ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

ふたりの姉妹とふたつの王国 フアン・アントニオ・バヨナ『ジュラシック・ワールド/炎の王国』

(本稿には今作のネタバレとなる部分への言及があります)

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もはやどうでもいい些末なことなのかもしれないけれど、とはいえ、この『炎の王国』ってドラクエみたいなタイトルはさすがにいただけないよね。どう考えても原題に倣って『堕とされた王国*1』だよね。あらかじめ。

いやあ、なんとも美味しい映画でした。しかも、一食で、ふたつのジャンルの料理が味わえる。今回は舞台が二つあって、それぞれ恐竜と人間の王国なんですね。前者では『キングコング:髑髏島の巨神』に近いスタイルのモンスター・パニック・ムービー。後者に舞台が切り替わると、テイストもコロッと変わって、古めかしい洋館を舞台としたゴシックホラーの装いに。なんともお財布に一抹の不安がある我々に優しいではないですか。ありがたや。ありがたや。

モンスター映画ですので、まず最初に最低限クリアせねばならないポイントが、なんせ相手は恐竜ですので、人間よりも大きくなくちゃいけません。しかも未知なものなんで、想像力をより働かさなくてはなりません。いかにオモシロく、大きいものを大きく見せるか、監督の腕の見せ所ですね。

そういう観客のモンスター映画への期待は、序盤できちんと叶えられて、オープニングで予想をはるかに上回る迫力と、巨大なるものへの畏怖をもって、スクリーンに出現します。潜水艇がラグーンの底を探索していると、ぬらりと後ろに大きな暗い影が。無事にミッションを果たし、回収した牙を海上へ浮き上げた先にはまた、巨大な何かがいる。おお、まさかな、とここらで我々も勘付くわけですが、潜水艇の中のおじさん達は知りませんから、そのまま帰ろうとします。すると、先ほどの黒い影がぬわっと牙をむいて、巨大なお口でがぶりと飲み込んじゃいます。恐怖にプルプルふるえながら、もう同時にゾクゾク興奮するわけじゃないですか。だって、あのモササウルスですよ。もうここで満足度かなり高いです。巨大演出のツボをきちんと押さえてらっしゃる、バヨナ監督。

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インスタ映え(もう死語なのか)は間違いないですね。

 随所まで行き届いたスカッと感が極めて高い、綿密なホラー演出の積み重ね

ジュラシック・ワールド/炎の王国』は、前作から3年後に設定されています。島にジュラシック・パークを作り出しておきながら、そのせいで人も死んでるという事実から、保護か見殺しかの板挟みになり、人間代表の語り部ジェフ・ゴールドブラムは火山活動は神の啓示だと、恐竜の王国の存亡を自然に委ねる道を示すんですね。しかし、勇敢か愚かか、人類は恐竜の救出を選択する、というまさに無謀としか言えない作戦に乗り出し、ここにまた人間の欲望が絡みついてくるんですね。

この筋書きだと、辛気臭い現代文明批判じみた作品(まあ実際はそうなんですが)にもなりそうなものを、バヨナ監督は律義なまでのホラー映画に仕立て上げました。

冒頭の巨大演出で、1800円(割引で1600円でしたが)の元は取れた気もしなくはないのですが、そこだけで我々を満足させず、きちんと観客を怖がらせることを第一に考え、ミッションをクリアしていく。偉い。闇の中から差し出される折の向こうの前足、溶岩に照らされ映る顔、ガラスの中に重なる少女と恐竜の開かれた口、などアイデア満載。当たり前のようで、難しい「あぶなーい」な危機一髪シーンを、飽きさせないように巧緻に組み上げ、片時も眠らせる暇を与えません。光と影(特に鏡を使った演出を何度も天丼のように重ねることで、どんどんクライマックスまで心理的な恐怖を増幅させていく手法はお見事)、空間的な奥行きと高さ、粘膜の臭いやおどろおどろしい視覚効果を駆使したリアルな爪、といった五感を揺さぶる要素をフル活用して、突然の大きな音やパターン化しやすいドッキリのような下品な手法に依存しません。ヒッチコックのようなストイックさすら感じます。クレアやフランクリン、そしてメイジーがあげる叫び声も嘘っぽさが見えません。

クリス・プラット麻痺した身体のまま、流れてくる溶岩から逃げようと、軟体動物のように身をよじり、逃げようとする演技はコミカルで、大爆笑ものでした)

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スピルバーグだよなあ、といういくつかのマナーへの忠実さ

ジュラシック・ワールド/炎の王国』、人間同士よりも、人間と恐竜という異種同士のコミュニケーションの方がスムーズに上手くいくんですね。というか、人間が俗物ぞろい。そういった俗物の中で、心を通い合わせる、『E.T.』とまではいかないのだけれど、例に漏れず今作もスピルバーグ的な手つきを丁寧になぞらえているのですね。特にメイジーとブルーの関係性では露骨すぎるくらいに「孤児」であることが強調されており、徹底して「父性の不在・嫌悪」を戯画的なまでに誇張した脚本になりました。

物語の後半で明かされるのですが、今作のキーキャラクターであるメイジー、なんとベンジャミンが作ったクローンだったんですね。自分の娘を亡くしたがために作り出してしまった、というエゴから生まれてしまった悲しい悲劇を背負わされています。当然母親は生まれついていない存在で家政婦に育てられます。父親代わりのミルズも商売主義にとりつかれ、メイジーを粗暴に扱い部屋に閉じ込めます。もう一人、いや、もう一匹、中心にいるのがブルーも、母親が既におらず、ある目的のために粗暴な傭兵に捉えられ、檻に閉じ込められるんですね。そんな「ふたり」を繋ぐのが、圧倒的な父性を湛えたオーウェンなんですね。自分の部屋から知恵を凝らして脱出したメイジーが開いたPCに映し出された、ブルーを育てるオーウェンの姿を見て夢見心地になるメイジーの表情は感動的であり、切なくもあります。彼らを裏切り傷付けたのも、失意から救済するのも「父性」なわけです。メイジーとブルーというふたりの「少女」たちを、オーウェンという「父性」によって、疑似的に「姉妹」し「家族」を再構築する仕草はまさしくスピルバーグ的で、見事なまでに美しい流れです。

なので、今作はものすごく異生物と人間の交流がドラマチックに描かれ、映画が終わるころには、観客とブルー(ないしTレックス)の間には、固い絆のようなものが芽生えていくようなつくりになっていて、前作のような恋愛パートをごっそり削っています。スピルバーグ的「疑似家族」ドラマとホラーという二つの骨格で、ジュラシック・ワールドをふたたび我々の住む地上へ取り戻したのですね。

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ところが、ここまで恐竜に対する優しいまなざしが向けられた一方で、人間同士の心の通じ合い、つまりオーウェンとクレアの関係性が薄く、チャラチャラしたモノに映ってしまうのがもったいない。たしかに、ベタベタなラブシーンが見たいわけではないですので、上に述べたようなテーマの絞り込みは大方成功しています。ただ、最後いきなりこの家族になってしまう、というのはいささか突飛にも思えました。途中クレアがオーウェンのはだけた胸元に手を差し入れる描写も不要(あれはエロゲーのやりすぎなのか)というか、不自然。恋愛パートを削るにしても、最低限の関係性のステップアップは見せてもらいたかった。

あと、両極にある「父性」の側面を描こうという意図、「孤児」物語のカギを握る大仕掛け、はスピルバーグファンとして激賞に値しますが、「父性」と反対に「母性」というものがおざなりにされているのも気になります。クレア女傑は前作と打って変わって大活躍をしますし、メイジーを救うべく勇気のある行動をとりましたが、どうしても女傑感が強すぎて勇敢な戦士が自己犠牲を選んだ、という程度にとどまりましたし、オーウェンの父性の強さと比べると弱い。見せ場もあってカッコいいんですがね。最後の銃口を向ける場面もすごくクール。ロックウッドの家政婦も役回りとしては、「育ての親」らしく、メイジーへの献身的なところを示してもらいたかったものですが、結局何もせず自分の保身に走る姿はガッカリさせられました。立場的にしょうがないけどさあ。唯一の救いは獣医ジアですが、彼女が救えるのはブルーのみなので、やはり全体的にメイジーへの「母性」不足にはひっかかってしまいました。

(せっかく出演したジェフ・ゴールドブラムも、『世界ふしぎ発見』の草野仁みたいな、もったいぶっただけで終わっちゃって、ただの語り部になってしまったのはもったいなかったかなあ)

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ブルー、かわゆい………

2度目の観賞時にエヴァンゲリオン完結編のティーザー映像が前触れなしに流れてきて、しばらく方針としてしまいましたし、周りのざわつきが尋常じゃなかったので、戦力としては上手いと思いますが、やり口としては汚いよなあ、と完全に思うツボなのでした。

今作品の監督である、フアン・アントニオ・バヨナは過去に『永遠の子どもたち』を監督しており、バルセロナ出身の人です。なので、と書くとこじつけ臭いのですが、やはりアメリカの外にいた方ですから、先述したようなマッチョで強権的な父性の戯画化が極端で、そんなテンプレ的な悪辣白人傭兵&実業家を容赦なく殺して見せるんですね。悪役にまったく感情移入させません(歯を集めるのがただのサディスティックな悪趣味だったとは)。またすべての騒動を収めるのが、古き良きアメリカを体現した筋骨隆々のクリス・プラット、というのも最近やってそうで、やってなかった作りですね。まるで英雄のようです。ご丁寧に家まで建てさせています(『許されざる者』参照)。どうでもいいですが、彼は今くらい肉がついているのがベストですよね。

ジュラシック・ワールド/炎の王国』は《誰が恐竜を人間から解放して、王国をビルド&スクラップしていくか》が主題となり、三部作物の橋渡しとしてよくできた大衆娯楽でありながら、どこか現代風刺劇のような風味もある、出来の良い脚本とホラー演出が冴えわたった一作だと思います。久しぶりに上質なモンスター映画が見れました。

kuro-matsu2023.hatenadiary.jp

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<おしまい>

*1:「堕ちた王国」だと味気がないので、カズオ・イシグロのタイトルから借りました

こうの史代×片渕須直×のん(a.k.a. 能年玲奈)『この世界の片隅に』+日曜劇場枠ドラマ版第1話

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「現在」音痴

「過去」や「未来」に気を取られているうちに、「現在」を見過ごしてしまうことが多々あります。というか日常がほぼそんな感じ。そこに「現在」のみずみずしい瞬間が転がっていても、きまっていつもみすみす逃がしてしまうんですね。

陳腐なたとえ話ですが、いつかの陽が斜めに差し込む時間帯のファミレスの窓辺でくだらないはなしに花を咲かせているときに、好き(正しくは、だった)な人が普段はしなかったようなアンニュイで物憂げな目付きをして頬杖をついていて、そのとき、「なんでこの人はこんなにも何もかもに飽きてしまったような表情をしているのだろう」とか、「もしかして自分がさっきの会話で何か気に障ることを話してしまったのか」とか、その表情の理由やそれまでのいきさつに気を取られてしまうし、そこからこのシチュエーションに至るあれこれに足りない脳みそで考えを巡らせ、考えた結果、何も起こっていないことが確認できた頃には、肝心の会話からワンテンポ遅れてしまう。思い返しても、彼女がどういう顔で何に目をやっていたか、判然と思いだせない。こういうときに、瞬間を切り取るシャッターが眼に埋まってたらいいのにとか、綺麗に風景ごと彼女を切り取るペンがあればいいのにとか、またまた陳腐なもしもに気づき思いを巡らせますが、時すでに遅し。いつも何か大切なことが過ぎてしまった後になってから、その瞬間の時間が放つ美しさを知る。

こんな調子なので、映画を見るときも、大概は一回ではぼんやりとした全体像しか記憶にとどまっていないんですね。みなさん、きっと記憶が優れていらっしゃると思いますので、こんなことはないでしょうが。「現在」に対する僕のセンサーは人よりいくらか壊れているのだろうか。

なにも「感動」したくて映画を見ているわけじゃない

近頃はあまりに「号泣」という言葉が使われすぎているのではないか。というのは、森博嗣のショート・エッセイ『つぼねのカトリーヌ』の第4項目にある主張なのですが、ごもっともだと思います。この中で、森氏は「ちょっと涙が流れたくらいで使うようになった」と斬りこみ、テレビバラエティ番組のタレントを例に「泣くことが恥ずかしいことだと感じない」ことを「下品」と断じています。ただただ首肯。他にも「傑作」や「感動」という言葉も同様で、日常的に目に触れすぎ、いささか重みに欠けるような印象があります。そして、森さんは「号泣」についての項を以下のように文章で結んでいます。

