ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。ただ流れる言葉。雑談。意味のない話。つまらない話。聞くに値しない話。たびたび脱線するごくごく個人的な話。

光芒的タイムトラベル - 小沢健二『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』を読む

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二階堂ふみ、吉沢亮らが挑む残酷な青春『リバーズ・エッジ』予告編

やあ、あまりにすごすぎた。まだか、まだなのかい、と待ちわびた『アルペジオ』ですが、これはすごすぎました。小沢健二という人の曲は、いつも後になってメロディから歌詞が染み出てきて心にジワジワと砂糖のように溶けてくのが多く、この前の『フクロウの声が聞こえる』のようなド頭のイントロで「あ、こいつは名曲だな」とピンと来ちゃうもの以外は、あまりぱっと聴きですぐにいい曲だ(もちろん毎度憎たらしいくらい上質なメロディではある)と飛びつくべきではないのだけれど、それにしてもこの曲はすごい。タイトルが、童話チックで、間が抜けている(ように思える)だけに、歌詞のある種の執念深さとの落差で拝聴している椅子から転げ落ちてしまいました。いやもう端的に詩がすごいです。Appleの企画で対談していた銀杏Boys峯田和伸の言葉を借りるなら、「歌詞じゃなくて詩」がそのまま音楽に乗って紡がれている。もっと言えば、小説に勝手にメロディがついてそのまま節がついて歌になった、いや、歌になっちゃった感じ。自然現象みたいな。雨が落ちて川になりそれが大気に流れて雲になってみたいな自然さ。赤裸々なヒップホップでやるラップミュージックとはまた違うし、ポエトリーリーディングでもない。途中の二階堂ふみ吉沢亮(声帯の震え方が朴訥で素敵)のセリフもマジックのように、突如口の中にもぐりこみ、いつの間にか飴玉が舌から消えていく。なんなんだこれ、というクエスチョンマークで頭を覆い尽くされているのに、心は別の静かで明るいところへ持っていかれています。メロディはカントリーの土の臭いがする中でスルスルと水流のように詩が紡がれ、リズムもカントリーのマナーに則っている。『流動体について』が『ある光』を踏襲したような楽曲だったのに対し、『春にして君を想う』のリベンジなのか、とか勘繰ったりしますが、真相やいかに。凱旋からここまで考え抜いて用意周到に作られたようにも思えるし、たまたまポンと生まれたような軽快さも感じます。風通しはいいのに、詩の厚みが一短編を丸っと作れちゃうんじゃないか、というほどに重い。これまでヒップホップでも素晴らしい楽曲が生み出されると度々「私小説的だ」などという形容詞は用いられるのを見かけました(ケンドリック・ラマーの名盤『To Pimp A Butterfly』なんか分かりやすい)し、ボブ・ディランノーベル文学賞を獲得して世間をあっと驚かせる時代なわけですから、決して歌詞が文学的であること自体には驚きはないのです。ただ、Jポップという文脈の中で、ポエトリーではなく、強度が高くもメロディと組み合わさることは難しかった詩が奇跡的に融け合うというのは、これはまさに『神秘的』と言わざるをえないのではないでしょうか。この曲をジム・オルークが聴いたらどう思うのだろう、とかそんなこともつい考えてしまいました。ああ、あとベックとか(そういえばベックってエドガーライト連れてコーネリアスのライブに行っていましたね。遠回りに小沢健二に繋がらないかしら)。R.E.Mとか『ヨシュア・ツリー』期のU2とかも親和性がありそうです。ジャスティン・ティンバーレイクがリアルな1人のアメリカ出身の人間として、R&Bとカントリーを織り交ぜた60分に及ぶ大作『Man Of The Woods』が発売された時期と、アメリカ文学に魅入られたかつての文学青年が長い時を経て日本で自分のルーツと共に一枚のシングルを作り上げた時期が、偶然にせよ被っているのはなんだかおもしろいです。より音楽が個人のもの、「あ、これって俺にしかわからんぞ」的な感覚が強く残るカルチャーになってくのでしょうか。

