気まぐれに絵具で塗りたくった絵のような、パステルカラーの映像に見惚れてしまうが、そこに影を落とす売春や貧困は暗い。表面的な色彩の鮮やかさによって、よりその表層性にある種の薄気味悪さのようなものが加わる。間接的なアプローチにより鮮明に映し出される現実、というものはウェス・アンダーソンが『グランド・ブダペスト・ホテル』でも行っていたことだが、生々しさの度合いではこちらの方が数段上である。明るい「夢の国」をうたう一方で、差別をはじめとした現実の問題を炙りだす近年のディズニーの『ズートピア』のアプローチとも実に似通っている。陥った状況は大きく異なるが、同様のシングルマザーが直面する厳しい現実を描いた『ルーム』とは比較すると面白い。

(ちなみにディズニーはこの貧困問題に対して、基金に50万ドルの寄付をしたようなので、この問題はもはや企業レベルでどうにもならない域にあるのかもしれない)

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子どもの視点で映画を進めていくために、子役の演技がとても的確に、そしていやらしくなく見せていたのだが、ショーン・ベイカー監督はやはりというべきなのか、きちんと是枝裕和『誰も知らない』を事前に見返したらしい。信頼できる。もちろん、ブルックリン・キンバリー・プリンスちゃんの演技が上手なのも一役買っている。しかし、そこに頼り切らずにあるがままの子供本来の姿を作りだすことに成功している。

子供たちの悪戯は微笑ましいものの割と容赦がなく、言葉遣いは粗雑。その粗雑さゆえに、彼らがおかれてしまっている抜け出せない貧困の沼の深さ、ひいてはそこから垣間見えるピュアネスが捕まえる大人たちの悲しみまでもが浮き彫りになる。

すぐ近くにはディズニーの夢の国が見えるのだが、彼女たちを囲うありふれた日常も「子どもの視点」によって均一化され、豊かでミラクルな世界なのであることに気付かされるのである。

母親役の俳優さん、聞くところによると、演技素人のインスタグラマーなのだそうだが、未経験とは思えないし、とてもシングルマザーとしてリアリティがある。キャスティングが実に慧眼。下手に肌がキレイで金のかかってそうな綺麗な女優(そう思うと『ルーム』のブリー・ラーソンの身をやつすような気合いはとても素晴らしかった)を使うよりも生々しい。描きようによっては、ただただ怠惰でダメな母親にも映りそうだが、そうはせずに、子どものまま身体だけが大人になってしまった大人が、貧困に抗っていかなければいけないという厳しさを、視点が子供だけに偏ることなく丁寧に捉えている。ムーニーのことを愛していて、だから身体を売らなければいけないと決断する夕暮れに胸が痛む。

ウィレム・デフォーの瞳もとても素晴らしい。語らずとも滲み出る人情味。キャリア史上最高の演技、という前評判に見合う名演を見せつけてくれた。ただ怒鳴るだけじゃいけない。しっかりと子供を見守ることの大切さに気付かされる。彼の存在はこの映画においてクッションのような役割を果たしている。

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「フロリダ・プロジェクト」を見たときの既視感が引っ掛かったのだけれど、長谷川町蔵氏のツイートでNHKドキュメント72時間」と表現されていて、非常にスッキリした。川栄李奈鈴木杏のナレーションが聞こえてきてもおかしくないくらいである。

しかし今作には、ナレーションも余計な会話も必要ない。そうした歪んだ生活を、無駄な言葉で装飾せず、きれいなパステルカラーで訴えかける。子どもの視点で見える「小さな世界」は、想像力に満ち満ちていて、まさしく「夢の国」そのもの。それでも、その無垢で純粋な視点だからこそ、その外に見える抜け出すことが許されないグロテスクな貧困が生々しい。

(それにしてもこの作品がアカデミー賞が選ばれなかったことにスノッブの考えがわからない、と述べたそうだが、ごもっともだ。 嘆かわしい限りである)

この映画は、「夢の国」にいる我々を含めたおとぎ話の国の人々に、同じこの世界に住む人々の存在を突きつける、重要な一作なのである。彼らは決して隠れているのではなく、目を向けていなかったにすぎないのだ。

ラストの演出をどうとらえるべきか。おそらく「よくわからない」というただの受け取り手のリテラシー不足・タイマンのような感想を抱く人もいるのだろうが、それではいけないのだ。本編が終わった後の世界は、そのまま地続きに今いる現実に繋がっている。目をそらしてはいけない。理解できない、では済まされないのだ。理解しようとする、その姿勢こそがショーン・ベイカー監督が今作で促そうとするものであるはずなのだ。語らずとも、すべてこの映画で語られている。

子供映画としても、ヤングアダルトものとしても、秀逸で、こんなポップでありながらリアリスティックなアート映画はこれまで見たことがなかった。夢の国にいるだけでは見えないエトセトラに目を向ける誰にでも優しい傑作。

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おしまい