 いずれにしても、感動で号泣することはあり得ないだろう。そういう泣き方は、もっと恨めしさとか悔しさとか、圧倒的な悲しさだけにあるものだ。

  泣くなという話ではない。号泣するときは、自分一人だけのときにすれば良い。人に見せるものではない、ということである。そうしないと、「ああ、この人は、人前で号泣するような育ちの人か」と思われる。そのマイナスを考量してから号泣するようにしてもらいたい。これは、ドラマや映画やアニメなどでも、同じだと思う。作り手の文化を見ることができる。

  (森博嗣『つぼねのカトリーヌ』講談社文庫より)

「号泣」というものは、丹念で切実な描写の積み重ねにより初めて起こるもので、決して安易なものではなく、泣かせよう、感動させよう、という意図が丸見えの作りものには辟易してしまいます。こういう繊細なところに気遣える作り手が減ってきているのは、平積みされた本の帯文やコマーシャルとして挿入される宣伝をいくつか見ていれば、歴然です。

では「暮しの手帖」がなぜ泣けるのか

ただ、私はいつも『この世界の片隅に』を見ると、なぜ自分がこんなにもポロポロと涙を流しているのかが、まるでさっぱりわからなくなるのですね。

たしかに、冒頭の森博嗣が言うように、小さな力ではどうにもならない理不尽への「恨めしさとか悔しさ」であったり、ひとりの人間が背負うには重すぎる「圧倒的な悲しさ」であったり、やりきれないむなしさに涙する、というのは実際にあります。

わかりやすい箇所を挙げますと、たとえば、それまで表向きぼーっとしたまま、北條家に嫁いで生活を送っていた浦野すずのもとへ、海軍帰りの幼なじみ水原哲がふらり現れ、時を経てふたりきりで対面したときに、内側からそれまでの鬱憤と後悔がドバドバとめどなくあふれ出したシーンは、彼女が心の片隅で慕い続けてきたほのかな初恋がやっと明らかになり、胸がギュッと苦しくなります。すずさんが右手と共に晴美ちゃんを失ってしまい、自分を責め続けた果てに、配線を告げられたときのあのやりきれなさも辛い。初めて劇場で鑑賞した(満員のため立ち見)際も、中盤からは各所からズルズル鼻をすする音がやみませんでした。

しかし、そういったわかりやすい「感動」や「号泣」のポイントとは、まったく別のところで、泣かせるのがこの作品の凄みなんですね。それは、日常のほんの些細な、炊きあがった白米の粒の立ち方であったり、青い海に走る白波であったり、食卓を照らす灯りだったり、至る所にある当たり前すぎて見過ごしてしまう一瞬に潜んでいます。本作、思い切った編集をしていて、不要なところは思い切って捨て去る、一般的な「わかりやすさ」とはちょっとかけ離れた、こちらの想像力で内容を補填することが求められる構成になっています。そのおかげで、タペストリー(和服を継ぎ合わせたもんぺのように、という比喩の方が適切ですかね)のように繋ぎ合わされた、綿々と紡がれた日常の暮らしの一幕たちが、とてもイキイキとしているんですね。

「日々を淡々と生きることは素晴らしいのです」「生きているだけで幸せなのです」こんなありきたりなことは、わざわざ言われるまでもありませんし、言葉にすると、あまりにチープで嘘くさく、逆に難しいこった表現を使うとまどろっこしくなります。意外とこれが至難のものなのですね*1

生活への、「現在」への、鋭いセンサー

この世界の片隅に』で、すずさん*2は、周囲から「ボーっとしてる」性格だと評されています。それは単に彼女がおっとりしているからというだけではなく、常に生活に転がっている「現在」にしか瞳の中に入ってこないからなんですね。空想が豊かで、絵を描くのが上手いため、「現在」へのセンサーがピンと何本も立っているんだと思います。「現在」を大きな澄んだ瞳で見つめ、軽やかに「現在」を自分の中で咀嚼し、真横を通り過ぎる「時間」に目がいかない。で、ここでキャラメルってそういうことだったのか、と気づいたりします。あれはなかなか丹念に味わわなくてはなりませんし、口内にしつこいくらいに甘ったるさが残ります。普通の人ならやり過ごす(便利なことに忘れる機能があるので)ような「現在」を、輪郭の線の一つ一つという細かい単位から見ているんですね。すずが絵を描く場面は、劇中ではさわり程度に端的にしか描かれていないが、それを補う、こうの史代片渕須直の生活に忠実な眼差し。細切れの、ほんの一瞬の、でも絶対に欠かすことのできない、そこにしかない「現在」を確実な描写のひとつひとつが、すずの代弁者となっていくんですね。

段々と戦争が日常に影を落とし、否応なく周りの「時間」が早まっていっても、すずさんは「現在」を捉えようと、懸命に(見た目はホンワカ)生活をペン代わりに乗り越えていこうとします。しかし、そんな努力も空しく自分と「現在」とを繋ぎとめていた想像の翼の象徴でもある右腕を、幼子と共に失ってしまいます。ある日突然、それまで自分と世界をかろうじて繋ぎとめていた、確かな一本の糸がプツンと切られてしまう。義理の姉を亡くした自責の念から、それまで自分を素通りしていっていた「過去」が彼女を襲い、見てこなかった《もしも》が降りかかってくる。それまでは、ヘラヘラと過ごしていたのが、一気にモノローグが増え、普通の映画だとかなり過剰な語りだと思われますし、前半とのトーンがまるっきり変わってくるのですが、このぎゃぷにまた胸を痛めてしまう。こんなに悲しくてやりきれない、いっそのこと死んだ方がマシとまで思わせるような目に遭っても、それでもなんとか生きていかない、生かされたものは生きぬことが死者への供養である、というのが、この作品の優しいところでもあり、シビアなところでもあり、救済といえるものなのかもしれません。たとえ、右腕を失っても、日常は続いていく。文字にするだけで普通すぎますが、この普通ほど保つのが難しいことはない。だから、生活の明かりがともるだけで泣けてくる。

悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない、あの限りないむなしさを、「生活」にすがることで、乗り越えてきたすずの「暮しの手帖」は、これからも救いになるのだと祈っています。

<おしまい>

追記 7/5>

www.tbs.co.jp

どうやら、この原稿を書いている現在(2018年7月5日)にこの漫画・アニメが実写ドラマとして、制作されることを知りました。脚本・岡田恵正、音楽・久石譲、という気合の入りっぷりで、期待は持てますが、どうやら尺の都合なのか(こういうときに便宜を図って5話くらいに絞るとかすればいいのに、民法ってイマイチこういう融通が利かない印象がある)、現代パートなるものが挿まれるようで、一抹の不安が過ってしまいます。まあ既に各所で指摘のある通り、某作家原作の戦争映画の記憶が嫌でも呼び覚まされるわけですが、どうなることやら。

そういや二階堂ふみって『西郷どん』にも出ていましたよね。日曜引っ張りだこですねえ。

追記 7/16> 

第1話のドラマ版を拝見いたしましたが、そこまで悪くはないようでしたが、どうしても実写の限界(豪華な制作陣とセットの完成度からすれば、そりゃやたら同じ海の場面ばかりにもなるよなあ、という)というものがちらちら窺えなくもないかな。ただ『ひよっこ』ファンとして贔屓に見続けようかな、ぐらいの面白さはあったと思います。まだ判断はできないんですが、懸念されていた現代パートの主人公である榮倉奈々を、漫画に影響をされて舞台に移住するという『激レアさん連れてきた』枠なエキセントリックな女性(と古舘祐太郎のアホそうな彼氏)にしたのはよかったんじゃないでしょうか。

松本穂香はすごくアニメみたいな顔立ちですよね。あるときは田舎臭い芋な子に見えるし、あるときはものすごく可愛く見えるし、またあるときは色っぽさもある。演技でやってるのか、はたまた地なのか、天然に見える計算ずくなのか。まったく読めないトロ臭さは『溺れるナイフ』の小松菜奈を彷彿とさせました。不思議な女優さんです。竹内結子以外で誰かに似ているなと思ったら、『シェイプ・オブ・ウォーター』のサリー・ホーキンスですね。向こうがディズニーアニメーションなら、こっちは日本アニメ顔です(ひねりなし)。

松坂桃李広島弁は板についていましたね。凄く達者。ドロンズ石本さんは地元なのでそりゃうまいですが、松坂君は器用にこなしますよね。て、よく考えたら、『虎狼の血』で広島弁喋りまくってました。それにしても、桃李君のルックスは、周作さんと瓜二つです(ただ役どころ仕方ないですが、村上虹郎くんよりも松坂のが身体検査パスしそうなのは若干のキャストミス。しかし、これは前述の通り、周作は彼しかいないというハマりぶりなので、良しとする)。 

<関連映画&書籍>

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

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この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

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この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

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この世界の片隅に [DVD]
 
火垂(ほた)るの墓 [DVD]

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かぐや姫の物語 [DVD]

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マイマイ新子と千年の魔法 [DVD]

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戦争中の暮しの記録―保存版

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一汁一菜でよいという提案

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<おしまい>

 

 

*1:誰でもわかる平易な言葉で、真理をブサリと貫くことに成功している日本の詩人は、宮沢賢治谷川俊太郎くらいしかいないと思っています

*2:今となっては、この役が能年玲奈以外じゃ考えられない

佐藤正午『鳩の撃退法』

 

序にかえて、真似事のようなものを。

今作をこのへっぽこブログの読書備忘録の第一弾に選ぶのは、いささかリスキーで、いささか奇を衒っているような気もしなくもないし、さっきから、いささか「いささか」というフレーズを多用しすぎているように思えてならないが、まあどうせ誰も読まないので気にしなくてもいいのだろうか。

普段から、本を読む時にノートにメモを取る癖があり、それはいつも成文化されず、言葉が細切れになって、紙の上を方々漂っているだけのものなので、まあもともとそういう自己確認の用途のためのメモが、そのまま宙を漂ったままでもいいのだけれども、せっかく一冊読むごとシコシコ紙に書いているのんだし、それじゃあ成文化したらいいのでは、とここまで軽いノリ(まともに考えだすとノリってそもそもなんなんだろうかと考えだしてしまって、ノリというのはつまり現代では「雰囲気」とか「空気感」とかそういったニュアンスで使われていると思うのだが、たまに「勢い」だの「フィールング」だのといった、これまた微妙に違うニュアンスで使われているのもあって、これもなんだかあやふやで釈然としないのだが、というのも、そもそもノリというのは、所謂音楽での「リズム」という意味合いで、海の海苔とや接着のりと比べるためにカタカナにされたのであって、そういうあやふやなところが現代日本の国語力の低下なのではないか、と自分の思考が果アビの蝿かけたじいさんのような思想に着地しそうになる目前で、あれ、僕は今何を考えているんだっけ、と冷静になったところで、再び今自分はブログの書きだしなるものを書いているのだということに気付き、再度PC画面に自分の視線をやる)でWordに下書きを書いてみたのですが、いやそれならブログなんてわざわざ「不特定多数の誰か」という不確定な存在に委ねてしまわず、別のノートでもこしらえて手元でシコシコやればいいだけの話じゃないか。えっと、何を書こうとしたんだっけ…………

といういささかとりとめのない、津田伸一という直木賞も二度も獲得したらしい作家の文章をまねてみたのですが、やはりこれはなかなかに上手くいかないですね。こんな感じの文章が延々と続くんですから、いかに「語り」が難しいものなのか、骨身に沁みて理解できました。

(ちなみに、この津田伸一という作家は、佐藤正午『鳩の撃退法』の書き手であり、主人公であり、そして唯一本名で登場する男であって、一応はフィクションです)

 

「わからない」が「おもしろい」、異常にずば抜けた「語り」および「解説」のスキル

 

はい。ということで、大変お見苦しい文章を読ませてしまったことへの謝罪と共に、上の駄文を読んでいただければ、本稿で取り上げる(津田伸一ではなく)佐藤正午『鳩の撃退法』ののんべんくらりとしたアクロバティックな「語り」がいかに超絶技巧なのか、ご理解いただけるかと思います。

(以下、『鳩の撃退法』は『ハトゲキ』で)

平積みにされてある『ハトゲキ』のタイトルに惹かれ、1度目に取りかかったとき、下巻の残り300ページほど余ったところで、私事でバタバタしてしまい、おじゃんになってしまったので頓挫してしまったのですが、ようやく時間に余裕ができ、2度目に読了(今度は4日で)したとときには、その圧倒的なおもしろさとうまさに驚愕し、そして、依然に一息で読み切れなかった自分の読書力(どくしょぢから)のなさを恥じ、こんなに面白いのならなぜ一気呵成に読み切れなかったのか、とさらにその恥から来た怒りに変貌を遂げ、最終的にその怒りはAmazonレビューのつまらぬリテラシーの低いだけの感想に「このわからずや!」と八つ当たりすることで解消されるのでした(めでたしめでたし)。

