ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

ラブリーな「彼女」について(小沢健二と満島ひかり)

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あなたはポップスターとミューズの対談をご覧になられたことがあるだろうか。もし、まだご覧になられていないのならば、視聴することを強くお薦めする。上質な30分が約束されていることを保証しよう。小沢健二満島ひかり、というこの並びが、本当に贅沢。というか、ズルい。だって、現行シーン最強ミューズを垂らし込められるなんて、どんな巨額の富を費やしたんだ、って話じゃないですか。『とっとテレビ』で刃の全貌を見せつけ、『カルテット』『愚行録』『Tiny Dancer(CHARA)』『監獄のお姫さま』とありとあらゆるところで、天衣無縫に活躍した、まさしく「満島ひかりyear」だった2017年の締めくくりに、こんなものを持ってこられたら、ファンはもうひれ伏すしかないわけで(『海辺の生と死』可及的速やかに見ます)。しかも、よりによって選んだのが『ラブリー』だ。あの、ポップがうねりにうねって暴動のようにのたうち回る『ラブリー』だ。これまた、満島さんらしいのか、らしくないのか。彼女の作品群に続いて、ここでも振り回される我々なのである(自分はまだ見たことがないのだが、以前どうやら小沢健二小泉今日子が番組で『ラブリー』を歌っていたらしく、ますます満島さんのキョンキョン化が進んでいるように思えてくる)。チクショー、憎いぜ、オザケン、とは思ったが、それが今記事で「オザケン」と呼び捨てしているのとは無関係で、満島さんへのラブレター擬きなので、あくまで今回は満島"さん"でいかせてもらおう。

小沢健二 & 満島ひかり

小沢健二 & 満島ひかり

  • Tokyo, Music & Us 2017-2018
  • ノンフィクション

小沢健二がホスト役を務めるこの番組(屋形船でクルージングしながら演奏ってこれまた粋な)は、<オザケンのエッセイ→対談→セッション>という構成になっている。まず、導入が素晴らしいではないか。なぜ彼女が「ラブリー」を選んだのか、が紐解かれる、このお題振りで、オザケンの『LIFE』『刹那』の2枚から、満島さんは

雨の日の 傘の下の プライベート空間

(晴れの日にはできないあれこれ)

という情景を連想する。もうこの時点で、ノックアウト。キュンキュンしてしまうではないか。我々の完敗である。子供の頃、雨の中を学校へと歩く道すがら、長靴を履いて、傘を差していると、まるで傘が自分を見えない敵から守ってくれるバリアのように思えたことが頭をよぎる。誰だって、クローズドで光の当たらない見えない空間にいるときに、安堵を覚えることはあるだろうが、特にありとあらゆる「視線」を雨のように浴びている満島さんにとって、「見られない」ことほど彼女を安心させてくれることはないのだろう。「大人」になることで(あくまで表面上は)、失ってしまったチャイルディッシュな感性をこの二人は共有している(オザケンにしか受容できないこの空間で、我々がその隙に入ることなど、そもそもお門違いな話で、この空間を享受することに甘んずることしかできないのだが)。

最初これを聞いて少し意外に思えたのだが、これまでの彼女の軌跡を踏まえると、なるほど!と合点がいった。俳優ほど、人の視線を浴びて「見られること」を意識せざるを得ない仕事はないかもしれない。そんな仕事を選んだ彼女はこれまで、ひっきりなしに視線を浴びながら、流動体のように、変幻自在に、役に憑依してきた(無論もう既に彼女は「憑依」などという安っぽい段階はとうに超えていて、ネクストステージに踏み込んでいるのだが、敢えてこの表現を使わせていただく)。一挙手一投足でありとあらゆる全ての感情を表現してみせ、しかし、「自分」は一切見せない。微笑みひとつで纏う空気を震撼させ、変貌したバリアは差し込む光を屈折させて、自分の姿を隠す。数えきれない視線の雨の中を、芝居という傘で、小躍りするように軽やかに立ち回り、観客を引き込み、魅せる。誰も彼女の「本当」を知らないのに気づけば、夢中になっている。黒柳徹子を演るという領域を超え、「本人そのもの」になった『とっとテレビ』なんかが顕著だ。アレを見てしまった者は、もう引き返すことができないだろう、満島ひかりの沼から(しかも、もっと恐ろしいことにこれが彼女の実力のすべてではなく、まだ本の片鱗に過ぎない、ということだ)。

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ここに続く小沢健二の朗読が実に気が利いていて、魅力的で、満島さんが夢見心地なお顔をされているのも、さもありなんといった具合だ。一部抜粋

人に見られたい、と思う権力者は、アマチュアで、本当の権力者は、人に見られることを嫌う。世間に対して、バリアを張る。見られないことは、力の源。見られないことは、力そのもの。そう思ったりする。 

 

雨の日、街じゅうで、黒やピンクの傘が開く。その下には、そう、人に見られない空間ができる。傘の下で、人は、ちょっとしたパワーを感じる。権力者たちに比べたら、小さな小さなものだけど、そこには確かにパワーを感じる空間ができる

 

世の中は、フラットでオープン、ではない。実は、ひかりの当たる部分と、影になっている部分があって、オープンではなくて、クローズされた空間がある。クローズドな空間はないことになっているけれど、本当は、目の前の、小さな傘の下にだってある。そこには、満島ひかりさんが、ひそんでいる。おしまい。

自分もいつかこんな散文で、夢見る乙女を口説き落としたいものである。バフェットから始まり、王様の暮らしに思いを馳せ、傘の中の満島さんの表情を空想する。ちょっと巧すぎてスケベな気もしなくもないが、彼もまた満島さんの虜になっている証だ(友人である椎名林檎に『カルテット』を貰い、「日本では各局でこんなドラマが放映されているのか、と思ったけど、そうでもないんですね」と評したほどなのだから、もう手遅れのハズだ)。

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さて、ラブレターと称して、書き始めたこの散文も、そろそろ帰り道を見失ってきたので、いい加減筆を折らねばならない頃になってきた。この後に続く対談も素晴らしいのだが、そこまで話してしまうのは邪推そのものだし、これを読んでくださってる物好きな方の楽しみを奪いかねない。そこで、こちらからの3つ目の提案(1つ目はオザケン満島コラボで、2つ目は『とっとテレビ』)として、挙げさせてもらいたいのが、MONDO GROSSO『ラビリンス』MVである。もう既に見たよ、という人の方が圧倒的多数であることは明白なのだが、今一度この美しい「舞い」を括目して見ていただきたいのだ。香港の町で、音楽と連動し、雑踏をメロディーに変え、ありとあらゆる頸木から解き放たれた「自由」そのものを(振付慣習が『ラ・ラ・ランド』のジリアン・メイヤーズであることもここに記しておきたい)。光の当たらない路地で、誰にも見られていない「彼女」は、まさに天使のように、闇から姿を現し、闇に融けていく。

 


MONDO GROSSO / ラビリンス

 

おしまい