 

と、まあ専門的な音楽知識も特段持ち合わせていない人間のなんちゃってレビュー擬きはここまでにして、これから以下に続く文は、フリッパーズ・ギター以降のオザケンの軌跡と歌詞を照合(深読みしたくなるほどに要素が多すぎるのだから無理はない)するようなことは、熱心なオザケンフリークの方が必死にやられるであろうから、そういうことはそちらにお任せしておくとして、この私小説のストーリーをぼんやりと追えたらいいな、と思います。なので、後述の「君」が岡崎京子であろうこと、そして小山田圭吾とか嶺川貴子とかそこらへんの事情は一旦忘れている風を装って筆を進めていくことにします。

(今作でこんなにディープに突っ込んだオザケンの若かりしパーフリ全盛期の四方山話に触れたとなると、これから渡辺満里奈とかカヒミ・カリィとかも歌詞に出てきちゃうんですかねぇ)

 


「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」ティーザー映像

    幾千も灯る都市の明かりが

      生み出す闇に隠れた

    汚れた川と  汚れた僕らと

 

舞台は、都会の仄暗い、川辺の闇で生活をする「僕ら」から始まります。シティポップの寵児として王子様のようにふるまっていたかつての小沢健二のイメージからすると、生々しくどこかダーティな歌いだしです。

 

    駒場図書館を後に 君が絵を描く原宿へ行く

           しばし君は

   「消費する僕」 と 「消費される僕」をからかう

 

固有名詞の入れ方がとてもストレートですね。駒場といえば、東大ですから、中々にインテリな語り手の「僕」はナイーヴな文学青年なのだろうか、とかそんなことが過ります。図書館を後にした「僕」は友達の「君」に会いに行きます。原宿で絵を描く友達なんて、凡庸極まりない田舎育ちの人間からすれば、なんてハイソなと冷ややかな気持ちがなくもないですが、それはそれ。

その友達である「君」は、「僕」のことを消費する側でありながら消費される側でもあることをからかう、中々にシニカルで愉快な毒舌家のようです。「僕」は世間に出るような仕事をしているんでしょうね。モデルとか俳優とか。はたまたアーティストとか。図書館に足しげく通っているような青年ですから、きっと熱心な読書家なのかな。「君」はとりあえずは絵描きさんということでいいのでしょう。

 

      この頃の僕は弱いから

     手を握って  友よ  強く

 

消費される側の「僕」は精神的に参っているようです。ここの「友」というのは誰のことを指しているのか、まだ判別しがたいですかね。

 

      でも魔法のトンネルの先

    君と僕の心を愛す人がいる

    本当だろうか? 幻想だろうか? と思う

 

さて、ここで一つ難関なのですが、この「でも」とは一体何に対する「でも」なのでしょうね。ここだけだとイマイチわかりにくい唐突さがあります。後のこの疑問に向けたアンサーのようなフレーズから類推すると、ここは素直に「僕」と「君」のこの他愛もないやり取りを、未来のある地点から、「魔法のトンネル」の向こう側から、眺めている未来を知っている「僕」と、その未来に現実味を感じない「僕」の葛藤のようなものに見えます。ここでいきなり「僕」がどこの時間にいるのかわからなくなっちゃいますが、過去のある時間にいると思ってよさそうです。

 

      僕の彼女は君を嫌う

   君からのファックス隠す 雑誌記事も捨てる

 

日常に戻ります。「僕」には「彼女」がいるようで、この娘はどうやら「君」を嫌っている節があります。1番に当たる箇所で、東京が舞台であることはわかりましたが、ここで「ファックス」というアイテムによって、きっと少し前の80~90年代あたりの携帯がまだ普及する以前の日本であることはぼんやりですが、汲み取れなくもないです。「君」は絵を描く人のようなので作品を送ったりしているのか。ただ単に「彼女」が「君」を嫌っているわけではなく、送られたファックスを破るわ、雑誌の記事も捨てるわ、ヒステリーを起こしているような苛烈な反応ですね。雑誌の記事というのは、いわゆるフライデーとか文春とかの類なのか、それとも「君」がインタビューでもされているカルチャー雑誌なのか(嶺川貴子と付き合ってたって自分からゲロっちゃうのかよオザケン!という驚きはここでは堪えましょう)。

