ふしぎなwitchcraft

評論はしないです。雑談。与太話。たびたび脱線するごくごく個人的なこと。

『君の名前で僕を呼んで (Call Me By Your Name) 』

官能の熱を帯びる肉体、恍惚する肉体、高揚する肉体

あー、暑い、暑い。ついこの間の3月の末なんぞ、平気で気温が1ケタに達しておったのに。春を飛び越えて、夏にスキップ。生粋の暑がりで、汗っかきなので、堪ったものではない。しかし、そんな文句をブツクサ言いつつも、ウキウキする気持ちには嘘がつけない。スキップといかずとも、足取りは軽い。どこのカフェも路面にテーブルを出しては、こちらにビールの誘惑を持ちかけてくる。アイスクリーム屋はどこも行列。待ちゆく人は皆、肌を見せ、少しでも焼こうと裏路地では簡易ベンチに裸で腰掛ける強者も*1。そんな景色を眺めていたら、やはり同じ欧州はイタリアの「あの夏」を思い出さないわけにはいかない。エロスがアスファルトから湧きたつ熱気や青々とした草木に絡みつく情念を燃やす夏。

君の名前で僕を呼んで』の淡く甘美なひと夏だ。

 

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珍しく服を着ているふたり

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映画の大半が服を着ていなくて、そしてまた裸のシーンの大半が濡れ状態だったような…………

 

描かれるのは、クラシックの作曲が趣味の少年エリオ(ティモシー・シャラメ)が、教授である父親(マイケル・スタールバーグ)が招いた大学院生の美青年オリヴァー(アーミー・ハマー)から次第に目が離せなくなり、彼女のマルシア(エステール・ガレル)と肉体的にと結ばれるも、オリバーのことが頭から離れなくなり、とうとう実り結ばれるまでの官能に満ちた恋。きらめく太陽に、目がくらむ青、原色のような緑。丹念な自然でむつみあう男たちと家族を映しだす。ひたすらに俗世からは超越しまくっていて、貴族のような暮らし向きなので、こちらは貴族の生活を絵巻にしてみてる気分。

まず、しれっとすごいのがティモシー・シャラメの語学力やピアノの演奏。あまりにも自然になんでもできちゃう。顔が非常に良い上に、なんでもできてしまうともはやこちらの立つ瀬がない、という感じもしてしまうわけだが、そもそも貴族の戯れを遠くから眺めているようなものなので、入り込む余地なんぞハナからないのであるが。アメリカで育ち、フランス語が話せ、しかもコロンビア大学ニューヨーク大学に通っている、と書くだけでもう参りましたと降参したいのに、イタリア語を1カ月チョコッとやって習得、と来るもんだから、お手上げ。ドイツ語までさらりと出てくる。とにかく器用。器用貧乏ならぬ器用富豪。*2

音楽を担当するのは、スフィアン・スティーヴンス。かねてからの大ファンなので、今作での抜擢は大喜び。どの曲もため息が出るほど美しく、幸福感に満ち満ちていながら、鬱鬱とした文学性もあり、彼のパーソナリティがそっくりそのまま映画に寄り添うような印象。もともと躁病のような、ケラケラ笑いながらほろほろ号泣するような、ピカソの『泣く女』のような、スフィアンの作家性はそのままエリオの過ごす夏の煌めきによりそう。相変わらずアレンジや音色の豊かさには惚れ惚れします*3

劇中のダンスシーンでかかるジョルジオ・モロダーインパクト抜群だが、冒頭での坂本龍一『M.A.Y. in the Backyard』にはさすがにギョッとさせられてしまった。不穏さがマックスで、この避暑地で殺人事件でも起こるのではないかとよからう推測が働いてしまったのが、安心ください、そんなことは一切起こらない

今作、ジャンル分けとして、BL映画*4に入れられる類のようだが、実はそうでもなく、前半はエリオとガールフレンドの恋を中心に描かれ、なんならガッツリとあんなことやこんなことをしているので、かなり濃厚なセックスシーン多め。エロいというか、アート性で誤魔化されているものの、相当生々しい部類だと思うので、カップルでご覧になられるなら特に鑑賞の際はご注意ください *5

しかし、『君の名前で僕を読んで』がBLとしてヌルいのかといえば、決してそんなことはない。僕はこれを発明的だと思ったのだが、エリオがアーミー・ハマー演じるオリバーのギリシア彫刻のような肢体を忘れられず、桃に己の陰茎を突っ込み、悶々とした性欲をぶつけ、それを(最悪なことに)オリバーに見つかってしまう、という爆笑必至のシーン。思春期あるあるなのかは分からないが、ああいうことって世界中どこでもやるヤツいるんだな、と性への飽くなき探求心を感じた。伊丹十三タンポポ』でも桃に指を突き刺し、中から汁をじんわり出すエロティックな場面があったが、そちらよりも牡蠣に一日を舐め挙げる役所広司の方が近いフェチズムがある。食欲も性欲も突き詰めれば「生」に繋がりますからね。直接肉体と肉体で交わりあう以上に、桃に吐き出した相手の白濁を果実ごと齧り体内に受け入れるという行為は濃厚なエロスがある。

あと超絶美少年エリオ君ですが、パンツをクンカクンカしたり、あまつさえ頭からかぶっちゃうんですから、盛りまくりも良いところでございます。

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映画史に残る桃TENGAシーン、劇場では大爆笑に包まれておりましたが、表現としてはこれ映像にしちゃうか、という生々しさがありました

(ここから下では、物語の結末部分に触れているので、俗にいう「ネタバレ」がなされています。それゆえ、ネタバレを避けたい方は、お読みになるのを後回しにされるとよろしいかと思われます。とはいえ、決して、それを知ったからといって、物語の深みや面白味は損なわれませんが、ただ、どんなコンテンツでも何の前情報もなしに見るというのが基本的には一番だとは思いますので、そういう先駆け的な行為がどうしても性に合わない方は、やはり、先に映画本編を見て頂くほかはありません)

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見終わり、何が特に良かったか考えると、やはり主人公エリオの父親であるマイケル・スタールバーグと母親のアミラ・カサールのパールマン夫婦の存在なのだろう。

この映画、おもしろいことに、エリオという少年が恋に身を焦がす姿を描きながら、彼のこころとは離れたところにカメラがある。彼の歓びや痛みには表面上さらりと触れる程度で、ズイズイと見る者に感情移入させまいと一線引いたところに視点がある。エリオに自らを語らせることをせずに、その脇にいる父母の目線に我々観客を寄せる。

しかも、その両親はというと、決して彼らの子意地に足を踏み入れる野暮はせず、ひたすら見つめ、受容する。グザヴィエ・ドラン『トム・アット・ザ・ファーム』のような父性的な暴力性はない。エイズの前に時代を置いたこともポイントだろうか。同性愛映画ではステレオタイプ化してきた「ゲイに眉を顰める保守的な両親」といった存在はここでは排除されており、今以上に同性愛がファンタジーであったであろう偏見がはびこっていた時代では考えられないような実に感動的なスピーチが行われる。胸の痛みや悲しさは張り裂けるような痛みだが、人を殺すことはない。

ただ、数回見ると、実はこのスピーチは要らなかったのでは、という疑問が湧いてくる。確かに、観客の色眼鏡を外してくれる、すごく大切な役割で、ここで見る者はエリオ通りバーを詰めるこの映画の視点の正体に気付き、この人の言葉で今作が性差を超えた「愛すること」そして「受け入れること」について真摯でピュアな恋愛映画なんだと知る。しかし、この映画の肝心な部分はそこのみにあるのではないように思えた。