さて、肝心のお話というと、筋自体はさして難解ではなく、かつて直木賞を二度も獲得した小説家で、今はデリヘル(高峰秀子などの女優を名前にするあたりセンスがいい)を送迎するドライバーとして、女の家を転々と居候するボンクラ津田伸一*1が、呑気に日常を送っているといつの間にかいくつもの事件に巻き込まれていて、それを自分で小説にしようというもの。一家失踪事件、懇意にしていた古書店店主の残した大金、贋金事件、とすべてに関わってしまっていた津田が、裏社会の”ある人”に眼をつけられる羽目になり―というストーリーそれ自体は、決して特殊というほどでもない(まあ、もちろんこれだけでも十分に面白いのは面白いですよ)。

さて、それでは『ハトゲキ』の何がそこまでイレギュラーでエキセントリックでハットトリックなのかといえば、先から述べてあるように「語り」の類稀な凄まじさ、にあるんですね。《AがあるからBが起こってCに結び付く》という一直線のラインが存在するのではなく、《AとBとCとDとEとがあるんだけど、それは全部もとはαであって》みたいなお話。形式として、語り手である津田伸一という小説家が、自分の身に降りかかった災難を、振り返りそいつを小説にする、というもので、最初に「この物語は、実在の事件をベースにしているが、登場人物はすべて仮名である。僕自身を例外として」と『ファーゴ』のような宣言があるから、本来はこの小説内で一番「信頼」できる存在というのは彼でないといけない。しかし、この津田という男、まったく信頼できない。なんせ肝心のその書き手が、フィクションとノンフィクションとメタフィクションをグチャグチャにかき混ぜてしまう。過去にあったという実際の事件をネタに、自分の身に降りかかった災難を混ぜ合わせ、「もしあのときこうしていたら」という空想のもとで、津田はこのお話を綴っていくんですね。大体、そもそものスタートラインで、彼はしくじって出遅れているので、常に事件から遅れて、一歩引いた観察者にならざるをえない。そんでもって、しょっちゅう話が横道に逸れるわ、しかも、時系列はグチャグチャなんで、読み手は行きつ戻りつを繰り返さないとならず、とても読みやすいとは言いがたい。いくつもの事件が絡み合っているのに、過剰に語りが多いので、伏線が回収されるかも怪しくなります。

それでも、しっかり読ませてしまうんですね。不思議です。なぜそんなに「読めて」しまうのか。これはもう「語り」が異常だから、という説明しか付かないように思います。ストーリーが凡庸(いや凡庸じゃないけどね)でも、その話と話のピースを結びつける糸の部分が強固に絡み合っていて、そこを解いていくのが楽しい。あと主役を張る津田もですが、脇にいるキャラクラもいちいち魅力的です。突出した英雄のような存在は出てこないですが、そういうどこにでもいる人だからこそ群像劇として読ませる。会話劇として楽しませ、群像劇としてきちんと成立させながら、その実「小説論」でもある。これはただならぬ才能です。

この「小説論」は、村上春樹セルフパロディ大作ともいえる『1Q84』でも俎上にありましたが、『ハトゲキ』の方がスキルのアブノーマルさが格段に高い。読まないと伝えづらいので、この「おもしろい」という感覚をどう翻訳するか、むずかしいです。レイモンド・チャンドラーのようでもあり、トマス・ピンチョンのようでもあり、サリンジャーのようでもあり、伊坂幸太郎のようでもあり、筒井康隆のようでもあり、町田康のようでもあり、タランティーノのようでもあり、コーエン兄弟のようでもある。近い作家を挙げると、いくらか浮かぶのだが、しかしこれはもう法ではなく、圧倒的にオリジナル。入れ子構造が過ぎると、読み手は裏をかきそうなもんで、嫌みに読んでしまって退屈しがちですが、そうはならないのがハイパー。とにかく、文体がハイパーとしか言い表せません。言い表せねえのに、つらつら駄文を書くなッつう話なんでしょうけど、読むとあそこがどうで、とか話したくなる欲求にかられるほどに、脳ミソ中がクエスチョンで埋まります。そして、その「わっかんねー!」という感じがたまらなく「オモシロッ!!」に結び付く、アハ体験。いや、ここは「ほえ」という表現が適切なのでしょうか。あの絵柄の違うジグソーパズル5つほどをばらばらのピースで適当に組み上げたら、まったく見たことのないミニチュア建築が出来上がってた。みたいな感覚。二度読み、三度読みで足りるのだろうか、とまた1000ページ(単行本)に挑もうと懲りずに振り回されようとするんですね。ほえ。

ねえ、津田さん?

 

<関連作品> 

鳩の撃退法 上 (小学館文庫)

鳩の撃退法 上 (小学館文庫)

 
鳩の撃退法 下 (小学館文庫)

鳩の撃退法 下 (小学館文庫)

 
エロチック街道 (新潮文庫)

エロチック街道 (新潮文庫)

 

<おしまい>

*1:自分の脳内では高橋一生松田龍平を思い浮かべていました

「ごっこ遊び」じゃだめですか?Part.2 大九明子『勝手にふるえてろ』

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わからん………てんで、わからんけど、なんか分かるぞ………と、どうでもいいトラウマまで呼び覚まされた名シーン

<前回>

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以前カウンセリングを受けたとき、項目の中に「あなたはよくひとりごとをしゃべりますか?」とあったので、素直に「はい」と答えました。ひとりごとってやっぱり疾患だったのか。

主食といっても過言ではない、もはや生活必需品のヨーグルトを切らしている。

参ったなあ。なんで昨日の帰りに行かなかったんだ。ちくしょう。

そんなことをひとりごち、ついでに今日の夕食に作ろうと考えていたビビンバ(ビビンパのが正式なんだっけか)のレシピと貧相な冷蔵庫の在庫を照らし合わせ確認。ほうれん草は一昨日の炒め物で消費してしまい、コチュジャンも切れているし、キムチは残りわずか。テーブルのメモ書きが目に入り、銀行にもいかなきゃいけないのを思いだす。

呑気していた自分が100パーセント悪いが、わかっちゃいながらもあわあわして、メモリが極めて少ない自分の脳内に「やることリスト(至急)」なるものを作成し、いそいで自転車のサドルを跨ぎ、ペダルに足をかける。

すると今度は久しく乗っていないので、タイヤの空気がスッカラカン。なんてこった、と自分のナマケモノぶりを罵りつつ、せっせと膨らませ再出発。

銀行で用事を済ませ、スーパーへ。野菜コーナーから。ほうれん草を確保。にんにくをついでに補充。あら、お安いじゃない。卵をかごへ放り込む。続けてコチュジャンも。味噌も赤いのが欲しかったので購入。どうせすぐになくなるアイスコーヒーもこの際だ。買ってしまおう。そうだそうだ、キムチを忘れてた。と引き返し、ようやくレジ。

会計が終わり、持参したトートバッグに、かごの中の品々を投入していると、身体にピシャリと電流が。

「あ!ヨーグルト!

うっかり声を漏らしてしまい、隣で荷物を詰めてたオバさんの苦笑を背に受けながら、ヨーグルトのためだけにレジに並び直し、そこでも店員さんの冷たい目線が突き刺さるのであった。

と、なぜタラタラと私の些末でくだらなさすぎる日常的な失敗談を、恥を忍んで書きだしたのかといえば、別に物忘れの酷さを訴えたいわけではないのです。ただ「ついひとりごとって出ちゃいますよね」というそれだけのこと。

考えごとにはまりこんで、つい気を抜くと、ところかまわずに、ひとりごとをつぶやいてしまう。散歩中だろうと、読書中だろうと、ぶつぶつと、ああでもない、こうでもない、と思いついたら、その端々から口に出して、ふと冷静に帰ると、急に恥ずかしくなり赤面してしまう。白い目で見られているであろうことは薄々感じつつも、さすがに私も人目を多少はばかる、紙切れ程度のデリカシーは持ち合わせてはいるので、迷惑は(たぶん)かけてはいないはずだが。物心ついたころからだとは思うのだけれども、正直いつからこんなおしゃべりなお口になったのか、さっぱりわかりません。

ただ、そうやってひとりごとをしゃべっていると、ひとりでいることへの寂しさのようなものがまぎれるから、というなんとなくの理由は見当がついてはいるのです。

勝手にふるえてろ』のヒロインのヨシカにもそのようなシンパシーを抱いてしまったのですね。

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そもそもこのブログだって「ひとりごと」の延長だし、「ごっこあそび」みたいなもんだったわ

(念のため、白状しておくと、恥ずかしながら、現段階で綿矢りさ氏の原作をまるで読んでいない―いや、正確には「おそらく読んだのだがサッパリ記憶から消えてしまっている」のだが―ので、作中の描写が、大九監督のものなのか、はたまた綿矢氏のオリジナルなのか、判別が付いていない状態です。そのため、もしかすると取り違えている箇所が多々あるのかもしれませんが、そこはどうかご容赦願いたいです。あと時効なはずなので、ネタバレにも目をつぶっていただくとありがたいです)

ノーベル文学賞で話題にもなったカズオ・イシグロの代表作に『日の名残り』というものがあります。かつて栄華を極めた伝統的な英国の貴族へ仕えた執事スティーブンスが、短い旅路の中、自分の人生を回顧していく、という筋書で、アンソニー・ホプキンス主演で映画化もされており、原作・映画共に名作*1である、という原作というノベルティ付き映像化作品(くどい表現)でも珍しい部類です。

日の名残り』は、事あるごとに手を取ってしまう魅力があります。なぜそれほど惚れ込んでしまったか。それは、一人語りがすぐるくらいのスタイルなのに、スティーブンスが、私たち読者にとって、まるで「信頼のおけない語り手」だからに他ならないんですね。心の底が読めるんだけど、肝心のことは言いません。日本人みたいです。彼は、常にうやうやしく、忍耐力のある、「品格」に忠実な執事であろう、と生涯をささげた1人の人間ですが、同時に、ミス・ケントンという女性への想いや、従事したダーリントン卿に対して抱いている割り切れなさが、チラチラ独白の端々に窺え、日が沈むまでの余生を探求していく旅路の道すがらには、過去への後悔や歴史に引き裂かれた悲しみが、ポツポツ顔をのぞかせています。主人のダーリントン卿を「遠慮深く謙虚な性格」と評しながら、そこにはどこか彼を慕ってきた自分への懺悔のような意志を感じることができ、読むたび抱く感想が自分の心中でコロコロ変わるので、全く飽きることがないのですね。 

そんなスティーヴンスとは違って、謙虚さや忍耐力とは無縁ですが、信頼のおけなさについては全く負けていない語り手が、『勝手にふるえてろ』のヨシカなのです。

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ではこの「根暗オタク」が過ちを過ちのまま、反省とは無縁のまま、大逆転してしまう、新世紀のピカレスクロマンについて

勝手にふるえてろ』は、女性が1人称の独白のような、文体を取っており、太宰治の『女生徒』の系譜にあります。主役であり、語り手となるヨシカは、中学生の頃から脳内でパンッパンに膨らませてきた「イチ」という男の子に思いを寄せ続け、現在は経理課に勤務する、独身女性です。同僚の来留美は結婚相手を捕まえようと、虎視眈々としていますが、ヨシカはお構いなしに「イチ」とのつながりを糧に生きています(痛いよ!)。そんな中で、同期入社したすこし(いや、かなりか)間の抜けた霧島から告白を受けるんですね。もちろん、ヨシカは彼にまったく好意は抱いていないのですが、生まれてこの方、異性との告白はおろか、恋愛経験もロクにないですので、浮かれまくります。霧島くんを、(生意気にも)「イチ」の次の2番目、ということで「ニ」と名付け、浮かれまくるもつかの間、そもそもヨシカには全くその気がないので、「ニ」の猛烈なアタックを受けるも気乗りしません。逡巡してるうちに、あることで死にかけたことを機に、一念発起し、どんなこと(本当にゲスい汚い手を使う)をしてでも「イチ」と逢うべく、あの手この手を尽くしまくり、どうにか再開しますが、ここでまたとんでもない事実が発覚して、ヨシカは失意のどん底へ落ちていくんですね。さて、ここからいかに大逆転するのか、というのが主なあらすじですが、まあ大体は書いてしまいましたね。

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先にも書きましたが、この映画は、1人称の告白形式を採用してまして、基本的に主人公の語りによって、ストーリーが進行し、世界がそれに合わせて動いていきます。主人公が語りをすると、映画のスピードが緩慢になってしまいますので、割とよくやっているのが、早口にしゃべらせて、細かいカット割りや時系列を複雑化させることで、スピードを上げようというもの。あと第4の壁を超えさせて、観客に語りかけることで、油断させないようにしたり。

しかし、『勝手にふるえてろ』で採用されたやり方というものが面白く、ここではヨシカの身の回りの人や物が、彼女の意志によって動いていきます。何を言っているんだ、ということなのですが。

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松岡茉優、オンステージ!! 