 

    その彼女は僕の古い友と結婚し

    子ども産み育て離婚したとか聴く

 

そうかと思えば、次の行でいきなり「彼女」が「僕」の「古い友」と結婚して子供産んで、しかも、離婚までしているといういきなりすぎるどんでん返し。ヒエッ。名前は伏せておくにしても、「彼女」と「古い友」にしてみれば、「僕」の「君」への私信でこんな半ば当てこすりのような巻き込まれ事故をされちゃ、ちょっと止まったもんじゃないかもしれませんが、「僕」が青春時代と向き合って消化できる齢に到達した、ということなのでしょう。

 

     初めて会った時の君

   ベレー帽で 少し年上で 言う

  「小沢くん、インタビューとかでは

  何も本当のこと言ってないじゃない」

 

次はさらに遡り、「僕」が初めて「君」と出会った頃に戻ります。「君」という人物の風貌と年齢が明かされ、「ベレー帽で/少し年上」のようです。別に画家がベレー帽をかぶっちゃいけないとか、漫画家はみな一様に手塚治虫のコスプレをしているとか、そんな偏見はありませんが、ここはズルしてアポステリオリ的な卑怯な手口で強引に漫画家であろうと断定しちゃいます。ついでに口調から女性かもしれないことも。そんな「君」は「僕」のことを本当のことを言わない人間だと言います。

 

     電話がかかってくる

   それはとてもとても長い夜

   声にせずに歌う歌詞が振動する

    僕は全身全霊で歌い続ける

 

そして、「僕」に電話がかかります。時制が見えにくいので、若干飛躍してはいるかもしれませんが、きっと「彼女」が「古い友」と結婚したことを報されたことと見るのが妥当に思えます。この前の歌詞での、素直に思っていることを言わず、仮面をかぶったままの「僕」の人物像から、1人で真夜中に電話機の前で悲しみに暮れていたのでしょう。

泣いている、と直球で書いてしまうと赤面してしまいそうなくらいに野暮なので、様々な表現者たちによりこれまで様々な表現が生み出されてきました。しかし、この「声にせずに歌う歌詞が振動する」という言葉は、より切実で涙が枯れきった「僕」の青春の喪失のようなものが窺える、非常に秀逸な表現です。そんな悲痛な「僕」にできることは、もう歌を歌うことで感情を吐露していくことしかなくなってしまったようです。全身全霊で歌う、というのはアメリカからの凱旋以降の小沢健二の歌い回しを聴いていると、とても腑に落ちます。

 

   この頃は 目が見えないから

    手を握って 友よ 優しく

 

「目が見えない」というのも、流れからそのまま泣いているのであろう、と踏んでよさそうです。ここで「友」というのは、「彼女」と結婚した「古い友」ではなく、やはり「君」のことと見て間違いはないですね。青春と別離したのと同時に、きっと「古い友」とも訣別したのでしょう(安易な不仲説とかではなく)。

 

    きっと魔法のトンネルの先

    君と僕の言葉を愛す人がいる

   汚れた川は 再生の海へと 届く

 

このサビのところは、未来から輝かしくも苦々しいあの頃を見つめる「僕」の視点と捉えていいですかね。都会の灯りとは離れたところに影を落としていた、汚れた「僕」たちの青春も、川が流れ着いた海では、遥かなる「トンネルの先」では、眩い光を伴った海となって誰かを癒す存在になりうる、という自らの過去への救済であり、同時に物語を伝承していく「詩人たち」への賛歌と受け取ってよいのではないでしょうか。ちょっと又吉直樹『火花』が浮かびました。

 

   日比谷公園の噴水が春の空気に虹をかけ

     「神は細部に宿る」って

    君は遠くにいる僕に言う 僕は泣く

 