というのも、マイケル・スタールバーグが語らずとも、この二人の結末は明らかに提示されているのだ。それは途中、家を訪ねるゲイの老カップ*6だ。彼らはつまり未来のオリヴァーとエリオの姿そのものであることは明らかなので、痛みを受け入れることの大切さを語らずとも、あの二人が現れた時点でもう一つの悲しみが訪れることは提示され、そしてその先のどこで結ばれ合うことが暗示されている。と解釈できなくもない。

それまでは雲上人の優雅な遊びを傍から見物するようなカメラが、最後の最後にオリヴァーから結婚したという報告を受け、暖炉の前ですすり泣くエリオにすり寄り、彼以外の世界が一気に遠ざかる。そこでかかるのはスフィアン・スティーヴンス作曲の『ギデオンの視線』。ここで見る者は、ようやく彼の失恋を追体験でき、そしてもう一度あの夏の日々を回顧したときにまた別の熟れた果実の瑞々しい甘酸っぱさが舌を刺激するのだ。

恋は、甘く酸っぱいなんてのは炭酸飲料水のコマーシャルのようでベタだが、この映画で執拗に桃がモチーフなのもそういった意図があったのかもしれない。

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「君の名前で僕を呼んで」オリジナル・サウンドトラック

「君の名前で僕を呼んで」オリジナル・サウンドトラック

 


Sufjan Stevens - Mystery of Love (From "Call Me By Your Name" Soundtrack)

www.youtube.com

 

おしまい 

*1:なんでそんなに肌を焼くの、と聞くと「そりゃモテたいやん」というこれ以上にないシンプルな答えが返ってきました

*2:相手役のアーミー・ハマーもやんごとなき出自の御方なのだが、こちらはすでに周知の情報かもしれないので省きます。気になった人はググって

*3:名盤『キャリー&ローウェル』『イリノイ』と出すアルバムどれも名盤ですが、ここは敢えてこの狂気に満ちたクリスマスアルバムを http://amzn.asia/dgPBuP0 

*4:LGBTものというべきでしょうか

*5:ところで、セックスシーンで大胆な脱ぎっぷりを見せたエステール・ガレルのヌード、こちらとしては思いきっりタイプの顔なので、美青年と美少年のイチャコラに加えこんなものまで見れるのか、と得した感じがあったのだが、肝心の男の方の脱ぎが女性に比べるとヌルかったので、これは「脱ぎ損」というヤツなのでは、とひっかかってしまった。契約にかかわる諸々の事情があったらしいけれども。

*6:原作者アンドレ・アシマンと製作者ピーター・スピアーズ

マジカルで鮮やかな色した景色の中で走りぬける子供たち『フロリダ・プロジェクト』

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僕がいる街は、大都市とはいえなくとも、程よく自然(厳密に定義された「自然」とはまた異なる)があり、そこそこに観光でにぎわっていたり、清潔な住宅街があったり、大学があったり、物騒な情勢にしては治安も良い。しかし、もちろん、社会というものがある限り、貧富の差というものが影を落とし、少し離れて目を凝らすと、とても楽観視できないような現実が見えてくる。少し人気のないところに行くと、時折子どもがチップや僕が手に持つスマートフォンをねだってくる。町の中央にある駅に降りれば、みすぼらしい格好で歯が抜けて目も虚ろな(おろらくヤク中だろう)女性が、「コーヒー一緒に飲まない」とそれしか言うことがないのかというような、決まり文句でお金を恵んでもらおう(まあ毟り取ろうというか)と縋りに来る。無論、そんなものに構ってしまうわけもなく、目も合わせず通り過ぎるのだが、やはりどこか心苦しいものも感じ、そういう感情になっている自分が見え透いた聖人気取りの偽善者のように思え、また空しくなる。街を歩いてウィンドウショッピングなんぞしていたら、ボロボロのブランケットに身を包んで寒さに凍えたながら、どこの国の歌なのかよくわからない歌を歌い、なんとか神(いるのかいないとかではなく)に縋ろうと毎日の習慣のように天を仰ぐ人々がぽつぽつといる。警察に囲まれ、尋問されているのをこっそり聞くと、不法就労かどうかで問われていたり。人が忙しなく行き交う裏で、そうして苦しい生活が淡々と進んでいく。

同様の感覚は、日本でも味わったことはある。例えば、自分は祖父母の墓参りに決まった時期になると京都市内へ行くことがあるのだが、車で帰るときに、よく。もちろん、彼らの日常を不幸せだとか我々が断定できることもできないし、そんなものは不遜以外の何でもない。ただ、やはり、あのどこかの楽園のような描かれ方をしていることから、そう離れちない場所にある、そうした風景を見ると、どこ痛ましい気持ちにもなって、またそこで自分の偽善的感情にうんざりするのである。

まあここまで歴然と目に見えるような貧困でなくとも、至る所に、格差というものは存在し、社会というものが持続している間は、どうしてもそういった辛い現実は生まれてしまうものだ。今最も世界で危うい均衡を保っている国であるアメリカはフロリダ州にも、当然ながら格差というものがあるらしい。パブリックなイメージとしては、青い海に、だだっ広いビーチ、といったものが見識の狭い時分のような人間でもパッと浮かんでくるものだが、現実はやはり太陽カンカン照りということもないらしい。2016年にナイトクラブで起こった悲惨な銃乱射事件に、2018年にも高校で乱射事件が起こり、17人の命を奪った。このままいくと、しばし銃規制云々の方に話が伸びてしまいそうなので、打ち止めにするとして、煌びやかに富裕層が反対に、やりきれない現実というものが存在する。そしてもっと悲惨なことは、「楽園」に住む人間は、その中から見える外の景色には微塵も関心がないのだ、という現実。

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さて、いつものようにくだらない(いや、くだらなくはないのだが)前置きがまたズルズルと長引いてしまったが、そういった現実のあれこれがぼんやりと観賞後に浮かんでくるような映画『カリフォルニア・プロジェクト』。

舞台はディズニーワールドのモーテルの近く。スポットが当たるのは、そこでその日暮らしを営むシングルマザーのヘイリー(ブリア・ビネイト)と娘のムーニー(ブルックリン・キンバリー・プリンス)。安モーテルの管理人ボビー(ウィレム・デフォー)は子どもたちの悪戯を優しい目で見守る。ヘイリーは仕事を解雇され、モーテルの家賃もロクに払えないので、子どもたちはたくましく、そして楽しそうに、釣銭を貰いにいったりご飯を恵んでもらったりする。しかし、そんな日常は、ムーニーとヘイリーの起こした事件によって崩れていく。

終始、子供が気まぐれに絵具で塗りたくった絵のような、パステルカラーの映像に見惚れてしまうが、そこに影を落とす売春や貧困は暗い。表面的な色彩の鮮やかさによって、よりその表層性にある種の薄気味悪さのようなものが加わる。間接的なアプローチにより鮮明に映し出される現実、というものはウェス・アンダーソンが『グランド・ブダペスト・ホテル』でも行っていたことだが、生々しさの度合いではこちらの方が数段上である。明るい「夢の国」をうたう一方で、差別をはじめとした現実の問題を炙りだす近年のディズニーの『ズートピア』のアプローチとも実に似通っている。陥った状況は大きく異なるが、同様のシングルマザーが直面する厳しい現実を描いた『ルーム』とは比較すると面白い。