彼女の気分が舞い上がれば、通行人A~Zが拍手で祝福し、妄想の恋に患い涙をすれば、ウェイトレスが胸の内を聞いてくれる。同窓会で「イチ」を奪われそうになったら、天ぷら屋のおばちゃんが檄を入れてくれる。小説では(読んでないのであくまで”おそらく”ですけど)セリフだけでなく、鍵カッコのない地の文にもダラダラと漏れていたであろうヨシカの心中を、彼女の「世界」の中に取り込まれてしまった人々との会話によって、感情を暴露(表向きは本当のことを言っていない可能性がある、というのがポイント)させていくのですね。このスマートな手さばきだけでも、良い映画だということが確信に変わりますし、本作が十分に優れた文芸作品をもとにしているのだなということを認識できます。大九監督の策略がしまったわけビシッとハマってしまったわけで、すごく素敵な相乗効果をもたらしているのですね*2

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それに、なんといっても、この「ひとりごと文学」を映画として成功に導いた最大の立役者は、他の誰でもなく松岡茉優でしょう。彼女の演技力の習熟度合いには舌を巻いてしまいました。信頼できない語り手・ヨシカに対し、全面的に信頼できる若き名女優・松岡茉優。見事なまでの松岡茉優オンステージっぷりで、この人さえいれば、どんな杜撰な内容でも、パイロット版くらいのクオリティにアップするのではなかろうか、というほどの安定感。同世代の日本の女優の中でも最強クラスの傑物です。なによりも表情筋のコントロールが群を抜いて素晴らしい。高揚すると顔がパーッと明るくなり、失意のどん底に堕ちれば顔から表情がスッと消え去る。キラキラとした天真爛漫な部分から、挙動不審な所作まで、わざとらしさや「演技できるでしょアタシ」という自己主張無しに、顔のしわから目のクマまで自由自在に(たっぷりの茶目っ気をもって)キャラクタの感情を説明できる。到底できることではないです。

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この優れた信用できる若き英才・松岡茉優が演じる、ヨシカという女性は、激しい自己否定・自己卑下をやめられず、他人の善意を理解しておきながら、あれこれ妄想が勝ってしまい、閉塞的に自分を守るための心理的なシールドを張ってしまう、内向的で歪んだパーソナリティの人物です。私なんかは、「顔が違うだけで自分と変わらへんやん」と見ていられなくなるほどなのですが、人によっては激しい嫌悪感(あるいは同族嫌悪なのかも)を起こすでしょうし、彼女が最終的についたある嘘や親しい人までを巻き込む暴走っぷりは、褒められたものではありません。SNSを散々こき下ろし「日記は恥」と言いのけた後に、偽りの同窓生のアカウントを悪びれることなく騙り、自殺願望まで垂れ流し、挙句「あんた人気あるねえ」と恨み節まで言い放つ、手段の選ばなさ。告白してくれた「ニ」を、そっけなく振り回し(まあ半ばストーカーのように付き纏う「ニ」も悪いのですが)、散々煮え切らない態度を示しておきながら、自分の怒りをヨシカ自身の写し鏡的存在である彼に八つ当たりする辛辣さ。ただ、そうしたなりふり構わぬ暴走含め、決して我々とそう隔たりのある感性の持ち主ではなくて、むしろ、誰にでも持ちうる「ねじれ」なのかも、と思わされたりします。彼女は一つの凡例にすぎなくて、どこにでもいるポンコツ極まりない社会不適合者なんですね(耳が痛い)。ある意味、ここまで素直に感情をゴリゴリ表に押し出し行動に移せる、というのは羨ましさすらありますが。

こうした人生のどこかで「ねじれ」てしまった、絶滅危惧種女子の生態系を、かつてアンモナイトが存在した古代へ思いを馳せて、文科系への毒をインクにたっぷりにじませ、鋭く突きさすようなクリティカルな筆舌と女子への愛おしいまなざしを交えながら、精緻かつ乱暴に描いていくんですね。汚いうがい、詰め噛み、吐き出される唾、など綺麗ではないのだけれど、ものすごくリアルな「女の子」という生き物へ、監督が内で培ってきた愛情がむき出しになっているようです。女性に対する底知れぬ全面肯定的な母性すら感じます。

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やめろ!!!

ただ、大九監督、ただ甘やかすだけじゃありません。潔いほどにフェアなんですね。というのも、絶え間のない「女子」への愛情表現のゆたかさだけでなく、しっかり痛烈な「しっぺ返し」を欠かしません。

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痛すぎるよ………

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Base Ball Bear小出祐介吉沢亮をたすと北村匠海くんが出来上がるんですね

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ヨシカは、学生時代、誰からも見られていないような”幽霊”側の存在だったので、「視野見」というものを習得しました。メガネの奥の黒目をそのままに、視野の端だけで教室の「イチ」くんを見つめ続けてきたわけです。放課後に居残りで反省文を書かされている「イチ」にわざと間違えるアドバイスを授けたり*3、体育祭でこっそり「僕だけを見て」と言われたりしても、ヨシカはずっと視野の端でしか見続けない。正面から現実の「イチ」と接することを拒み続けてきたのです。彼女にとっては、脳内の王子様のような理想像こそが「イチ」であって、現実の一宮くんと頭の中の「イチ」を混同させたままなんですね。

教室の隅で培われたヨシカの空想癖は、名前いじりにも発展します。「イチ」に続く2番目の男、ということだけで、ぞんざいに「ニ」と命名。職場のサスペンダー上司に「フレディ」という渾名をつけて遊ぶ(ここで「We Will Rock You」のリズムが鳴らされるまでネタが細かい)。彼女にとって「名前」なんてものはどうでもよくて、自分と「イチ」が世界に存在すれば、他の人々はエキストラにすぎないので、適当に名前をつけちゃう(唯一といっていいくらい、ちゃんと名前を呼ばれているクルミちゃんが、ヨシカにとってどういう存在なのか、というのも、この物語の女子ならではの友情ともライバルともいえぬアンビバレンスな関係性が感じられます)。

そして、ガッツリと非道極まりない手段を使って同窓会に呼び寄せた「イチ」とようやく接近するチャンスを得たヨシカは、それまで黒くくすんでかかとが踏まれた薄汚れた靴から、ぴかぴかのハイヒールに履き替え、女の顔になります(ここでするりと包帯が外されるショットはエロスを感じました)。もう、ウキウキワクワクルンルンです。

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ですが、そう幸福が続くはずもなく、一気に谷底から伸びてきた暗黒に足を絡めとられちゃうんですね。ヨシカは思い切って、学生時代から描いてきた「天然王子」なるキャラを、モデルである「イチ」本人に見せ、ようやく生身で交流を図ろうとしますが、驚愕の事実を告げられてしまいます。というのも、この「イチ」というのは、ヨシカにとって人生の一大テーマであったのとは真逆に、一宮くん本人にとっては呪いそのもので、呼ばれたくない名前だったんですね。しかも、一宮くんは「ヨシカ」という名前すら覚えていない。「イチ」という呼び名自体が、とんでもない悲劇を招いてしまうだけでなく、自分の存在を消す「視野見」という行為までもが彼女の恋の破滅を引き起こしてしまった。膨れ上がった風船が、針でひと思いに突き刺されたような萎み具合。多少の自業自得感はあるとはいえ、なかなかに惨い仕打ちの連続。この事実を知らされる前後の落差の激しさは、胃がキリキリします。布団焼失事件からの「前のめりに死んでやる」という決意と共に、やっとの思いで辿り着いた「イチ」との逢瀬に気分はクライマックスまで高ぶり、ミュージカル女優さながらの闊歩も空しく、これまでの妄想がただの「ごっこ遊び」でしかなかったこと、周りの誰の視界にも自分は映っていないということ、自分がただのエキストラであることが一気に押し寄せます*4。バスの中は一人、振り返っても誰もいない。近しいと思ってきた人は、現実では距離の離れた言葉も交わしたことのない赤の他人だった。「世界」が自分に気付かなくなり、会話を交わしてきた人たちが、失恋と一緒に遠ざかり、オカリナの「名前に支配された人生なんです」で完全にトドメです。自分のためだけに立ちあがってたミュージカル世界が、非常にイヤな皮肉として生きてくるんですね(『ラ・ラ・ランド』よりもうまい)。

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これでヨシカへの「しっぺ返し」は終わりません。顔が水で濡れたアンパンマンをさらにドブ川に叩きこむような容赦のなさ。妄想から醒め、現実と向き合おうとします。いつもゴミを捨ててくれるおばさんに、憐憫の言葉をかけますが、案の定冷たくあしらわれてしまう。安物のとってつけたような薄っぺら以前には、当然見透かされますし、結局彼女は自分が大事であるという状態から抜け出しきれません。「イチ」の夢を忘れようと、ズルズル延ばしてきた「ニ」との恋愛にもどり、つかの間の幸福を味わうも、クルミの気遣いがヨシカをまた狂わせてしまうんですね。クルミなりに掩護射撃をしたつもり(ヨシカは自分が恋愛未経験ボンクラ処女だと強く自覚しているだけに、それを「ニ」にバラされるということは、彼女の自意識に深い深い傷をつけるんですね)で、本人は気遣いのつもりなんだけど、それも善意の皮を被った嘘くさい同情でしかなく、またしても残酷な「しっぺ返し」です。

「わからないから好き」というので頷きまくっちゃうよね

こうして怒りにより歯止めが利かなくなったヨシカは、クルミへ復讐を仕掛け、会社を辞めて、自分で窮地に追い込んでしまう。一度リアルに死に掛け、「イチ」という妄想とも別離し、そしてまた息もつけない状況に追い込まれる。おそらく、普通のありきたりで、良心的なお話ならば、このあとヨシカはクルミへ自分がしたことを告白し、「ニ」への仕打ちを謝罪するのが常でしょう。

しかし、ヨシカはそんな道を歩まず、また「ごっこ遊び」を選ぶんですね。もうとんでもなくワルです。ワルですが、どこか清々しい。これがこのお話の不思議なところ。途中までは、ボンクラ処女が「ごっこ遊び」と折り合いをつけ、現実と迎合していくお話を想定していましたが、これがとんでもないピカレスクロマンでした。やめるどころか、「ごっこ遊び」を選択し、ますます堕落していく道を邁進していきます。この終わり方、やはり『スイス・アーミー・マン』と比較しないわけにはいかないのですが、共通するところが多くあると思います。

そこで雨に濡れた赤い付箋が濡れ、処女膜(概念)が破られるエロスが、ピカレスクとして生きる「勝手にふるえてろ」宣言と共に、バシッと結合するあたり、めちゃくちゃ気持ちよかったです。痛快の極み。

彼女がこのまま絶滅危惧種として生き延びるのか、はたまたもう一度盛大な「しっぺ返し」を食らうのか、ヨシカの未来が気になるところであります。

<以下、爆笑&憤死の怒涛のクライマックス>

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<余談>

黒猫チェルシーはデビュー時にすごく聴いてて、カッコいいバンドだなあ、と惚れ惚れしたものの、一時は影を潜めてしまって心配してたんですが、渡辺大知くんの活躍っぷりにホッとした元ファンでした。コンスタントに役者やってたとはいえ、ここまで引っ張りだこになるとは。銀杏の峯田君もだけど、やっぱり朝ドラの影響ってデカいのね。


黒猫チェルシー - 嘘とドイツ兵(PV)

<関連映画&書籍> 

勝手にふるえてろ
 
勝手にふるえてろ (文春文庫)

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太陽の塔 (新潮文庫)

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走れメロス (新潮文庫)

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日の名残り (ハヤカワepi文庫)

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あまちゃん 完全版 Blu-rayBOX1

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その「おこだわり」、私にもくれよ!! DVD-BOX

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桐島、部活やめるってよ

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映画『聲の形』DVD

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ベイビーユー

ベイビーユー

  • provided courtesy of iTunes

 <おしまい> 

 

*1:映画の方は時間の制約上か、恋愛物語としての色が濃いが、それはそれで素晴らしい映画なので、是非ともお時間に余裕のある方は比較してみていただきたい

*2:マッサージ師に愚痴るあたりは坂元裕二最高の離婚』を彷彿

*3:あんな些細な出来事だけを精神的なつながり、と呼ぶのが太宰的なんですよね

*4:映画『her』でホアキン・フェニックスに告げたルーニー・マーラの手痛い一言を彷彿しましたが、ヨシカは「ニ」と恋愛関係にあるワケではないので、よりヘヴィーかもね

All You Need is one Killer Track エドガー・ライト『ベイビー・ドライバー』

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この手の煽り文句を口にするのは、恥ずかしさすらあるのだが、でも言わせてほしい…………「この映画を見て、涙腺が壊れない、そんな血も涙もない人間、この世界にいるんですか?」と。

