鏡の向こうの「リアル」(クリス・スミス&ジム・キャリー 『 ジム&アンディ 』)

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電話、というものが嫌いだ。虫唾が走るほどに。理由は様々である。こちらが寝転がっていても、飯を食っていても、相手はそんなこと知る由もなく、突如としてかかってくる。メールならば、数行で済むようなことを、クドクドと聞かされることが多々あるので、そんなことで自分の時間が食われてしまう、というのも煩わしい。あの音も不快だ。固定機器であろうが、スマートフォンであろうが、自分が設定した音楽でもない限り、気に食わないものが殆ど。リン、と鳴っただけで、パトカーが不意に真横を通り過ぎたときのように、ビクリとする。

そして、幼いころから、特に嫌いなのが、「声」である。はたまた、「人格」と言い換えてもいいのかもしれない。居心地の悪い、よそいきの「声」あるいは「見慣れない人格」だ。リビングで本を読みながら、キッチンで料理の傍ら通話する母の声は、どこかいつもの母の声とは違っていて、思考のノイズになり、気が散るので、自分の部屋に戻るのだった。だから、そのうち、母が電話に応答する声の調子で、誰が受話器の向こうで話しているのかよくわかった。ああ、このやたらと謙った様子は、父方の叔母さんだ。リラックスして砕けてた口調だから、おそらく九州のおばあちゃんだろう、といった感じ。受話器を戻したのを見計らっては、「○○さんと話してたの?」と尋ね、「人の話なんか盗み聞きしないの!」と叱られたものだ。確かに、あまりいい趣味とは言えない。

ただ、やはり、悪い趣味ほど、簡単には消えないもので、今でも、電車で携帯片手に話す人に出くわすと、その「声」の上滑った感じが耳にへばりついてしまい、不愉快さを感じながらも、ついつい聞き耳を立ててしまう(あれが「マナー違反」だと周りから、眉を顰められるのも、声の大きさ云々というよりかは、あの「声」のよそいきないやらしさのようなものに不快感からくるものだと思っているのだが、これはいつかアンケートなり、社会実験なりをしてみたいものだ)。

つまり、こうした事例からわかるように、人にはその「相手」によって「人格」を形成し、瞬時に切り替え、「本当」の自分をプロテクトする。これは社会の中で人間が生き抜く知恵の一つであろう。誰もが本心でいられちゃ、とてもじゃないが持たないだろうし、すぐさまパンクしてしまう。人口1億あれば、その数十倍の「人格」がこの世には存在することになるのかもしれない。SNSのアカウントやこのブログ上の書き手だって、本当とは違う場所にいる「人格」の1つなのかも。なんて。

 

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ダラダラとつまらない話を長々してしまうのは、僕のいつもの悪い癖で、導入はほどほどに、ここからは今日語りたいドキュメンタリーの話に移行していくとして(落語のようにもっとスムーズに入りたいものである)、タイトルは『ジム&アンディ (Jim & Andy: The Great Beyond)』。説明するまでもないかもしれないが、「ジム」はあの怪物俳優ジム・キャリーのことで、『マスク』や『トゥルーマン・ショー』をご覧になられたことがある方も多いことだろう(自分の中では『エターナル・サンシャイン』のイメージが強い)。2つ目の「アンディ」は、パフォーマンスアーティストのアンディ・カウフマンのことを指しており、このドキュメンタリーは、彼の自伝的な映画である1999年公開『マン・オン・ザ・ムーン』にて、ジム・キャリーがアンディ・カウフマンを演じた際の、いわば撮影裏を再編集し、ジムの人生観を紐解く内容となっている。

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不勉強ながら、僕はあまりアンディ・カウフマンのことを知らなかったし、『マン・オン・ザ・ムーン』に関しては記憶に残ってもいなかった(ただ、R.E.M.が5本の指に入る好きなバンドで、『Automatic For The People』は愛聴盤なので、映画のタイトルの由来については知識としてあった)。その上、ジム・キャリーが優れた素晴らしい俳優である認識こそあるものの、どうにも奇行や胡散臭さの方が目についてしまって、あまりこのドキュメンタリーに手を出す気にならなかったのだが、見始めたら、これが滅法オモシロイ。

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前述したように、アンディ・カウフマンを演じるにあたっての心境を、現在のジム・キャリーが半生と共に回顧していくドキュメンタリーなのだが、構成がトリッキーで、受け手の脳をグラグラ揺さぶる。