(ちなみにディズニーはこの貧困問題に対して、基金に50万ドルの寄付をしたようなので、この問題はもはや企業レベルでどうにもならない域にあるのかもしれない)

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子どもの視点で映画を進めていくために、子役の演技がとても的確に、そしていやらしくなく見せていたのだが、ショーン・ベイカー監督はやはりというべきなのか、きちんと是枝裕和『誰も知らない』を事前に見返したらしい。信頼できる。もちろん、ブルックリン・キンバリー・プリンスちゃんの演技が上手なのも一役買っている。しかし、そこに頼り切らずにあるがままの子供本来の姿を作りだすことに成功している。

子供たちの悪戯は微笑ましいものの割と容赦がなく、言葉遣いは粗雑。その粗雑さゆえに、彼らがおかれてしまっている抜け出せない貧困の沼の深さ、ひいてはそこから垣間見えるピュアネスが捕まえる大人たちの悲しみまでもが浮き彫りになる。

すぐ近くにはディズニーの夢の国が見えるのだが、彼女たちを囲うありふれた日常も「子どもの視点」によって均一化され、豊かでミラクルな世界なのであることに気付かされるのである。

母親役の俳優さん、聞くところによると、演技素人のインスタグラマーなのだそうだが、未経験とは思えないし、とてもシングルマザーとしてリアリティがある。キャスティングが実に慧眼。下手に肌がキレイで金のかかってそうな綺麗な女優(そう思うと『ルーム』のブリー・ラーソンの身をやつすような気合いはとても素晴らしかった)を使うよりも生々しい。描きようによっては、ただただ怠惰でダメな母親にも映りそうだが、そうはせずに、子どものまま身体だけが大人になってしまった大人が、貧困に抗っていかなければいけないという厳しさを、視点が子供だけに偏ることなく丁寧に捉えている。ムーニーのことを愛していて、だから身体を売らなければいけないと決断する夕暮れに胸が痛む。

ウィレム・デフォーの瞳もとても素晴らしい。語らずとも滲み出る人情味。キャリア史上最高の演技、という前評判に見合う名演を見せつけてくれた。ただ怒鳴るだけじゃいけない。しっかりと子供を見守ることの大切さに気付かされる。彼の存在はこの映画においてクッションのような役割を果たしている。

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「フロリダ・プロジェクト」を見たときの既視感が引っ掛かったのだけれど、長谷川町蔵氏のツイートでNHKドキュメント72時間」と表現されていて、非常にスッキリした。川栄李奈鈴木杏のナレーションが聞こえてきてもおかしくないくらいである。

しかし今作には、ナレーションも余計な会話も必要ない。そうした歪んだ生活を、無駄な言葉で装飾せず、きれいなパステルカラーで訴えかける。子どもの視点で見える「小さな世界」は、想像力に満ち満ちていて、まさしく「夢の国」そのもの。それでも、その無垢で純粋な視点だからこそ、その外に見える抜け出すことが許されないグロテスクな貧困が生々しい。

(それにしてもこの作品がアカデミー賞が選ばれなかったことにスノッブの考えがわからない、と述べたそうだが、ごもっともだ。 嘆かわしい限りである)

この映画は、「夢の国」にいる我々を含めたおとぎ話の国の人々に、同じこの世界に住む人々の存在を突きつける、重要な一作なのである。彼らは決して隠れているのではなく、目を向けていなかったにすぎないのだ。

ラストの演出をどうとらえるべきか。おそらく「よくわからない」というただの受け取り手のリテラシー不足・タイマンのような感想を抱く人もいるのだろうが、それではいけないのだ。本編が終わった後の世界は、そのまま地続きに今いる現実に繋がっている。目をそらしてはいけない。理解できない、では済まされないのだ。理解しようとする、その姿勢こそがショーン・ベイカー監督が今作で促そうとするものであるはずなのだ。語らずとも、すべてこの映画で語られている。

子供映画としても、ヤングアダルトものとしても、秀逸で、こんなポップでありながらリアリスティックなアート映画はこれまで見たことがなかった。夢の国にいるだけでは見えないエトセトラに目を向ける誰にでも優しい傑作。

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おしまい

いつもポケットにハンカチを(ナンシー・マイヤーズ『マイ・インターン』)

人間というヤツの性質は、どうやらそう変わることはないらしい。よく「歳を取ると頑固になる」なんてのを聞くが、そんなことはないなずなのだ。今現在、口から唾を飛ばしながら、どうでもいいことにイチャモンをつけているような老人は、決して痴呆のせいではなく、元から彼(あるいは彼女)が、短気で怒りっぽい人間だっただけに過ぎない。逆に、歳を取っても、機知に富んでいる人は、若い頃からしっかりと物事によく目を凝らし、熟慮し判断を重ねてきた、賢明さがもたらしたものである。そう簡単に変われたら、誰も苦労しない。そんなことを考えながら、時たま、「無駄にこだわりだけが強い可愛げの欠片もないクソジジイ」として、周りから忌み嫌われる老後の己の姿を想像しては、ぞっとしてしまう。下手なホラーよりも肝が冷える話だ。

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世の中には「お仕事映画」なるジャンルがある。最近のものだと、『シェフ (ジョン・ファヴロー監督)』や『バクマン。(大根仁監督)』など良作は多い。そんな豊かで共感度の高いジャンルの中でも、屈指の良作だと確信しているのが、2015年公開『マイ・インターン』。主演は、これまでにこやかな笑顔と共に、数多の人間を葬ってきたロバート・デ・ニーロと、『プラダを着た悪魔(個人的には嫌いな部類の作品だが)』『レ・ミゼラブル』のアン・ハサウェイ。監督・脚本には『恋愛適齢期(これも良作なので是非)』のナンシー・マイヤーズ。もうこの時点で十分に盤石ではある。

(ただ、なぜか今作のロッテントマトの点が低く、こういう時ほど批評家ってアテにならないな、とは常々思う。特に『最後のジェダイ』がいい例だ)

恋愛適齢期(字幕版)

恋愛適齢期(字幕版)

 

デ・ニーロが、妻を失い、生きがいを求め、インターンに応募する70歳の老紳士ベン。ハサウェイが、イケイケバリバリに、ファッション通販サイトを経営する女社長ジュールズ。となれば、あらかたの人が「古臭い爺さんが、現代の女社長に振り回されつつ、なんか温かい心の交流的なアレで、ちょっとしたラブロマンスとかしちゃって、最終的に説教臭くなるヤツなんちゃいますの?」なんて邪推が働きそうだが、ところがどっこい、そんな安易なことはさせない。だって脚本がナンシー・マイヤーズですよ。見慣れすぎて欠伸が出そうな「若者vs老人」の衝突なんてやらない。そんな臭いドラマを用いなくても、しっかりとした脚本と演出があれば、スマートな映画になるのである。

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「お仕事映画」だから、まず最低限として、「お仕事」の光景を、魅力的な映像でシンプルに発信しなければいけないのだが、この映画のそれは非常にスムーズで、明快だ。冒頭、デスクで電話対応するアン・ハサウェイの社長が、次の仕事のスケジュールを確認しながら自転車に乗り、そこについていくと、社内で行われるアットホームなパーティーの様子や散乱するデスクの惨状、という会社の雰囲気と問題点がサラッと明らかになり、シーンを跨いでカメラが到着するのは、別の撮影場で、インターンのことを告げられる。この一連の流れで、もう映画として良いことが明白で、軽い気持ちで見れないぞ、と気持ちも引き締まる。主役二人以外の脇に映る、作品の筋とは関係のない人たちの「仕事」もしっかりと丁寧な撮り方で見せているのも、この映画の美点と言っていい(髭を剃る理容室ひとつとってもそうだ)。