何度見ても激烈に「オモシロイ!」と思える映画、というのはそうそうありません。そんなのがあるなら教えてくれよ、という具合ですが、あったんですねえ。問答無用に面白い映画です、『ベイビー・ドライバー』。

しかも、5回以上は(劇場で公開されていたもの含め)見たのに、いつも懲りずに3度はどこかしらで泣いちゃうんですね。たとえば、あるときは、コインランドリーで音楽を聴きながらデボラちゃんと踊る場面。声の出ない養父のお爺ちゃんが介護施設で困らないように、ベイビーが愛用テープレコーダーに自己紹介の音声を吹き込んで録音してあげる場面。母親(スカイ・フェレイラ!)が情熱的に切なく歌うコモドアーズの「Easy」カヴァー。

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あと、最初ベイビーがT.REXを「トレックス?」と言い間違えるの、最初はジョークだとばかりに思ってたのですが、よくよく考えれば、ずっと映画やアニメのセリフでしかまともに喋らない(バンブルビーかよ!)のも踏まえると、彼には母親が残してくれた音楽と、おじいちゃんと見るテレビしか情報源がないわけですから、そりゃT.Rexなんて読み方知ってるはずがないんですよね。というか、彼にとっては、そんなことはどうだっていいんですよね。だって、母親の音楽だけをよりどころにしてきたんだし……文字通り音楽しか友達がいなくて、1人でいる時間が長くて。だから、初めてできた友達と音楽をを共有しようと目を輝かせながら、ベイビーはデボラに話しかけていたのか……とか考えだして、また目の端から水が零れてしまいます(4回でしたね)。とにかく、いつ見てもフレッシュで、まっさらな映画の愉しみに没頭できる、というのは大変に素敵なことです。音楽がずっとなっているため、おしゃべりではありません。ただ、細かい場面をひとつとっても、人物描写を欠かさず、そして映画としての推進力を失うことのない、非常にソツのない優秀な一本です。「娯楽映画」という名に恥じぬでしょう。青春の甘さとほろ苦さが、子気味な音楽とともに、巧みなドライビング・テクニックで駆け抜けていく爽快さは、病みつきです。

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www.youtube.com

85パーセントくらいは上で書いてしまいましたが、残りの15パーを引き延ばし引き延ばしやっていきます 

 

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本作の監督は、エドガー・ライトです。これまでに、『ショーン・オブ・ザ・デッド』『ホット・ファズ』『ワールズ・エンド』と、どれも愛すべきダメ男たちが、奮闘していく姿を、小気味よいジョークを交えながら進めていくのが上手いコメディの若き英才です。『アントマン』の脚本もやってましたね。過去の名作をサンプリングする手際も見事なのですが、何よりもこの監督、大層な音楽好きで、度々細かい音楽小ネタや映像と映像とシンクロした演出を挿むのを、大得意としています。熱心な映画オタクであり、熱心な音楽マニアでもあります。わかりやすいのが、『ショーン・オブ・ザ・デッド』。ゾンビを撃退しようとサイモン・ペッグニック・フロストがレコード盤を品定めしているときの「パープル・レイン(プリンス殿下の)」「ダメだ」「バットマン」「よし、投げろ!」というやり取りは爆笑必至ですし、クイーンの「Don’t Stop Me Now」の流れる中でゾンビを撃退するところでは手に汗握り、最後に同じくゾンビになってしまった相棒と流れる、同じくクイーンの「You’re My Best Friend」では、ホロリ。ここまでやられると、いやらしい、というか憎い感じもしなくはないですが、これを嫌味ゼロでやってのけるのが、この監督の持ち味なのかもしれません。『ベイビー・ドライバー』冒頭のカーチェイスシーンの元ネタ(セルフパロディか)となった、ミント・ロワイヤル「ブルー・ソング」の監督もやっています。凝ったロックオタクでもありますが、2017年には映画のプロモーションで来日した際に、参加したフジロックではコーネリアスにお熱を上げていたようです(まったく関係ない別番組で、コーネリアスのドキュメンタリーかなんかをつけたら、たまたま海外公演を見に行っていたエドガーさんがベックと一緒にコメントしてるのにはたまげました)。

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エドガーさん、イギリスのご出身ですが、最近は特にアメリカ人じゃない監督が、実にアメリカ的な王道娯楽をやる、というのが増えているのでしょうか。『バードマン』『ジャッキー』『スリー・ビルボード』と、あれ別に多くないような気もしてきたけど、多分もっとあります。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督はナシでしょうか。ところで、これはまったく関わりはないですが、笑っちゃったのが、一時期熱狂的なマンチェスター・シティのファンでしたもんで、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』をイギリスの映画だと勘違いしていたのですが、購入して開いてなかったパンフレット見たら違うんですねあれ。アメリカのリゾート地なようで、結構驚きました

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お話はというと、これは強盗の際の逃がし屋、所謂「ゲッタウェイ・ドライバー」をやっている男の子の物語です。ニコラス・ウィンディング・レフン監督の『ドライヴ』でも同じ職業(表稼業はカースタント)が取り上げあれ、ライアン・ゴズリングが務めました。今作『ベイビー・ドライバー』の主人公である、アンセル・エルゴートが演じる「ベイビー」てのは、彼の裏稼業での名前でして、両親を幼い頃になくしたときの交通事故の後遺症で、いまも耳鳴りが止みません。なので、そいつを相殺するために音楽を聞いてないと、「キィーン」という高音が常時聞こえてきます。その代わり、その音楽を聴くことで、ゾーンに入るんですかね。めちゃくちゃ凄まじい集中力を発揮し、華麗なドライブを披露してくれます。もちろん、ベイビー君はこんな仕事からはとっとと足を洗いたいのですが、裏世界の大物であり、彼のクライアントでもあるドク(ケヴィン・スペイシー)への借金を仕事で返さねばなりません。ベイビーの養父である、耳と足が不自由なジョー(ジョセフが本名ですがこれで統一)も、息子も同然である青年が汚い金を手にしているのが悲しいので、できるだけ早く人の役に立つ仕事についてほしいと考えています。行きつけのダイナーのウェイトレス・デボラ(リリー・ジェームズとにかく可愛いです。日本版やるとしたら白石麻衣)と音楽を通じて仲良くなり惹かれあうものの、ベイビーは当然裏稼業のことはしっかり話せない。ようやく、大きな仕事を終え、ドクへのお金を返しピザ屋の宅配ドライバーとして、平穏な日々を歩もうとしますが、優れたドライバーとしての腕を持つがために、ドクが許さず、上手い話があるんだと、またベイビーを強盗チームへ誘い込みます。抜け出せないと悟ったベイビーは、デボラを連れて街を出ようと画策します。しかし、今度の強盗チームには、バディ&ダーリン(伊勢谷友介似のジョン・ハムとエロいエイザ・ゴンザレス)のカップルに加え、曲者のバッツ(ジェイミー・フォックス)までいる。果たして、ベイビーはこのおぞましい裏社会からゲッタウェイできるのか。というところでしょうか。

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仮にこの映画を《FMラジオスタイル》と名付けよう

カーチェイスが見どころとなるクライム・アクション・ムービーですが、しつこく申し上げているように、本作の真の主役であり、ストーリーテラーであり、舞台推進装置であり、優れた演出家でもあるのは、音楽です。甘い恋の高揚感から、緊迫したサスペンスまで、すべてはベイビー君の気持ち次第で選曲が決まっていくので、音楽で物語がどう転ぶか、ハラハラさせられます(もちろん用意周到な脚本があってからこそなせる技巧で、真似すると「火傷するぜ」です)。ジェームズ・ガンの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』でも同様な、我々の涙腺をいともたやすく決壊させる音楽(10㏄はやっぱりズルいよなあ)が物語を極彩色に塗り上げていましたが、あれに近いセンス。あちらもベイビー君のように、音楽(SONYの映画はiPodメインで、非SONYの方ではウィークマン大活躍なのもおかしいですね)がクリス・プラットが幼い頃に亡くした母親と繋がるための装置として機能していましたが、曲数も段違いですし、70~80年代の音楽が占めていたので、ジャンルの豊かさでは『ベイビー・ドライバー』に軍配が上がります。

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タイトルの元ネタである、サイモン&ガーファンクルの名曲から、作中で粋(全部が粋なんですけど)な使われ方をしているキッド・コアラに、初恋に聴くベックの淡い歌声、ダブル・ミーニング的なコモドアーズ、決闘のキラー・チューンとして場を盛り上げるクイーン。他には、ダムド、ゴールデン・イヤリング、ブラー、サム&デイヴ、ブレンダ・ハロウェイ、などなど王道から渋め、ロックからヒップホップ、ブラックミュージックからUKロックまで、エドガー・ライトの趣味がふんだんに生かされた、バランス感覚の良いセレクト。音楽オタク泣かせです(キャスト面でいえば、ジェイミ・フォックスもですし、強盗チームにはレッチリのフリーもいます。ちょっと痩せていましたが、元気なお姿が見られてうれしいと思ったら、即座に殺されたポール・ウィリアムスもいました)。

SONYトライスター・ピクチャーズのロゴが流れた後の、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンに乗せた、ド頭のド派手な銀行強盗からのカーチェイスは、これまでのどのような作品でも見たことのない、素晴らしいカーチェイスの出来ですし、アイディアも見事。なんたって、エンジンを切る音から銃声までが、音楽と文字通り「同期」しているわけでして、開幕宣言として実に流麗。こんなものやられたら、もうあとは身を委ねておけばいいんですね。

無事、警察の追っ手から逃げた後の、ローリング・ストーンズのカヴァーやハウス・オブ・ペインのサンプリングでもお馴染みのボブ&アール「ハーレム・シャッフル」に合わせて、軽快に踊るアンセル・エルゴートのコメディアンっぷりは愉快です。サックスを吹くマネ、コーヒーの注文に合わせた「Yeah,Yeah,Yeah」、パトカーのサイレンと、ただシンクロさせて映像の快楽度を上げているだけにとどまらず、彼のおかれている状況や性格まで、スタイリッシュかつスマートにデッサンされています。ちなみに、アンセル、父親は有名なフォトグラファーだそうで、本人もミュージカルで活躍、と若干鼻持ちならないですが、まあいいでしょう(何が?)。

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キュン多めです。多量摂取寸前です。

こうやって、この曲はこうで…………と一つ一つを上げていくと、本当にキリがないのですが、あと数点「ブラボー!」を思わず声を上げてしまうようなシーンをいくつか挙げると、やはり一番胸がキュンキュン、ドキがムネムネ(古いし寒い)してしまった、最強にロマンティックなやり取りは、コインランドリーでの恋人デボラとの馴れ初めでしょうか。リリー・ジェームズがめちゃくちゃにかわゆい(ベイビーのお母さんが働いていたダイナーで、カーラ・トーマスの「B-A-B-Y ベイビー♪」なんてハスキーな美声で歌われちゃあ、惚れないわけにはいかぬでしょうが)。で、ここの会話がいいんですよね。デボラちゃんが「妹がメアリーで、私の名前が入った曲はベックのしかないんだけど、あれは本当は『デブラ(Debra)』だから、負けて悔しいの」と冗談交じりに、コンプレックスと今どきの10代の女の子にしてはマニアックな音楽知識を披露して、ベイビーに名前を聴くと、もちろん「ベイビー」と答えるしかないのですね。すると、デボラが「それじゃあ、この世の中の音楽は全部あなたのものになるわね」なんて嬉しそうに(いやマジでリリー・ジェームズの可愛さはどうかしている)言うわけで、イチコロなんですね。当たり前です。あなたのハートにズッキュン、君に胸キュン(キュンって擬音嫌いなんだがやむをえないです。ありがとう、秋元真夏YMO)ですよ。浮かれながら、レコード屋に駆け込んで『ミッドナイト・ヴァルチャー』を買って、自室でもうウットリ歌い上げます。で、ハッとしてGoodな感じになるんですね。ああ、そうかそうかと。彼はトラウマ的にずっと母親の形見代わりに、音楽と向き合ってたたけど、彼にとっては母親が呼ぶ「ベイビー」というのがすべてだったんだのであって、ただ音楽が好きというだけじゃなくセラピーでもあったんだなと。彼はずっと、実の親を失ってて、その「ゆりかご」のように音楽を聴いているときだけは、Youthから”Baby”。に戻ることができるんですね。ここでもティッシュでズビズビ鼻かみながらシクシク泣いてしまうんですが、これじゃあ5回泣いたことになりますね。

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このダイナーでもデボラちゃんの美声を吹き込んでいたテープレコーダーを、自分の仕事場でもある強盗の作戦会議でも使用していて、これが本編後半で、とんでもない誤解を生み、大惨事にもつれ込んでいくわけですが、スマホの時代なのに、このカセットテープの使い方がめちゃくちゃオールドスクールで、映画にイイ温もりを与えてくれている。ジェイミー・フォックスケヴィン・スペイシーが吹きこんだ声で、キッド・コアラの曲をベイビーが自宅で作っちゃう。今どきこんなことする子いるのか、という感じですけど、これがまたベイビーというキャラクターの肉付けに大いに役立っています。