これまで、様々な役者がメソッド演技によって、名演を生み出し、時には摩擦を、時には凄惨な悲劇を、現実に生み出してきた。内面を掘り下げていく作業には、大いなる苦痛が伴う。当然の代償なのかもしれない。『タクシードライバー』のロバート・デ・ニーロや『ダークナイト』のヒース・レジャーロビン・ウィリアムズなんかがそうだ(筆者としては、ここに『とっとテレビ』の満島ひかりを入れたいのだが)。頭のてっぺんから、足のつま先まで、役として、もう1人の自分の「人格」として受け入れ、エネルギーとして放つわけだ。膨大なカロリー量になることは、想像するに容易い。

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中卒からスタンダップ・コメディでデビューし、映画『マスク』で世間を沸かせながらも、一方で目立ちたがり屋にも見られていた、器用なモノマネ芸人ジム・キャリーが、『マン・オン・ザ・ムーン』で挑むことになったのが、アンディ・カウフマンというコメディアン(本人はこの呼び名を認めなかったそうだ)なのだが、この男がまた噛み切るには厄介な代物で、噛んでも噛んでも噛み切れない西洋の安いステーキのようである。「男性とプロレスはやらない、女性とやらせろ」と、露悪的な男尊女卑パファーマンスを行っては、反感を煽り、想像力を持つ聴衆を選りすぐるような「スベり芸」で、既存のレールには乗ろうとしない、脱構築的な「お約束」の破壊をモットーとした、愉快で破滅的なアナーキスト。おかしな口癖で「サンキューベリーマッチ」と繰り返し、小太りの「トニー・クリフトン」という中年男を演じて好き放題に振る舞って見せては、挙句に「トニーはアンディではない」と言い出すから、ひたすらにややこしい。

(現在、ワイドショーでふんぞり返っては、相槌打つくらいで、しょうもない政治への見識をあけっぴろげにするしかないような松本人志ではなく、予定調和を逆手に挑発し続けた「全盛期の」松本人志を想像されると、非常にわかりやすいのかもしれない)

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そんな「アンディ」と「トニー」という、既にこの世にはいない2人の人間を演じるジム・キャリー。監督やスタッフの誰が接しても「本人そのものだ」と言わしめるほどの、「憑依」というべきクオリティで、あまりにその「降霊」が凄まじすぎたため、周囲は困惑し、「アンディ」の悪戯でガールフレンドに水をかけられ怒り出す共演者や、父親役と「アンディ」による謎のメロドラマが展開されたりするもんだから、とにかく見ていて気持ち悪い。「アンディ」を演じるジムと「トニー」を演じるジムは、もちろん全くの別人格で、「トニー」がジムのことを貶し始めたかと思えば、「アンディ」でも「トニー」でもない人格が語り始めたりする。書いているだけで、何がなんだかわからない。撮影の間はずっと、「アンディ」であり続けたために、奇行が続き、誰がどう見ても「クソ野郎」で、ユニバーサルがジム・キャリーのイメージへの影響を考え買収したために、長らく門外不出となった舞台裏映像のだが、さもありなん、といった具合である。

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過去にもフェイクドキュメンタリーといった手法で、観客の思考を揺さぶり、混乱させるものはあって、代表例としては『容疑者、ホアキン・フェニックス』や『山田孝之のカンヌ映画祭』なんかがそれだ。

だが、今作『ジム&アンディ』は、そういったフェイクではなく、実際に起こった「リアル」を撮ったものなのに、そこにあるものはどこもかしこも虚飾にまみれていて、「リアル」の外を「フェイク」が殻のように覆ってあって、そこにさらに「リアル」が上塗りされて、その周りにまた「フェイク」を被せる、といった構造になっている。これを手に余りそうな情報量に埋もれずに、ジム・キャリーの人物像を浮き彫りにしながら、尚且つ観客を戸惑わせ、ひとつのカタルシスに導いていく。

(ネットの感想をちらちらと巡回していたら、「わかりにくい」といったものを見かけたのだが、おそらくその「わかりにくさ」は、「誰が」語っているのか、を見失ったことによるもので、その「誰か」がわからなくなることに本作の編集の狙いはあるので、作戦成功なのである)

ジム・キャリーはもう演技をしないのだろうか、と心配されそうな仙人のごときオーラを醸し出している、現在のジム・キャリー。それが果たして、俳優としてあるべき「本来の姿」なのかはわからない。ギラギラと周りを刺し殺すような貪欲さで、エネルギーを四方八方に所構わず発散していた、あの頃の彼とは大きく違うが、でも、役から抜け出して、過去を回顧し、「自分」という存在を見つめ直す、カメラの前の彼もまた、人間としては魅力的で、肩を優しく叩いて「疲れたんならもういいんじゃないかな」励ましてあげたいような気にさせられた。そして、このドキュメンタリーの恐ろしい面は、もう「これを目撃する前の自分には戻ることができない」というところである。 次に、鏡に取り込まれてしまうのは、僕たちの誰かだ。

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