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世代間のギャップ描写も使い古された、しょうもない衝突を使わずに、ちゃんと小道具で表現し、尚且つその人柄も説明する。それだけでなく、その世代間ギャップを感じさせるFacebookを、意思疎通のツールとして機能させるスマートさ。

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インターンとして合格し、席に付いたデ・ニーロが取り出したのは、道具の数々で、これまでの勤勉な仕事ぶりを窺わせる。彼がただ時代に乗り遅れているわけではない、という証左として、よく見かけるステレオタイプな「パソコンのキーボードが打てない」なんて陳腐な表現も廃していることにも注目していただきたい。ここまでで、彼がどれだけ柔軟にこれまでの会社に務めてきたのか、明白だ。さらに、

「ハンカチって意味ある?」

「女性が泣いたときのため」

という受け答えだって、普通ならば、なんだかスケベだなあ、と思ってしまうわけだが、ここまでの彼の人となりの説明によって、スキのない気転の利いた返答であることがわかる。ベンが「仕事」に真摯な人間である上に、紳士としての引きの巧みさも加わり、老獪で思慮深く、前に出過ぎず、常に全体を見まわす人物であることを、押しつけがましさなしに教えてくれる。誰かがやってほしいことを察して、全て先回りで率先して行う、という途轍もなくすごいことを、表面上何のそぶりも見せずに、当たり前のようにさらりとこなす。これはそのまま「一見どこにでもいそうな洞察力に満ちた老紳士」という姿を、佇まいだけで表現する老獪なロバート・デ・ニーロの演技にそのまま直結しているのかもしれない。そして、それらを余計な演出を一切使わずに、ミニマムにさらりと見せる監督の手腕。「サヨナラ」という茶目っ気のある挨拶だって、なんというかあざといくらいに目ざとい。

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アン・ハサウェイの社長像も新鮮で、彼女がステレオタイプな高圧的で嫌味な人間のようにはキャラ付けせず、自分で電話対応もし、どんな仕事相手にもポジティブさを失わない熱心さを見せ、その裏で1人の人間としても苦悩している(ママ友という社会は歪で面倒である)のも臆面なく見せてしまう。ただ、今作それら以外にはどうしても引っかかり、「単純にこの人スケジュール管理がド下手なのでは」という社長としては圧倒的にダメダメな部分が目に余ってしまうのは否めず、今後が心配になってしまうところではあった。

彼女のチャームとして「笑顔」が挙げられるのだが、今作はその「笑顔」の使い分けが実に巧みで、それを自然とリラックスして、自由自在にこなしている様子から、伸び伸びと演技できていることもわかる。作中での夫婦問題は意外にあっさり完結してしまったように思えたが、あれ以上やるとジメジメしてしまうから、これくらいがよかったのかもしれない。まあ、社長がダメダメなのも、華麗なデ・ニーロを光らせる小道具と思えば、そこまで気にはならない。

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あと、この映画、シンプルに発話が素晴らしく、聞き取りやすい。スピードには緩急もありながら、「英会話の勉強にうってつけ!」なんて看板を飾りたいほどに教科書的で、耳に滑らかに入ってくる。聞いているだけで、心地がいい会話というのは、これ結構難しいので、参考になるんじゃないだろうか。オールドスクール(デ・ニーロのスーツのように)なんだけど、肩肘張らないで、くつろげる空間も確保されている。脚本ももちろんこれに貢献しているのだが、やはり主演二人の演技による賜物であることには違いない。アダム・ディヴァインのアクセントも個人的にはかなりフェチだ。

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目を凝らすと、色々なところに映画を形作るエッセンスがちりばめられていて、わかりやすいようで、実はすごく細かい「目配せ」の映画なのだ。それでいて、誰が見ても簡潔で、共感しやすく、視覚的に気持ちがいい。

現実にはこんなことあり得ない、と思う方も大勢いるだろうが、そこを「現実でもこういうあるべき姿にしていこう」という風になれたら、きっと世界はちょっとはマシになるのかもしれない。もちろん、そんなにすべてが上手く事が運ぶはずもないのだが。手始めにハンカチを持つことから始めてみてはどうだろう。


映画『マイ・インターン』予告編(120秒)【HD】2015年10月10日公開

 

 おしまい

 

Netflixで「どれから見ればいいのかしら?」と迷ったときの処方箋

もう既に各所で「Netflixなら○○がオススメ!」というのを見かけまくって、ウンザリしておられる方も、きっと多いことでしょうが(自分もわざわざそんなものは見ないし)、とはいえ、普段の会話で、比較的ストリーミングサービスに馴染みのない方から、「ヘイ、ユーはどんなの見てるんだい?」と聞かれることも少なくなく、憚りながらも自分のフェイバリットをレコメンドさせていただく機会が度々あるので、それならばもういっそまとめちゃいえばよかろう、と今回のまとめのような記事を書かせていただく次第でございます。「もう、そんなビギナー向けのナメたのはごめんだね」という方には既視感バリバリの見慣れまくったものになっていると思うので、他のブログ同様に筆者の自己満足的なモノと思っていただいて、サクッと読み飛ばしてもらえれば幸いです。

(尚、日々様々な良作が生まれているNetflixさんでございますから、随時更新していく予定です。あと、『ファーゴ』『ブルックリン99』『アメリカン・ホラー・ストーリー』など、見ていただきたいものはあるのですが、今記事ではオリジナルコンテンツ限定とさせていただきます)

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悪魔城ドラキュラ』もグラフィックが堪んないですよ

ドラマ篇

『私立探偵ダーク・ジェントリー』

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騙されたと思って、S1の3話くらいまで試しに見てください。で、騙された、と思ったら、そこでやめていただいて、なんだか気になるぞ、と思えば、そのままラストまで突っ走るのみです。多分後者なら、間違いなくその時点で、あなたはこの作品の虜となっていることでしょう。原題に『全体論的探偵事務所 』とあるように、一つの手がかりからどんどん追っていく、などという従来の探偵像はここになく、「すべての出来事は繋がっている」と、行き当たりばったりなのかなんだかよくわからない感じで、主人公ダークに振り回されるばかりの、我々視聴者とイライジャ・ウッド。終始一貫して、ダークがウザいです。でも、なんだか憎めない。というか、出てくる登場人物みんな愉快でかわいげのある。なんて思ってたら、あれよあれよと、これまでの不可思議な現象が一本の線に集約されて、とんでもないとこに着地する、なんともジャンル分け不可能な作品でございます。

 

『このサイテーな世界の終わり』

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サイコパスの少年と、人生のすべてを変えたい少女が思いついたロードトリップ。けど、その道程は、思った以上に山あり谷ありで…。漫画が原作のブラックコメディ」という、公式の紹介文丸々抜き出した紹介文だけでも、説明十分なくらいなんですけど、これがもう個人的にはピカイチの大当たりで、近いうちにでも記事にまとめたいと思っております。20分が8話なんで、ちょっと時間的な物足りなさを感じなくもないですが、久しぶりにグッと来たロードムービーでございました。浅はかで、愚かで、短絡的な、若さあふれる青春ものという、筆者の大好物なのです…………ただのフェチなんですが。アレックス・ロウザーの虚無感が良いです。顔の良い男子に虚無を見出したいんですよ。

 