ヒップホップ的な要素でいえば、フォーカスの「ホーカス・ポーカス」を背にショッピングモールに駆け込んで、逃走用に変装するんですが、ここで店で流れてるラップ・ミュージック(曲名がわかんないんでめちゃくちゃ気になってる)と合わさって、インスタントラーメン的にミックスが出来上がる。この原始的な興奮がまた映画をグッと盛り上げてくれますね。強盗シーンでのブラーの「インターミッション」や激しい銃撃戦と化学反応を起こすボタン・ダウン・ブラス「テキーラ」もですが、アレちょっと原曲を引き延ばしてやってると思うんだけど、どうやったら神がかり的にバッチリ併せられるのか、どのくらい時間を費やしたのか、知りたいものです。

恋人を失ったジョン・ハム伊勢谷友介に似てますよねやっぱり、となると日本でリメイクしたら相棒は森星がやるべきです)が、ダイナーに銃をデボラに向けながら、ベイビーに殺意をむき出しにする、とても緊迫した場面で流れるバリー・ホワイト「Never, Never Gonna Give Ya Up」の柔らかい歌声の緩急もめちゃくちゃうまい。「オレはお前を決してあきらめないぞ、逃がさないからな」と一触即発。バチバチですよ。バチバチなのにロマンスすらある。

 

ちょっとここからは駆け足気味でお送りしますが、

今作、もちろん基本は車と犯罪を軸とした青春活劇でして、代名詞のようにスバルの真っ赤なインプレッサがドンと画面に出現し、赤い悪魔のようにスクリーンを疾駆します。そして、ここからは、この「赤」が一種の悪魔のようなモチーフとして用いられます。最初は、先にも述べたベイビーの類稀なるドライバーとしての顔を引き立たせるための赤、次に、ジェイミー・フォックスが全くいいところがない極悪人として登場して赤を纏い主人公たちを振り回し、ベイビーが恋人の窮地を助けるために再びハンドルを握ったときには、赤いネオンがベイビーの顔に差し込む。最後のキラー・チューン「ブライトン・ロック」による演出が勝った、車同士のまさしく”闘牛”決闘シーンでは、赤がジョン・ハムに憑依し、そのまま炎のような怒りの悪魔に取り込まれるわけですね。

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そういったギャングたちとは一線を置いた、謂わば天使のような微笑みをもって、ベイビーを見守り、悪意から保護しようとするのが、養父のジョーです。『シェイプ・オブ・ウォーター』では、声帯の使えない女性が、アパートメントの隣人であるゲイのマイケル・スタールバーグとタップダンスしてましたが、こちらも立場は違えど、一緒に踊って生活を彩るんですね。このジョーおじいちゃんは、耳が聴こえなくて、しゃべれないから、ベイビー君(読唇術もお手の物)と手話でコミュニケーションを取るわけです。さらに、もう一つは音楽でも「会話」するんですね。ここが本当に微笑ましく、油断してるとウルッときます。どうやって、音を聴きとるのかといえば、まさしく体で聴くということで、おじいちゃんは手をそっとスピーカーに当てます。そうすると、音を体感できるのですね。これがまたラストで活きてくることになりまして、ベイビーが母親と疑似的な「再開」を果たすために、実に粋で感動的な演出となっています。もうここでまたボロ泣きは必須(あ、6回目だ………)。

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なので、今作、バランス感覚がキャラクタ(というか人種)の配置が見事で、極端な天使サイドと悪魔サイドに黒人がいて、裏社会の冷酷なドンとある意味では善き父親代わりも、理解者でもあり同時にとんでもないクレイジーも白人。ジェイミー・フォックスの『ジャンゴ』からの代わり様は、ちょっと笑えます。ただ、西部劇の善玉では、クリストフ・ヴァルツに役を食われてましたが、『ベイビー・ドライバー』では見違えるほどの救いようのないダーティなサイコ野郎を演じ切っているので、ちょっと見直したもんです。

キャラクタ配置もですが、因果応報のバランス感覚も適切ですね。適切という言葉が積雪すぎるくらい。スカッと終われるんだけど、ちゃんと落としどころはつけて、「悪しき行動は罰せられ、善きものは良き行動で救われる」というルールに基づいています。そこにまた音楽が絡んでくるのが、泣かせどころなんで、とにかくエドガー・ライトの卓越したドライビングテクニックに、音楽オタクは転がされまくりでした

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<余談>

音楽ネタだけでなく、映画ネタもふんだんに盛り込まれていましたが、以下は私が挙げられる程度です。なんか他にもあったら教えていただきたいものです。こういう宝探し的な楽しみもいいですね。

 ○ドク→マックイーンの『ゲッタウェイ』かな

 ○マスク→キアヌの『ハートブルー』。『ハロウィン』のマイケル・マイヤーズとマイク・マイヤーズを間違えるくだりはくだらなさすぎて、映画館では顰蹙を買いそうで遠慮しましたが、自宅で腹よじりながら笑いました。

 ○カーチェイス→やっぱ『ブルース・ブラザーズ』でしょう。

 ○片目のサングラス→『俺たちに明日はない』とゴダールの『勝手にしやがれ』。どっちも名作。

 ○序盤の強盗→アレはデ・ニーロ『ヒート』ですかね。20周年記念買いました。大好き。

 

エドガー・ライトのフィルモグラフィと関連映画&音楽>

 

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The Jon Spencer Blues Explosion - Bellbottoms


T.Rex - Deborah


Queen - Brighton Rock (Official Lyric Video)


Simon & Garfunkel - Baby Driver (Audio)


Miles Davis - So What

<おしまい>

「ごっこ遊び」じゃだめですか?Part.1 ギレルモ・デル・トロ『シェイプ・オブ・ウォーター』

 

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不定形の愛について語るための、優秀な語り部である「水」

水には形がありません。定まった形はありませんから、環境によって、変化します。円錐の容器に入れれば円錐に、地面に散らせばそのまま真横へ広がり続けます。熱を加えられれば蒸気となり、冷やせば氷として固まります。しかし、それもすべては結局は水です。

水には色もありません。その時々で見え方が変わります。なので、血だろうが、海だろうが、精液だろうが、水です(もちろん科学的な構成は異なります)。

不定でありながら不変なのでして、便利がいいです。

その便利の良さから、暫し、映画では水というものを比喩として、使われています。例えば、よく見られるのは表裏一体な「生/死」のメタファーです。北野武監督の映画では、頻繁にこのモチーフが使われ「キタノブルー」という称号までもらっているほどです。近作では、『アウトレイジ最終章』で、緊迫した生の衝突を和らげる空気感の緩衝材として、または、死を看取る聖地として、海辺を舞台に置いていました。より突き進んだディストピア世界が魅力的な、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の見事なまでのSF金字塔リメイク『ブレードランナー2049』では、モロに羊水のように、生と死を包み込む装置として「水」が多種多様に用いられました。身体だけ浸かっていたら気持ち良いですが、顔をつければ溺れ死んでしまいます。水がなくては生きてはいけませんが、同時に水というものが持つ底知れなさを感じさせられました。

そして、ギレルモ・デル・トロ監督による新訳『大アマゾンの半魚人』である『シェイプ・オブ・ウォーター』では、タイトル通りに水の形を用いて果敢にも「愛(それを育む性)」の表現に挑みました。

印象深いのは、走行するバスの窓に張り付く、二つの大きな水滴が、自分たちを妨げる重力を無視するかのように”ダンス”して、次第に一つに交わる描写。こんなにも文学的で詩的な、水を使ったセックスシーン、お目にかかれませんよ。

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異業への「萌え」と二次創作精神

オープニングが絶品であれば(または、終わりさえきちんと締めれば)、ちょっと乱暴な物言いですが、大体の映画はとりあえずの点数を与えるに値すると考えています。最初で観客の心をつかんでしまえば、こっちのもんです。なので、多くの映画監督が、オープニングに命をかけていることでしょう。そりゃもう、第一印象は大事ですから。そういう側面では、『シェイプ・オブ・ウォーター』ほど、その起承転結の「起」と「結」への心血の注ぎようは、実に文句の付けどころがありません。

始まりは、孤独な独り身女性の夢からです。古めかしいアパートメントの中が、アクアリウムのように水で満たされています。浮かぶのは、サリー・ホーキンスでして、今作では口のきけない、イライザという女性を演じています。ゆっくりと水の中を進むカメラの滑らかさは、水の官能的なまでの青さをこれでもかと表現し尽しています。このオープニングの、低予算とは思えぬフェティシズムを刺激してやまない、群青の美しさには息を呑んでしまいました。正直、ここで終わってもいいんじゃないかな、と思わせるほどに完結しています。開幕でここまですべてを語ってしまうのも、なかなかに潔いですよ。

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全ての創作は、二次創作のもとにある、といっても過言じゃないのかもしれませんし、度々起こるパクリ論争も、完全なオリジナルというのはないに等しい(ドラマ『火花』を思い出したり)ので、アレ自体に議論する価値はないよう思えますが、今作については「ど真ん中の二次創作」なんですよね。この映画は、「怪物と人が結ばれちゃいけないのか」という疑問から、始まっています。ギレルモ監督が幼いころから「こんなんじゃ納得できるわけねえだろ!何で怪獣が一方的に人間に迫害されねえ図南ねえんだよ!ハッピーエンドにならねえと報われねえじゃん!」という妄想をいたいけな女子高校生よりも純情な眼差しを何十年も保ち続け、再び『大アマゾンの半魚人』を作り直しちゃう。普通に考えると狂気を帯びてくると思うのですが、この人はオタクとしての熱量がケタ違いですし、ここまでスレることなく「いい子」であり続けられるのも、レアです(そして、この「いい子」度合いが後述する、ある歪さを生み出しているのではないだろうかと考えている)。異形の者と精神的なレベルで交感し、「呪い」を解いていく、というシナリオ自体は、スピルバーグE.T.』や宮崎駿崖の上のポニョ』など、古今東西にある形式ですので、目新しいものはないのですが、ここまで「オレが考えたオレが納得するオレのためだけのもしもストーリー」で貫き通し、アカデミーまで掻っ攫う、という「偉業」を成し遂げたギレルモ氏の芯の強さ(漢気とでもいえようか)は天晴れです。

そのオタク性からの「異形」への愛着は、やり直しを重ねに重ねた造形美にしっかり結びついています。この半魚人である「彼」の、クリーチャーでありながら、神秘性を備え、美少年のようなルックスなのですね。凛とした佇まいには、王族のような気品さえ漂います(イライザの隣人が「美しい」と心奪われ、ネコを食われても「しょうがないね」と平然としてしまうのも、この王子様のような見た目に惚れてしまったのなら、何の疑問も持たない)。流線形のフォルムは、半ば耽美でもあります。モンスター映画では頻繁に議論の的となる「神は人の姿をしているか」というやり取りは本作でも行われているのですが、この「彼」はまさしく野生と神性の両方に股をかける、無垢なシンボルとして、スクリーンに現れます。

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「彼」と同じく、この世から疎外されてしまった、もう一つの無垢なるものの象徴として、イライザという女性が、これまた蠱惑的なヴィジュアルで、映画『心が叫びたがってるんだ』のような設定まで付けたされ、まさしく観客を「萌え」させるためのすべてを兼ね備えています。サリー・ホーキンスは、ウッディ・アレンブルージャスミン』や実写『パディントン』にも出演している、実力派の人ですが、この発話障害を抱えたセクシャルな「萌え」キャラを構築するために、いかんなく才能が発揮されています。とにかく身振り手振りと表情のレパートリーが豊富で、一時も同じ瞬間がなく、ディズニー・アニメーションのようです。しかも、今作では、彼女のヌードまで拝めるのですが、あの桂正和作画のような体のしなやかで豊満な曲線には、またしても「アニメかよ」とうっとりしてしまいます。さらに、この「孤児」である女性は、めちゃくちゃリアルな年相応な人間としての性欲がふんだんにあり、無垢であるゆえに、1962年という時代設定がウソみたいな積極性で「彼」に迫っていきます(「彼」と肉体的に結ばれたときに、ジェスチャーでどのようなペニスが出てくるかを、一切のいやらしさを見せずに、キラキラした瞳で語る仕草はこの上なくキュートで眩しい)。あの60年代にあそこまでダンスが踊れるところなんて、「全然内気じゃないじゃん」とこちらがあらかじめの言う内で予測してたキャラデザインを一気に覆されました。ここまで何のためらいもなく「萌え」的な感性を打ち出されると、狼狽してしまいますが、あのギレルモのキャリアでやるんだからすごいです。