ここで「僕」と「君」のどちらが「日比谷公園の噴水が春の空気に虹をかけ」ている「魔法のトンネルの先」にいるのか、ということが疑問ですが、「僕」にとって「君」が過去から現在に至るまでの精神的な支柱であったこと、そしてこれも逆算みたいな思考の飛躍なのですが、「君」は過去にとどまっている存在であることもなんとなく仄めかされているので、過去から「僕」に「君」が語りかけている描写でいいでしょう。「神は細部に宿る」という言葉も、絵描きである「君」らしいですね。「僕」が生み出すものには、意図しない領域にまで、「僕」が経験してきた痛みも歓びも血肉となって詰まっているんですね。人生に無駄な事なんてない、とかクサいこと言いやしませんけど、これほど力強い言葉で肯定されてしまったら、そりゃ感情を表に出さなず煙に巻いてきた「僕」も泣かざるを得ません。

 

      下北沢珉亭

  ご飯が炊かれ 麺が茹でられる永遠

  シェルター 出番を待つ若い詩人たちが

    リハーサル終えて出てくる

 

最後に、「魔法のトンネル」を抜けて、「僕」がこの歌を歌っている現代に帰ってきます。東京の片隅では、今日も当たり前のようにごはんが焚かれて、永遠に続くかのように麺が茹でられています。日々は続く、ご飯と一緒に。これは前作での『フクロウ』『シナモン(都市と家庭)』などで書かれていた、生活と食べることというテーマに通じているのではないでしょうか。小沢健二の詩を読むと、なぜかお腹がすくんですよね。東京に住んでいないので、「下北沢珉亭」という場所に対し、具体的なことは述べられないのですが、一度昔『とんねるずのみなさんのおかげでした』でそんな名前の中華屋さんを見た記憶がありました。「シェルター」というのは自分のような田舎者でもさすがに知っています。ライブハウスで出番を待つこれから物語の紡ぎ手となる「詩人たち」の日常も、そんな中華屋や噴水のある公園のある都市の影で、ひっそりと輝かしく続いていく。そう予感させ、綺麗に「僕」の過去の点が未来へと一本の光の線で繋がっていきます。

 

こうして順を追って読むとなかなかのものでしょう。拙いこんな読み手でもこれだけのことが読み折れるので、もっとセンシティブな性格の方はこの倍以上のことを読み解かれるのでしょう。骨が折れます。

アメリカ文学というモノに、造詣が深いわけではないのですが、このジャンルが今でも多くの人々の心のつかんで離さないのは、結局「自分」とは何なのか、という普遍的なテーマに行き当たるからだそうです(小沢健二がかつて在籍していたゼミの教授である柴田元幸が書いていたような)。 

あと、1人の人間が物語ることができるのは、せいぜい1つの物語でしかない、ということなのかもしれない、とふとそんなことを考えたりしました。村上春樹の小説ってそんな感じじゃないですか。

最後に一つ、なぜ今回、わざわざ小山田圭吾周辺の話や岡崎京子のことをを無視したかといえば、それはもう単に「アルペジオ」という曲が、とても小説的なのだけれど、この曲ほど一聴して今までのオザケンを知らなければよかった、と思うことはないからです。『ラブリー』も『ブギー・バック』も。なんなら小沢健二の「お」の字も知らないフラットな価値観の世代がパッと聴いてどう思うか。そんな現代のティーン(じゃなくてもいいけど)の感触を少しでも味わってみたかった。それだけなんですね。まあジェラシーです、若さへの。小沢さんは若いこと、青いことへのジェラシーってあるのかしら。

(そういえば、英語でレンブラント光線を「天使の階段」って言うんだったっけ。甘ったるい喩えだ)

歌詞に出てくるような固有名詞にとらわれなくても、この「文学」は若い人たちの心を掬ってくれるような気がします。

「詩人たち」に仄暗いトンネルの中をともすランプを授けてくれるはずです。

 

夢が夢なら

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 おしまい