『ザ・クラウン』

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薄い感想ですが、まあお金かかってますよね。お金かかってる上に、1話1話が重たすぎる。うっかり流し見なんてできないので、困ったものです。とてつもなく濃厚な人間ドラマでございます。正直こちらはビンジウォッチングには不向きなので、週一ペースで大河ドラマを見るくらいの気持ちで臨んでいただけたら、よいのではと。結構赤裸々で「こんなことやってもいいの?」という感じの描写が多々ありますが、91歳のエリザベス女王もお気に召されているようで、英国の芸能への懐の深さを感じます。マーガレット王女にヴァネッサ・カービーというキャスティングが見事すぎますよね。

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映画篇

『マッドバウンド』

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こちらも近いうちにまとめたいです。「傑作」と呼んでも差し支えないです。黒人差別を描いた作品は数あれど、こんな表現手法は見たことがありませんでした。ミシシッピの泥臭い農園を舞台に、白人の無意識の差別を描きながら、同時に黒人による黒人の立場も炙りだす、という何とも身も蓋もない現実がそこにはあり、叶わぬ友情に泣きました。メアリー・J.ブライジの好演も必見です。

 

『この世に私の居場所なんてない』

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『ダーク・ジェントリー』に続き、イライジャ・ウッドくん出演です。いるだけでも、安心感があります。ダメ人間が似合う。迂闊な人々が引き起こす、トンデモ珍事はまるで『ファーゴ』のようです。小さな犯罪から、現実の世界のひずみを浮かび上がらせる手口なんかはまさしく。タイトルがドン臭い感じで嫌厭されそうですが、見逃し厳禁の一作となっております。90分程度の尺で、タイトに引き締まった脚本が魅力的で、クライマックスで見せるあの神がかり的なテンポの良さは芸術の域。

 

『スペクトル』     

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ガジェットがめちゃくちゃカッコいいし(SFとしてはまず大事)、幽霊の新解釈にも感心しきりでした。オリジナル作品で、このクオリティを維持できるって、恐ろしい時代ですよ。ちゃんとこちらの予想を覆すようなプロットも面白いし、物語運びそのものはアッサリしているので好感が持てました。

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ドキュメンタリー篇

実は、Netflixで一番見てほしいのは、ドキュメンタリーだったりするのですが、ちょっと手を出しにくいジャンルだな、という方もいらっしゃるはずなので、ピックアップしてお送りします。これ以外も、どれも高水準のもので、これからますますドキュメンタリー作品のプラットフォームとしても、市場を広げていくのでは、という充実っぷりです。

 

『イカロス』

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薬物検査の有効性を実証するべく、自らドーピングしてロードレースに参加するという計画から、自体が思わぬ方向へと動いていき、国家ぐるみのドープング不正を暴いていく、というドキュメンタリー。関わったのがWADAのラボの所長だったせいで、事態が全く様相を変え「偶然撮れてしまったヤバい映像」感が孕んでいくこのドキュメンタリーの醍醐味には、ゾクゾクしました。太陽に手を伸ばしすぎたあまり、偽りのロウの翼が溶けて落ちるワケですね。いやあ、ホント大変だったと思いますよ。スタッフめっちゃ怖かっただろうな、という緊張感が走る怒涛の後半、見ているこちらがビビってしまいます。この作品を見てしまうと、プーチンをネタになんかできなくなりますからね。

 

『ホットガールズ・ウォンテッド』

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アメリカのポルノ業界の悲惨さを赤裸々に綴ったドキュメンタリー。AV女優の裏側に迫った内容が主なのだが、そこで繰り広げられる虚無な日々が切ないやら。お金も稼げて、セックスで有名になれて、なんて甘い話あるワケはなく、なんとも苦しい現実。当たり前のように消費されて、捨てられる悲惨さ。『~オンライン・ラヴ』という後続シリーズも面白いので、そちらも。

 

『シェフのテーブル』

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この手のドキュメンタリー、芸術の方に走りすぎて、食がおろそかになっているような感じがして、苦手な人もいると思うのですが、 このシリーズはちゃんと「食べること」の大切さを教えてくれたりします。シーズン3の韓国の尼僧、チョン・クワンさんのエピソードがとても、生き方としてビューティフルでした。悟りの感覚、学びたいものです。あと同シーズンの3話目もオススメ。

 

と、まあまだまだ取り上げたいヤツがあるのですが、あくまで〈初級編〉的な位置付けなので、あまり深掘りするのは野暮ですし、各々が気に入ったものを見つければいいと思います。ビバ、ストリーミング引きこもりライフ!

誰がために人は泣くのか(湯浅政明『DEVILMAN crybaby』)

デビルマン」を信じることはできませんか?

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永井豪という漫画家で、最初に頭に浮かぶ作品といえばなんだろう。男子のスケベ心を鷲掴みにした『キューティーハニー』だろうか。それともフィギュアで遊んだ方も多い『マジンガーZ』だろうか。しかし、それ以上に、もっと強烈な個性を放ち、未だに語られながらもオリジナリティは廃れず、後々に続いていく様々な傑作に、そのDNAが脈々と受け継がれていった作品がある。それが『デビルマン』だ。

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といっても、自分にとって、『デビルマン』は前に挙げた2作と違って、不勉強ながら、あの伝説的な駄作として悪名高い実写版*1、有名な「外道!貴様らこそ悪魔だ!」という名言、ヒロインの絶望的な末路、など、さして情報がなく、非常に頼りない断片的な知識量で、とてもファンとは名乗れないレベルなのだが、それでも度々アニメや漫画を読んでいると「あー、これは『デビルマン』だなー」とニヤニヤすることが多々あり、それほどまでに日本のカルチャーに深く根付いて継承されている作品と呼べるのではないだろうか。先の広告が問題に放っているものの、思いつくだけでも『寄生獣』『うしおととら』『ZETMAN』『化物語』などが挙げられ、これらが実際に影響下にあったかどうかはさておき、類似したテーマ・設定のフォロワーが数多く存在する、古典的名作という位置付けには異論はないはずである。

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そんな作品を、"あの"湯浅政明がリメイクするのだから、これは大事件。『マインド・ゲーム』『夜明け告げるルーのうた』とポップなイメージの作家なので、一見ギャップがあるのだが、実はその中に常に純度の高い暴力性が潜んでいるのは作品を見たことのある人なら、ご存知のはずで、この情報が発表されたときは「その手があったか!」とポンと手を叩いてしまった。

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そして、いざ蓋を開けてみると、湯浅作品史上、かつてないほどに残虐で、容赦のない剥き出しのエログロヴァイオレンス劇が繰り広げられており、血に飢えた視聴者たちの喉を潤すには、十分なクオリティになっていたのだ。大正解の起用である。

永井豪の諸作のようなゴツゴツした絵面こそは、削ぎ落とされているが、自分のような一丁噛みの人間でも、監督のそこはかとない巨匠の原典『デビルマン』への愛情が感じ取れる出来で、その上、湯浅作品特有の物理法則を無視した、縦横無尽な画の躍動が生かされており、どちらのファンにも旨味のある内容であった。