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「疎外」されてきた者たちの交差点

ギレルモ・デル・トロ監督が、ここまで異形の者に執着し、「孤児」を描こうとする姿勢は、アプローチこそ違いますが、やはりスピルバーグ監督に非常に似ています(極論を言えば、『シェイプ・オブ・ウォーター』と『E.T.』の差なんて、性行為のあるなしだけじゃないですか)。今作でも、色々な「孤児」が出てきます。

まず、作中一番興味深い人間として出てくるのが、悪役であるマイケル・シャノンのストリックランド。ホワイト・ナショナリズムパワハラアメリカン・ドリームへの渇望、性差別、支配欲、倒錯的なサディズムマゾヒズム、などなど。主人公以上に属性が詰め込まれすぎて、普通ならパンク寸前ですが、見事に悪役として役を全うし、ホーキンスに並ぶ名演技を見せたシャノンには、最大級の敬意を表したいくらいです。中盤まで見事なまでの憎たらしさの一方、終盤以降の「古き良きアメリカ」に呪われ周りから「疎外」されていき、自我を崩壊していく様子に、敵ながらに同情してしまい、「一流でならなくてはならないんだ」という言葉で自分を戒め、どこかのディオ様のように人間を止めてモンスターへと変貌していく姿には切なさを覚えました。

ストリックランドとは真逆の、「疎外」された白人代表として、イライザにアパートメントの隣人として以上に寄り添っていく、本作の語り部を担うジャイルズを演じるのは、『君の名前で僕を呼んで』でゲイに素晴らしいくらいの理解を示す良き父親を演じ涙を誘った、マイケル・スタールバーグ。まだそこまで歳ではないのに、ゲイである上に、薄毛で、しかも失職中、というこれまた要素満載なキャラクタ。『君の名前で~』同様、主人公の恋の行く末を温かく見守り、手を差し伸べる善き市民として、活躍を見せます。しかも、この役は、恋をしているのですが、これがまた辛い結末を迎える。慕っていた人間が、自分が憎んでいたマッチョな白人代表格のようなレイシストであったわけですね。この事実が半飯たときの、彼の悲痛な表情と、口をいやらしくナプキンで拭う演技には、さっきまであれほどおいしそうに見えてたパイが吐しゃ物のように、変わり果てるほどでした。

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ここまで、非常に緻密なキャラ描写(幸福で退屈なまでに平凡なセックスの象徴として、マイケル・シャノンのベッドシーンが挿みこまれたのは理解できるのだが、モザイクがかかってチープだし、あまりに戯画的すぎるセックスだったので、編集でカットしてほしかった、というのはある)なのに、ガッカリなのが本当な意味で最も社会的に抑圧されているはずの、善良で良識のあるアフロ・アメリカン、ゼルダの背景が物足りなかったですね。あまりにハリウッドでやり尽されたベタ極まりない、陽気な黒人のおばちゃんキャラ、というのを他の俳優さんにやらせると、このご時世じゃ「舐めてるのかい監督は」とお叱りを受けるのが常となりつつありますが、ここをうまいこと「やりすぎない・力み過ぎない・手を抜かない」というベスト塩梅で演じるのが、オクタヴィア・スペンサー。『ヒドゥン・フィギュアズ(邦題:ドリーム)』『ギフテッド』と居れば絶対に安心感があるのが、この人の名女優たる理由でしょう。しかし、やはり薄いのは事実。このゼルダは職場でイライザに散々「うちの旦那はね」と愚痴をこぼし笑わせてくれるのですが、これが最後のストリックランドとの対決でも全く活きない。せっかく公民権運動で揺れまくっている時代だったのに、あそこの対決で、カタルシスを求めなかったのはイマイチ理解できなかったです。せめて旦那が角材をアソコでぶち込んでおけば…ま、いいか(そういう抵抗もできないほど抑圧された存在だった、というのはわかるが、あのふたりなら抵抗できたような気もします)。

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もう1人、キーパーソンであるロシア人がいるわけですが、コイツが必要だったのか、そもそもこれは冷戦時代である必要ってあったのか、ちょっと怪しい。が、その怪しさも、ミュージカル場面の鮮やかな手際と、「主役級」ともいえるアレクサンドル・デスプラの美麗なスコアで劇的に吹き飛びます。あのファンタジックですらある時代を、より鮮明に浮かび上がらせるのに、この仕事がなければ成り立っていなかったでしょう。イライザは口をきけない分、非常に音楽が(マイケル・スタールバーグ以上に)有能な代弁者として、流暢に語ってくれ、作品自体にフェリーニの映画のようなエレガントを持たせています。一つのメロディが反復され、そして変化されることで変わる、作品の青の色合い。お見事な相乗効果。「You’ll Never Know」のアレンジは、映画の端役にすぎないはずのジャズミュージックとは思えぬ粋さです。

ギレルモ的な「ふるまい」による違和感がひとつ

ただ、さきほど、疎外というワードに、カッコをつけたのだが、ここに実は実写『美女と野獣』降板から本作への流れから生まれる、ある1つの違和感が生じます。というのも、ギレルモさん、今作のプロモーションを兼ねたインタビューで以下のようなことを仰っている(文春オンラインの記事から) 。

「独身の中年女性の日常として普通だよ。セックスとバイオレンスは人間のリアリティだし、イライザもリアルな容貌をしている。孤独に生きてきた清掃員が化粧品のCMみたいな美女じゃおかしいからね。僕は『美女と野獣』が好きじゃない。『人は外見ではない』というテーマなのに、なぜヒロインは美しい処女で、野獣はハンサムな王子になるんだ? だから僕は半魚人を野獣のままにした。モンスターだからいいんだよ」

 

「イライザは意見を封じられた人々の象徴だ。彼女の友達も、身寄りのないゲイの老人や、ぐうたらな夫を抱えた黒人女性など、世間の隅っこに忘れられた人々ばかりで、彼らがモンスターを救うために戦う物語なんだ」

 

bunshun.jp

 

まあ、優等生っちゃ優等生すぎる、いかにもギレルモ氏らしい発言に、特に問題はないと思います。が、この"いかにも"なギレルモ氏の「ふるまい」と本作のお話の「あるべき姿」が、ちょっと違うんじゃないか、という風にも思えるのです(無論、作品をどうあるべきかは、作り手次第なのですが、とはいえ、作り手のもとから離れれれば、作品はこちらのものでもありますので、あくまで個人の解釈です)。

前にも書きましたが、本作のストーリーは「人間として生まれついてしまう呪いをかけられた、水中生活を夢想する女性が、恋によって生への苦しみと宿命であった呪いから解放される」というところです。そして、それは、大まかにも成功しています。

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ギレルモ氏はイライザを、「身寄りのないゲイ」や過程に問題を抱えた黒人女性と、とても近しい女性だと捉えました。つまり、*1ざっくばらんにいえば、「怪獣オタク」をマイノリティ側に寄せています。

が、正直このマイノリティ観は明らかにおかしい。というか、まずいです。これだと《世間から迫害されている怪獣しか好きになれないオタク》が、未だに日常レベルで激しい差別を受けたり、現実に厳しい状況に追いやられていたり、と問題が山積しているLGBTやアフロ・アメリカンと同列に語られるは、危うさを抱えているからです。もちろん、個人のレベルで、自分の趣味のマニアックさゆえに友達ができなかった、とかは現代でもあると思います。しかし、もはや「オタクであることは一種の特権」ともいえなくもない現代において、今作のような「いい歳して怪獣なんか好きな孤独な女性(=ギレルモ)」を、まるで意見すら封じられたマイノリティであるかのように、ご丁寧にも声を使えなくして、「意見を封じられてしまった不遇な人間」サイドにすり寄せてしまうのは、若干の(ギレルモが天然ゆえの)策略すら感じてしまい、少々気分がいいものとはいえません。悪気はないのは分かるのですが、流石にこれはいただけないところですし、欺瞞的という批判は言い逃れできないと思います。そもそも、現実の「オタク」と呼称される方は、今最も多種多様で活気のあるマジョリティ側の人間ともいえます。というか、イライザが「孤独な女性」というわりには、上のように性に奔放で、無邪気です(バスタブオナニーが日課で、そのオナニーもおそらく並みの女性以上にハードではないのか)。『美女と野獣』に反発し『アメリ』風に仕上げたサリー・ホーキンスというキャスティングですが、彼女が「CMみたいな美女」でないにしても、出てくる男性がほぼ反射的に心を奪われる魅惑的なセックス・シンボルとして、肉付けしたギレルモの意図も、ちょっと食い違ってきます。あと美女かどうかはさておき、サリー・ホーキンスはめちゃめちゃに可愛い部類ですよ川上未映子の『全て真夜中の恋人たち』の方が、まだ全く可愛くない女性が、まったく見た目のよくないおっさんと恋をするという情景が、事細かに脳裏に浮かびながら、泣かされてしまったので、ジャンルは違いますが、是非ギレルモ氏には読んでほしい一冊であります。

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作品としての、純度が高く、ギレルモがピュアなだけに、こういう価値観がまかり通ってしまうのは、ある種「ヤバさ」すらあるのではないでしょうか。権力によって、世界の片隅に追いやられて、肩を寄せ合う。そんな人を一色単に語ってしまうのは、危険極まりないはしでもあるワケですね。それにやはり、先のように、別にそれじゃあ冷戦時代下である必要って一体………とかも、このノイズのせいで考えてしまいます。

現実を否定し、イライザ*2を絶対的に無条件で受け入れてくれる存在として、あるいは現実を忘却される「ごっこ遊び」の心の拠り所として、「彼」を作り出してしまった執念には、ひとつの歪さを感じざるを得ません。

でも、やっぱり

こういうネガティブな感想を吹き飛ばすくらいには、美術セット音楽がパーフェクトですから、なんにせよ必見の映画ではあるのです。ただ、ここ位ある価値観を鵜呑みにするのは、ちょっとやめた方がいいのではないでしょうか。という、ひとつの啓蒙をもって、本稿を締めくくりたいと思います。

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なお、本稿に「Part.1」とふっていますが、あといくつかこの「ごっこ遊び」についての近年の映画を、5本ほど取り上げてみようかと考えています。

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<とりあえず、おしまい。そして、つづく>

*1:今作では、声が出ない、ということは宿命のひとつにすぎず、少なくとも本作上で、彼女が発話障害を抱えたことによる目立った弊害というのは、あの美しいミュージカルシーン(サリー・ホーキンスエマ・ストーンの数倍は歌唱力があり、あの声の掠れ具合から伸びやかな発声に至るまでのプロセスをひとつのか細い身体のみで表現しきったことには、ただただ感嘆するばかり)の契機となる場面のみで、あくまで呪いを受けてしまったことによる、ひとつのシンボルとしてしか扱われていない。なんなら、話せないことで、彼女は状況をうまく乗り切って、最後には上司に向かって「FUCK」とやる始末

*2:しつこいようだが、もちろん、ギレルモ

中茎強・久保茂昭 『HiGH&LOW THE MOVIE3 / FINAL MISSION』

正直本稿だけで自分のハイローへの愛憎(ラブが8割ですよ)をいつか『HiGH&LOWとオタクと私』というクソタイトルでブチ撒けたいのですが、とりあえず、一旦の区切りである『最終章』を見た感想をメインに書いてみることにします。

以下、不満・苦情をつらつら書き立てますが、愛が9割なんです。

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ちょうど日本を発つころに公開されていた本作。泣く泣く観賞を諦めていたのですが、ようやくDVDで見ることができました。しかし、時間が経つと、おそろしいのは、自分の理想ばかりが(『勝手にふるえてろ』のヨシカちゃんのように)膨らんでしまうところ。ああであってほしい、という願いばかりがブクブク太るばかり。では、長らくお預けを食らった『HiGH&LOW THE MOVIE3 / FINAL MISSION』、蓋を開けると、どうだったかといえば、正直これがまた釈然としない何かがずっとモヤモヤッと残ってしまったのが率直な感想。

まず、チキンなので、以下のような熱中ぶりを見せていたことから、いかに私がこのシリーズに熱を上げていたかお分かりいただけると思います。決して、フッと湧いて出たアンチではないことを、きちんと示しておきたい。いや、何も有効な証拠能力も持たないのであるが。一応。

 

 (佐野岳の出演や公害的なニュアンスなど、今思えば、あながち外れていない予想までしていた…………どうかしちまってた時期)

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そもそもこのシリーズの「うまみ」って一体…………

ということで、本稿で、詳しくハイローシリーズへの思いを書き綴ることは避けておくとし、自分が(みなさんがどうかはワタシには知り得ませんので、あくまで一個人の感想)ハイローの何に強烈に惹かれていったかを、簡潔にまとめますと、

 

①もはやマジョリティであるオタクが分け隔てなく楽しめるサブカルチャー全体へのピュアで愚直なオマージュと、ネット文脈との親和性が極めて高い二次創作精神。

 