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不動明飛鳥了という、コインの表と裏のようなキャラの対比がユニークだ。BL臭すらある。人の悲しみを受け入れ、泣くことができる主人公と、目的のためなら、人を殺すことに躊躇の欠片もない、わかりやすいほどのサイコパス飛鳥了(その一方で明が第一という純情っぷりもミソ)。ヒロインである美樹は、アニメ史上と言っても異論がないほどに可愛く、血みどろの惨劇の中で燦然と輝く一輪の花のような美しさを放っていた。こんなにヒロイン然としているなら、花澤香菜の方がいいのでは、とも思えたが、最後の最後で潘めぐみがキャスティングされた意義が理解できた。あの断末魔こそ「トラウマ級衝撃」と言っていいだろう。彼女を待ち受ける運命の非情さには、胸が痛んだ。裏ヒロインのミーコというキャラクター像も、非常に面白く、おしとやかに見え、性に意外と奔放だったり、押し隠してきた本当の気持ちが爆発する9話は、今作のテーマである「人は脆く弱い。でも、時として愛おしい存在でもある」という、唯一の救いを見せてくれて素晴らしかった(ただ一点、そこで人を殺めちゃうの、というのがあり、いただけなかったのだが)。陸上部に所属している、という、設定も、悪魔と人間の走り方の差異や、バトンを繋ぐ/繋げないというクライマックスの展開に作用していた。

七尾旅人のエンディングソングが

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今作は「デビルマンというアニメがあった世界」の物語だという点で、我々の現実と延長線上にある。類似の試みは『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』でなされており、あの映画の中では、現実のアニメが主人公にヒーローとしての自覚を芽生えさせる装置として機能している。『LOGAN』では、アメリカンコミックに載ったXメンの姿を見て、「こんなものは作り話だ」と当事者のウルヴァリンに否定させている。『デビルマンcrybaby』では、もう少し、その設定を盛り込んで、物語を動かしてほしかった気はするものの、ネット社会(凡庸表現)と『デビルマン』が同一線上にある、という描き方は、古典を現代に「リブート」させる手段として、有効であったように思う。

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全体の作品の欠点としては、無理に30分の枠に納めなくても、配信なんだから、もう少しスピードが落ちない程度に、シーンの間の説明があった方がいいのでは、という唐突さや、いい加減見飽きた陳腐化してきているクドいSNS描写、毎話冒頭に流れるラップシーンなど、力技すぎるというか、ちょっと強引で噛みあっていないな、と思うものも随所に伺えだ。もっと過激に飛ばして、マジに視聴者を凍り付かせて、トラウマを植え付けるくらいの、ブレーキの壊れ具合でもよかったようにも思える。

それでも、ネット配信という場を活かし、10話休ませる暇もないスピードを保ちながら、純粋な暴力的な画としての魔力が否応なしに増幅されており、生理的嫌悪感を感じさせる場面もしっかり用意され、劇画調なセリフもグッと心に響く映像の圧、そして『ルーのうた』でも見られた「人間になりきれない者たちの悲哀」が滲み出ていて、もうこれ以上の「リブート」は不可能なのでは、という湯浅政明の完全燃焼っぷりには頭が上がらない。拒絶されることが前提にある「悪魔」という存在の虚しさにも、愛着を注いで、本来なら目立たないところにいたはずの人間が、己で決意し、たとえその結果が報われなくとも、想いを爆発させる、というのも実に湯川作品らしい。悪魔であるが故に高貴で誇り高いシレーヌとカイムの最期は、バツグンに切ない、屈指のグッドエピソードだ。最後に全てが明かされ、独りぼっちになった広大な世界に泣いた。でも、ちゃんと救いもある。ただ不条理で終わらせないのも、監督の作品への思いやりなのでしょう。

過激で、見る者の胸を、業火で焼き尽くす、鬼才と天才の核反応は、とてつもない求心力を放っていた。

決して、「悪」を突き放さず、慈しみをもって、しっかりと愛で包み込む。

人が、人である所以とは、何なのか。「泣き虫」は誰のことだったのか。

本作は決して完璧な作品とは呼ばないかもしれない。人もかなり選ぶだろう。少々、説教臭すぎるようにも思う。沢山の色が塗りこめられすぎて、真っ黒になってしまった絵画のようでもある。しかし、その黒の下に眠る、まっすぐで切実な祈りはしっかり伝わってきた。 

ただの安易な「リメイク」ではないことは確かだ。必然的に現代にマグマの底から蘇った異形の呻きを、しかとご覧あれ。

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追記:見終わった後に「人間許さん!!」になるのは間違いなく、監督の現時点最高傑作『夜明け告げるルーのうた』と地続きにあるそちらをご覧いただいて、バランスを取られたらよろしいかと思います。同じNetflix作品なら、『悪魔城ドラキュラ』がオススメです。

*1:ずっとなんとなく三池崇史だと勘違いしていたのですが、那須博之なる人のモノだったようで、本当に申し訳ないです(笑) あそこら辺の時代の実写化って三池か紀里谷みたいなところあるじゃないですか…………言い訳が苦しいですね、ごめんなさい

唄うことは難しいことじゃない(湯浅政明『夜明け告げるルーのうた』)

さよならなんて云えないよ

出会いがあれば、別れがある。日が昇り続ける限り、自明なことであり、言葉にするのも陳腐だ。

もっと陳腐で、奥ゆかしいことに定評のある日本人ならば、口にするのも困難な言葉がある。それは「アイ・ラヴ・ユー」と「グッド・バイ」だ。このたった一言を告げることに、我々は、夏目漱石の時代から(もっと遡れば奈良時代くらいまでか?)、心を砕いてきた。本当のことなのに、ちゃんと伝わらないかもしれない。でも、口にしなければ伝わらない、もどかしい難しさ。素直に言えば、嘘くさいから、どれだけ回りくどくても「メロディ」に乗せることで、胸につかえる気持ちを吐き出してきたのだ。

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人生のどこかに訪れるグッドバイに、明るく手を振りながら、「アイ・ラヴ・ユー」を告げるのが、湯浅政明監督による金字塔的ジュブナイルが『夜明け告げるルーのうた』である。

(キャラクター原案がねむようこ、キャラデザ・作画監督が伊東伸高、共同脚本には吉田玲子、と最強の布陣なのである)

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どこを切り取ってもカワイイ、人魚のルー

あらすじは、感情を表に出すことを避けている、少年カイ(彼の趣味が動画サイトに自作の曲を投稿することで、使用する楽器がMPCの宅録ウクレレ、というのがいかにも現代的で、個人で完結しており、これだけで彼の心の閉ざし具合がわかる。かつての米津玄師のようである)が、ひょんなことから、歌うことが好きな人魚のルーと出会い、保守的な田舎町のいざこざや、人魚の伝説が絡み合っていき、次第にとんでもない事態を引き起こしていくという、ひと夏のSFボーイミーツガールだ。

(カイたちが組むことになるバンド「セイレーン」の由来でもある人魚伝承のある、山と海に挟まれた、日無の町の名物は、傘。この傘は日差しから守ってくれるバリアにもなり、人魚たちの居場所を作る道具にもなる、というのもよく考えられた、童話的な設定である)

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既に各所で指摘があるように、偶然だろうが『崖の上のポニョ』と類似したものとなっている。『パンダコパンダ』や『E.T.』が初見では脳裏に浮かんだ。当初、『ルーのうた』は人魚という設定ではなく、バンパイア(日光を浴びたら身体が燃え出したり、噛まれると人魚になっちゃったり)だったらしいのだが、これが今作のポップネスに大いに貢献しているのだろう。理解されたくても、異質さゆえに理解されず、人間にあこがれ続ける存在としての人魚。そんな人間になりたくてもなれない、不完全な魂たちが蠢く、海の中の黄泉の国。その海の底には、自分を二分する片割れのような存在が、時代を超え、失われたはずのピュアな愛と共に、宝箱のように眠っていて、その海が日無町を大きく包み込んでいく、という構造がとてもうまいことできている。本来ならば、無残にこの世から消えてしまう、保健所たちの犬が「犬魚」として、海に放たれ、永遠の命として泳ぎまわる、というのも、すごく救いのある世界観で、行き場を失った命にさえも、愛着の眼差しを向ける監督の優しさが胸に沁みた。寓話の魔法。

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『ポニョ』と大きく異なるのは、時折グロテスクさこそ姿を見せるものの、決して後味が悪くなく、サイダーをグイッと飲み干したような爽やかさがある、という点だろう。多幸感を舌の奥に残したまま、タップダンスでも踊りながら、劇場を後にしたくなる。そして、もう一つ、相違点を挙げるなら、この物語を単なるボーイミーツガール(響きがいいので反復させていただく)で終わらせず、干からびた日無の町の人々が、過去から愛を蘇らせ、潤いを取り戻す、いわば『あまちゃん』のような復興ものとして物語が成立しているというところであろうか。孤独な少年と異界の少女のミクロなときめきが、やがて町全体をマクロに包み込む、ダイナミックな展開になっている。吉田玲子脚本、ここにありといったところで、ブランコの場面は「やられた!」と、なぜかちょっと意味のないジェラシーを抱いたほど。「スマホ」という小道具が、後に寓話のギミックとして生かされるのもフレッシュだ。

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湯浅政明の特徴として、まるで心模様をそのままスケッチブックに書き写したような、この世ではあり得ぬグニャグニャのモーションで、自在にありとあらゆる森羅万象が平面のままメタモルフォーゼしていく描写がある。まさに水を得た魚のように、「海」をテーマに添えたことで、今作はそれがより一層ドラッギーな効果をもたらしており、リズミカルな音楽をバックに、映像がうねり、物語にグルーヴを育んでいく(浜辺で町民たちが踊り狂う場面は、これまでのアニメにはなかった視覚的な快楽がある)。下手すりゃ、作画崩壊ともいわれかねないような、監督の抽象的な線画での、表現力には毎度驚嘆するばかりだ。絵で感情の表面をなでるように、見る者の心をざわつかせる。グレートな手法である。

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オープニングの手拍子から始まる導入も音楽的で心地よく、ここだけで「おっ、音楽のセンスいいな」となるのだが、さらに着目したいのが両親の恋文のようなカセットの数々で、これが実にリアリティがある。RCサクセション奥田民生レディオヘッド、という、この統一感のなさが、なんだか背伸びした音楽少年のようで、甘酸っぱい。しかも、この時代の残骸たちがクライマックスのカタルシスに直結するというのだから、何重にも重なった時代のレイヤー構造も含め、やられた、という感じなのである。過去のファンタジーが、母屋にファンタジーのまま残っていたから、リアルを救済できる鍵となり得たのかもしれない。

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そのクライマックス、というのが、廃墟と化した「人魚ランド」で、カイがウクレレを片手に、あの年代にしか出せない声の絞り方で、不器用に掠れながら、拙く歌い上げる『歌うたいのバラッド』。ここで、海底から、街の人々の歴史が同時に迫ってきて、涙腺が物の見事に崩落してしまう(下田翔太君の徐々に気持ちが籠っていく歌唱がとにかく素晴らしいのだ)。

歌うことが好きなルーは、あっけらかんと、ポップに「すきーっ!」と叫ぶ。彼女の「すき」は、瞳に映るすべてへのアイラヴユーなのだ。そんな純粋無垢な姿を見て、まっすぐに想いを吐き出せたら、どれだけハッピーなのだろうか、と思ったりする。

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でも、そんなシャイで青臭い、僕らのような歌うたいたちは、それがやっぱりちょっぴり恥ずかしかったりする。だから、悲しみをバラッドに乗せて、最後に精一杯、やがて訪れる全ての別れに、2度と戻らないあの日に、新たな夜明けに、大きく手を振り、こう告げるのだ。

 「愛してる」

短いけれど、メロディに乗せれば、どんな想いも伝わるのかもしれない。


映画『夜明け告げるルーのうた』PV映像

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おしまい

ノア・バームバック 『マイヤーウィッツ家の人々 (改訂版) 』

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『カルテット』で、坂元裕二は夫婦のことを「別れることができる他人」だと、松たか子に語らせていたが、兄弟(便宜上、兄と弟と書いただけで、兄と妹でも、姉と弟でも構わない)ならば、彼は何と喩えるのだろうか。

 

人が生まれてから、一番最初に属するコミュニティは、紛れもなく「家族」だ。「自分」について語るとき、切っても切り離せないのが「家族」であることは、疑いようのない事実である(血縁上のものだけが「家族」ではなく、ありとあらゆる形の家族が遍在しているので、広義の意味で使わせていただいている)。そこで、どのような立ち位置にいて、どのように愛情を受けるか。もっと些細なことかもしれない。ありとあらゆる要因が「家族」における「自分」を形成していき、それは人によっては、大人になって1人になったときに精神的支柱となったり、或いは、厄介な呪縛になったりするのかもしれない。

もう少し、「家族」を解体して見たときに、「1人っ子」か「2人以上の兄弟」のどちらで育ってきたか、といった区分けができないだろうか。これはあくまでも、個人的な実感と、これまでの短い人生での観察結果に過ぎないのだが、兄弟の有無やその構成は、人格形成において、かなり影響を及ぼしているらしい(ここには、経済的な要因も大いに含まれてしまうのは、悲劇的事実である)。

僕も(自分の話になってしまうのは恐縮なのだが)、1人っ子の期間が長かった一方で、歳の離れた弟を持っている身として、兄弟の有無による、両親からの扱いの差、というモノは敏感に肌で感じたものだ。

他の家庭と同様、僕の親も、決して完璧な人間ではない(そんなものは幻想で、そもそも自分は愚息と呼称されるに相応しい、ダメダメな息子なので、親のことをそんな風に判別する資格を持ち合わせてはいないワケだが)。なので、腑に落ちないことは、大人になるまでに、沢山あったことにはあった。それでも、ありがたいことに、愛情をかけて、時には突き放して、大切に育ててくれたから、ダメ息子なりに一生をかけて恩返しをしなくちゃいけないな、と幼少期から回顧して思うことは暫しある。歳を取ったというヤツなのだろうか。今でも両親への感謝は絶えることはない。

ただ、中学年で、弟が生まれたことで、やはり「1人っ子」ではなくなったことへの寂しさは、思い返すとあったのかもしれない。いや、明確にあった。

弟ができるまでは、世間が想像するような、ザ・1人っ子ライフを満喫しており、両親の視線が目移りすることもなく、祖父母などの親戚に会えばしつこいほどに「カワイイカワイイ」と持て囃され、言ってみれば、温室にいる蝶のように重宝されていた。「初孫」というのも、特典ポイントとしてはかなり大きく作用していたはずだ。我が人生で、もうこれから老いぼれてくたばるまで、絶対に訪れることはないであろう、アイドル黄金時代である。

それがどうだ、弟ができた途端、全く状況が一変してしまう。父も母も、歳とってできた子ども、ということで、暇さえあればビデオを回し、親戚は一様に我が家のニューカマーに付きっきりになってしまった。俗にいう、アイドルからの転落期だ。友達作りもこの頃から下手くそで、内気で家で遊んでばっかの少年だったので、せいぜい飼っていた犬しか遊び相手はおらず、より一層本に逃げ込んでしまうものだが、それはまた別のお話。