②記号化されたキャラクタたちが一本の作品ではありえないような情報量でひしめき合うことで発散される熱量。(潤沢な資金と)それら「記号」で構成される、徹底的にジャンクでカラフルなユニバース的世界観。

 

③普通にやれば、一部のコアなファンにしか見向きされないような粗雑さ(ジャンクさ)とは裏腹に、作品として指向性が高く、密度の濃い、確かなダンス的身体能力で培われた最先端と読んで差し支えないアクションと、それを撮影するカメラ。及びに、「若者」たちが放つ、瑞々しい肉体性(なぜ若者をカッコ書きしたかといえば、ご存知の通り、一部の役者自体は特に若くもないからである)。

 

という大きく分けたこの3つあたりではないでしょうか。他には、まるでMVのような水準の高いクラブシーンや、作品を盛り上げる音楽の中毒性などもあります。画面の端のモブキャラまで、世界観の構築に参加していて、画としてスキがないんですね。とにかく、誰でも(かつて私が抱いていたようなEXILE的なモノへのある種の毛嫌いさえ乗り越えれば)楽しむことのできる、開かれた門戸に、所謂「オタク」という人種に含まれる方々もガツンとのめり込んでいったことでしょう。

 

なので、決して大手アイドルグループに依存しきっているワケではなく、むしろ、そのグループのファンの方々のお金でこんなにもフェティッシュで、映画として志が高いクオリティが作られている、という贅沢を享受できることに、申し訳なさすら感じるほどなのです。

 

じゃあ、本題に入りますね

 

さて、では、この志の高い試みの最終章が完全燃焼だったかといえば、必ずしもそうではなく、なんともモヤモヤする終わり方でした。一応の話の落としどころはつけてくれているのですが、志の高いシリーズだけに残念さが目立つ印象を受けました。散々広げに広げた風呂敷ですので、今更これを全部回収するなんて無理な話だろうとは思っていましたが、それでもやはりしこりが残る、そんなところです。

 

まず、ザッとこれまでのドラマから前作『HiGH&LOW THE MOVIE 2 / END OF SKY (以下『2』と省略します)』までの成り行きを簡単におさらい(立木文彦の声で脳内再生していただくとより一層の臨場感が)すると、

 

AKIRA井浦新というやたらに腕っぷしが立つバイク乗りの兄ちゃんが、MUGENというなんだかすごそうなチームを作り、雨宮兄弟という彫刻みたいな男前となんか色々ある

・九龍というヤクザグループがカジノ計画のためにSWORD地区の乗っ取りをもくろむ

・SWORD地区でにらみ合う勢力(山王街二代目喧嘩屋を名乗るMUGENの後継組織《山王連合会》、クラブを経営する『時計仕掛けのオレンジ』をモロにオマージュした衣装に身を包む《White Rascals》、ヤクザ業界への高い就職率を誇るらしい喧嘩バカのエリートが集まる《鬼邪高校》、パルクールでクルクルとスラム街を駆けまわる守護神《RUDE BOYS》、祭りがあれば何でもいいテキ屋のお兄ちゃん集団《達磨一家》、という5つ)が、内部抗争やMIGHTY WARRIORSとの激しい闘いを経て、ひとつにまとまっていく

・雨宮兄弟の長男坊である斎藤工が、やくざと政治家の癒着を暴くためになんやかんや頑張ってUSBを残す

・SWORDで唯一マトモにお金を稼いでるWhite Rascalsが刑務所から出てきた中村蒼とぶつかり合う。なんやかんやまたSWORDが結束する。

・上の抗争と並行して、斎藤工が残してったUSBを公表しようと、琥珀さん(AKIRA)と相方の九十九、そして雨宮ブラザーズが因縁を乗り越え、USBを執拗に狙う日本刀携帯式ヤクザ型ターミネーター源治(小林直己)率いるヤクザ軍団と、(ただのバイク乗りに過ぎない4人なのに)決死の攻防を繰り広げ、何とかミッション達成

・とうとう津川雅彦岩城滉一といった「アウトレイジに出てそうで出てない俳優陣」が顔首揃える九龍グループがシビレを切らし、「ヤクザじゃけえ、何してもええんじゃ」と、血気盛んなお兄ちゃんを痛めつけるべく、ようやく本気を出す。

 

まともに一からストーリーを追いかけると、重度の頭痛を引き起こしそうな時系列の煩雑さなので、色々省略しましたが、気になったらDVDなりHuluなりで見ていただいて、上のテキトー極まりない説明書きが、決して的外れではないと、確かめてもらえれば幸いです。

 

上のような紆余曲折を経て、山王連合会の総長であるコブラ(岩田剛典)が九龍グループの一角である善信会の会長(岸谷五郎)にマンツーマンで宣戦布告したことがキッカケで、いよいよ《SWORD連合vs最大ヤクザ勢力》or《大人vs若者》という戦争が始まるんですね。一時ある女優さんが被ってしまった、大手事務所とのもめ事を想起せずにはいられませんが、この構図は芸能界の縮図みたいなモンじゃないのではないでしょうか。『アウトレイジ』もそういう感じでした。怒ったヤクザのおじさん達が、各地区に侵攻していき、文字通り蹂躙していく様は、ディストピア映画のようです。コブラちゃんも、ヤクザのトップにケンカ売ったもんだから、決死のゲリラ戦もむなしく、屈強なおじさんにあっけなく捕獲され、黒ゴマスムージー生コンクリートを飲まされる激しい拷問を受けます。しかも、ディストピア映画さながらの残虐非道なヤクザ・ムーブメントはとどまることを知らず、「無名街爆破セレモニー」なる素面では到底思いつかぬ、トチ狂ったスラム街爆破計画を敢行するのです。一方その頃、SWORD連合とは別行動を取っていた琥珀&雨宮は、刑事である西郷の手引きにより九龍グループとの決着をつけるある証拠を守るために、奔走しています。はたしてとらわれたコブラは、無名街は、その他の兄ちゃんたちの運命はいかに。ジャンジャカジャン。

 

ここまで書いて、脚本家は本当にシャブを打ってないのか検査するべきではないかという気がしてきたのですが、こういった正気とは思えないプロットを、バチバチのアクションに、キレキレのキャラ立ち、ゴリゴリのセット、キメキメのドラッグ感の掛け算で、圧倒的な熱量と不可思議な説得力を持たせてくれるところが、このシリーズの醍醐味なんですね。

 

こうなると、やはりここでこの『最終章』に期待するモノといえば、手の届かぬところで蠢いていた巨悪が、小さき者たちの勇気ある行動によって、一般市民に告発され、壊滅に追い込まれていく。という筋書が予想できます。

 

で、実際にそうなっていきます。これまでドラマシリーズから散々撒きに撒いていておいて、あとで拾い集める気なんてサラサラないように思われていた、細かい「ああ、そういえば謎の鉱石とかあったなあ」という諸々の設定を一本の中心線に集約させ、《大人vs若者》の一大戦争がクライマックスへうねりを上げていくのは、シリーズを見ていたものからすれば、それなりに感涙モノです。

 

しかし、やはりどうしても随所でこのシリーズが本来持っていた、大きな弱みが、白日の下にさらされてしまったような気分で、なんだかちょっと見ていられず途中ハット我に帰ってしまう瞬間もあったし、そのハット我に帰っている冷静さにまた悲しくなってしまった部分も大きかったのも事実でした。

 

というのも、このシリーズは先ほどのように、この「記号」が飽和状態を超えた先にある、クライマックス感が売りだったのですが、『2』の振り切ったアクション娯楽はどこへやら、ウェットすぎるんですね。まあ、こういう辛気臭いお話、酒の肴にはなるんでしょうが、自分はまっぴらごめんだな、という若干危惧していたような仕上がりになっていました。第九に乗せた、あのバトルロワイヤルさながらの予告編の通り、「お祭り」のまま終わらせてほしかったのが、正直なところ。元々、異常なフィジカルの情報量とEXILE的な野郎BGMがドカッと押し寄せてくる、あの高揚感が気持ちよかったのに、アクションシーンがあまりにアッサリ(普通の映画なら「すごい」と形容されるレベルではあるのですが、ここまでハードルを上げ過ぎていたがために、制作期間の短さによるやっつけ感が目立ってしまいました)していたのも悲しかったです。そのせいで、ずっと誤魔化せてきた、粗っぽいストーリー・テリングが前面に押し出されて、空虚すぎるスッカラカン度合い。古今東西あらゆるサブカルチャーから拝借したモチーフが、ひとつの群像劇として動くから面白く、自分でその情報から「萌え」ることができるものを選び取る喜びがあったはずなのですが、不必要にヤクザサイドに肩入れしたりするもんだから、物語の主軸がまるで定まらず宙ぶらりんなまま迎える、この『FINAL MISSION』でのラストの(一応は感動的な)展開には非常に萎えてしまうのですね。

結局、こんなのは「自分がHiGH&LOWシリーズにどのような愉しみを求めていたか」に終始してしまうわけですが、やはりガッカリしてしまいました。

 

前述のように、とても素面で書いたとは思えぬプロットなので、ここに更にツッコミを細かに入れるのは野暮ですし、やめるべきなのですが、どうしても看過できなかった箇所をいくつか

・『2』から新登場した、どう考えてもこれを活かさない手はないであろう、強烈なヴィラン・源治とのアクションが、時間の制約があったとはいえ、簡略化されすぎてしまったのは惜しい。AKIRA&青柳&&TAKAHIRO&登坂が、ヤクザノ追ってから逃げ回る、狭い廃ビル(?)を縦横無尽に駆け巡るアクションと、それを追うカメラには度肝抜かれたのですが、ターミネーター小林直己のやられ方は、あまりにあっけない。どうでもいい会話を挿んだ意図が見えない。

・そもそもこのお話、中心にあるのは「若者の群像劇」なのに、いつの間にか老いぼれ共がメインになり、津川雅彦に至っては、悪の元凶なのに、いきなりめちゃくちゃぬるいことを言い出す始末。極悪非道を尽くす割にいちいち言うことが手ぬるいのはどうなんですかあんだけバカげたセレモニーを画策しといて、バイキンマンよりもあっさり引き下がるのは、ちょっと情けなくないか。コブラもせっかく抵抗を訴え、不屈の精神で退ける場面なのに、カッコよく見えないです。

・悪行を尽くしてきた二階堂やキリンジは、このシリーズ内のどこかで、大きなしっぺ返しを食らわないといけないはずなのですが、どうも釈然としない。

・多忙なスケジュールでどうにかあったわずかなスケジュールの中、窪田正孝の最期を撮影したのは理解できるが、一瞬にしてヤクザにやられてしまって、気づいたらお墓(『LOGAN』オマージュと呼ぶにはあまりにまんま過ぎるパクリ感すら出てしまうぞんざいさ)の中なので、消化不良。せめて、スモーキー窪田が最後に必死の抵抗を見せた証拠として、例えばリンチにかけたはずのヤクザが顔にアザだらけだったとか、二階堂が悔しそうな表情を見せるカットを挿むとか、くだらない語りを入れるなら、せめて重大キャラの弔いとして、それぐらいの配慮は欲しかった。

・爆弾の線のどの色を切るか、という最近はすっかり王道すぎて見なくなった展開を入れるのは構わないが、あんだけ迷った挙句に、どの線も切らなかった→爆破→ポカン、という体たらくで、ひょっこり山王連合会に帰ってきたダンや九十九は何の貢献もしていない。

・いくらなんでもセリフが抽象的すぎて、斉藤洋介と子役の訴えも薄い。

・戦力は作中一あるし、目的はどの集団よりも明白(音楽とクラブ)なはずなのに、いまひとつ何がしたいのか意味が解らなかったMIGHTY WARRIORS

・いくら続編ありきとはいえ、一応最終章を銘打っているので、よくわからないバルジ(ずっと『2』で「主がお呼びだ」とジェシー(NAOTO)が言われてると勘違いしてたんですが、まさか薬草みたいな名前だったとは)をしつこく強調して存在を臭わせすぎたのは、興醒め。

 

 

要は、「少年期からいかに現実との折り合いを付けるか」がテーマとしてあったはずですが、そこがおざなりにされてしまっているように見て取れましたし、このまま続編に繋げる医師がプンプン匂ってしまったので、やはり、きちんとこのSWORDの歴史には一旦のケジメをつけてほしかったです。

 

結構厳しめなことを言っておいてなんですが、、どう考えても、この対策を終わらせるには短い、異常なスパンで製作されていた中で、ここまでの物を作り上げようという意思は大いに買いたいですし、ヒロさん並びに制作陣の方々には、ゆっくり休んで、英気を養っていただきたいものです(アベンジャーズ壊滅の続編を1年も待たされる苦行に比べれば、この大作の異常なまでのスパンの短さは驚異的ですよホンマ)。

 

 

とりあえずおしまい