1人っ子であったことは、孤独への間に合わせの耐性を生み、また、弟がいるという比較対象がいることは、小さなヒエラルキー社会での格差を生んでしまうことになる。思春期になると、1人で籠ることが増え、親に本心を打ち明けることもなくなって、幼いころから活発で運動神経もいい弟見ると、たまに小さなジェラシーを抱くようになったりした。親も、そんな息子だから、自立のための第一段階なのだと思って、放任的になっていった(これは後から直接聞いた話だ)。音楽の才能もある彼は、当然常に関心の的になって、親戚が集まると、何のとりえもない自分はいたたまれなくなって、1人で隅に座って、関心のないようにふるまっていた。でも、当然そんなことはなく、ただ単に心の底から、弟が羨ましかったのだ。与えられても、何も返せない、浪費するだけの情けない期待外れの自分とは違うことに。そうやって、1人っ子と兄弟持ちのハーフという、面倒でくだらない厄介な身の上のまま、中二病気取りの少年は、表層的に大人になっていったのであった。

一応、明記しておくが、別にそのことを未だに恨んでいるとかではなく、そんな家庭は誰にでも起こりうる自然なことで、単純に子供心に寂しかった、というただそれだけである。それに、弟がいてもいなくても、このまま寂しい少年期を過ごしていた気もするし、逆にこのまま1人っ子が長引くと、今以上にコミュニケーションに多大なる障害を抱くようになっていたのかもしれない。あと、僕にとって弟は歳の近い息子を見ている気分で、あまり「兄弟」という感じもせず、すごく仲良しであることも付け加えておく。

話が脱線してまったが、要は、自分を語る上では、どうしても「家族」というものは、不可避であるということが言いたかったのである。

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さて、ようやく本題に入るとして、これから紹介させていただく『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』も「家族」や「兄弟」のややこしさや面倒くささ、そして、それらへのほんの少しの肯定を描いた、素晴らしい家族の肖像をとらえた、とてもささやかな小品である。

監督は、ノア・バームバック。これまでの作品は『ベン・スティラー 人生は最悪だ』『フランシス・ハ』『ヤング・アダルト・ニューヨーク』と多作で、どれも高い評価を得てきている、有能な監督である。

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NYはマンハッタンに住む、彫刻家である父ハロルド(ダスティン・ホフマン)の回顧展のために集まった、疎遠だったマイヤーウィッツ家の3人の兄弟。長男のダニー(アダム・サンドラー)は、元はピアニストであったが、主夫として娘のイライザを育て、彼女の大学への進学を機に、離婚することになっている。長女のジーン(エリザベス・マーヴェル)は、会社勤めをしており、家庭内では存在感が希薄なことから、父には度々無視されてしまうことがある。次男のマシュー(ベン・スティラー)は、LAで暮らし、建築コンサルタントとして成功を飾っており、ダニーやジーンとは異母兄弟である。最も父の寵愛を受けたマシューであるが、芸術への道を歩まなかったことから、父へ負い目を感じており、ダニーとはどこか壁があって、どうやらわだかまりがあるようだ。

(継母役には、エマ・トンプソンと、これまた豪華すぎる役者が勢ぞろいである。ただでさえ地味な作品なのに。あのクソマズそうなサメのスープはエキセントリックすぎる笑)

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この父親が疫病神そのもので、過去の栄光に縋り続け、盟友を前にケチをつけずにはおられず、有名な女優(シガニー・ウィーバー!)に鼻の下を伸ばし、レストランでは隣のテーブルからワインを失敬する、トンデモっぷり。

こんな父親を持ったからには、まっすぐに育つはずもなく、癇癪を起したり、離婚したり、ジーンはさらに深い闇を抱えていたり…………3人兄弟はそれぞれに複雑な問題を抱えながら、家族の不和は、回顧展に向けて、あらぬ方向へ転がっていく。

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今作は、1人の身勝手でモラルが欠如した(あんな父親は勘弁である)頑固な芸術家の父に振り回されて、大人になった3人が、再び集ったことで起きる騒動から、家長である父がこれまでの人生に落としてきた過去の影と向き合い、「家族」の呪縛から解放されていく物語だ。

 

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これまでも、演技力を見せつけてきたアダム・サンドラーだが、『マイヤーウィッツ家の人々』は彼のキャリアハイになったのではないだろうか。妻とは離婚が迫っている上に、家族の中で疎外感を味わい、怒りの矛先が見つけられず、すれ違う見知らぬ他人の車に、窓越しから罵声を浴びせることが精一杯の、惨めっぷり。伏し目がちな彼の視線が、胸を締め付ける。ちょっと『マンチェスター・バイ・ザ・シー』のケイシ―・アフレックを思い出した。

今作、駐車場を用いた、冒頭のキャラクター説明には「ハハン」と感心してしまった。場所が空いたと思ったら間に合わず、必死で探しても、車をなかなか止めることができないダニー。駐車位置によって、彼が、マイヤーウィッツ家においてどんな立ち位置にいるかを、端的に説明する手腕は、見事の一言。衣装による心情表現もユニークで、ダニーが常にだらしがなく(さらには足を引きずってもいる)、対照的にコンサルタントのマシューが小ざっぱりとしたセットアップなのも着目したいところ。

会話劇は、坂元裕二の脚本のようで、テンポがいい。互いに繋がりたくても、どこかちぐはぐで、パズルのピースがキッチリとハマらないように、むず痒くもどかしい会話から、心のすれ違いを的確に表現している。会話が終わり切らないところで、唐突にブツリと切られるスピーディな編集もコミカルである(ジーンの髪型がいきなり変わった切り替わりにはクスッとした)。

音楽を今回手掛けたのはランディ・ニューマン。彼お得意の泣きメロは今作でも実に効果的に生かされている。新しい生活への一歩を踏み出す娘イライザと、過保護気味で子離れができない無職の父ダニー。そんな不器用で愛おしい関係性が、2人の連弾による演奏によって紡がれ、これがまた泣かせる。


Genius Girl - The Meyerowitz Stories

僕は彼らのような、ある種悲劇的な生い立ちを辿っておらず、基本的には恩恵を受けて育ってきたので、共感する気持ち自体はさほどないのだが、彼らの悲しみや困惑は切実に伝わってきて、そこにアダム・サンドラ―とベン・スティラーの名演が重なって、心臓に「どすん」ときた。自分の家族とは被る要素はあまりないのに、これが不思議で、その摩擦もパンケーキのような甘い愛おしさが湧いてくるのである。

 

所詮、家族だって血が繋がっている程度の他人に過ぎなくて、別にトラウマを克服しなくたっていい。その傷だって、自分を形成する一つの証であって、人生は思い通りにはいかないし、どうあがいたって、坂道を前に転んでいくしかないのだ。親近感は湧くが、共感こそはできない、この滑稽な再生物語にそんな風に勇気づけられた(なんとも陳腐な表現である)ような気がした。めんどくさくて、鬱陶しくて、ままならない。だから、愛おしい。

 

なんだかひどく辛い家族モノのように思えてしまうかもしれないが、あくまでこれはコメディである。大いに彼らの悲喜こもごもに笑えばいい。

アダム・ドライバー(今作でもかわいげのある役で出演してましたね)主演の次回作も楽しみなノア・バームバックが書く家族の物語を、ご覧になられてはいかがだろうか。

 

(つらつら書いているうちに、「あー、これ年間ベスト20に入れるべきだったのでは?」と未練がましくも、後悔し始め、過去ブログを丸ごと修正しようか、うじうじなんやでいる次第。「~ベスト」なんてアテにゃならないもんですね。なんにせよ、振り返れば振り返るほど、大事な一作になった)

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Blueberry Pancakes

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おしまい